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あなたの教育の定義を教えて下さい

 教育は,学校だけが担う仕事ではありません。

 家庭もそうですし,社会全体が「教育」の重要性を認識している時代です。

 震災直後しばらくは,広告は教育の機能を中心に果たしていました。

 企業は新人を教育するし,店員に教育しようとする客もいる。

 自動車教習所では本当にいい教育を受けたと思うし,生命保険会社の人から保険の説明を受けたときは,本当に授業を受けている生徒のような実感がありました。
 
 教育は,教育公務員だけが持っている特権ではありません。断じて。

 学習塾の講師たちも,立派に教育を行っています。

 もしかりに,文字を覚えさせる,という仕事だけをしているとしても,それは教育です。

 そろばんや習字,それも教育です。

 学級崩壊している小学校よりも,はるかに教育的な指導なり配慮なりが,そこでは行われています。

 学校教育は,「義務」とされています。

 税金で運営されています。

 そこまでしばられている学校で,本当の教育に出会えないで,かなしい思いをしている子どもや親がどのくらいいるか,考えたことがあるでしょうか。

 制度上,「本当の」はずの学校教育が,「偽物の」教育であった,という実感をもっている子どもや親が,どのくらいいるか,考えたことがあるでしょうか。

 子どもの思いを踏みにじるような行為は,学校ではいっさい行われていない,と断言することができるでしょうか。

 自分の担任教師が性犯罪で逮捕され,警察に連行されている場面をテレビで見せられた子どもがどんな思いでいるか,想像もできないでしょうね。

 学校教育や義務教育の「制度上の」優位性を振りかざし,その実態に対する責任を全く感じないで済む「部外者」の言葉に耳を傾ける人は,「部外者」しかいません。

 慎ましやかな人は,無責任な教師たちの批判を表立ってはできません。

 「義務」教育の小学校では,子どもは人質のようなものです。

 黙っていられない人というのは,私のように少数派かもしれません。

 「本当に分かって楽しいこと」「学ぶ意欲がより高まる実感」を得られる場が学校以外のところにある子どもは,決してごく少数ではないのです。

 そして,本当はもっと多くの子どもが,そういう体験をしてみたいと思っているはずなのです。

 子どもの学ぶ意欲を最も強力に奪っている人間はだれなのか。

 自問自答することが求められています。

 たった一つの部活動の指導にかかわっているだけの人間が,「教育」を語るのも,自由です。

 しかし,何を目的として集まってきている子どもを「教育」しているのか,自覚する必要があります。

 いや,もしそれが「教育」ではないとしたら,何なのか。それも知りたいところです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より