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音楽はどうやって生まれ,何のために存在しているのか?

 ピンカー,スペルベル,バロウにとって,音楽はただ喜びをもたらすというだけの理由で存在している。その土台は純粋な快楽主義だ・・・・ケンブリッジ大学のイアン・クロスの言葉だそうです。

 これに対する反論を,小中学校の教師は,どのような根拠をもって行うことができるでしょうか。

 ピンカーの,・・・言語,洞察力,社会的な推論,物理的なノウハウに比べ,音楽がヒトという種から消えてなくなっても,ライフスタイルのほかの部分はほとんど変化しないと言っていい・・・という言葉についてはいかがでしょう。

 認識心理学者にとっては,記憶,注意,カテゴリー化,意思決定などの認知のメカニズムは,すべてが明確な進化上の目的をもっているものと捉えられます。しかし,生物の行動や特性のなかには,はっきりとした進化的基盤が見当たらないものがある。

 それは,進化によって特定の理由による適応が広がっていくとき,何か別のものがいっしょについてくるせいだといいます。

 鳥が体温を保つために進化させた羽が,別の目的に流用され,飛ぶようになった。

 言語が体温を保つために進化した羽なら,音楽は別の目的で生まれたもの,進化の上で言語に便乗して偶然に生まれた副産物である・・・・

 「音楽とは何か」という問いを小中学生に考えさせるのは難しいことでしょうが,「なぜ音楽を学ばなければならないのか」の答えは,ありそうでないものです。

 しかも,なぜヨーロッパの音楽でなければならないのか。

 このような問いに答える準備はあるのでしょうか。

 日本の学校教育の「音楽」の歴史は,以前にちょっと述べたかも知れません。

 明らかに「国民化」のための「道具」にされていました。

 音楽で人間は「一体感」を覚えやすいことを,「利用」する人はいませんでしたか。

 今の地位を「音楽」はどのようにして勝ち取ってきたか。

 ここに,「音楽」と「学力」の関係を探っていく道が見つかるかもしれません。

 ただの欲求を満足させるためだけにあるような教科なら,

 その部分を刺激して,大人の思い通りに子どもを動かすだけのような教科なら,

 今すぐにでも廃止してもらいたいものです。

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コメント

じわじわと多くの人が読まれていくような記事が,「よい記事」「実用的な記事」ではないですか。
すぐに飛びついてくるような内容にろくなものはないですよ。
(このへんはしっかり自覚しながら書いております)

本にすると,たとえば書店に平積みにされると,多くの人の目に触れるチャンスがありますね。

ただ,教育書がなかなか売れない,または出版されない最大の理由は,教師が本屋に行かないことが原因でしょう。

教師は本を読まない。・・・何にお金を使っているんでしょう。

また,教師は「自己流」を好む。

「人から学ぼう」とする気持ちが足りない。

ですから,教師をいい意味で動かしていけるような,そういう「子どもを育てる」記事の発信の仕方もありなのではないでしょうか。

それこそが「教育ブログ」であるように思われます。

おもしろい問いをありがとうございます。これには記事で私なりの考えを答えさせていただきます。それにしても、私はブログ村とはかなり無縁な存在のようで、毎日ブログを見ていただくわずかな方々は、ほとんどブログ村からリンクしていません。それはそうとして、お勧めにしたがって、『実用本』の一部を公開させていただきましたが、いかがですか?人気記事にも上がらないほどですから、よほど「実用的でない」のでしょうね。お勧めにしたがってみて、勉強になりました。それでもかなり壮大な計画ですので、とりあえず原稿は書き続けてみるつもりです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より