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アナロジー思考のできない人の仕事術

 自分が批判したり非難したり否定したりしている相手と,自分自身が「相似形」であることが理解できない人がいるようです。

 いつの間にか,自分自身のことを批判しているので,私が名付けたのが「ミラー現象」です。

 自分で自分のことをけなしている。

 教育の世界では,「ある団体」の教師たちが,自分と「相似形」の無責任な子どもたちを大量に生み出してきました。

 学力が高い子どもを育てない方が,自分たちにとって都合がよい「社会」に変わっていくので,授業では平気で自習にすることができるような教師が,本気になって「学力調査」に反対する意味は,別に勘がそれほどいい子どもでなくても気づくでしょう。「学力調査」の結果で非難されるのは,子どもではなく,学力をつけさせていない教師であることは,子どもでもわかることです。

 こういう教師の仕事術は,子どもに「大人のいやらしさ」を実感させる効果くらいしかありません。
 
 dolceさんは,なぜ受験のための詰め込み学習をする子どもたちと,コンクールで代表に選ばれようと努力する子どもたちの「相似形」に気づかないのでしょう。

 同じような「仲間」ですね。目標の立て方が非常に似通っています。

 それは,以下のような言葉を引っ張ってきているので,意識下では気づいているはずなのに。
 
>アメリカではずいぶん古くから、吹奏楽のもたらす教育的効果が大きいということで、小学校から正課の授業に取り入れられています。
>正課の授業の中で個人レッスンも行われています。
>映画で、子どもが一人一人呼ばれて、レッスン室に入っていくシーンがあったりします。
>日本人で、アメリカで先生をやっている人に
>「正課の授業というと、子どもが家で練習していて、音がうるさいと言われませんか」
>と聞いたら、成績のつくことなので、親は我慢していると話されました。

 
 個人がしっかりと基礎を習得するからこそ,集団での活動がうまくいくのです。

 学力もしっかり基礎を習得するからこそ,組織での仕事が成り立つのです。

 入学試験は一人の責任で受けるものですが,その先は一人ではない。dolceさんは,「その先」のことが想定にないのです。

 高学力が,組織としての高いパフォーマンスにつながらなくてもかまわないのは,学級王国に君臨できる小学校教師くらいのものでしょうか。

>個人ではどんなにうまい奏者でも、協調性のない人は採用されません。

 小学校では,個人の能力は高ければ,協調性はなくても学級担任は務まってしまうのでしょうね。

 協調性はあっても,個人の能力が低ければ,採用されることはないというのも明らかなことです。

 楽譜が読めない人がコンクールの代表に選ばれることはない。

 dolceさんの場合は,塾で学習する子どもは非難しても,楽器の個人レッスンに通う子どもを非難することはないでしょうね。

 自分自身はそもそも塾の子どものような生徒を相手にしているのに気づかないのでしょうか。

 「勝ちたい」「選ばれたい」と願って活動している子どもの力を引き出そうとしている。

 塾の講師と同じでしょう。

 子どもを代表にした自分が,子どもを志望校に合格させた人間と「相似」である発想がもてない。

 アナロジー思考が全くはたらいていないのです。

 類推という観念自体がないせいか,書かれたことがすべて「事実」であるかのように認識してしまう。

 なぜか仮説=捏造になってしまう。

 コンピュータにはできない,人間らしい思考を大切にすべき,という認識は正しく持っていらっしゃるのに,大切にすべき思考がはたらかないのは非常に残念なことです。

 「違い」にもふれておきましょう。

 塾で学んでいる子どもは,「一人の力」で勝つことがゴールである。

 コンクールは,勝つために,メンバーと「音を合わせる」(これを協調性というのは無理があるでしょうね)。

 これが大違いだ,と考えることももちろんできます。

 しかし,塾の子どもが問題を解くためには,「問題作成者」「教材」に「合わせる」(もちろんこれを協調性というのも無理があるでしょうが)=「個性」「自分の考え」はなるべく消す・・・ことに専念させられます。

 問題作成者の意図を読むことによって,「正解」に結びつくことは,楽器の演奏をしている子どもと同じようなものだとも考えられます。

 そして個人の力を高めた後は,集団,組織での高いパフォーマンスを生むために,協調性がよい効果を発揮する。

 そこまでアナロジーにこだわらなくてもいいかもしれませんが,人間の創造力を伸ばすには打ってつけの思考法であることは間違いないでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より