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誤りを認めないタイプの人の問答形式

 現場にいれば,こういう教師はいます。また,こういうタイプの保護者もいます。論理的につめるのは,dolceさんの反論を読めばわかるように,全く逆効果で,その方法でいくと行政の「苦情対応」も軽く1時間以上に及ぶこともあるのですが,あえてその方法でつめていきましょう。

 批判対象の原文がなくても,何がおかしいかはわかりますので,ここでは引用を省きます。

[※1]学力については色々な人が、色々な解釈をしているからそれらの人の「学力の意味」は一致しない。「学力を勝手にイメージしている」からは抜け出せていないのではなく、現状がそうであるということです。つまり正しい認識をしているということです。

 これは,dolceさんが自分の言葉と私の言葉を区別できなくなって,誤って自分の言葉を言い換えたところですので飛ばします。矛盾につきあっていると,こちらの頭もこんがらがってきます

 あえてふれると,「地域が勝手なことを言っている」と本音をそのまま口にしてしまう公務員がもしいたら,ある意味では憎めないのですが,そういう「勝手な自己表現」をしてしまう人によって,周囲の人がどれだけ迷惑をこうむるか,いつか「わかる日」が来てほしいものです。

[※2]ということは、あなたは「基礎的・基本的な知識・技能」を習得させるということは学力を高めることだと捉えているわけです。しかし、そう捉えてはいない人もいるのですから、それはあなたのイメージということです。
つまり、他の人の考えとは一致していないから、学力については色々な解釈(勝手なイメージ)が存在するということです。

 勝手なイメージという表現と,色々な解釈という表現では,相手に与える印象は天と地ほどの違いがありますね。それに気づくセンスはまだ残っているということです。

 でも,「基礎的・基本的な知識・技能」を習得させることは学力を高めることにつながらないと捉えるのは,dolceさんくらいでしょうね。それがなければいくら意欲があってもダメだ,というのが,「基礎的・基本的な知識・技能」ですから・・・。

 「あなたのイメージ」というのがちょっと苦しすぎます。せめて,「一般の方々のイメージ」くらいにしてほしいものです。しかし,批判のための批判をするときには,自分を「少数派」にしないのがモンスターらしさです。

[※3]「基礎的・基本的な知識・技能」は学力のすべてではないと言っておいて、しかし,学力の一部であることは確かです。と言っているということは、あなたは学力の全体像を知っているということになります。だったら、学力とは何か、全体像を説明していただけませんか?
それから「基礎的・基本的な知識・技能」が学力の一部であることは確かですとは、どうしてそう断言できるのですか?
さらに、そのためには「基礎的・基本的な知識・技能」とは何かを明らかにする必要があります。

 前の記事で触れましたが,ここの論理が不明です。AはBの一部である,と言っていることは,Bの全体像がわかっていることになる,というのはどういうことでしょう。

 Aが私の性格の一部だとわかったら,私の性格の全体像がわかっているということになるのですか?

 モンスターには独特の思考回路があるようですが,それを追及するのは無駄なことでしょう。

>「持っているお金を全部出しなさい」と言った時、言われた人が1万円出したら「これは全部ではない(一部だ)」と言えるのは、全部を知らなければ言えないことです。

 1万円出したのなら,1万円は所持金の「一部」であるか「全部」であるかのどちらかでしょう。

 一部であっても,全部であっても,これはdocleさんにとっては都合の悪いことですね。

 お得意の「集合論」(?)はどうなりましたか?

>「一部であることは確か」と言えると言うことは、問題にしている一部が、ある全体の一部だという認識がなければ言えないことです。
 
 「基礎的・基本的な知識・技能」を活用する能力が求められています。つまり,A以外にBという要素もわかっているから,Aは学力の一部となるのです。

 「基礎的・基本的な知識・技能」は,各教科ごとに,学習指導要領に示されています。暇があれば,小学校の教科書を開いて,一つ,一つ,説明していくことになります。

[※4]タイヤは自動車の一部です。あなたは、ディーラーがタイヤを説明しただけで、自動車の全体にはこだわりませんか?

 タイヤがなければ車は走らない,っていう意味がわかりますかね。私はあえて,具体的に眼に見えるものを例にあげていません。

 話は「学力」についてですから。

 dolceさんの思考回路の特徴は,全体像がわかっているものでしか話ができない,というものでしょう。

 でも,あとで,「豊かな人間性とは何か」が定義できる,とおっしゃっていましたので,すごいものが見られそうな期待はありますが・・・。これは本当に自虐的な冗談でしょうね・・・・。

[※5]音楽の指導において、「基礎的・基本的な知識・技能」を高める指導をした方が、音楽への取り組みが主体的になったことを経験していますが。具体的には、音階練習、楽典、運指などの練習です。

 これはちょっと原文が必要かもしれませんが,私が言いたかったことは,「基礎的・基本的な知識・技能」だけを詰め込むような教育をすれば,「主体的に学ぶ意欲」が損なわれる可能性があるということです。指導力がある教師なら,学ぶ意欲を高めながら,「基礎的・基本的な知識・技能」の習得を実現しているのです。

 dolceさんには,文章の「意図」を汲み取ろうとする「意図」が全くありません。こういうのが「批判」のための「批判」であり,これは本当は相手には伝えない言葉ですが,自分の心の中で思いながら,クレーム対応は行うのです。

[※6]言語活動の充実って具体的にどういうことをするのですか?
毎日の生活で、必然的に言語活動は行われているのではないですか?

 すでに私のブログで何度もふれているので,ここでは省略します。
 基礎的・基本的な知識や技能を活用する場面をどう作るかが勝負なのです。

[※7]「学力」という用語の実体がはっきりしていないので、人によって捉え方、イメージは様々です。だから、それぞれ勝手にイメージしていることになると思いますが。決めつけるという言い方はおかしいですね。実態を言っているだけです。
自動車メーカーは、それぞれ特有な車を作っています。それぞれが作りたい車を勝手に作っているのではないですか?こういうのを「決めつけている」と言いますか?勝手に作るのは自由です。私はいけないなんて言っていません。それに、それぞれの人が自由に何かをイメージすることを束縛する人、束縛できる人なんているのでしょうか?

 車づくりと教育を一緒にしてしまうのがdolceさんらしいところ。

 まず,(車づくりだけに限らず,)教育は,dolceさん一人がやっていくものではないのです。

 教育現場では,教員の協働が必要です。小学校教師が学力を「それぞれ勝手にイメージ」しているようでは,教育課程はつくれません。指導要録なんてつくれません。総合的な学習の時間を運営できますか?

 小学校の教師が,学力を「それぞれ勝手にイメージ」して教育しています,と言い切れる「信頼される学校」は公立ではごく少数でしょう。こういう姿勢だからクレームが来るということが,なぜdolceさんにはわからないのでしょう。

 以下の点については,「地域モンスター対学校モンスターの戦いの結末は?」などの記事でふれています。


[※8]こういうのを「決めつけ」と言うんじゃないでしょうか?
 
 dolceさん流にお答えすれば,実態を述べているだけです。一番いいのは,dolceさんの学力の定義を述べてもらうことでしょうが,できないですぐに「逃げる」ことになるでしょうね。

[※9]ここで言う安全な場所とはどこなのか、攻撃しているとは、どの部分なのか教えて下さい。

 dolceさん以外の人は,dolceさんのブログを読めばわかることです。

[※10]その客観的事実を教えて下さい。

 ご自分でブログに書かれていたことが客観的な事実なら,そのことです。

[※11]指導要録の記入については、決められた様式に従って記入しただけで、学力を意識して記入した覚えはありません。指導要録が、その人間を表す完全なものとも思っていません。

 前の記事でふれました。

[※12]いろいろな例がありますが、大学入試で数学の試験を行わない学校もあります。こういう大学は入試において、数学について測定していないのだから、数学については無視したのではないですか?
健康診断で、血圧しか測らないのであれば、心電図や血液検査は無視したことになりませんか?
測らないということは、その項目を無視したことになりませんか?

 ペーパーテストだけを評価とみるくせは,どうやっても抜けないみたいですね。

[※13]学習指導要領に示された内容を習得させることが大切だ,と思っているということと「学力とは何か」は関係ないことです。私の意見をすり替えないでください。

 「関係ない」なんて開き直りにすぎません。開き直る態度を取る人の決まり文句が,「意見をすり替えられた」です。

[※14]できます。それがどうかしましたか?

 できますと言いながら,やらない。それがモンスターの流儀。

[※15]私は「賛成できないなどと言っていません」けど、人の意見を勝手に捏造しないでください。

 賛成できないとは言っていませんが,

 >だから、あちこちで学力云々と語っているのは、個人が勝手にイメージしている学力に過ぎません。

 >そういうてんでバラバラな解釈の学力を公教育が聞き入れて、教育に取り入れることなどできないのです。

 とは言っている。これが賛成できないということなのでは?

[※16]この言い方は、あなたの言い分が正しいとの前提に立つということです。ということは、あなたの言い分が正しいとの根拠が必要です。でなければ、頭から自分の言い分は正しいという固定概念からものを言うということになります。
「誤りに気づいてもらうために」と言っていますが、私には、どこが誤りなのかわからないので、気づきようがありません。私が「1+1=2」と言っているのに、あなたは「1+1=3」だということに、私が気づいていないと言っているようなものです。

 いいえ。自分の「誤り」に気づく力は,自分自身の中にあるのです。

 教育者として,「子どもに教わった」経験はないですか。

 子どもも,誤った行動をとっている,しかし,その行動の中から,自分の誤りに気づくことができる。

 こういうのを「他山の石」というのですよね。

 私の言い分の中にも,誤りの部分があってもよいのです。

 平々凡々な,当たり前のことや,憶測でものを語っている。

 でも,そういう人から何も学ぼうとしない,というのは,教育者としては,おかしい。

 楽器がうまく演奏できない人の動きをみて,なぜうまく演奏できないのかに気づける指導者は,優秀な指導者でしょうね。

 dolceさんには,「正しい」か「誤っている」しかない。0か1しかない。

 本当にコンピュータから離れて暮らす時間も必要じゃないですか。

>上記はコンピュータのプログラミングに使われるC言語の予約語と言われるものである。
>プログラムに用いる単語と言ってもよい。
>言いたいことは、コンピュータのプログラムを作るのには、たったこれだけの単語でよいということである。

 こんなことを得意げになって書くから,「ああ,そういう人間なんだな」と思われてしまう。

 「どういう人間」のことを指すか,きっと想像はできないでしょうが。

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*モンスター対応では,相手に攻撃させる材料をあえてつくる(詰まない)・・・つまり,こちら側が「完全にはならない」のがコツです。 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より