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部活動の実践を得意げに語る人間を信用してはならない

 若い教師やこれから教師になろうとしている方へのご忠告です。

 なぜ,タイトルで示したことが大切かというと,こういうタイプに限って,日頃の教育実践がいい加減な人が多い。

 こういう教師に影響を受けると,いつの間にか自分自身も「アフタースクール型教師」になってしまいます。

 私も教師になって3年くらいまでは,その典型でした。

 自分自身は大学まで野球部でしたから,どうなっていたかはご想像にお任せしますが。

 でも,「外の世界」「研究の世界」に誘ってくれる方がいました。

 それで,今の私があります。

 体育会系の教師のタイプは多くの方が想像できると思いますが,文化部なのに体育会系,と言われるのが吹奏楽部です。

 普段の授業はおまけで,本職は何何という部活動の指導。

 こういう教師は,体罰さえしなければ,学校や地域にとっては「有り難い存在」ですから,授業に熱は入らなくても問題になることはありません。

 このあたりの事情をブログで詳しく説明していただいた先生がいるので,ここで引用させていただきます。

>音楽教師は、即効性のある指導技術を知りたがりますし、それに応えられるような技術屋も生まれています

>音楽教師の役割につく人たちには、どういうい訳か、音楽と授業を分離してしまう考え方になるらしく、吹奏楽や合唱の部活、あるいは校内合唱コンクールのようなもので、自らの音楽的満足を追究しようとする人たちが多いようです。

>そういう音楽教師の部活の指導や校内合唱コンクールへの取り組み方は、およそ教育的ではありません

>「子どもたちを自分の鍵盤にする絶対君主」のようになる人が、コンクールでの実績を上げていることが多い

>「自分の鍵盤」というのは、子どもをパーツとして自分の表現手段の一部としてロボット化するという意味

>子ども一人ひとりの表現への意欲や音楽性なんてどうでもいいのです。ただひたすら、規格と品質をそろえて向上させることだけが、「絶対君主」の目標です。

>授業教科と別に部活などで音楽に熱心な人は、先に述べた「絶対君主」になるのがほとんどです。この場合は、コンクールの虫になるか、さぼりの名人になるか、そのどっちかに別れることが多いです。

 話を元に戻すと,「この人,部活にかけているな」という感じのする教師を客観的に見てみれば,放課後,部活指導に熱心になればなるほど,「その部活以外の生徒のめんどうはいっさいみることができなくなる」ことに注目すべきです。

 こういう状況を,「全体の奉仕者」ではなく「一部の奉仕者」と呼んで,そういう力の入れ方は公務員としておかしい,・・・もちろん,「勤務時間外」という正論はあるのですが・・・と書いた覚えがあります。

 指導に打ち込むことも大事だが,部活動を教育の場と考えれば,そしてそのねらいとしているところを教育的に考えれば,そこでもし「ががんじがらめ」になっているような状況が少しでもあれば,肌感覚として違和感をもつ「ゆとり」をもっていてほしいのです。

 もし,その顧問がいなければ,部活動の姿が一変してしまう,そんな部活動なら,子どもたちがただの「ロボット」になっていないかどうか,疑ってみてしかりです。

 中学校では,「指導力」というと,「みんなを同じ方向に向かせる力」と思われてしまう節がありますが,それは小学校の教師のレベル。

 中学校レベルでの「指導力」は,「一人一人をその力が発揮できる方向へ導き,伸ばしてあげる力」のことです。

 そういうことを本当に実践できる人は少なく,常に反省を抱えながら指導しているのが普通の教師です。

 部活動の指導とは,自分の専門性が生かせる場面ではありながら,「自分がやってきたことをそのままやらせる」指導に陥りがちであり,だからこそ,教育的な指導とするのに最も留意すべき分野であるのです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より