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教師自身が自分に正直であること(一部追加:1月29日)

 勤務時間が終わったらさっさと帰れるように,「仕事術」の勉強がしたい先生は,すればよいでしょう。

 私は今から二十年も前の採用試験の面接で,「勤務時間後も部活動の指導をしなければいけないことについて,どう思いますか」という質問に対して,「教育の仕事に勤務時間内も勤務時間外もない」と答えた記憶がありますが,なぜか面接官は「嫌そうな顔」をしていました。

 でも,管理職からの命令がない限り,勤務時間が過ぎたら職務のことは忘れていいのが公務員です。

 前も述べましたが,教育の仕事が好きで毎日を過ごしている人にとって,「忙しい」ことはかけがえのないことです・・・というか,「忙しい」などと考えている暇はないでしょう。子どもに集中していれば。

 音楽教育について,伊東玲先生のような態度がとれる人は,やはりなかなかいないでしょうね。

 まず,心で思っていても,口に出すことはない。

 ましてや,ブログに書くことなど,ありえない。

 だから,私は先生のことを「慎ましやかではない人」とよんでいるわけです。

 でも,本心を隠して,慎ましやかな人に教育されるのは何となく嫌な気がしますよね。

 教師が正直であることは,子どもにとって安心できることです。

 毎日の授業がめんどくさい。

 教材の準備などしたくない。

 早く家に帰りたい。

 そういう正直な先生は,子どもは嫌いじゃないでしょう。

 子どもの方も,演技をする必要はありませんから。勉強がめんどくさい,そういうことに教師が共感してくれるのですから,嫌いになるはずはありません。

 全く力がつかない話し合い活動ばかりの授業をして(教師は45分間中,5分間しか話さないことを自慢している人もいる),子どもは楽しがって充実している。

 子どもには,教師の本心は見えませんね。

 学校が「鉄のカーテン」の向こうにあった時代には,それでもよかったのですが,だれの目にもふれるようになると,多くの教師は「自分に正直」ではいられなくなってしまいました

 でも,正直は,いいことです。

 賞狙いで指導をする。

 悪くないですね。

 どういう「感性」の持ち主か,すぐにわかる。

 でも,それは「教育」ではない。「子どもへの迎合」に過ぎなかったりする。

 「教育」ではないことが「学校現場」で行われていることを正直に書ける人は,貴重な存在です。

 将来は,組織では生きられず,ただの物書きになってしまうかもしれませんが。

 恐縮ですが,大切な資料としての情報を,後でこちらのブログでも紹介させてください。

 ・・・・なお,私自身の希望としては,「実践やノウハウを本にする」という発想を教育者は捨て去って,どんどんネット上に公開し,あらゆる人が即座に参考にできるような環境が整っていくことです。

 そうやって公開した内容が,「本の形で手に取りたい」という人が集まって,出版というかたちになるのならわかるのですが。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より