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低コンテンツ,無コンテクストのクレーマーたち

 以前,以下のような記事を書いて,コンテンツ(内容そのもの=文字情報、数字データ等)よりコンテクスト(コンテンツ以外のもの=状況、脈絡、雰囲気など)が重視された社会の問題や,一方でネット上ではコンテクストが無視されやすい状況を指摘しましたが,コンテンツが貧弱な上にコンテクストを全く無視して相手を非難しようとする人が増えている状況なので,改めてこの課題を見つめ直さなければと思うようになりました。

 学校は,外部に必要な情報をどんどん提供しなければなりません。

 たとえば,中学校で今年の4月に完全実施になる学習指導要領では,どのような「学力」が重視されているか。だから,どんな学習指導を重点的に行うようになるか,これを説明する責任は学校にあります。

 しかし,この内容すら「内部で知らない教師たち」がいるのも現状です。

 その証拠が,「教科書を見ないと教え方が分からない」と言っている多数の教師たちの存在です。

 「学力」をめぐるコンテンツ,コンテクストの不統一,バラバラさ,無知さ加減にはあきれるばかり。

 低コンテンツ,無コンテクストのクレーマーが生まれてしまうのも無理はありません。

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 コンサルティングを仕事にしている人の中には、アメリカではやっていることをそのまま日本に導入しようとする人もいるようですが、業績を上げているコンサルティング会社は、もっと広い視野から企業活動を捉えているようです。
 日本語による日本でのコミュニケーションの特質に、コンテンツ(内容そのもの=文字情報、数字データ等)よりコンテクスト(コンテンツ以外のもの=状況、脈絡、雰囲気など)が重視されるということがあります。
 「一を聞いて十を知る」
とか、「空気を読め」「察して下さい」
などというのは、「高コンテクスト」・「低コンテンツ」という特質を裏付けるものです。
 掲示板ではないブログでも、コメント欄への書き込みにまじめに答えていればコミュニケーションの手段になっているわけですが、人にとっては(私のように?)相手の意図が読めずに見当違いのことを答えたり、まともに質問に正対してくれない人もいます。
 質問がコメント欄に残ったままで自説を語り続ける人もいますから、ブログというのもよほど神経が図太くないと続けられないものだということがよくわかります。
 特に日本の中高年世代は高コンテクスト・コミュニケーションに慣れ親しんできたため、若い世代の部下に「おい、あれ」「ほら、それ」ですますことができなくなり、悩んでいる上司がクライアントになるのが、最近のコンサルティング業のようです。
 学校現場でも、「そんなこと言わなくてもわかるだろう」「見て覚えていればこんな間抜けなことはしないですんだだろう」という叱責がベテラン教師から若手教師にとぶことがあります。
 「内容なんて関係ない、お前の言い方が気に入らん」という人をなだめるのも一苦労です。
 若手教師の言い分としては、それはきちんと言葉で表現してくれないと分かりません・・・ということがあるのですが、もしこれが若い教師一般の話であれば、学校現場でも「高コンテクスト・コミュニケーション」が低下していることになり、「高コンテンツ」がコミュニケーションに求められることになります。
 私がコメントさせていただく方と、コミュニケーションがうまくいかない理由の一つにも、コンテンツについての関心や知識に大きな隔たりがあることが感じられます。
 理想的には、高コンテンツで高コンテクストが一番なのでしょうが、まず文字情報のやりとりしかないブログでは高コンテクストは望むべくもなく、コンテンツで勝負するしかありません。
 そういう点では、若者の「メール文化」も、「あれあれ」「そう、それ」では何も通じないので、「高コンテンツ」化への移行を促進する効果があるかもしれません。
 非常に多様性の高いメンバーを相手にするコンテクストフリーの環境の中で、コミュニケーションをどのようにリードできるか、これが、教師やファシリテーターに求められる資質であると考えられます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より