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2012年1月

「学び合い」が学力低下の原因のひとつ

 どこかの本で,「学び合い」では子どもたちに力がつかないことが分かるまで,ずいぶんと時間がかかりました,という趣旨の「後悔の念」を読んだことがあります。

 「学び合い」が大切だと考えている教師が「これが学び合いです」とよんでいる場面が,本当は「学び合い」になっていないことに気づくことができないのは,小学校に特に多いですね。

 もっと厳しいことを言えば,「話し合い」をさせているつもりでも,「話し合い」にはなっていない場面をいくらでも見ることができます。

 日本人は,「~し合う」こと,「~し合う」という言葉が非常に好きですね。

 (「攻撃し合う」ことも,ネットでは人気があります。)

 「~し合う」という言葉の響きには,人と人が結びついている,そういう実感がこもっています。

 でも,こういう言葉が危ないのは,そうやって呼んでいるだけで,実際に「~し合う」状態になっていると勘違いしてしまうことです。

 「理解し合いましょう」「分かり合いましょう」・・・簡単に表現しますが,本当に理解し合えているかどうか,検証する場面はありません

 特に小学校では,この傾向が著しい。

 「学び合っているのだからそれでよい」

 という発想になってしまっていく。

 つまり,「学び合い」は学力をつける手段のはずなのに,それ自体が目的になってしまっている。

 大事なのは,あくまでも「一体感」,という,滅亡に向かう組織と同じ状態。

 「理解し合う」ような行動をとれば,「理解し合える」のだ,という根拠のない信仰をもっているのが日本人の特徴です。

 生徒に話し合わせた結果だから,生徒たちは納得しているだろう・・・・そんな単純なものではないことは,中学校や高校の教師ならよく分かる・・・いえ,社会人ならよく分かることでしょう。

 必ず妥協している人,意見が言えずに自分を殺した人,納得できないけど反論できない人は,どんな場所にもいるものです。

 単なる思いつきの言い合いが,「学び合う場面」とよばれていることに対して,大学の専門家はどのような評価を下しているのでしょうか。

 「学び合い」の活動で,本当に「学び合うことができたかどうか」の評価を小学校の教師はきちんとできるのでしょうか。

 中学校以降での「私語」「おしゃべり」は,こうした「学び合い」活動の大きな成果の一つかもしれません。

 小学校では,「おしゃべり」していれば高い評価を得られてきたのですから,当然のことかも。

 「学び合い」が成立するための条件を,まずはきちんと認識できる教師に育ってほしいものです。

 ただの「かけ声」にならないように,責任持って「品質保持」をしてほしいです。

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あなたの教育の定義を教えて下さい

 教育は,学校だけが担う仕事ではありません。

 家庭もそうですし,社会全体が「教育」の重要性を認識している時代です。

 震災直後しばらくは,広告は教育の機能を中心に果たしていました。

 企業は新人を教育するし,店員に教育しようとする客もいる。

 自動車教習所では本当にいい教育を受けたと思うし,生命保険会社の人から保険の説明を受けたときは,本当に授業を受けている生徒のような実感がありました。
 
 教育は,教育公務員だけが持っている特権ではありません。断じて。

 学習塾の講師たちも,立派に教育を行っています。

 もしかりに,文字を覚えさせる,という仕事だけをしているとしても,それは教育です。

 そろばんや習字,それも教育です。

 学級崩壊している小学校よりも,はるかに教育的な指導なり配慮なりが,そこでは行われています。

 学校教育は,「義務」とされています。

 税金で運営されています。

 そこまでしばられている学校で,本当の教育に出会えないで,かなしい思いをしている子どもや親がどのくらいいるか,考えたことがあるでしょうか。

 制度上,「本当の」はずの学校教育が,「偽物の」教育であった,という実感をもっている子どもや親が,どのくらいいるか,考えたことがあるでしょうか。

 子どもの思いを踏みにじるような行為は,学校ではいっさい行われていない,と断言することができるでしょうか。

 自分の担任教師が性犯罪で逮捕され,警察に連行されている場面をテレビで見せられた子どもがどんな思いでいるか,想像もできないでしょうね。

 学校教育や義務教育の「制度上の」優位性を振りかざし,その実態に対する責任を全く感じないで済む「部外者」の言葉に耳を傾ける人は,「部外者」しかいません。

 慎ましやかな人は,無責任な教師たちの批判を表立ってはできません。

 「義務」教育の小学校では,子どもは人質のようなものです。

 黙っていられない人というのは,私のように少数派かもしれません。

 「本当に分かって楽しいこと」「学ぶ意欲がより高まる実感」を得られる場が学校以外のところにある子どもは,決してごく少数ではないのです。

 そして,本当はもっと多くの子どもが,そういう体験をしてみたいと思っているはずなのです。

 子どもの学ぶ意欲を最も強力に奪っている人間はだれなのか。

 自問自答することが求められています。

 たった一つの部活動の指導にかかわっているだけの人間が,「教育」を語るのも,自由です。

 しかし,何を目的として集まってきている子どもを「教育」しているのか,自覚する必要があります。

 いや,もしそれが「教育」ではないとしたら,何なのか。それも知りたいところです。

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学力のことを本気で考えていない人たち

 分かりやすい話です。
 
 学力とは何か,という話を,辞書だの事典だのからしか持って来れない,「部外者」の人たちです。

 こういう人たちは,学校が存在するのは自明のことで,なぜ学習塾が存在するかが分かっていない。

 学習塾の存在理由が分からないような人間が学校現場にいるはずはないですが,

 自分より子どもが「頼りにしている人」が,学習塾という場にいることが許せない。

 時代遅れというか時代錯誤というか,学校がやるべきことを極端にせばめて考えている人たち。

 最も基本的なことすら身に付けていない子どもに不安を覚えている保護者に,

 「あなたの学力の定義を教えて下さい」などと質問する「あの団体」の教師たち。

 学力のことを本気で考えていない教師は,総合的な学習の時間の企画・運営上は完全な「部外者」だったのでしょう。

 本来は,これこそが「学力だ」というPRができたはずなのに,考えることすらしなかった。

 そのつけが,学力がつかずに悩んでいる子どもを前に「学力の全体像が知りたい」などという寝言のようなことを繰り返すような人間を生んでしまったことです。

*************

 学校現場は,現在,来年度の教育課程の編成のために最後の詰めをしているところです。

 全面実施となる中学校は,当然,昨年度と同じ,というわけにはいきません。

 学校なりの方針を示すときです。

 小学校は,今年度の教育課程の実施状況を踏まえて,どのような改善を図るかをしっかり検討しているところです。何に満足でき,何に不足していたか。

 学校の「学力像」は,教育課程に表されています。

 問題は,教師たちが自分の学校の「教育課程」を知っているかどうか。

 何が指導の重点かを言えるかどうか。

 学力とは何かを真剣に考えたことがない教師がいたとしたら,不安なところです。

 なお,学校評価の結果は公表されますから,その公表内容を見れば,学校として捉えている具体的な学力観も理解することができます。

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音楽はどうやって生まれ,何のために存在しているのか?

 ピンカー,スペルベル,バロウにとって,音楽はただ喜びをもたらすというだけの理由で存在している。その土台は純粋な快楽主義だ・・・・ケンブリッジ大学のイアン・クロスの言葉だそうです。

 これに対する反論を,小中学校の教師は,どのような根拠をもって行うことができるでしょうか。

 ピンカーの,・・・言語,洞察力,社会的な推論,物理的なノウハウに比べ,音楽がヒトという種から消えてなくなっても,ライフスタイルのほかの部分はほとんど変化しないと言っていい・・・という言葉についてはいかがでしょう。

 認識心理学者にとっては,記憶,注意,カテゴリー化,意思決定などの認知のメカニズムは,すべてが明確な進化上の目的をもっているものと捉えられます。しかし,生物の行動や特性のなかには,はっきりとした進化的基盤が見当たらないものがある。

 それは,進化によって特定の理由による適応が広がっていくとき,何か別のものがいっしょについてくるせいだといいます。

 鳥が体温を保つために進化させた羽が,別の目的に流用され,飛ぶようになった。

 言語が体温を保つために進化した羽なら,音楽は別の目的で生まれたもの,進化の上で言語に便乗して偶然に生まれた副産物である・・・・

 「音楽とは何か」という問いを小中学生に考えさせるのは難しいことでしょうが,「なぜ音楽を学ばなければならないのか」の答えは,ありそうでないものです。

 しかも,なぜヨーロッパの音楽でなければならないのか。

 このような問いに答える準備はあるのでしょうか。

 日本の学校教育の「音楽」の歴史は,以前にちょっと述べたかも知れません。

 明らかに「国民化」のための「道具」にされていました。

 音楽で人間は「一体感」を覚えやすいことを,「利用」する人はいませんでしたか。

 今の地位を「音楽」はどのようにして勝ち取ってきたか。

 ここに,「音楽」と「学力」の関係を探っていく道が見つかるかもしれません。

 ただの欲求を満足させるためだけにあるような教科なら,

 その部分を刺激して,大人の思い通りに子どもを動かすだけのような教科なら,

 今すぐにでも廃止してもらいたいものです。

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部活動の実践を得意げに語る人間を信用してはならない

 若い教師やこれから教師になろうとしている方へのご忠告です。

 なぜ,タイトルで示したことが大切かというと,こういうタイプに限って,日頃の教育実践がいい加減な人が多い。

 こういう教師に影響を受けると,いつの間にか自分自身も「アフタースクール型教師」になってしまいます。

 私も教師になって3年くらいまでは,その典型でした。

 自分自身は大学まで野球部でしたから,どうなっていたかはご想像にお任せしますが。

 でも,「外の世界」「研究の世界」に誘ってくれる方がいました。

 それで,今の私があります。

 体育会系の教師のタイプは多くの方が想像できると思いますが,文化部なのに体育会系,と言われるのが吹奏楽部です。

 普段の授業はおまけで,本職は何何という部活動の指導。

 こういう教師は,体罰さえしなければ,学校や地域にとっては「有り難い存在」ですから,授業に熱は入らなくても問題になることはありません。

 このあたりの事情をブログで詳しく説明していただいた先生がいるので,ここで引用させていただきます。

>音楽教師は、即効性のある指導技術を知りたがりますし、それに応えられるような技術屋も生まれています

>音楽教師の役割につく人たちには、どういうい訳か、音楽と授業を分離してしまう考え方になるらしく、吹奏楽や合唱の部活、あるいは校内合唱コンクールのようなもので、自らの音楽的満足を追究しようとする人たちが多いようです。

>そういう音楽教師の部活の指導や校内合唱コンクールへの取り組み方は、およそ教育的ではありません

>「子どもたちを自分の鍵盤にする絶対君主」のようになる人が、コンクールでの実績を上げていることが多い

>「自分の鍵盤」というのは、子どもをパーツとして自分の表現手段の一部としてロボット化するという意味

>子ども一人ひとりの表現への意欲や音楽性なんてどうでもいいのです。ただひたすら、規格と品質をそろえて向上させることだけが、「絶対君主」の目標です。

>授業教科と別に部活などで音楽に熱心な人は、先に述べた「絶対君主」になるのがほとんどです。この場合は、コンクールの虫になるか、さぼりの名人になるか、そのどっちかに別れることが多いです。

 話を元に戻すと,「この人,部活にかけているな」という感じのする教師を客観的に見てみれば,放課後,部活指導に熱心になればなるほど,「その部活以外の生徒のめんどうはいっさいみることができなくなる」ことに注目すべきです。

 こういう状況を,「全体の奉仕者」ではなく「一部の奉仕者」と呼んで,そういう力の入れ方は公務員としておかしい,・・・もちろん,「勤務時間外」という正論はあるのですが・・・と書いた覚えがあります。

 指導に打ち込むことも大事だが,部活動を教育の場と考えれば,そしてそのねらいとしているところを教育的に考えれば,そこでもし「ががんじがらめ」になっているような状況が少しでもあれば,肌感覚として違和感をもつ「ゆとり」をもっていてほしいのです。

 もし,その顧問がいなければ,部活動の姿が一変してしまう,そんな部活動なら,子どもたちがただの「ロボット」になっていないかどうか,疑ってみてしかりです。

 中学校では,「指導力」というと,「みんなを同じ方向に向かせる力」と思われてしまう節がありますが,それは小学校の教師のレベル。

 中学校レベルでの「指導力」は,「一人一人をその力が発揮できる方向へ導き,伸ばしてあげる力」のことです。

 そういうことを本当に実践できる人は少なく,常に反省を抱えながら指導しているのが普通の教師です。

 部活動の指導とは,自分の専門性が生かせる場面ではありながら,「自分がやってきたことをそのままやらせる」指導に陥りがちであり,だからこそ,教育的な指導とするのに最も留意すべき分野であるのです。

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体面を気にする教師にだけはなるな

 この教師,本当に生徒のことを考えているのだろうか?

 と傍目には見える人が,心から生徒に尊敬されている。

 この教師は,本当に生徒思いだなあ,と見える教師が,生徒からはただバカにされている。

 世の中にはいろんな教師がいます。

 私たち教師にとって,一番やっかいな存在は,子どもではなく同じ教師たちです。

 「あの団体」の教師でも,集会に毎回参加しているような人や卒業式前に騒ぐ人は別として,他はふつうの教師に近い。

 そのふつうの教師でも,多くが囚われているのが「前例主義」であり,今やっていることの意義について何かしら理由をつけて存続させようとする,ここでちょっと飛躍して恐縮ですが,滅亡に向かってひた走る軍の首脳の発想がここにあります。

 論理的には分かっているはずのこと。

>アメリカでは、吹奏楽が正課として取り入れられているということを以前のブログで書きましたが、いつからそれを始めるかというと小学校高学年と聞きました。
>それは、この時期からそろそろ変声期になり声が出しにくくなる、それでその前までは歌(合唱)に力を入れているということだそうです。

 論理的な指導方法ですね。

 では,中学校で合唱に力を入れることは,どうなんでしょう。
 
 しかも,要求された声が出せない合唱をコンクールで競わせるというのは。

 この文を紹介した音楽関係者は,

>子どもは競争が好きです。だから、その競争心を利用して能力を高めるというやり方は教育的にもよい方法です。

 という「感性」の持ち主。塾の教育にも大賛成なのでしょうね。

>競争者間にハンディがありすぎると、競争意欲もなくなるし、強引に行っても得るものはない
>学級数も7~8と競争に適する数があった
>それなりの歌唱力のレベルにあった
>2クラスしかない学校で、コンクールをやっても意味はない

 歌唱力を競わせる,という発想に,何の疑問も抱いていない。

 音楽的感性というのは,人と競うことで高めることができる,と発想する,音楽教育者はいないでしょうね。

 結局,こういう人の感性は,「商業的音楽」=金にかえられる音楽を奏でる人のことが頭の中にあるのです。意図せずとも,そういう「結果」になっていることを自ら告白している。

 音楽を営利目的のものと考えるなら,どうやっても競争は避けれられないでしょうね。
 
 そういう感性の人が,学力を語るとどうなるか。

 学力が低い子どもに,「そんなんじゃいい会社に入れませんよ」「お父さんみたいになっちゃうよ」と脅しをかける人間がいます。同じような頭の構造です。

 お金になるものを身に付けさせようとするのが教師の立ち位置ではないことは,多くの人が納得できるでしょう。

 (ここが,就職を目前にした高校や高専,大学や専門学校となると,ちょっと違うと思いますが)

>中学校で実際に吹奏楽部を指導することになったのですが、コンクールに出なければ生徒たちがかわいそう

 こういう生徒観の教師ではなく,たとえば高齢者福祉施設などで演奏したり,地域の人を招いて演奏会を開くとか,そういう人を相手に聴かせ,心を和ませたりすることの方が,コンクールで賞をとるよりはるかに優れたことであるという教育の信念をもった教師は少数派であることは確かでしょうね。

 目先の「かわいそう」ではなく,「だれのための音楽か」を問える人こそ「感性」を育てる教師でしょう。

 私も,部活動なら目をつむります。

 「放課後の活動」ですからね。被害者もごく一部ですむ。

 そもそも,部活動の実践のことなど,だれも聞いていません。

 授業で何ができるかが問われているのに。

>「コンクールも出れない学校か」と言われたくない

 これこそが,音楽の良さではなく,学校の体面を気にする「感性」の持ち主の典型的な言葉です。

 
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教師自身が自分に正直であること(一部追加:1月29日)

 勤務時間が終わったらさっさと帰れるように,「仕事術」の勉強がしたい先生は,すればよいでしょう。

 私は今から二十年も前の採用試験の面接で,「勤務時間後も部活動の指導をしなければいけないことについて,どう思いますか」という質問に対して,「教育の仕事に勤務時間内も勤務時間外もない」と答えた記憶がありますが,なぜか面接官は「嫌そうな顔」をしていました。

 でも,管理職からの命令がない限り,勤務時間が過ぎたら職務のことは忘れていいのが公務員です。

 前も述べましたが,教育の仕事が好きで毎日を過ごしている人にとって,「忙しい」ことはかけがえのないことです・・・というか,「忙しい」などと考えている暇はないでしょう。子どもに集中していれば。

 音楽教育について,伊東玲先生のような態度がとれる人は,やはりなかなかいないでしょうね。

 まず,心で思っていても,口に出すことはない。

 ましてや,ブログに書くことなど,ありえない。

 だから,私は先生のことを「慎ましやかではない人」とよんでいるわけです。

 でも,本心を隠して,慎ましやかな人に教育されるのは何となく嫌な気がしますよね。

 教師が正直であることは,子どもにとって安心できることです。

 毎日の授業がめんどくさい。

 教材の準備などしたくない。

 早く家に帰りたい。

 そういう正直な先生は,子どもは嫌いじゃないでしょう。

 子どもの方も,演技をする必要はありませんから。勉強がめんどくさい,そういうことに教師が共感してくれるのですから,嫌いになるはずはありません。

 全く力がつかない話し合い活動ばかりの授業をして(教師は45分間中,5分間しか話さないことを自慢している人もいる),子どもは楽しがって充実している。

 子どもには,教師の本心は見えませんね。

 学校が「鉄のカーテン」の向こうにあった時代には,それでもよかったのですが,だれの目にもふれるようになると,多くの教師は「自分に正直」ではいられなくなってしまいました

 でも,正直は,いいことです。

 賞狙いで指導をする。

 悪くないですね。

 どういう「感性」の持ち主か,すぐにわかる。

 でも,それは「教育」ではない。「子どもへの迎合」に過ぎなかったりする。

 「教育」ではないことが「学校現場」で行われていることを正直に書ける人は,貴重な存在です。

 将来は,組織では生きられず,ただの物書きになってしまうかもしれませんが。

 恐縮ですが,大切な資料としての情報を,後でこちらのブログでも紹介させてください。

 ・・・・なお,私自身の希望としては,「実践やノウハウを本にする」という発想を教育者は捨て去って,どんどんネット上に公開し,あらゆる人が即座に参考にできるような環境が整っていくことです。

 そうやって公開した内容が,「本の形で手に取りたい」という人が集まって,出版というかたちになるのならわかるのですが。

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アナロジー思考のできない人の仕事術

 自分が批判したり非難したり否定したりしている相手と,自分自身が「相似形」であることが理解できない人がいるようです。

 いつの間にか,自分自身のことを批判しているので,私が名付けたのが「ミラー現象」です。

 自分で自分のことをけなしている。

 教育の世界では,「ある団体」の教師たちが,自分と「相似形」の無責任な子どもたちを大量に生み出してきました。

 学力が高い子どもを育てない方が,自分たちにとって都合がよい「社会」に変わっていくので,授業では平気で自習にすることができるような教師が,本気になって「学力調査」に反対する意味は,別に勘がそれほどいい子どもでなくても気づくでしょう。「学力調査」の結果で非難されるのは,子どもではなく,学力をつけさせていない教師であることは,子どもでもわかることです。

 こういう教師の仕事術は,子どもに「大人のいやらしさ」を実感させる効果くらいしかありません。
 
 dolceさんは,なぜ受験のための詰め込み学習をする子どもたちと,コンクールで代表に選ばれようと努力する子どもたちの「相似形」に気づかないのでしょう。

 同じような「仲間」ですね。目標の立て方が非常に似通っています。

 それは,以下のような言葉を引っ張ってきているので,意識下では気づいているはずなのに。
 
>アメリカではずいぶん古くから、吹奏楽のもたらす教育的効果が大きいということで、小学校から正課の授業に取り入れられています。
>正課の授業の中で個人レッスンも行われています。
>映画で、子どもが一人一人呼ばれて、レッスン室に入っていくシーンがあったりします。
>日本人で、アメリカで先生をやっている人に
>「正課の授業というと、子どもが家で練習していて、音がうるさいと言われませんか」
>と聞いたら、成績のつくことなので、親は我慢していると話されました。

 
 個人がしっかりと基礎を習得するからこそ,集団での活動がうまくいくのです。

 学力もしっかり基礎を習得するからこそ,組織での仕事が成り立つのです。

 入学試験は一人の責任で受けるものですが,その先は一人ではない。dolceさんは,「その先」のことが想定にないのです。

 高学力が,組織としての高いパフォーマンスにつながらなくてもかまわないのは,学級王国に君臨できる小学校教師くらいのものでしょうか。

>個人ではどんなにうまい奏者でも、協調性のない人は採用されません。

 小学校では,個人の能力は高ければ,協調性はなくても学級担任は務まってしまうのでしょうね。

 協調性はあっても,個人の能力が低ければ,採用されることはないというのも明らかなことです。

 楽譜が読めない人がコンクールの代表に選ばれることはない。

 dolceさんの場合は,塾で学習する子どもは非難しても,楽器の個人レッスンに通う子どもを非難することはないでしょうね。

 自分自身はそもそも塾の子どものような生徒を相手にしているのに気づかないのでしょうか。

 「勝ちたい」「選ばれたい」と願って活動している子どもの力を引き出そうとしている。

 塾の講師と同じでしょう。

 子どもを代表にした自分が,子どもを志望校に合格させた人間と「相似」である発想がもてない。

 アナロジー思考が全くはたらいていないのです。

 類推という観念自体がないせいか,書かれたことがすべて「事実」であるかのように認識してしまう。

 なぜか仮説=捏造になってしまう。

 コンピュータにはできない,人間らしい思考を大切にすべき,という認識は正しく持っていらっしゃるのに,大切にすべき思考がはたらかないのは非常に残念なことです。

 「違い」にもふれておきましょう。

 塾で学んでいる子どもは,「一人の力」で勝つことがゴールである。

 コンクールは,勝つために,メンバーと「音を合わせる」(これを協調性というのは無理があるでしょうね)。

 これが大違いだ,と考えることももちろんできます。

 しかし,塾の子どもが問題を解くためには,「問題作成者」「教材」に「合わせる」(もちろんこれを協調性というのも無理があるでしょうが)=「個性」「自分の考え」はなるべく消す・・・ことに専念させられます。

 問題作成者の意図を読むことによって,「正解」に結びつくことは,楽器の演奏をしている子どもと同じようなものだとも考えられます。

 そして個人の力を高めた後は,集団,組織での高いパフォーマンスを生むために,協調性がよい効果を発揮する。

 そこまでアナロジーにこだわらなくてもいいかもしれませんが,人間の創造力を伸ばすには打ってつけの思考法であることは間違いないでしょう。

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蚊帳の外にいた人に「学力観」は語れない

 総合的な学習の時間の指導は,移行期間を含めると4月には13年目に入ります。

 中学校の場合,選択がなくなる分,より充実した総合的な学習の時間の指導が可能になります(これまで,選択教科の指導やその準備等が通常の教科の授業に加わっていて,時間的に大きな労力がかかっていました)。

 そして充実した指導になるかどうかは,校内で議論を尽くした「学力観」と「指導観」にかかっています。

 どのような手抜きが行われているかは,教育課程調査で一目瞭然なのですが,「調査で成果が問われない」分野については行政もテコ入れをしないというのが現状です。

 「ゆとり教育」でただ「ゆとり」を満喫していたのは,今,学力観を語れない教師たちであり,そういう教師に不幸にも出会ってしまった子どもたちなのです。

 中学校社会科は,歴史はより「歴史的」分野らしくなった一方で,「地理的分野」はただの「地理」になってしまいました。大きな後退です。公民的分野は,スタートが後ろにずれることになりましたので,それも後退でしょう。学校によっては,これが総合的な学習の足を引っ張ることにつながるかもしれません。

 唯一,中学校3年間にわたって学習する「歴史的分野」では,今まで以上に「自分なりの言葉や図」で表現する活動を通して,思考力等を育成することができるようになりました。学習の中では,「公民的分野」の内容を先取りして盛り込んだ学習も行われるでしょう。

 地理的分野では,総合的な学習の時間のスタートとともに,「学び方を学ぶ」代表的な学習指導が行われてきたはずでした。

 そして,この指導の成果をもって,PISA型学力も何の問題もなく高い成果が得られるはずでした。

 しかし,最も肝腎なところで「十分とは言えない結果」になってしまった。

 学力を向上させよう,といったときに,A問題だけでなく,B問題の方にもきちんと目が向いているかどうか。

 平成24年度の総合的な学習の時間の指導計画案がそろそろどの学校でも出来上がる時期でしょう。

 今の義務教育で,「学力」をしっかり語れるのは,校内体制が整わなければ実施できない「総合的な学習の時間」の計画・立案・実践・評価等に深くかかわっている教師のみです。

 これを他人任せにしていたり,そもそもこの指導に(目標もろくに理解せずに)かかわっていない人には,「学力観」を語る資格はありません。

 困ったらすぐにどこかの映像を引っ張ってきてお茶を濁すような発想では,創造力が発揮できるような人間は育成できないのです。

 学力の問題を扱ったブログは,下の「教育論・教育問題」をクリックしていただけると,主立った教育ブログをご覧いただくことができます。

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賞狙いで競わせる感性をもつ音楽教育者

 「感性」の大切さを訴えようとしている人がいるかと思ったら,「コンクールで代表になった」ことで態度が変わった,などというまるで「音楽性」とは無関係の,「指導の成果」を自慢したいだけでした。

 中学校音楽科の改善の具体的事項として,次のようなことが示されています。

 多様な音や音楽を感じ取り,創意工夫して表現したり味わって鑑賞したりする力の育成や,音楽文化についての理解を深め,豊かな情操を養うことを重視し,次のような改善を図る。

 (ア)~(エ)は省略

 (オ) 合唱や合奏など全員で一つの音楽をつくっていく体験を通して,表現したいイメージを伝え合ったり,協同する喜びを感じたりする指導を重視する。学習全体を通じて,音楽文化の多様性を理解する力の育成を図るとともに,音環境への関心を高めたり,音や音楽が生活に果たす役割を考えたりするなど,音楽と生活や社会との
かかわりを実感できるように指導するようにする。

 全員で一つの課題に取り組む体験のねらいは,コンクールで賞をとることではありません。

 ただ,目標としては,この方がわかりやすい。

 「試験でいい点をとる」「受験で勝ち抜く」ための学習と同じ図式です。

 ***どこかの音楽教師が,「コンクールで代表に選ばれて生徒の態度が一変した」ということを自慢げに披露してくれています。ものすごい「感性」の持ち主ですね。***

 しかし,こういうことに加担する教師がほとんどで,「コンクールの実施をやめる」ことが提案できる感性と信念をもった教師はどのくらいいるでしょうか。

 これは,自分のためではなく,子どもが

 「協同する喜びを感じる」

 「音楽文化の多様性を理解する」

 「音環境への関心を高める」

 ことができるようにするためなのです。

 今まで通りのことだから,当たり前のように続けている,という感性の持ち主は,「惰性の実践者」に過ぎず,真の教育者ではありません。

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「同じ」であることを強要する教育

 みんなで「同じ」教材を見て,考え,意見を発表する。

 集団での協同の学びが実現する条件に「同じ」教材がある。

 しかし,考えていく先には,「違う」目標なり,探索するものが存在する。

 それに対して,「同じ」教材=音符を見て,「同じ」パートの人同士は同じことをする。

 そして,どれくらい「楽譜通り」にできたかを競い,順位付けをする。

 両者の大きな違いは,最後に目指そうとしているものです。

 各団体の演奏を聴いて,「楽譜通り」かどうか,ということではなく,その「違い」に気づき,その「良さ」を分かち合う・・・そんな授業なり活動を展開しないで,おそらく個の力を伸ばす教育はできないでしょうね。

 あの団体の人たちは,「ひとりはみんなのために,みんなは(そういう態度をとる)ひとりのために」

 というスローガンのもと,「同じ」であることを強要する教育をして,個々の力が伸びない状況を

 放置している,という指摘があります。

 「違い」の良さは,ランク付けという形で打ち消されていく。

 批判的な人間などは,もってのほか,ということになります。

 「どうして勤務時間にその団体の仕事をしなければならないのですか」

 という質問すらできない状況。

 「ひとりはみんな(団体)のために,みんな(団体)は(団体のための行動をとる)ひとりのために」

 という風土がある学校で,どういう子どもたちが育っていくのでしょう。

 「同じ船に乗って,滅亡へと突き進んだ帝国海軍とその団体」の行動パターンは「同じ」。

 「教え子は二度と戦場に送らない」という発言は不変。

 「社会」という「戦場」にも送らない姿勢が,今の「働かないでも満足」の若者を作ってきたのでしょうか。 

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組織が阻む意識改革

 「意識改革」にふれた過去の記事を 件,再掲してみました。

 「人の意識を変えるほど難しいものはない」と言われます。

 意識と現実のズレが取り返しのつかないものになってすら,意識を変えられない,というか現実を認められない人間が多い。

 教師の場合は,「がん細胞」とよばれる「あの団体」によって,若い教師は「組織の一員」としてふるまうことを強要され,子どもそっちのけで「運動」に参加させられたりする。

 「組織的・計画的な学校運営」が大切だと行政は言っていますが,団体のための「組織的・計画的な行動」を強固に行っている教師たちにとっては馬耳東風。

 教師の意識改革を阻む「がん細胞」が「あの団体」だとすれば,最後の望みは「個人としての良心」しかない。

 「内心の自由」しかない。

 「内心の自由」を訴えている教師たちが,未来を支える教師たちの「内心の自由」を奪うことをやめれば,日本の教育にも未来が見えてくる。

 以上のような考え方があることを,若い教師たち,これから教師になる人たちには,心に刻んでおいてほしいと思います。

 まず,自分自身の「個人の尊厳」を重んじて下さい。

 そして,組織によって刷り込まれた,別の意味の「個人の尊厳」をふりかざす「集団」「団体」の醜悪さから,子どもたちを守って下さい。 

 学力向上のための自治体の取組も再掲しておきました。

* 1 ******************* 
 2007年8月17日「修正を重ねて成功に結びつくイメージ」
**********************

教育改革は、教師一人一人の意識改革から出発しないと成功しない。これは真理なのでしょうが、だから、「政府は何もいいません」「校長もみなさんに子どもはお任せします」「親のように子は育つ」とはいかない。
 では公の立場からはどう教育を変えられるのか。
 教師一人一人の意識を変えさせる方法は何か。
 職務目標やキャリアプランを検討させることを人事考課制度に組み込んだ東京都の政策は、もともと「自分が変わることが大切だ」という意識をもっている教師には有効的でしたが、自分のことはいっさい棚にあげて「行政が」「政府が」「管理職が」・・・と真犯人は他人だとかたく信じている人には効果が今ひとつでした。
 成功した人たちの多くは、願いを実現するまでに数え切れないほど修正に修正を重ねている、と言いますが、人事考課制度も改善を重ねていくことが重要です。教師が目標をもてる職場環境づくりが第一に必要で、「チームワークを向上させる」という最も大切なところからはじめるとか、「コミュニケーションを活性化する」とか、成功例は10年程度の経験がある教師ならわかるものがあると思います。これを一般化できないものか。
 教育の現場で「成功」のイメージがわきにくい(大会で優勝するなどの部分的な目標ではなく・・・)ので、コンピテンシーモデルというものをどう実用化するかが私の課題ですが、一応、成功方程式のラインに乗っている内容はおさえられているようです。
 理想を言えば、教師と管理職が現状を見つつ目標とそれを達成する手段を修正し続けた結果、成功が得られたという体験を積み重ねることが大切です。
 ただ、コンピテンシーディクショナリーとよべる事例数がまだ十分ではありません。
 「情熱」がある教師が求められるといいますが、情熱だけでは教育はできない。メリデメの理解も必要になる。部活動をしていた中学生が亡くなる事故がおこることもありますが、教師や子どもの情熱はこういう結果を招く恐れもあります。 
 具体的なリスク管理の方策をコンピテンシーモデルとセットにして考えなければなりません。

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 2008年4月2日「藤原前校長が越えられなかった壁」
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 藤原和博著「バカ親、バカ教師にもほどがある」(PHP新書)を読んで、長い間抱いていた違和感(経営者であっても教育者ではないなという感覚)の原因がわかりました。この本は、和田中の教師や親を非難する形にしないために、川端裕人が聞き手になって、藤原前校長がこたえるという体裁になっています。本のタイトルにある「バカ教師」の記述は少なく、全体としては教師・学校擁護の内容になっています。
 違和感の具体的な内容は示しませんが、結局藤原前校長は、優秀な教師やよい授業というものにあまり出会ったことがなかったのだということです。
 現役の教師にそれを期待してなかったから、自身で授業づくりをし、ゲストティーチャーを招き、カメラを入れて教壇に立ったのでしょう。
 ダメ教師に対しても、「それが子どもの自立を促進する」という褒め殺し?のような表現をしていました。
 ご自分はそれで成功してきたのでしょう。 
 もしかしたら、「優秀な教師だ」というふれこみで異動してきた教員が、全くの期待はずれで、行政の人間の「人を見る目のなさ」に落胆し続けていたのかもしれません。
 教員への不信は、「六時間の授業にじっとたえて受け続ける子ども」への同情になり、教員以外の人とのかかわりを重視するようになっています。
 また、教員が対処すべきトラブルと対処不能なトラブルをまとめ、たとえばソーシャルワーカーを増やすべきという提言をしていますが、公立学校に求められている機能を放棄する宣言に見えました。
 以前からの著書で「校長」という立場の「力のなさ」はくどいほど強調していましたから「責任に見合わない待遇への不満」が強いことはわかっていましたが、結局「公立学校の校長の意識改革」は促せずに現場を去ることになってしまいました。
 心ある教員や校長は、藤原前校長があきらめた大きな壁を越えようと今も励んでいるのです。


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 2008年5月4日「社会科教師の逆コンピテンシー その6 学習への意欲を高める「しかけ」」
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第6回のテーマは、「対人変革力(②対人のC創造力)」です。
 「対人変革力」不足は社会科の授業という観点から言えば、戦略力などの貧困が原因なのでしょうが、学習に対する意欲を高めることができない教師、学力を向上させたいという願いが生徒に伝わらない教師は、かなり高い割合を占めていると思います。
 単純に、「テストで高い点をとらせたい」という気持ちは伝えることができても(脅しという方法も含めて)、具体的にこういう力を今、身に付けてほしい、こういう力を今、発揮してほしいという願いが伝えにくい原因は、社会科という教科の特性にあるのかもしれません。このことについては、多くの側面からの分析が必要です。
 そもそも人の意識を変えさせることは、容易ではありません。
 社団法人公共広告機構が、公共のマナー環境問題などをテーマに視聴者に語りかけるCMを提供していますが、その効果のほどというのはどれだけでしょう。
 広告会社は、人の意識を変えさせ、購買意欲を高める広告をつくるのが仕事なのでしょうが、そこには数多くの「騙し」のテクニックがあることはよく知られています。
 手段を選ばずに、さまざまな「しかけ」を用いて、人の意識改革を目指す。企業でも、たいへんな苦労をしているようです。
 教育行政も、教師の意識改革を目指して、次々に施策を打って出ていますが、もらっているのは「反感」ばかり。方法が方法だからでしょうが。
 横道にそれますが、日本のテレビCMは、「一段落CM」よりも、「ヤマ場CM」の方が多いのだそうです(日本は40%、アメリカは14%、イギリスは6%、フランスはゼロ・・・竹内一正著「グーグルが日本を破壊する」PHP新書より)。
 ドラマやクイズ番組でも、大事な場面でCMが入り、見ている方は非常にイライラします。
 ただ、日本人は「弱気の遺伝子」が強いらしく、そういうCMを流す会社の商品を買わないとか、テレビ局に苦情の電話を入れるとか、リモコンを投げつけるとか、そういう行動はあまりおこさない。だまってCMが終わるのを待っている。そういう側面もあるのですね。
 社会科で身に付けさせようとしている知識・技能は、世の中にあふれている膨大な情報・ルールの中のごく一部です。しかし、それを知りたい、集めたい、解決したいと思わせるきっかけになるしかけは、教科書の中には十分にありません。
 たとえば、「フランスでは見られないヤマ場CMが日本で多い理由は何か?」という問いは、教師が問うわけではなく、聞き手が勝手にそういう疑問をもつように「しかける」のが社会科の授業です。
試験問題】 社会科という教科を好きにさせるために、あなたが指導できる、とっておきの教材とは何ですか。また、その教材が多くの生徒を魅了した理由は何でしょうか。

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 2008年9月1日「大阪の快進撃は始まるのか?」
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 報道されている橋下大阪府知事の発言について、現場の教師の多くは反発を強めていることでしょう。
 今後、行政主導の学力向上テコ入れ策がどんなものになるかはわかりませんが、現場のよりよい実践が広まる速度より、行政主導の流れの方が速いという問題には、他の県の先生方も早めに気付いた方がよいかもしれません。
 大阪府の先生方にとっては、今後取られる方策によって、もし学力向上の傾向が見えてしまうと、それまでの指導の質が問われてしまうことになるし、成果が出なければ出ないでさらなる「意識改革」が求められる。
 現場は常につらい立場です。

 とにかく小6と中3の学力だけを向上させるというのは無理なことで、小6にしろ中3にしろ、その結果は過去何年間かの積み重ねによって生み出されたものであり、地道な努力によってしか達成されないと一般的に考えられるのが学力の特徴です。

 ただ、全国的な学力調査問題の成績に限って言うと、短期間の「意識改革」で向上する可能性があることも否定できません。
 それは問題の質とそのレベルから言えることです。

 東京都の場合は、問題の形式・趣旨は同じではありませんが、全国的な学力調査の少し前に、小5、中2の段階で独自の学力調査を行っています(名称は「児童・生徒の学力向上を図るための調査」)。
 この調査が「学力向上」への意識付けに一定の効果があることは、都の報告を見てもよくわかります。
 
 全国的な学力調査の問題の難易度はやや難しめになったようですが、そうは言っても、問題が全国に公表され、テスト自体とか文部科学省=「お役所」の好き嫌いの問題ではなく、「このような問題はできてほしいなあ」という素直な願望が浸透していくことは、子どもや教師にとって「どうせ毎年あるものなら、今年はがんばってみるぞ」などという動機付けに結びつくかもしれません。

 都道府県規模の平均点というものの差は、学校間で競争するのとはわけが違いますから、簡単な「インチキ」で縮めることができるものではありません(県ぐるみで不正をはたらけば別ですが・・・)。

 平均点が高い低いでウダウダ言うこと自体、教師の多くは虫酸が走るように嫌なことかもしれませんが、県別上位でも学校ごとに結果を見て、「もっと得点が取れるはずだ」という「意識」を子どもも教師ももてるようになることが、ヘキサゴンを見て喜ぶより先にあるべきであるような気がしています。

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 2008年10月8日「学力調査の結果を生かす工夫」
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教育関係者でないとあまり知られていないかもしれない事業に、昨年度、文科省が実施した『学力調査の結果に基づく検証改善サイクルの確立に向けた実践研究』の委託研究事業があります。
 これは、都道府県・政令指定都市ごとに設置された検証改善委員会が実施する研究事業で、各自治体のHPでは公開されていると思います。
 文科省が評価した学校改善支援促進事業の内容が公開されているので、ここでいくつか紹介してみます。
 (「成果の普及」については省略します)

***福島県検証改善委員会***

①学力調査結果の詳細な分析と優れた実践をしている教師への聞き取り調査
・全国学力・学習状況調査の問題と結果の分析やこれまで実施してきた「福島県学力調査」結果との比較等により、より詳細な分析を行い課題を明確にする。
・優れた実践をしている教師の授業観について聞き取り調査を行い、本県の教師の「授業観」の振り返りの指針となるようにする。

②データ分析支援ソフトの開発
・各学校、各学級毎の実態や課題を把握できるようにするためにデータ分析支援ソフトを開発し、各小・中学校に配付する。

③県版「活用力向上のための指導資料」の作成
・「知識」と「活用」問題の関連を視野に入れた日々の授業改善に生かすことのできる具体的な指導資料を開発する。

④「知識」の習得と「活用」との学びの関連を図った「提案授業・授業研究会」の各学校への同時配信
・小・中学校の教師や大学教授等様々な立場の授業者が「提案授業・授業研究会」(5校予定)を行う。その映像を県内の小・中学校にWeb配信するとともに、DVDに収録して配付し、各学校の校内研修での具体的な授業改善の協議の活性化を促す。

⑤「授業改善サポートブック」の開発
・学力調査の分析及び開発した教材・資料等を「授業改善サポートブック」としてまとめ、県内の小中学校教師全員に配付し、校内研修での活用を促す。

***富山県検証改善委員会***

1.学力調査結果に基づく分析
①「学び合い」と学力との相関についての分析
・学校や学級の人間関係の満足度と学力の定着の状況等について分析し、具体的な改善支援策に生かす。

②「体験」と学力との相関についての分析
・体験の頻度と学力の定着の状況等について分析し、具体的な改善支援策に生かす。

③各学校、各地域の分析への支援
・検証改善委員会が独自に作成した学力調査結果の分析支援ソフトを各市町村教育委員会や各学校に配付し、詳細な課題の分析を行い、指導法等の改善を推進する。

2.「とやま型学力向上プログラム」の創造と発展
①課題別指導ヒント集「授業改善のためのかくし味」(学び合い編)による改善
・学び合う学習活動によって指導の成果が認められた実践事例を収集し、授業改善の手がかりを学力調査によって明らかになった課題について調査研究する。それをまとめ課題別ヒント集として全学級に配付し、児童生徒相互が教え合い、認め合い、支え合う学習活動の推進を図る。

②指導教材「美しいことばで伝え合おう」(話し合いDVD・音読CD)による改善
・意見発表の仕方の指導や友達の考えの聞き方の指導について、優れた成果がみられる学校を取材して、学び合う人間関係を醸成する学習指導の在り方を研究する。それをまとめて、コミュニケーション能力の向上を目指した指導教材として各学校に配付し、自分の考えを伝え合う学習活動の推進を図る。

③課題別指導ヒント集「授業改善のためのかくし味」(体験編)による改善
・体験を通して知識・技能等を活用する力を伸ばす実践事例についても調査研究する。それらをまとめて、課題別ヒント集として全学級に配付し、知識・技能等の習得と体験での活用の効果的な関連付けを目指す指導の推進を図る。

④指導教材「豊かな体験パワーアップシート」による改善
・学力・学習状況調査結果の分析から、体験と教科等での学習の関連を深めたり、体験の価値を高めたりする学習シートを指導教材として各学校に配付し、課題に応じて授業等での活用を推進し、知識・技能等を活用する力の育成を図る。

***香川県検証改善委員会***

1.調査結果を踏まえた指導方法の検証・改善を図る取組の促進
①市町教育委員会や学校の個々の実情に応じて具体的な指導方法の検証・改善を図るサイクルを構築し、教員の指導力の向上を図る。
・全国学力・学習状況調査等の結果を踏まえ、市町教育委員会や学校が行う、児童生徒の学力学習意欲・生活習慣の状況や課題等の把握・分析、明らかとなった課題に対する改善策についての検討、具体的な改善に向けた取組に対し、市町教育委員会の要請に応じて、大学教員や指導主事を市町教育委員会に派遣する。
必要に応じて学校訪問も行う。

②市町教育委員会及び学校における継続的な検証改善サイクルの確立に寄与する。
・各学校における児童生徒一人一人の改善につなげられるよう、派遣を通して得られた成果や効果的な取組を、県内全ての市町教育委員会及び学校に普及する。

2.「考える力」や「読む力」の育成を図るための指導方法の研究
 主として、「活用」に関する問題の分析を踏まえ、知識・技能を活用し考える過程を重視した指導法を研究する。
・観察・実験、調査など実生活と関連付けた指導の在り方、様々な文章や資料を読んで、自分の意見を述べたり書いたりする指導の在り方など、知識や技能を活用する力の育成を図る教材を、国語、算数・数学、理科、社会の各教科毎に、小中学校で各1教材作成する。
・指導法の改善に役立てる評価問題を、国調査や県調査の対象教科となっていない社会科の小学校第6学年と中学校第3学年用で作成する。

3.家庭学習の支援の在り方の研究
 児童生徒に家庭学習・基本的な生活習慣の改善を図るために、各学校の取組から効果をあげている児童生徒向け「学習の手引き」や保護者向け「学校だより」などの啓発資料を収集し提供する。

4.教育課程のPDCAサイクルの確立の支援
①市町教育委員会や各学校において、提供されたデータを効果的に活用できるよう、データの加工やグラフ作成等を支援するプログラムを開発する。
②プログラムの活用方法や、調査結果等の分析に基づく改善計画等の作成に関する研修会を開催する。

***福岡県検証改善委員会***

 福岡県学力向上パワーアップ事業実施内容
 学力向上を図る主体的な事業運営として、課題に応じた次の四つの事業を、学校が選択・実施できるようにする。

①小学校における専門的、組織的指導の充実を図るため、市町村教育委員会と協力し、小学校低・中学年の少人数指導、高学年の専科指導員の派遣する事業。

②国語科、算数・数学科における読解力、表現力、思考力に特化して、各学校の学習指導の充実を図るため、市町村教育委員会と協力し、各学校のリーダーとなるべき教員へ指導技術等を提供する研修会を開催する事業。

③学力に関して課題をもつ市町村教育委員会に対して、授業での補充的な学習や発展的な学習など、市町村教育委員会と協力し、きめ細かな指導のための支援を行うためのサポート指導員を派遣する事業。

④児童生徒の学ぶ意欲や学習習慣の定着、進路意識の向上、生活習慣の改善等を図るために、児童生徒を対象にし、大学生、保護者等を活用した土曜日セミナー等を開催する。

***仙台市検証改善委員会***

①教科指導のエキスパートを、課題のある学校へ長期的に派遣
・全国学力・学習状況調査と仙台市標準学力検査の結果とその分析により、教科指導に課題がある学校に教科指導のエキスパート(有識者:退職校長や大学退官者など)を長期的に派遣し、教員の指導改善のための支援と助言を行う。

②全国学力・学習状況調査と仙台市標準学力検査の分析結果に基づく教材開発
・これらの分析結果に基づき学習ドリル教材と学習ソフトを作成し、基礎基本の定着を目指すものだけでなく、思考力や判断力、表現力と知識活用能力の育成を図る教材を開発する。

③学校診断カルテ&処方箋〔仮称〕を学校に提供
・学習方略や学習環境、友人や教員との関係性などからる調査紙を作成し、学力調査との相関に基づき学習意欲等を因子分析などの分析手法により分析することで、学習方法や指導法の効果

***静岡市検証改善委員会***

 学力調査の結果を踏まえて、検証改善のモデルとなる学校の分析・改善の手法及び内容の収集
①静岡市教育委員会は、学力調査を活用した改善を推進するため、各学校に、検証改善のモデルとなる学校(改善支援対象校)を公募する。
・各学校は、静岡市検証改善委員会が提案する分析手法例(児童生徒による分析例、地域保護者による分析例、大学による分析例、校内における分析例)を参考に、必要に応じて応募する。これにより、各学校の組織を構築(校内検証改善委員会の設置)し、日常の教育活動とつなげた各校の分析・検証計画を整える。

②静岡市検証改善委員会は、分析・改善の調査研究を行うため、「校内検証改善委員会の独自の分析手法が明確であること、学力調査の結果等を踏まえた課題が明確であること、学校の地域的な特徴のバランスをとること」を基準に改善支援対象校を小学校・中学校併せて13校を選定する。これにより、分析手法例、改善対象校の課題を把握する。

③静岡市検証改善委員会は、事業を周知し人材を活用するともに具体的な支援を実施するため、市広報誌を利用し、「学力向上チームスタッフ」として専任指導員(原則として、教員免許を有する者)を登録公募し、40人程度を任用し研修を実施する。これにより指導の向上を図り、人的側面の支援を充実させる。

④静岡市検証改善委員会は、改善支援対象校の課題に応じた改善を充実させるため、専任指導員を派遣するとともに、指導主事による指導助言を実施する。専任指導員は、家庭学習支援(2校)、放課後学習支援(9校)、少人数指導支援(5校)、在宅学習支援(1校)、合宿支援(2校)、体力向上支援(1校)、読書力向上支援(1校)を実施する。これにより、効果の見られる改善事例の収集に努める。

***京都市検証改善委員会***

①学力向上フォローアップシステムの構築
・「教育指導計画」「学力向上プラン」の内容や「全国学力・学習状況調査」「学力定着調査」「学習確認プログラム」などの分析をもとにした「学校経営目標・支援シート」を学校毎に作成し,よりきめ細やかな分析と必要な支援内容を学校と教育委員会が共有・共通認識し,総体として取り組む「学力向上フォローアップシステム」を構築する。

②学校支援策の成果分析・フィードバック
・「学力向上フォローアップシステム」による学校現状評価・分析をもとに,課題別・グループ別の学校支援(カリキュラムマネジメント,教科指導の改善,学習指導ボランティアの活用等)を講じるとともに,その成果を分析し,次年度以降の効果的な支援策の再構築につなげる。

③新たな学習教材の開発
・「全国学力・学習状況調査」等の結果分析をもとに,新たな学習教材の開発も含めた義務教育9年間を繋ぐ基礎基本の定着に向けたシステムの構築を検討する。

***福岡市検証改善委員会***

 指定モデル校(8地域)において,「日々の授業改善」プログラム・家庭学習サポートプログラム・学校改善サポートプログラムの3つのプログラムからなる,福岡市「学び」総合プログラムによる,学校・地域(家庭)・行政との連携を一層強めた学力向上の取組についての実践研究を行い,その成果についての全市普及を図る。

 実施内容(モデル校での実践研究)

①「日々の授業改善プログラム(検証改善サイクルを位置付けた授業改善)
・「授業改善の手引き」等を作成(検証改善委員会)して,教材や指導法・指導体制の工夫についての実践研究に取り組む。
・採点等の授業に伴う事務処理を行う授業サポーターをモデル校に設置し,教員が授業改善に一層専念できるようにする。
・妥当性・信頼性のある定期テストや家庭学習とも連動した教材を導入して,検証改善サイクルを確立させる。

②家庭学習サポートプログラム(宿題及び自学等の学習習慣を育む地域の支援体制づくり)
・学校の空き教室や公民館・集会所等に家庭学習サポート教室を設置して,家庭での習慣作りが困難な児童生徒に対して,家庭学習サポーターによる2段階(宿題を必ず仕上げる習慣づくりから自学力育成サポート)の学習支援をする。

③学校改善サポートプログラム
・モデル校で使用する教材及びテスト等を検討・選定するとともに,授業サポーター,家庭学習サポーターへの研修を行う。
・学校改善アドバイザーによる学校訪問(各地域2回)を実施して,実践研究の進捗状況の確認と指導助言を行う。
・家庭学習教材の提供と,家庭学習サポーターの地域への設置,支援体制確立のための研修会を開催する。
実践研究の成果や課題を集約し,関係機関等を含め全市への啓発を図るための資料を作成する。

***福井県検証改善委員会***

①学力調査の結果をふまえた学校改善の支援
・全小・中学校において、学力調査の結果に基づき「学力向上プラン」を作成し、指導力を高めるための取組みを充実・強化していく。
・地域または学校を指定し、学力向上プランの作成や改善に向けての取組みにあたり、支援員を配置するとともに、大学教員や指導主事等の講師を派遣して、指導・助言をする。また、他校を視察する機会を設ける。
・各学校の作成した「学力向上プラン」を収集し、成果をあげている事例を紹介・普及する。

②基礎・基本を定着させるための教材の作成
・児童の漢字学習に対する興味・関心を高めたり、効果的に漢字を指導したりするための教材を作成する。
・各学校で取り組んでいる基礎・基本を定着させるための実践例を収集し、基礎・基本を充実させるステップアップ算数問題集を作成する。

***山梨県検証改善委員会***

①大学との連携による活用型学習ワークシートの開発
・活用型学習のワークシートを開発し,ホームページ(HP)上にアップする。各学校では,このワークシートをダウンロードし,授業での活用を図る。さらに各問題の趣旨やねらい,できない子への支援方法などを動画と音声によって有識者らが解説することで,活用型学習への理解を深める。

②基礎基本の定着を目的とした反復・習熟度プリントの配信
・インターネットを利用した学習システムを導入し,既習内容の確実な習得と主体的な学習習慣を身に付けられるようにする。

③「活用型」授業の創造に向けた「国語科授業改善の手引き」の作成
・活用型授業事例や教育効果などをリーフレットにまとめ,「活用型」授業の具体的なイメージを各教師がもてるようにする。

④リーフレット「地域・家庭からの学力」の作成
・「家庭での学力の理解」が学力向上の鍵である。このため,社会教育課との連絡・連携を図りながら「学力の正しい理解とその向上」を内容としたリーフレットを作成し,「確かな学力」の向上を目指していく。

⑤「授業カウンセラー」の導入
・教師同士の情報交換や刺激の少ない教師に具体的な授業提案や指導方法をアドバイスし,個々の教師の授業力を高める。これらの5つを短期の取組とするとともに,中長期の取組との連携を図り効果的に進めていく計画である。

***奈良県検証改善委員会***

①授業や家庭学習等で活用する学習資料集「わくわくワーク」の作成・配付
・全国学力・学習状況調査の結果からは、知識に関する問題は概ね満足できる状況であったと考えられるが、正答率70パーセントを下回る児童生徒も存在しており、より一層基礎・基本の確実な定着を図る取組が必要である。また、多くの児童生徒に知識や技能を「活用」することに課題があるということも分かった。そこで、基礎・基本にかかわる力をさらに定着させることを目的とした学校や家庭での繰り返し学習等に活用できるワークシート集(問題集)を作成する。

②教員の意識改革(授業改革)に向けての啓発資料(クリアフォルダ)の作成・配付
・知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力や様々な課題解決のための構想を立て、実践し、評価・改善する力を身につけさせることの重要性等を解説した資料を作成し、全教員に配付する。なお、その資料が常に教員の目に触れるようクリアホルダーに印刷し、配付することで、より一層の浸透を図る。さらに、クリアホルダーの一部には、具体的な授業の組み立てがイメージできるような内容も加え、授業改善につなげる。

③「全国学力・学習状況調査の結果分析・活用の手引き」の作成、配付
・各学校において、調査結果をきちんと分析、活用して学校の指導方針や指導計画の作成に生かされるようにするため、データの解釈や分析、考察の過程や考え方の手引き書を作成し、各学校に配付する。

***島根県検証改善委員会***

①研修プログラムの立案
・調査結果等から、特に算数・数学に課題が多く見られたため、算数・数学の校内研修および研修講座等の充実に向けた調査研究を行い、研修プログラムの立案を行う。

②学習習慣の確立に向けた学校への支援
・島根県は、平成19年度から学習習慣の確立に向けた「学習環境構築事業」を実施し、「学習プリント配信システム」を構築し、各学校が活用できる環境を整えた。そのシステムのより効果的な活用のため、優れた実践を支援し、その成果の普及を図る。

③学力定着確認チャートプログラムの開発
・全国や県との比較により、各学校が自校及び児童生徒一人一人の強みや弱みを確認でき、課題解決のための資料を作成するプログラム等を開発し、学校や市町村教育委員会の学力向上策の改善を促す。(来年度も継続して使用できる仕様にする。)

④学力向上プラン作成への支援
・市町村教育委員会が学校支援の方針を定め、また、学校がそれぞれの課題解決に向けた学力向上プラン等を作成、実施するにあたり、助言を行うため、委員または作業部員の派遣を行う。

⑤啓発用パンフレットの作成
・本委員会が報告書にまとめた学校改善支援プランをわかりやすくパンフレットにまとめ、全教職員に配付し、学校における学力向上策の改善を促す。

***宮崎県検証改善委員会***

①小・中学校の国語、算数・数学における課題解決を図る授業研究会の実施

②授業力向上研修会の実施
・市町村教育委員会や学校の研修会に大学教員等の講師を派遣し、習熟度別の少人数指導の在り方や読解力指導などの授業力の向上を図る。

③各教科研究団体への支援の実施
・県内の研究団体に研究助成を行い、その成果を取りまとめ公開する。

④学力向上サポーターの配置
・改善計画書の内容に実効性が見られ、改善への見通しが十分にあるなど有効な手立てを有している学校に対して、学力向上サポーターによる人的支援を行い、学力向上体制を整備する。

⑤優れた実践校の取組の効果的な活用
・効果的な実践を行っている学校の取組を実践事例集としてまとめ、県内各小中学校へ配付し、普及啓発を図る。

⑥デジタル資料室(仮称)の開設
・「課題解決に向けた授業研究会」や「過去の学力調査の分析結果」等をデジタル資料としてまとめ、県内どこからでも活用できるよう環境整備を行う。

⑦「こんな子どもが学力が伸びている学力向上10のポイント」の配付
 学力との相関関係が大きい質問紙調査の結果を10項目選び出し全小中学校に配付する。

***神戸市検証改善委員会***

 検証改善委員会内に三つのワーキングチームを設置し、連携協力大学等の支援も得ながら、以下の内容について実施する。

①教員のさらなる授業力の強化のための算数・数学の「重点指導事項集」の作成
・今回の全国調査の結果において課題が明らかとなった領域や単元を含めて、教員対象の「重点指導事項集」を作成する。算数・数学科を対象とし、基礎的・基本的な知識・技能のいっそうの定着に資する内容とする。

②より効果的な定着を目指す自主学習用教材の作成
・児童生徒が学習した授業内容を、授業時間外でより効果的に反復・定着できるよう、国語科、算数・数学科における自主学習用教材を開発する。朝の学習、放課後の学習、家庭での学習等での自主学習用教材として位置づけ、活用を図る。内容的には、基礎的・基本的な知識・技能の習得を主眼としつつ、可能な限り、思考力・判断力・表現力の育成につながるような要素も盛り込んでいく。

③児童生徒、保護者を対象とする「学習・生活の手引き」の作成
・家庭での生活習慣や学習習慣づくりのポイント、予習や復習に取り組む際の注意点、教科毎の学習の進め方、等について具体的に記載したものとする。リーフレット形式にし、全保護者に配付する。

④学力調査の結果等の分析より作成した改善計画等に基づく取組のうち、成果をあげている事例を収集し、最終報告書で普及を図る。

* 6 ******************* 
 2009年1月3日「教師は「庭師」のプライドを保てるか?」
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 「竹中式マトリクス勉強法」(幻冬舎)では、竹中平蔵自身が受けた批判が3つのパターンに分類されています。

 一つは、「コントラリアン型」批判。
 いつも反対のことを言うもの。
 改革を行えば拙速だ、と言い、改革しなければ「遅い」と言う。
 批判のための批判でしょう。
 
 こんなエピソードが紹介されています。
 小泉元首相が、総理在任中にある記者から「最高権力者になったと自覚するときはいつですか?」の質問に、「そうですね。あんまりないですが、強いて言えば、何をしても否定されることですかね」と答えたとのこと。

 二つ目は、「永遠の真理型」批判。
 これは「常識的」といわれる大人に多いもので、「長期的視点に立てば・・」「相手の立場になって考えろ」とか、「その通りです」と言わざるを得ないことを言うタイプ。
 「だから何?」と見られていることが、あまり自覚できていないので念仏のように同じことを繰り返すのです。

 三つ目は、「ラベルを貼る」型の批判。
 「決めつけ」の激しいタイプは、だれだれはこういう立場からしか見ていないとか言って、問答無用にしてしまう批判。

 そして、三つの型に共通しているのが、対案がなくて批判だけしているということ。
 
 教育改革を批判している人の中にも、このようなタイプが多い(特に二つ目が多い)のですが、マスコミ等に登場しているのは、庭師の仕事に注文をつけている植物学者の立場のような人ばかりです。

 というより、政策批判というのはだれにでもできることで、「市場主義原理の導入に反対」という批判は経済を知らなくてもできてしまうわけです。
  
 教師はとても厳しい立場におり、市場主義原理の導入に反対という側についてしまうということは、場合によっては自分たちの資質・能力に信頼性がないことを認めることになってしまう。
 大学にしろ公立学校にしろ、一度正教員になってしまえば、一生安泰(免許更新講習で職を失う人はいないでしょう・・・この制度のせいで職を失うことになったと批判する人はいるでしょうが・・・)

 だから教師の肩代わりとして元教師で大学に籍をおく人などが、教師のニーズを満たすために反対する。
 しかし、実は自分自身もその原理のもとでその立場にいるか、その場の立場が危うくなっている人間かもしれない。
 
 いただいたある年賀状に、「教師の能力に比例して学校全体も右肩下がりになっている」と書いている人がいました。

 教育改革への批判を私も全く理解していないわけではないですが、あえて言えば、まだ今まで行われてきたことはいずれも「改革」などというスケールの大きなものでは全くありません。
 財政支出の規模など金銭面のことを言っているわけではありません。
 
 総合的な学習の時間の導入などは、一部の研究校では何十年も前からやってきて、成果が上がっていました。
 
 学校選択自由化にしろ免許更新制にしろ、授業時数の増減にしろ、同じようなゴムが伸びたり縮んだりしているだけの改革であって、「本物の改革」はまだまだ先の話になりそうです。

 「本物の改革」とは何か。
 それは教師の意識改革に他なりません。
 教師の意識の何が問題であるかを、今後も問い続けていきたいと思います。
 教師が自身のプライドを保つ方法は一つしかありません。
 教師が変わり、子どもが変わることです。

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指導力のない教師の典型的な反応例

 dolceさんが分かりやすい例を出してくれました。

 ここでは,dolceさんが指導力がない教師であると言いたいわけではありません。

 指導力のない教師らしい反応をdolceさんがしてくれたので紹介するだけです。

>結果がどうであろうが「悪い」を決めておいて、あとからその悪いになんとかつじつまを合わせようと理由をつけるのである。

 あなたは,私を指導力のない教員だと決めつけている。

 そして,私が指導力の足りない部分をたくさん見つけて,つじつまを合わせようとしている。

 直接耳にした会話ですが,自分の力が足りないこと,学力向上の実践がないことは棚上げして,相手の「態度」を非難している。

>実際の授業はとても良い授業なのに、成績の悪い生徒が教師に反感を持っていて悪く言いたいのかも知れない。

 授業はちゃんとやっています。成績の悪い生徒が,私を恨んで,私に反感をもち,私の授業はひどいと言っている。

 こんな例も分かりやすいです。成績の悪い生徒に恨まれるような授業が「とても良い授業」であるはずがないのに,「自分の授業はよい」という「決めつけ」のもと,責任を「成績の悪い生徒」に転嫁しようとする。

 二つの例をとりましたが,指導力不足教員は,自己理解に欠け,「こういう実践でこういう効果が出せました」ということが,語れない。

 実践がないと話が「自分を守る」ためのものにしかならない

 批判に対して正対できる人は,実は指導力に欠ける面があっても,普通は「指導力不足教員」にはならないのです。改善のための努力に取り組んでくれますから。自分を知っている人は,強いのです。

 質問に答えない。これが,「自分を守る」ための最高の手段ですね。

 しかし,教師の重要な仕事術の一つに,「自分のことが直視できない子どもに自己を見つめさせること」にありますから,放っておくことはできません。

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若い教師に対して恥ずかしくない仕事術

 どんな教師が,若い教師を,どのように育てているのでしょうか。

 今の私があるのは,まずは,管理職のおかげという面が強いです。

 東京都にはかつて様々な研修のしくみがあったのですが,管理職は「これを受けろ」「ここに行け」と指示してくださいました。

 若いうちは,なかなか自発的に研修会に行く気になりません。

 それよりも部活動で子どもと格闘している方がいいに決まっているからです。

 もし管理職が声をかけてくれなかったら,今の私はいないでしょう。

 また,一つの研修でそれなりのはたらきをすると,あとはいろいろな教師が次のステップへの勉強会や研究会などに誘ってくれるようになります。

 それがなかったら,今の私はいないでしょう。

 そうこうしているうちに,指導主事試験を受けろと言われ,行政の世界に入り,3年たって最終的には東京都を去ったことだけが,私の決断でした。しかし,もとは今の学校に誘ってくれた人がいたわけで,その人がいなければ今の私はいなかったことになります。

 今の学校に移ったばかりのときも,私はまだ「若手」でした。

 ようやく今頃になって,自分は若い教師に対して恥ずかしくしていない仕事をしているか,という自問ができるようになりました。

 若い教師に対して恥ずかしくない仕事とは何か。

 それは,少なくとも「仕事術」などというものを教えず,授業づくりにどれだけこだわっているか,たった一つの教材選びにどれだけ神経を使っているか,発問一つをとってもよりよいものを探し出すのにどれだけ試行錯誤をしているか,を見てもらうことにあります。

 そして,効率よく,無難にすませようとする姿勢に対しては,徹底して批判を加えます。

 「それは,スタンスの違いでしょう」などという反発する気が起きないくらい,教育に情熱をかけている姿に共感させるような努力をするのです。

 小学校関係の教育書の中に,「いかにごまかすか」「いかに子どもの気をひくか」をテーマにしたものが散見されます。一人でいくつか同じタイプの本を書いている人がいます。

 こういうものを公にして,恥ずかしくない神経がどうして小学校という教育現場で身に付いてしまうのか。

 これがしっかり分析できない限り,教育の改革の本道を語っていくのは難しそうです。

 学校に「遊び場」という要素を求めることは決して悪いことではないのですが,「楽しい授業」の意味を取り違える人を増やすような本が多いことは,本当に残念でなりません。

 「気に入られようとする態度」が,いかに醜悪なものであるかを行動で語っていける仕事を示したいものです。

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若い教師の仕事術

 マニュアル人間が増えていることを助長しているのが,中途半端な経験をもった人間の「時間術」とか「仕事術」などのいかがわしい本です。

 「いいやり方があるよ」

 「時間をかけない方法だよ」

 「効果的な方法だよ」

 などという言葉につられてまねをするような人間に,本当に効果的な仕事ができるはずがありません。

 教育という仕事に効率とか簡略化とかいう概念をもってこようとする人間が,子どもをどう見ているか,容易に想像がつきます。

 「カンタンにうまくいく教え方」

 などの甘い言葉につられる人間は,そうやって子どもを育てていくのがよいと考えているのでしょうか?

 若いときしかできない,独身のときしかできない「時間のかけ方」があり,実際に本を書いている人間はそういう無駄な時間を過ごしたからこそ,自分で実践できるようになったことがあることも知っているはずです。

 とにかく若いうちは,ありとあらゆる方法を自分で考えて,試行錯誤することです。

 子どもの反応なり動きなりを,しっかり見つめることです。

 毎日の活動の中で,教師として「やりたいこと」がどんどん出てこないのであれば,それは教師には向いていないということです。

 知識が足りないことに気づいたのなら,ひらすら調べることです。

 そういう手間を省くような本を出す神経が,「教育者らしくない」ことになぜ気づかないのでしょうか?

 「どうしたらうまく授業ができるかわからないと相談された先生に,いい方法を教えられなかったのは残念だ」なんて,そもそも「学ぶ」ことの意味がわかっていない人間のせりふです。

 すぐ答えを知りたいと思う子どもとか,いい方法を人から聞いてまねしたいと思う子どもが増えているのは,そういうタイプの教師と,そういうタイプの教師を応援する教師がいるのが最大の原因でしょう。

 小学校の教師にその傾向が顕著です。

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行政が荷担している教師の安易な仕事術

 ある市の教育委員会が主催している研修会で講義をしたとき,最後のまとめのコメントで指導主事が

 「すぐに学校に持ち帰って活用できることをたくさん示していただきました

 のような内容を連呼していたのに,私は強い違和感・・・というより嫌悪感を抱きました。

 教育は,果実を積んで味わえば力がつくものではなく,土づくりから励まないと成果が出ないものなのです。

 私も指導主事経験がありますから,行政が「即効性のある研修を実施してほしい」という教師たちからの要望に応えるかたちで・・・・教育委員会も教員から評価されている・・・・・研修を企画しているのだなあ,ということがよくわかったのですが,「すぐに役立つ知恵」を求める発想が,いかに「教育者としての望ましい資質」を台無しにしていくものかを理解していただきたいのです。

 力がつく教師,伸びる教師と,そうでない教師の違いは,こういうことです。

 今日の研修を受けて,~という課題に自ら取り組もうと決心した。

 今日の研修を受けて,~を授業で使おうと思った。

 この二つの反応は,天と地とほどの違いがあるのです。

 研究する=学ぶ意欲を高める研修が重要なのに,そういう教師が少ないから,研修の効果が上がったことにしたい場合は,どうしても自分の頭では考えないで人のモノマネをしようとする教師が満足することで高い評価をもらおうとしてしまう。

 悪循環です。

 研修の評価は,この研修を受けて,自分にはどんな課題があり,また,どんな課題を設けてこれから研修に励もうと思ったか,それを聞かなければいけないのです。

 子どもに対する教育と,全く同じなのです。

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内閣府の不気味な仕事術 ~GKB47~

 GKB47。

 何のこと?

 GKとは,ゲート・キーパー=悩んでいる人を見守って自殺を思いとどまらせる医師らのこと。

 Bとは,ベイシック=その役割を幅広く国民各層に担ってほしいとの願いを込めた言葉だということ。

 47=都道府県の数。

 内閣府自殺対策推進室が考え出したキャッチフレーズだそうです。

 異論が出されているそうですが,批判する意欲もわかないようなネーミングですね。

 ただ,これだけ馬鹿らしいキャッチフレーズで自殺防止を訴えようとすることが,逆に効果的かも,などと思ってしまいます。

 教育現場の話をちょっとしますと,もう異次元のわけのわからなさを発揮する教員は,「指導力不足」から除外されていくのです。けっこう,子どもも言うことに従ってしまう。

 刃向かうと「何をしでかすかわからない」という恐怖が,子どもに「ちゃんと話を聞いているふり」をさせて,外部からは教育が成立していないことに気づかれない場合があるのです。

 それに類する何とも異様な気分を味わわされました。

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犬山市は政治や学者のおもちゃになっているのですか?

 やまちゃんさんは,犬山市にお住まいの方でしょうか。
 
 コメントありがとうございました。

 ある日を境に,私のブログで犬山関係の記事へのアクセスが急増しました。

 何か理由があるのでしょうか?

 さて,適当に改行を入れて,ここでご紹介させていただきます。

**************************

 犬山が学テつくれば犬山成績いいのではなんておかしなこと。・・・・1

 ここまでわかるようにしておくというラインは市ごとに変わってはおかしい。・・・・2

 一番の問題は犬山の教育が犬山市民や保護者の声を反映させていないということ。・・・・3

 市民でもない校長 無名な左派教授が授業おかしくし 子供につく力もついていない。・・・・4

 いくら威張りはっても市外で通用しない教育では気の毒なんは子供保護者。・・・・5

 政治家が票集めのためにめちゃくちゃにしたいい例。・・・・6

 ある中学で子供が授業して教師がチョーク握らず教育実習教官のようでつく学力もつかない。・・・・7

 子供は自分の研究の道具でもモルモットでもないはず。・・・・8

 印税を市民に還元してはどうか。・・・・9

 どうせ呼ぶならもっと実績ある有名な教授にしないと。・・・・10

 他の悪口言ったり書いたりしているだけで市民に何もメリットなし。

****************************

1 犬山市に限らず,どこでも独自の学力調査を実施するのはかわまない,というのが私の見解です。

  なぜなら,その問題によって,「どのような学力を調査したいか」が手に取るように分かるからです。

  問題作成を市の教員にやってもらうのなら,なお賛成です。

  問題作成能力は,教員の指導力と密接な関係があります。

  いい問題がつくれる教員は,必ずいい授業をしています。

2 そうですね。だから,市の調査だけでなく,全国調査にも参加することで,効果が倍増するのです。

3 すべての人に納得のいく教育をするのは難しいですが,少なくとも文部科学省の学習指導要領にのっとった教育が実現できているのかどうかをチェックする機能はほしいですね。それができた上で,犬山市の教育の特徴を出すのがいい方策でしょう。基礎・基本を身に付けさせてほしい,という願いが実現されているかどうかのチェック機能は大事だと思われます。

4 そういう方に,自分たちが求めている力が身に付いているかどうかの検証をしてほしいのですが,そういう人が訴えている力は,測定不可能な力であることが多いのです。だから,検証は不可能なのですね。
 批判される材料がない立場ほど安全な場所はありません。

5 気になるのは,今,全国でランキングをつけていますが,そもそも1位の県ですら,点数が高くないことです。こういうことを言っている人はあまりいないでしょうけど。

6 橋下知事が批判されているのと逆の立場でも同じ意味で,批判の対象になり得る,ということですね。

7 実際に教育現場に足を運べば,教師の指導力は手に取るようにわかるはずです。

8 独自の教育実践を行うときには,事前によく説明しておくことが大事ですね。でも,実際には,人がやって成功した,なんて実践を真似して,結局,失敗する授業はよくあります。

 こういう教師には,果実をとってくるのでなく,土を持って帰ってほしい,というアドバイスを送りたいです。文科省にも,こういうことが言える人はいます。

9 小学校教師はひまなので,原稿執筆で小遣い稼ぎをしている人がいますね。こういう人には,「もっともっと自分の教室の子どもを教育して下さい」という声を集めてあげてほしいです。でも,勤務時間でさよならされるのは,公務員ですからやむをえませんね。サービス業の魅力が際立つ例です。

10 有名な教授というのが,なぜ有名なのか。そこが大事なところですね。教育関係の教授で,議論に耐えうる人が,いるのか。テレビの討論番組でも,かならずやり込められる立場にならざるを得ないのがこういう人たちです。

 学力の話をしているのに,心の問題などにすりかえていく,ひどいのになると「家庭の問題」だと言い出す。

 これから,経済の面でも坂道を転がり落ちるように悪化していくようなことになれば,真っ先に槍玉にあがるのは教育でしょう。

 相手が公務員だと,自分自身は安泰なので切実感がない。そこでいらいらするのが市民の立場ですね。

 先日のニュースでは,企業の中には,積極的に留学生をターゲットとした雇用に乗り出そうとしているようです。

 スーパーマーケットも海外進出の時代ですからね。

 日本の大学生が,「余り始めている」。

 日本の子どもの将来,危うしです。

 子どもに批判的な精神をしっかりもってもらうために,まず親や地域がしっかりとした根拠をもって今の学校教育の課題を批判する姿勢を見せるべきでしょう。

 「モンスター」などと呼ばれることを恐れずに。

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「教育に情熱をかける教師のために」のdolceさんへの公開質問状

 学力を向上させたいと願う教師がどこにもいます。

 自分自身もそれを願っているし,子どもも「努力はしたくないけど,~はできるようになりたい」と思っているし,保護者からはきつい催促が待っている。

 その「学力」のとらえ方は,子どもや保護者の場合は「基礎的・基本的な知識・技能の習得」に関する面に偏っているかもしれませんが,教師の側は,それを活用させ,思考力・判断力・表現力を高める力もつけようと思っている。

 そういう教師に対して,今年1月からの「学力はどう定義すべきか」~「問題解決能力の検証」という記事は何かに役立つと思われますか?

 そもそもが,「やりたいことをやりに来ている子どもたち」を対象とした部活動の実践を紹介することが,その答えになり得るとは考えにくくはありませんか?

 問題解決能力については,記事の中で,何も検証されていないので,本題は(4)から始まるのですよね?

 dolceさんは,「受容主義では教師の行動がモデルになる」と言われますが,「AということはBではありませんか?」という質問をする人に対して,「私がBであると捏造している人間がいる」なんていう対応をとるような人間は決して受容主義ではないし,教師になってはいけない人間のタイプだと思われませんか?

 下のやりとりを読めば,「受容的態度」がとれない人とはどのような人のことなのか,よく分かると思います。

 dolceさん式の「捏造」という「決めつけ」方が,どのように行われているかについては,この記事の最後の方をお読み下さればよくわかります。どのような「悪意」をもって「捏造」という言葉を使うのかもよくわかります。

*******************

>私は自分の実践を脚色などしないで正直に書く。
>これがベストだとは思っていないし、こういうやり方がいいとも思っていない。
>だから、大いに批判は受け入れるし、また、批判に耐えてこそ本物に近づくと思っている。
>ただ、批判はいいのだが、恐らく私の実践に対して悪いイメージを他人に植え付けようとの意図だど思うのだが、私が「かくかくしかじかと言っている」と言ってもいないことを捏造をする人がいる。
>こういう場合「どこに、そういう文面がありますか?」と質問しても返事があった試しがない。捏造なのであたりまえの話だが。

*******************

 今は,批判の題材となる「実践に役立つことがら」は何もないのが現状です。

 私の記事を引用して,回答を寄せてくれましたが,その回答へのお返事は読まれましたか?

 あなたは「AはBだということではないですか?」という質問に対しては,

 『私がAはBだと言っている』とお前は捏造した,という反応のされ方をしていますが,

 これを捏造だと言ったら,世の中のすべての「意見」や「感想」はみんな「捏造」になってしまいますよ。

 改めて,お聞きしますが,dolceさんは,現行の学習指導要領に移行したときは,まだ現場の教師であったはずです。そこでは,「総合的な学習の時間」の指導を行っていたはずです。

 その指導で,「どのような学力観をもとに実践されていたのですか」というのが私の質問でした。

 まだ,お答えをいただいておりません。

 dolceさんの回答パターンを分析して,これが「受容主義」を理想とする人間かどうか,また,どのような実践を語ることができるのかどうかを,判断していただきましょう。

 一応,私の考えもここで書き加えておきます。太字がdolceさんの回答でした。

***********************

 [※1]学力については色々な人が、色々な解釈をしているからそれらの人の「学力の意味」は一致しない。「学力を勝手にイメージしている」からは抜け出せていないのではなく、現状がそうであるということです。つまり正しい認識をしているということです。

 これは,自分自身が書いた言葉を,私の言葉と誤解して,説明を加えた部分。

 dolceさんにとっては,「基礎的・基本的な知識・技能の習得」すら「勝手なイメージ」であって,その大切さを私が(私だけでなく,普通の人はみんな重要視していると思われますが)訴えると,「これを実現すれば学力というものが高まるのですか」とか,「学力の要素を全部挙げるとどういうことになりますか」という反応をされる。これは,事実ですね。捏造ではありません。

 なぜ,「基礎的・基本的な知識・技能の習得」の大切さを認めようとしないか。それは,推測ですが,今の日本のテストは,「基礎的・基本的な知識」ばかりに重点がおかれている。こういうテストは悪い。という認識をお持ちである。しかし,そういうテストが悪いからと言って,基礎的・基本的な知識の習得が悪いことではないはずです。
 これも推測ですが,dolceさんは,「基礎的・基本的な知識」しか出されないテストを想定している。つまり,文科省の学力調査の問題を知らない。知らないで批判している。これは推測ですが。

[※2]ということは、あなたは「基礎的・基本的な知識・技能」を習得させるということは学力を高めることだと捉えているわけです。しかし、そう捉えてはいない人もいるのですから、それはあなたのイメージということです。
つまり、他の人の考えとは一致していないから、学力については色々な解釈(勝手なイメージ)が存在するということです。

 もし,教師の中に,「基礎的・基本的な知識・技能」を習得させるということは学力を高めることだと捉えてはいない人がいたら,学校教育法を無視した人間ということになってしまいますね。こういうことだから,教師が信用されなくなるのだろう,というのが,私の推測です。

[※3]「基礎的・基本的な知識・技能」は学力のすべてではないと言っておいて、しかし,学力の一部であることは確かです。と言っているということは、あなたは学力の全体像を知っているということになります。だったら、学力とは何か、全体像を説明していただけませんか?
それから「基礎的・基本的な知識・技能」が学力の一部であることは確かですとは、どうしてそう断言できるのですか?
さらに、そのためには「基礎的・基本的な知識・技能」とは何かを明らかにする必要があります。

 学校教育法の内容をdolceさんはご存じなかったようです。推測ですが。学習指導要領も,もしかしたら音楽すら読んでいなかったのかもしれませんね。推測ですが。

[※4]タイヤは自動車の一部です。あなたは、ディーラーがタイヤを説明しただけで、自動車の全体にはこだわりませんか?

 私は車を買うとき,タイヤの説明を聞く人はそんなに多くないと思いますが。だから,これはたとえが悪い。まずは,「タイヤがついているのは大前提だ」というのが普通の人の認識でしょう。「基礎的・基本的な知識・技能」とは,学力を自動車にたとえると,知識がエンジンで,技能がハンドルとそれに連動して動くタイヤでしょうか。意欲はガソリンかな。教師の指導や教材といってもいい。ハイオクで動く自動車=子どももいれば,間違って水を入れられて故障してしまう自動車もある。こういうのを「たとえ」というのです。でも,自動車を学力にたとえること自体が,おかしいとも言える。自動車には運転手が必要です。これが,「思考力・判断力」の部分かな。ぶつかるのを防止する機能がある自動車はあっても,行きたいところに勝手に連れて行ってくれる自動車はない。
 
[※5]音楽の指導において、「基礎的・基本的な知識・技能」を高める指導をした方が、音楽への取り組みが主体的になったことを経験していますが。具体的には、音階練習、楽典、運指などの練習です。

 私が言いたかったのは,知識だけ詰め込むような授業をしたら,意欲が失われる可能性があるということだけ。dolceさんは,どうも質問の意図を読むこともできないようです。しかも,ここでは,「基礎的・基本的な知識・技能」の大切さを披露してくれました。

[※6]言語活動の充実って具体的にどういうことをするのですか?
毎日の生活で、必然的に言語活動は行われているのではないですか?

 中教審の答申やそれを受けて改訂された学習指導要領の解説にしっかりと書いてあります。

[※7]「学力」という用語の実体がはっきりしていないので、人によって捉え方、イメージは様々です。だから、それぞれ勝手にイメージしていることになると思いますが。決めつけるという言い方はおかしいですね。実態を言っているだけです。
自動車メーカーは、それぞれ特有な車を作っています。それぞれが作りたい車を勝手に作っているのではないですか?こういうのを「決めつけている」と言いますか?勝手に作るのは自由です。私はいけないなんて言っていません。それに、それぞれの人が自由に何かをイメージすることを束縛する人、束縛できる人なんているのでしょうか?

 公務員は,法律に従って仕事をする義務があるんですよ。 

[※8]こういうのを「決めつけ」と言うんじゃないでしょうか?

 私が,dolceさん自身は学力のイメージはほとんど語ることなく・・・と書いたのに対して,「決めつけ」と返したのですが,一連の記事を読めば分かるように,この段階では,人に「全体を語れ」と要求しているだけで,「私はこれが学力だと考えている,これに何か付け足すことはあるか」という論じ方はしないのというのは事実でしょう。
 dolceさんが書いていたのは,「学力の捉え方の問題」であって,自分自身の「学力のイメージ」に関する記述があったとしたら,教えていただきたいものです。
 
[※9]ここで言う安全な場所とはどこなのか、攻撃しているとは、どの部分なのか教えて下さい。

 安全な場所とは,「学力とは何か」を語らない,つまり,批判される題材を語っていない段階のことで,攻撃とは,ここに紹介しているような,わけのわからない質問をすることです。私なりの表現です。

[※10]その客観的事実を教えて下さい。

 信頼されない教師の典型的な姿・・・・このやりとりをdolceさん=教師,私=保護者,あるいは教育委員会の人間,という図式で読んでもらえるだけで,十分でしょう。私の推測ですが。

[※11]指導要録の記入については、決められた様式に従って記入しただけで、学力を意識して記入した覚えはありません。指導要録が、その人間を表す完全なものとも思っていません。

 これも,信頼されない教師の典型的な姿です。「決められた様式」の中に,個に応じた「学力を意識して記入」する内容があるのに,それをしていなかったという事実を本人が認めたのですからね。

[※12]いろいろな例がありますが、大学入試で数学の試験を行わない学校もあります。こういう大学は入試において、数学について測定していないのだから、数学については無視したのではないですか?
健康診断で、血圧しか測らないのであれば、心電図や血液検査は無視したことになりませんか?
測らないということは、その項目を無視したことになりませんか?

 全部を測定しないと満足できないなんて,そういう発想の人は,子どもをどのような目でみるのでしょうか?

[※13]学習指導要領に示された内容を習得させることが大切だ,と思っているということと「学力とは何か」は関係ないことです。私の意見をすり替えないでください。

 このように逃げるのが,信頼されない教師の典型的な姿なのです。

 こういう姿勢でいる教師にとっては,「あなたは学力を身に付けさせていない」という批判から逃げることができるのです。だから,dolceさんのような人間には,「あなたは学習指導要領に示された内容を習得させていない」という攻め方をしなければいけない。これはたとえ話ですよ。 

[※14]できます。それがどうかしましたか?
[※15]私は「賛成できないなどと言っていません」けど、人の意見を勝手に捏造しないでください。

 ここで,「捏造」という「決めつけ」が行われたので,くわしく見ていきますね。

 私は,次のように書きました。

>そもそも,学習指導要領が改訂されるときに,学校で「学力とは何か」を議論した経験はないのですか?
>dolceさんは,「豊かな人間性」を定義することができますか?[※14]
>定義できないものだから,その人間性の一面を向上させようとする取組に賛成できない,という姿勢になるのですか?[※15]

 dolceさんが,「学力の全体像,学力の定義がわかっていないのだから,学力のイメージは勝手なものだ」という論理でくるものだから,私が「豊かな人間性は定義できますか」と聞いたのです。

 それに対してどういうわけか,「できます」と答えてきた。これは無視しておきましょう。

 大事なのは,豊かな人間性とは何かが定義できないからといって,その人間性の一面を向上させようとする取組に賛成できない,なんていうことはありませんよね,という意味で,「そういう姿勢になるのですか」と問うているのです

 dolceさんが,「基礎的・基本的な知識・技能の習得」の大切さをなかなか認めないので,そういう質問をしたのです。しかし,その大切さを認めざるを得ないことを,告白してくれた,というだけの話なのですね。

 こういう話を,「人の意図がくみとれない」dolceさんは,「捏造」だと「決めつけ」をする。

 だから私は,

>「誤り」に気づいていただくためには[※16],すべてクリアにしてもらいたいと

 思っているのです。それなのに,

[※16]この言い方は、あなたの言い分が正しいとの前提に立つということです。ということは、あなたの言い分が正しいとの根拠が必要です。でなければ、頭から自分の言い分は正しいという固定概念からものを言うということになります。
「誤りに気づいてもらうために」と言っていますが、私には、どこが誤りなのかわからないので、気づきようがありません。私が「1+1=2」と言っているのに、あなたは「1+1=3」だということに、私が気づいていないと言っているようなものです。

 人の主張を聞くとき,相手が「頭から自分の言い分は正しいという固定概念からもの言う」という,固定観念を持っているのがdolceさんであるということが分かっていただけたでしょうか。

 自分の誤りに気づけない,そういう「仕組み」があることには気づいているのです。

 ですから,相手が「頭から自分の言い分は正しいという固定概念からもの言う」という,固定観念を捨てさえすれば,誤りに気づくはずなのですが・・・。

 そして,「受容的態度の大切さ」を訴えたいのであれば,まずはご自分がそれを示されないと・・・・。

************

 【仕事術に関する追記】

 dolceさんのような人間に誤りを認めさせるのは,至難な技です。

 こういう話を書いても,誤りを認めない人が,教員には多いのです。

 教育現場で一番たいへんなのは,「教員」であることが分かっていただけたでしょうか。

 教育委員会で仕事をしていましたが,どんな苦労があるか,ご理解いただけたら幸いです。

 「文部科学省のポチ」のような揶揄を平気でしてくる。

 指導力不足の教員というのも,頭は決して悪くないのです。しかし,その使い方が非常にやっかいです。

 なかなか,「世間」の中で仕事をしてもらうまでもっていくのは,困難なことです。

 
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NHKスペシャルの仕事術 リーダーシップ論

 日本型「カイシャ」の代表格のようなNHKですが,系列のカイシャの人とお話して,「どうしてここまで融通が利かないのか」・・・・たとえば,「日曜日にアーカイブズが閲覧できない」=仕事をしたくてもできる環境がないとか・・・・などと不満に思ってしまうのですが,久しぶりに,かじりついてみてしまった番組がありました。

 NHKスペシャル シリーズ「日本新生」の「生み出せ!“危機の時代”のリーダー」です。

 これだけの出演者が集められる仕事は,やはりNHKしかないのかもしれません。

 事前に取材されており,番組にも出演した現役の官僚,被災地で活躍している経営者や支援団体の方,私も読んだことがある,さまざまな著作での有名人・・・まず出演者だけで「観てみたいな」という気持ちになりました。

 民放の場合はMC帝国主義で,出演者はお笑い芸人(NHK高校講座にも進出されていますけど・・・)が欠かせなくなってしまっていますが,NHKには,少なくともMC帝国主義はいない(帝国主義的MCは民放に引き抜かれるという面もありますけど)。

 討論番組の場合は,「いろいろ言いたいことがある」出演者のコメントをどれだけ短く,的を射たものにしてもらうかが進行役の仕事術ですが,それもうまくいっていました。何人かの出演者によるプレゼンも,適切な長さで印象に残りました。

 社会科の授業をしている者の立場から言うと,なかなか魅力的な進め方に見えました。

 「どうなったらこの番組が成功と言えるのか」などを出演者が語るあたりはやりすぎかという感じもしましたが。

 ディレクターがもっていたリーダー観というか,「おとしどころ」は最初から見えていたので,どうやってそのゴールに導いていくのかが最大の関心事でありました。

 今回は,実際のさまざまなタイプのリーダーがおり,さまざまなタイプのリーダーを知っている人がおり,そして従ってきた人,組織を去らざるを得なかった人・・・・いろいろな立場の人がいたことが,成功の秘訣だったようです。

 「違いを認める」というより「違うことが大事なことだ」というメッセージを発する授業をしているかどうか。

 それが教師に問われていることであるようです。

 みんなを同じ思想,同じ考え方,同じ理想に近づけようとする時代は,強力なリーダーというのが必要だったし,求められていた。しかし,今は,そういう時代ではない・・・だから,どうする,という問いに,答えていくのが学校現場の使命でありましょう。

 だから,「特定の好み」のもと,「同じ目標に向かって」活動する生徒を集めた部活動の実践の紹介だけでは,懐古主義の人を満足させるだけであり,「それだけで生き抜ける時代ではない」ことに気づかなければならないのです。

*********

 蛇足ですが,この途中で流されていたNHKニュースの一部「差し替え」にも興味をもちました。

 7時くらいのニュースでしたか,「留学生を採用したい企業の説明会」の場面が放映されました。

 そこで,伊藤園だったか,飲料メーカーのブースでインタビューに答えていた中国人留学生が,「これは中国でも絶対に売れる」と答えていた場面がありました。

 それが,8時45分のニュースでは,その部分が差し替えられていたのです。

 伊藤園のお茶の宣伝になってしまうからか,どこかのクレームか,自主規制か,どういう判断で差し替えられたのか,興味がつきないところです。

 NHKって,こういう質問には答えてくれる組織なのでしょうかね?

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子どもをひきつける仕事術

 ネーミング大賞を決める制度がある学級はあるでしょうか。

 私の学校では,学級開きの後,いきなり学級目標を決めたりすることはせず,子どもたちがお互いのこと,担任のことなどをある程度よくわかった上で,その個性なり特徴なりを活かしたり伸ばしたりすることをねらった「学級のネーミング」を考え,その上で「学級目標」をつくっていくことにしています。

 お互いにどういう人間かが分からないのに学級目標をつくってしまう学校は,おそらく何のおもしろみもない,だれも覚えていないかも知れない,また,「いじめをしない」など,当たり前すぎてどうしようもないものか,担任教師の思い入れがそのまま反映されてしまったようなものになってしまうでしょう。

 前回の記事の続きです。

5 レトリックを使う

 この手法は,「コピー・ネーミング発想7の手法」で紹介されたものと同じです。

 直喩,隠喩,提喩,異形,矛盾,誇張,時間転移。

 どのような教材,どのような指導場面,どのような子どもに接するときにも,レトリックでとらえようと努力します。
 
 ときによっては分かりやすく,ときには強い印象を与えるだけを目的にし,ときには課題意識を高めるためにレトリックを使います。

 インパクト重視の教師は,「誇張」「異形」で勝負するでしょう。

 渋好みの教師は,隠喩を使い,一部だけの生徒が気づいたことをながめて秘かに喜んだりするのでしょう。

 でも,子どもにとって分かりやすく,最も一般的なレトリックはやはり「直喩」です。

 AさんはBさんと親しくなりたいために,Bさんと親しいCさんとも親しくなるよう努力することがある。あるいは,本当はCさんのことは好きではないのに,BさんといっしょにいたいのでCさんとも付き合っているということがある。ここでのAさん,Bさん,Cさんというのは,A,B,Cの国の関係と同じだね。

 など。

6 相手の意見を引用する

 教師が話す言葉は,どうしても何でも分かったような,「大人(側)の言葉」になりがちです。ですから,本当の意味で子どもたちを納得させることが難しい場面に出くわします。

 そこで使うのが,最も大事な場面で,「何何さんが言ってくれたように,~だ」のように生徒の言葉を引用してしめくくる方法です。

 私がブログで相手を批判する記事の場合は,本人の矛盾を指摘するために相手の意見を引用するという,ちょっと意地悪な手法をとっていまうが・・・。矛盾に気づかない人には効果がないようですね。生徒指導の場合は,こういうのも効果的な場合もあります。

7 強く同意する

 教師の中には,子どもに受け入れてほしいと思って,すべてを同意してしまう人がいます。重要な問題も子どもに話し合わせて,そのままやらせてしまう。これはまずい。

 全部を同意してはいけません。

 しかし,ポイントになる部分だけは,ものすごく強く同意するのです。ここは大事だ,と。

 先生方からは反発が避けられないが,そういう困難さもわかっていながら決めたことは重要だ。たとえうまくこの要望が通らなくても,根気強く行動していくことが大事だ。自分たちが責任ある行動をとれることを,毎日の生活の中で示していけば,必ず希望は通る・・・・のように。たいてい,「責任ある行動」は長続きしないので無理な要求は通らないのが普通で助かったりもしますが・・・・。

8 類似の法則

 共通点を探すこと。「名前に使われている同じ文字」,「趣味」や「住所」,「いなか」などなど。私の場合,社会の教師なので,「旅行で行った(ことがある)場所」などで,子どもとの距離が一気に縮まります。

 より高次になってくると,ものの考え方の傾向・・・安全志向か,チャレンジ志向(リスク志向)か,ポジティブかネガティブかなども話題になり,これは「同じタイプの人を一緒にする」というのが目的ではなくて,異なるタイプの人を組み合わせてよりよい集団にすることをねらいとします。

 子どもをひきつけるコツは,こういうことが習慣になる仕事術を体得していくことです。

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できて当たり前の仕事術

 『成功思考公式』の「プレゼンテーション攻略8の手法」で紹介されているものは,教育現場の場合,「できて当たり前の仕事術」に属しています。

1 好意の返報性

 子どもに好意をもっていれば,自然に対応がやさしく,やわらかなものになり,信頼関係が築きやすくなります。ところが,いわゆる「荒れた学校」に転勤してきたばかりの教師が,教室から抜け出しをしたり,授業中に音楽を聴いたりするのが当たり前になっていたりする生徒を「好意」の目で見るのは困難です。

 ですから,教師の場合,ここは「悪意の正当性」で勝負するしかありません。

 気をつけなければならないのは,行為に対する「悪意」であって,子どもに対する「悪意」ではないということです。また,「悪意」は,「こんな状態を今まで放置してきた教師たちの無為」に向けるべきものです。

 こうした「正当な悪意」は,今まで迷惑をしてきた子どもたちからは「好意」ととられ,そこから得られる返報性が学校を建て直すのに不可欠なのです。

2 相手の名前を呼ぶ

 学級開きのとき,事前にすべての子どもの名前と顔を一致させて教室に向かうのは当たり前のことです。

 その場で,「声」と「体格」,「しぐさ」などの特徴もインプットしていきます。
 ここの話題とは離れますが,学級開きで一人一人の子どもの人間性を見るための一番いい方法は,自己紹介をしている他の生徒を見る目や反応のあり方を知ることです。ですから全身の神経を「子どもたちの目や表情の動き」に集中させる1時間となります。

 授業中,ときおり生徒の名前を呼んで発言させたり,同意を求めたり,作業をさせたりすることで,集中力は高まりやすくなります。まとめの場面でも,「今日の学習のまとめを30秒で話す人」を決めておけば,最後は生徒が主役になって授業をしめくくることができるようになります。

3 キーワードを繰り返す

 大事なポイントを繰り返し述べる教師がいますが,私はこれにはあまり賛成できません。

 集中力がない生徒を育てる可能性があるからです。

 ただ,議論が拡散しそうなときは,「どの角度からの検討か」「何の観点についての賛成・反対か」を明確にする上で,キーワードを連呼する場合はあります。

 また,自治が大事,自主・自立,自分の頭で考える,などの言葉は,いろいろな場面で散りばめていきます。

 ストレートにそのことを話している場面だけでなく,何気なく配置して,意識の底に定着させていくことがねらいです。サブリミナル効果ですね。

4 具体化する

 言うまでもないことですが,具体化の方法もさまざまです。

 挨拶をしよう,というかけ声ばかりが飛び交う学校がありますが,具体的は指示ではあっても,本質を理解しないことには何も始まりません。

 本質にせまっていくための具体化であることを忘れてはいけません。

 歴史的な人物の具体的な姿とは何か。

 場合によっては,あることをした年齢に,大きな意味があったり,何人家族であったか,どんな趣味をもっていたか,だれの本を読んでいたか,どんな失敗をおかしていたか,・・・などが重要であったりもします。

 本質にせまれる具体的な状況で理解させることができるかどうかが,教師の力量なのです。

*5~8は次回。

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教師の仕事術

 経営のカテゴリーの「仕事術」にも参加させていただくことにしました。

 教師の「仕事術」なんていうと胡散臭いですが,仕事=教育に向かう姿勢が教師には問われているわけであり,たんなるテクニックではなくて,教育への思い,指導の理念も織り込んだかたちでの「仕事術」を追究していきたいと考えております。

 教師にとっての仕事術とは,教育や指導の技術の面であったり,芸術性であったり,時には忍術=忍耐術?であったり,戦術であったりするものです。

 大事なのは,どんな技術,ではなくて,何のための技術,なぜその仕事術が必要なのか,それを考えることなのだと考えています。

 問題解決学習とは何か,ではなくて,問題解決学習(のような学習)が,なぜ求められているのか,そういう面に目を向けていかない限り,意味はないでしょう。

 基礎・基本を学んでいる場面でも,問題はいくらでも生じうるし,そういう問題に気づいてこそ,そしてそれを解決するための努力を積み重ねるからこそ,基礎・基本は身に付いていくのです。

 学力とは何か,ということばかりに目が行って,先に進めないような人間が,教育現場にもたくさんいませんか。
 
 「何か」から「なぜか」に問いを持って行けない人が常にぶつかるのが,「行き止まり」という壁です。

****************

 さんざん悪態をついていたdolceさんが,逃げ道を失って最後にたどりついたのが「受容的態度の大切さ」って何だか泣けてきますね・・・。

 教育を何とかしたいという気持ちは分からないでもないのですが,やはり授業実践がない,というのが致命的な欠陥です。

 ヨーロッパの音楽家の作品を,「楽譜が読めない人間にもすぐに演奏させることができる」などと言ってくれればまだ読む気にもなりますが,「記憶を問うテストでは不十分」一辺倒では,何の説得力もありません。

 テストはどんな内容か,というところにすら目がいかないようなので,なぜテストをするのか,という問いなど追究することは不可能でしょう。

 そもそも,テストには特定の正解があって当たり前,という発想しかない人に,「学力調査」の意味は理解できないでしょう。

 コンピュータばかりをいじっている人の頭には,「伴奏はコンピュータがやるから,人間は必要ありません」と言えて当たり前の思考回路があるのです。

 なぜ,人間が伴奏するのか,そういう質問はしてはいけないのでしょう。

 こういう人には,「演奏もコンピュータでいいんじゃないですか」という質問は,もちろん厳禁です。

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5分で読める23分間の奇跡

 これから教師を志す人には,ジェームズ・クラベルの「23分間の奇跡」(青島幸男訳,集英社文庫)を読んでもらいたいと思います。

 あとがきの紹介文を引用します。

******

 物語は午前九時に始まり,九時二十三分に終わる。一つの国が破れ,占領され,教室に新しい教師がやってくる。そのクラスでの二十三分間のできごとがこれである。
 その状況設定からいえば,アルフォンス・ドーデの名短編《最後の授業》の続編に当たり,いわば《最初の授業》ともいうべき作品である。
 クラベルは,ここで古い教師のマンネリズムを摘発すると同時に,子どもたちの集団心理というものが,教職に当たるものの手によって,いかに簡単に誘導されてしまうかというサンプルを提示し,教育問題を改めて考えさせるよう,問題を提起している。

******

 amazonのレビューには,「洗脳の恐ろしさ」という言葉がおどっています。

 しかし,今までの価値観を子どもがどのようにくつがえしていくのか,その道筋の正しさも示してくれてはいます。

 私はこの物語を読んだとき,何も「国家」レベルではなく,「教師」レベルでも十分に考えられることだと思いました。

 たとえば,部活動の指導です。

 指導者が変わることで,突然,強くなっていく部活がありますね。

 反対に,今までの勢いは何だったんだ,という事態に陥ることもあります。

 ある中学校では,たった一人の指導者のときだけ,賞をのがした,ということがありました。

 おそらくその教師は今もそのことで悩んでいることでしょう。

 この本を読めば,

 教師というもの,指導者というものの影響力の大きさに,愕然とさせられるかもしれません。

 ただ,そこで感じ取ってほしいのはやはり「使命感」です。

 子どもが魅力を感じる教師の本質を見取ってほしいと思います。

 「わかくてきれいな女の先生」

 「新しいふくをきちんと着ている」

 「でも,それよりすごいのは,この先生がにっこりとほほえんだことだ」

 「話すのを聞いていると,言葉になまりがない」

 「香水の,いいにおいがした。さっぱりした,いいにおいだ」

 先生は,すべての子どもの名前を覚えていた(座席の位置で)。

 「天使のようにやさしく,ゆかの上にすわって,サンドラをだいたままうたいはじめた」

 「新しい先生のかおがかがやいていた」

 ・・・・この先の十数分の中から,本質を探し当ててほしいと思います。

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教師自身が持っていたいアナロジー思考

 私がある実践を目にしたときに,一見,成功に見えるものでも「これでは生徒は育たないな」と思ったり,一見,失敗に見える実践でも「これなら生徒は力を伸ばせるな」と直感したりすることがありますが,これが「アナロジー思考」によるものだということは,本(細谷功著『アナロジー思考』東洋経済新報社)を読んで知ったことです。

 個別事象の具体的な理解でよしとするタイプの人が,受験ばかりを意識した生徒にはもてはやされる。

 一方,簡単には結論のでない,おおざっぱな問いを発してやりとりをし,結局何が正解だったのかわからないような授業に不満をもつ生徒が多い。

 前者の方は,「これはこれ,あれはあれ」という知識や発想になり,発展性がない。

 後者の方は,関係性を探っていく思考回路が知らず知らずのうちに身に付いていく。

 ありとあらゆることを関連づけて考える習慣が身に付いていれば,ものごとの本質的構造が見えてくる,そういう信念のもとで,複雑な事象の構造の解明と解決策を探っていく,という姿勢は,教師にももちろん求められています。

 荒れている学校のすさんだ生徒の姿。それ以上に重たい問題をかかえる指導力不足の教師の姿はまさに相似形。あまりにも分かりやすい例ですが,こんな単純なことに気づいていない人は少なくありません。

 子どもと教師の間に,比例とか相似の関係ができやすいのは,無理もない話です。

 若い教師にとっては,個別の具体論の方がわかりやすく,とっつきやすそうに見えますが,おそらくどんな教育書を読んだ人でも,「そのとおりに実践すれば必ずうまくいく」なんて経験はほとんどないでしょう。

 「うまくいった」と錯覚する人や,そもそもよい実践ではなかったものを,その通りにできて満足している人はたくさんいるかもしれませんが。

 より抽象化していく思考によって,ものごとの「つながり」が見えてくる。

 そして,いろいろな場に「応用できる」ようになっていく。

 子どもにも,そんな力を見つけさせたいでしょう。

 授業がうまくいかない。

 本を読んだらうまくいくようになった。

 そんな教師ですら,子どもに,

 勉強がわからない?

 本を読んだらわかるようになるよ。

 なんてアドバイスはしないでしょう。

 子どもにも,類推の発想を促す質問なり指示の仕方を普段から考えておくといいですね。

 そもそも,教師自身が「例え話」がうまいとか,「隠喩」を上手に使うとか,そもそもそういう言葉の使い方があることを子どもに教えておくとか,それだけで子どもの理解力や発想力は全然違ったものになってきます。

 生活指導では,具体的な姿ばかりに目がいっていたために,問題にも気づかず,したがって解決の必要性すら認識できないなんて教師ではなく,抽象化する作業を通して,次に起こりうる問題への対応があらかじめできるようになる,そういう教師になりたいですね。

 アナロジー思考によって,場合によっては,「隠されていた因果関係」が明らかになったりするのです。

 抽象化すればするほど,「遠くから借りてくる」ことが可能になります。

 思考の幅が広がる実感が身に付くといいですね。

 授業力向上のヒント,生活指導のコツ,・・・こういったものを「本で読んで知る」なんて発想はやめて,「自分なりのもの」にしていくために,いろんな経験や知識から「借りてくる」ことをねらった思考をしてみましょう。

********************

 昔,ある部活動の顧問が,遅刻してきたので注意した生徒に「こんなに早い時間には来られない」とキレられて,こんなふうに質問したそうです。

 「じゃあ,何時だったら来ることができるんだ?」

 さらに,「全員が集まれる部活動の開始時刻を話し合いで決めなさい」・・・・と指示したそうです。

 こういうタイプの生活指導は,どこでどのような形で破綻していくのか。

 笑わないで,真剣に考えてみて下さい。

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良薬になるな,劇薬になれ

 自分のことを「よい人間」だと思わせるような努力をネット上でする必要がどこにあるでしょう。

 ・・・と,開き直れない人が,大勢いるようです。

 「よい人間」かどうかが大事な場合もあるでしょうが,本当に「よい人間」かどうかは人が判断することです。

 「よい人間」だと思わせるように振る舞えば,相手が「よい人間」だと思ってくれるかどうかはわかりません。

 
 教師の中には,「よい人間」というより,だれかにとって「都合のよい人間」がたくさんいます。

 それは,管理職にとってだったり,子どもたちにとってだったり,・・・さまざまです。

 
 本当に「よい教師」とは,どのような教師のことか。

 本当に「よい教育」とは,どのような教育のことか。

 
 これを,見城徹・藤田晋の『憂鬱でなければ,仕事じゃない』(講談社)のスタンスから考えると,本当に多くの答えが見えてきます。

 私は立場上,とても多くの人の生の声を耳にしてきました。

 日本では,「本音と建前」という「二つの真実」の有り様に目を向けなければ,正しい方向は見えてきません。

 
 病んだ教育現場に必要なのは,「良い薬」なのか?

 私の答えは,NOです。

 状況を変えるには,「劇薬」が必要なときもあります。 

 
 指導力のない人ほど,「生徒から気に入られよう」と努力しています。

 そんな努力が何の意味もないことを,知っているのは生徒です。

 
 古い「毒」を制するのは,もっと強い「猛毒」です。

 これを身に付けた若い教師が,教育を変えることができるかどうか。

 「美化」された教育書を読むのは,大学1年生までで十分です。

 現実化が不可能な「理論」を知るのも,大学2年生までで十分です。

 何を知らなければならないかというと,それは教員の現実の指導力の有り様です。

 教育現場では何を見なければいけないか。

 
 心の奥に,毒を潜ませて,足を踏み入れて下さい。

 天使と悪魔は表裏一体です。

 天使の心をもって悪魔の目で見,悪魔の心をもって天使の目で現場を見ましょう。

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秋入学・東大合格者の「受け入れ先」

 今から,予約できるといいかも。

 東大がもし国際標準にである秋入学に全面移行するとしたら・・・・

 入学式までの半年は,小中学校での「児童生徒の学力・生活力向上のための補助員」として,公立学校がやとってしまいましょう・・・。

 ・・・と構想しても,みんな私立にもっていかれたりして・・・・。

 「半年の過ごし方」の,モデルケースを考えるのは楽しいことです。

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問題解決能力欠如の検証

 問題解決能力の要素を

 ①情緒的感動性
 ②実践能力
 ③知性

 の3つとして,どれか一つが欠けても能力は高まらない,ということにしておきましょう。

 ある学校での話です。

(1)合唱コンクールの自由曲を選定する

 【状況A】
 クラスとして、どんな曲がいいのか学級会が行われた。
 この時、生徒たちが持っている合唱に関する知識が問われることになる。
 日頃の音楽の授業で得たものがどのくらい、生徒のものになっているのかがわかる場面とも言える。
 すなわち、生徒たちの知性が問われる場面である。

 ①生徒たちは話し合いで、ある歌謡曲を自由曲として決めようとした

 この歌謡曲は,合唱の形態をしていない曲だったそうです。

 ということは,音楽の授業では,合唱に関する知識が得られていなかった,あるいは知識はあっても生徒のものにはなっていなかったことが分かります。

 生徒は,音楽の教師からは「知性を育てられていなかった」ということが結論づけられます。

 【状況B】

 学級会は生徒たちの自由な話し合いの場である。だから、自分たちの自由が反映できる機会として、それなりの盛り上がりがあり、本当に自分たちが歌いたいと思う曲を提案したと言える。

 ②担任は、合唱の形態をしていない曲の選定に反対した

 担任教師は,おそらく「コンクールで勝ちたかった」ため,合唱の形態をしていない曲は認めませんでした。

 問題解決の能力を発揮するには,教師に「受容的な態度」がなければいけないそうですが,この担任教師には,そんな態度は見られませんでした。

 さらに,生徒が本当に歌いたい曲を,合唱曲に編曲する「知性」を担任教師あるいは音楽教師が持っていなかったことも,確かとなりました。

 【状況C】

 教師が集団指導、つまり統率力を持って生徒たちを指導する場面である。指導力が問われる場面と言える。

 生徒たちは「先生は、自分の好きな歌を歌わせたいから、反対するんだ」と言って、担任と対立した。

 この担任教師は,生徒が「自分たちの自由が反映できる機会として、それなりの盛り上がりがあり、本当に自分たちが歌いたいと思う曲」を否定して,あくまでも合唱曲らしい合唱曲を歌わせるような「統率力」を発揮しようとしている,と思われてしまいました。

 【状況D】

 教師の指導と生徒たちの気持ちが対立した時、これを打開するには、木内氏の論文によれば「要求が集団の中へ浸透していくためには、集団の中に、教師の要求に答えてくれる者がいなければならない。核的な子どもである」とある。
 担任として、持てる力を出して、合唱曲とはどんなものであるかを説明したが、それが受け入られるかどうかには確信が持てなかった。
 ところが、ある一人の生徒が
 「そうか、合唱というのは、こういうのじゃなくて・・・」
 と言い出した。

 そもそも,合唱コンクールの自由曲の条件が,「合唱曲であること」というものであれば・・・音楽教師なり担任教師なりが事前に伝えておけば,こんな「要求を通す」手間は省けたのですがね・・・・。

 こんな場面にいたって,ようやく「合唱曲とはどんなものか」を口にするとは・・・。結局,「知性の欠如」を補う羽目に。

 音楽教師にも,担任教師にも,「実践的指導力」が欠如していたらから,「要求をのんでくれる核的な子ども」を探さなければならなかったのです。

 【状況E】
 
 すると、その彼の意見に生徒たちの注目が集まった。
 そして、自由曲については考えなおそうというということで、この時間は終わった。
 私としては、生徒たちが意図を汲んでくれるかどうかに自信はなかったが、一人の生徒の発言に救われた形となった。

 「統率力」とかいう立派な言葉を使いながら,「自信がない」「一人の生徒の発言に救われた」なんて情けない。
 早い話が,この「一人の生徒」が存在しなければ,どうなっていたのでしょうね・・・。

 【状況F】

 意見を言った生徒は、ツッパリ気味の生徒であった。
 なぜその彼が意見を言ったかは、受容の認識があったからかも知れない。
 それは、ある時「先生、この組の中で嫌いな子がいます?」と、ある女子になんとなく聞かれた時「みんな好きだよ」と私が答えたのが、信じられないという気持ちで噂を呼んだことが影響しているのかも知れないと思った。
 それは、生徒たちにとっては、ツッパリのような生徒は、当然、先生は嫌っていると思っていたからかも知れない。それで、意見を言った彼としても、自分は先生に容認されているのだ。先生は生徒の気持ちを汲み取ろうとしているのかも知れないと考えたのかも知れない。

 あべこべ。

 【状況G】

 (2)生徒たちは話しあって、自由曲を考えてきた
 生徒たちは、合唱コンクールでは合唱の形態をした曲でなければならないとの認識(知性の向上)で曲を考えてきた。
 考えてきた曲は、合唱の中の合唱と言えるオーソドックスな曲で、芸術的にも優れたものだった。
 私は歌謡曲でも合唱の形態をしていればよいと思ったが、前とはずいぶん違う傾向の曲を選んできたのに驚いた。

 ここで担任=音楽教師=「私」だったことが判明。

 普段の音楽の授業で合唱の意味が分かっていれば,そして,事前指導がきちんとしていれば,ここから話は始まるはずだったのです。

 知性の向上? やっと知性のかけらが見え始めた,といったところでしょう・・・。

 【状況H】

 ここに至るまでに、生徒たちはずいぶん話しあったようだった(知的活動)。ここでは、クラスの集団の向上と子ども自身による問題解決の行動がみられたと言ってよいだろう。

 子ども自身による問題解決ではないのですね。

 「私」が「これではだめだ,合唱曲にしろ」と言った。

 だから,合唱曲を選んだ。それだけのこと。

 問題の発見を,子ども自身が行うこと。

 これが問題解決能力をつけるために欠かせないことです。

 以下,省略。

 教師から指摘された誤りを正す能力を,「問題解決能力」といってしまっては,その範囲があまりにも多くなってしまいます。

 こういうエピソード及びこれに無理矢理「問題解決能力の検証」をあてはめようとすることで,問題解決能力を検証するという「問題解決」を行う能力が欠如していた証明になってしまいました。

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組合の先生の一言を思い出させてくれたdolceさんの記事

 「私の指導力がないのは,私のせいではありません。」

 なるほど。

 分かりやすい思考回路です。

 こういう風に責任転嫁する教員が多い学校が,荒れないはずはない

 以下,貴重な記事の一部を引用させていただいております。

*****************

 教師集団にあってはリーダーを務める教師がモデルと言えそうな気がする。

 上司次第で、他の教師の動きが変わるということである。

 もし、役職上、自分の配下の教師の動きが望ましくないと感じるなら、それははからずも自分のせいではないかと考えてみたらどうか。

 上司が常に愚痴や嫌味を言っているとか、ろくな授業をやっていないなどは他の教師のやる気をなくすであろう。

 尊敬できない上司のもとでは、最低限度の仕事しかしないかも知れない。

*****************

部活動への空想と妄想

 部活動の実態について,次のような表現に該当する記事をブログで見つけました。

 必ずしも特定される必要はないが「とてもそうは思えない」ような話は、ただの空想か妄想だろう。

 ネットでは匿名で発信できることから、言いたいことを作ってしまうこともできる。

 そうでなくても、本当かどうかわからないのに、あることを言いたいために、想像から始まった話を断定してしまう言い方だ。
 
 どんな内容かというと,

 授業後の部活動は、各自が好きな活動に参加できること、教師の方も特技が生かせるということもあり、自由な空気がみなぎって、子どもたちにとってやる気のある活動と言える。

 というものです。

 さて,学校現場の実態をお話しします。

 1 部活動は,各自が好きな活動に参加できるか?
   子どもたちにとってやる気のある活動と言えるか?

  原則は,その通りでしょう。
  ただ,学校によっては,「部活動に全員入る」ことが前提のところがあります。
 ということは,生徒が好きだとは限らない活動を「やらされる」場合があります。
  好きなスポーツの部活動に入っても,特に1年生などは,走ってばっかりとか,球拾いばかりとか,「楽しくない活動」をしなければならないこともあります。上級生になっても,トレーニングとか体力づくりは好きではない,という子どももいます。
 学校が小規模化してきているために,「好きな活動」ができる部活動がない学校もあります。
 もし,各自が好きな活動に参加できるのがよい,という考え方に従っていくと,学校選択自由化を認めることになりますね。
 規模が大きい学校に行くほど,部活動の選択肢が増えていきます。

 2 部活動は,教師の特技を生かした指導が行われているのか?

  そういう学校もあれば,「しかたなく顧問をしている」教師が多い学校もあります。
  運動部にしろ文化部にしろ,そんなにうまく専門家が集まるとは限りませんね。

  教員採用試験で,特技がない人は,受かるために嘘をつかなければならないのでしょうか・・・。

 3 部活動は,自由な空気がみなぎっているか?
 
  本当にそうかどうかは,お読みの方が,ご自分の体験をふり返れば分かることです。
  1年生が自由な空気を満喫している部活動はすばらしいですね・・・。

 (吹奏楽部は)お互いに勝ちたいわけだから、必然的にどうやったら、自分の団体を上手にできるかについていつも勉強している

 なんていう言葉も見つかりました。

 音楽を競技にして,戦っているわけですね。

 負けて,悔しがるのが音楽なんだ・・・・。

 悔しがるだけでなく,「審査員が悪い」とやっぱり「人のせい」にするのが音楽の指導者の姿なのですね。

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5W1Hで「議論からの逃げ方」を考える

 5W1Hとは,Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(なぜ)How(どのように)のことです。

 dolceさんの逃走経路をたどってみましょう。

 まず,

 Who(誰が)…最初は小学生の学力の話でした。なぜか,中学生の部活動の話になってしまっています。
         小学生には,部活動はありませんね。では,小学生の問題解決力はどのように育てられるのでしょう。

 What(何を) …「学力」の話が,問題解決能力へ。しまいには,「生活指導」の話まで流れてしまいました。

 When(いつ) ・Where(どこで)…教師がすべての子どもの「学力」「問題解決力」を責任持って育てられるのは,授業時間の話です。いつの間にか,放課後の自主的な活動の場の話になってしまいました。

  Why(なぜ)…「学力低下」がなぜ問題なのか,dolceさんの認識が甘すぎます。
          中学校の立場から言えば,九九が分からない,分数が分からない子どもに数学を理解させるのは困難です。楽譜が読めない生徒に,ピアノを弾かせることができますか?という話だったのに・・・。

 How(どのように)…私のコメントへの批判だけ書いておいて,大事な質問には全く答えていません。

 こういう「逃走本能」が,生活指導だけでなく,学習指導の面でも課題を抱えている無責任な教師たちの最大の武器なのです。

 ところで,「問題解決能力の検証」という記事のタイトルから内容を楽しみに読ませていただいたのですが,いつまでたっても「内容」がないですね・・・・。

 どのような「問題」があり,どのように「解決」されたかが書かれていないのに,なにがどのような「検証」されたのかすらわかりません・・・。

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マニュアルを読ませるマニュアルが必要

 センター試験が適切に運営できない責任は,大学にあります。

 この教師教育のカテゴリーには大学の先生もいらっしゃいますから,試験官がどうしてこんなにいい加減なのか,訳を説明していただきたいですね。

 一部の大学だけかと思ったら,あちこちで配布ミス」が起こっていたようです。

 原因の中に,「試験官がマニュアルを読んで理解していなかった」ことが挙げられています。

 受験生の立場ではなく,義務教育の教員をしている立場から言うと,「正しい行動を導けるマニュアルとは何か」ということに関心がいきます。

 残念なことに,「マニュアルを読むためのマニュアル」が必要になってきそうなのです。

 ちょっと趣旨は違うのですが,学習指導要領には解説というものがあり,内容が少し詳しく説明されているのですが,大学生レベルだと,この解説の解説が必要になってくる。

 昔は,教科調査官が原稿を書く市販本の「解説の解説」があったのです。

 しかし,今は公務員である教科調査官がそうやって原稿を書き,報酬をもらうことができなくなっていますから,学習指導要領の作成にたずさわった協力者が代わりにつくったりしています。

 そして,その「解説の解説」ではまだ実践的な授業ができないので,さらに詳しい解説が・・・ときりがありません。

 まずは,解説を読むこと。すみからすみまで。そして自分の頭でしっかり理解すること。これを,大学の段階,あるいは教育実習中の期間で徹底的にやり,試験も設けるなど,「基礎的・基本的な知識」を習得することが大事です。

 基礎・基本をおろそかにする人間が,何となく例年のようにやって,そしてミスを犯すのです。

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音楽のことは伊東玲氏に学べ

 私の周囲には慎ましやかな音楽教員しかいなかったので,最も苦手な音楽教育のことを学ぶ相手はいませんでした。

 そういう意味で,教育ブログの世界で伊東氏の存在はたいへん貴重です。慎ましやかではないからです。

 部活人間と同じで,勘違い系教員が多い音楽教師の中で,次のようなコメントをこのブログに送って下さる方は他にいません。

 コンクールで競い合うことの有効性は、合唱でも吹奏楽でもその他でも音楽に関して、特に学校教育ではほとんどありません。それを何とか説明しようとすれば、必ず詭弁になるだけです。ゲームだと割り切って、それなりに楽しむ以外に価値はありません。
 合唱コンクールも同じで、それで学級作りの本が出されてそこそこ売れているらしいことに、憤慨したりしていました。まして合唱コンクールは素人が意味不明の審査をする。
 価値の単一化は怖いです。それを集団で行うのは暴力行為です。そんなものに音楽が利用されるのはたまらない。

 私にとっては,今の職場の音楽教師が指導者として,最高だと思っています。

 コンクールなどは行っていませんし,何よりも子ども一人一人の声を,表現を,大切にしています。

 人間を育てています。

 合唱コンクールで集団づくりというのは,熱心な方には気の毒ですが,最低の教育です。おそらく,どこも狭い意味の生活指導,つまり,管理のための指導の道具に音楽を使っているのです。

 そうやって育った子どもが,音楽を大事にしていますか。

 人を大事にしていますか。親を大事にしていますか。

 カラオケは大繁盛?

 問題に気づけるかどうかが,問題解決学習の入口の大事な問題です。

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コンピュータ・オタクの「人間らしさ」

 永世棋聖の称号をもつ米長元名人が,コンピュータの将棋ソフト「ボンクラーズ」に敗れました。

 この出来事を引き合いに出し,以下のような「コンピュータ・オタク」らしいコメントしている人がいます。

*************

人間の思考力が単純化し、コンピュータはより利口になってきた。
やがて、人間とコンピュータの能力がクロスする時代がやってくるのではないかと思ったりする。
より「人間らしさ」が問われる時代になってきたと言えよう。

*************

 新聞記事によると,「ボンクラーズ」は昨年の世界コンピュータ将棋選手権で優勝したソフトで,毎秒最大1800万手を読むそうです。

 結果はわずかな「見落とし」の隙をついて攻められて,元名人が敗れましたが,そういうソフトと途中まで互角に戦い, 「前例のほとんどない手で力戦に誘導した」ことはすごいことだと感じました。

 この人間対コンピュータの対局から,「人間の思考力が単純化」している,という結論を引き出すような人間の思考力とは,どの程度のものでしょうか。

 コンピュータの解析力を引き出しているのは,人間の思考力ではないのでしょうか。

 この人の言う,「人間らしさ」とは何でしょうか。

 私は,この対局の実現こそが,「人間の強さ」の証明であると考えています。

 米長元名人には,都庁のエレベーターでたまたま一緒になったことがありました。

 見知らぬ職員からの軽い会釈に笑顔で応えてくれた元名人の「強さ」には頭が下がります。

 間抜けなコメントの主はコンピュータが勝って,さぞうれしかったことでしょう。

 これも,とても人間らしい反応です。

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問題解決学習が抱える問題 【教員採用・面接対策】

 教員採用試験の面接で,「問題解決学習,あるいは問題解決的な学習の長所と問題点を述べなさい」と問われたら,どのようなポイントをおさえたらいいでしょうか。

 まず,本に載っているような話と,自分の経験に基づくことをどうからませるかを考えます。

 本に書かれているような長所は,

 1 学習に対する動機づけがうまくいき,自発的な学習を促すことができる。
 2 思考力・表現力や創造性を伸ばすことができる。
 3 グループで学習を進めさせることで,協調性や責任感を高めることができる。

 問題点は,

 1 教師の側では,準備に多くの時間が必要。
 2 話し合いや作業の時間が必要で,指導には多くの時間を費やす。
 3 系統的な知識を習得させることが困難。
 
 などです。

 経験をからませる例は,

 私は,防災について,身近な地域の課題を発見し,中学生としてできること,行政にお願いすべきことを追究した経験がありますが,社会に生きる人間,また,地域の一員としての自覚を高めることができました。また,災害を全くゼロにすることは不可能であり,防災というより,どうしたら災害の被害を低く抑えることができるか,つまり「減災」という発想で政策を考えることが大事であることに気づくことができました。
 班員と一緒に地域を調査したり,分担して役所の訪問をしたりして,役割分担を明確にすることで中学生になりに責任感を高めることもできたと実感しています。
 これを教師の側からみると,聞き取り調査に協力してくださる地域の方々を探していただいたり,調査中に注意すべき危険箇所を教えていただいて中学生が安全管理に留意できたりなど,事前にとても多くの準備が必要であることもわかりました。
 ですから,もし教師としてこのような問題解決的な学習を指導するときは,学校の教師の協力体制や個別の役割を明確にしながら,協働を基本として計画・実施にのぞんでいくことが大事だと思われます。
 また,ふりかえりを大切にして,このような実践的な学習をとおして身に付けることができた学習技能が,普段の教科の学習でも生かせるように,「どんな力が身に付いているのか,何ができるようになったのか」を生徒に自覚させることも大切だと思います。

 のように,問題点を解決する方向性も示せたらベストでしょうね。

 グループで学習させると,結局は学力が高い生徒が中心的な役割を果たし,他の生徒が「傍観者」になってしまうおそれがあるのも問題解決学習の問題点です。

 よく,教師は「話し合い」をさせますが,教師同士の「話し合い」を想定すれば分かるように,「押しが強い人に周囲が従う」という図式が子どもにもあてはまります。

 つまり,「統率力」があまりよい意味ではなく発揮される状況です。

 意見が分かれれば,「話し合い」というのは「説得と妥協・あるいはあきらめの場」になるのです。

 何でもかんでも「話し合わせればよい」というものではありません。

 何が「話し合い」のテーマになりうるのか,そのとき教師はどのような助言を与えたり,最終的な決定を下さなければならないのかも,できるだけ想定しておくのも指導者の役割です。

 絶対にやってはいけないのが,「場当たり的な指導」ですが,そうなりがちなのが問題解決学習なのです。

 なぜなら,問題に向かって調べれば調べるほど,もっと深い問題や別の問題にも気づいてしまうからです。

 教科書の内容を教えるのが精一杯の教師に,問題解決学習の指導はできません。

 問題解決学習の指導を効果的に行ってもらうには,問題解決学習の問題点を解決する道筋も想定できていてほしいものです。

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改革反対派は,そもそも教師を信用していない

 公務員という既得権を守りたい人々にとって,一番困るのは「改革」です。

 教師や組合のアンテナは,「改革」がどれだけ「自分にとって都合が悪いことであるか」という観点では最高レベルの感度になります。

 そしてどの感度が低くなるかというと,「教育実践」です。

 「教育実践」は基本的に過去の踏襲。

 いい実践があれば,それに飛びつく。真似をする。

 そして,熱が冷めればやめていく。

 まだ100マス計算に熱中している小学生がいますか?

 合唱コンクールは,「盛り上がる」。

 コンクール形式にしないと,練習に熱が入らない。真面目にやらない。

 だから,続ける。
  
 あって当たり前。

 こういう発想の人たちにとって,「改革なんてクソ食らえ」でしょう。

 「改革」は,教師のモチベーションを奪う,という。

 教師のモチベーションを高める政策をしろ,という。

 教師というのは,政策の変化によってころころモチベーションが上がり下がりするような人間ばかりだ,という認識が改革反対派にはあるようです。

 確かにその通りの面があることが否めません。

 しかし,要は,教師の目が子どもにきちんと向けば,政策がどう変わろうと,教育はよくなります。

 若い教師たちは,子どもを向いていない教師たちにすぐに気づくでしょう・・・というか,過去の自分の経験から,そういう教師はすぐに見分けがつくでしょうね。

 私は,高校レベルはそんな教師でも全然かまわないと思うのです。

 しかし,まさか,小学校でそんな教師がいたら・・・・・授業中=自習中に内職をするような教師がいたら・・・・。

 
 行政改革といえば土光敏夫。

 「できないのは,能力の限界ではなく,執念の欠如である」

 既得権を守る執念にかけては,ピカイチの人たちが,教育実践の矛盾に全く気づかない。

 言っていることとやっていることの違いに気づかない題材が,教育ブログにもあふれています。

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歌しかなかった時代の元・女学生たち

 敗戦間近のとき,日本は極秘の作戦である「風船爆弾」製造に乗り出し,各地の女学校の生徒たちがその作り手となりました。

 当時,満州から留学していた女性は,外国人であるという理由でその現場からはずされ,授業がなくなった学校には入れず,川のほとりを歩いては歌を歌ってすごしていたそうです。

 歌は集団のまとまりのよさを実感させてくれるもので,日本の女学生たちは,強制されなくても,それしか楽しみがない時代でしたから,集まって時間があればみんなで歌っていたということです。

 その女性たちの中には,70歳代でもまだ若々しく,集まって当時の歌を歌うグループをつくって活動している方々がいらっしゃいます。

 今,多くの中学校では,「歌」を「合唱コンクール」という形で「競わせる手段」にしています。

 私はそもそも音楽に関心はないのですが,・・・明治政府が日本人を「国民化」するための道具として「唱歌」を歌わせ,歌を通して知識を得る,なんてことをしていた,という歴史には関心があります・・・コンクール形式で合唱をさせると,必ず「悲劇」は生まれます。

 子どもひとりひとりのことを考えてあげればわかることです。

 音楽に造詣が深い方で,「コンクールで競い合う」ことの有効性を説明して納得させてくれる人はどのくらいいるでしょうか。

 新採の教師が,そのことに疑問を抱いて訴えても,「今までやってきているんだからガタガタ言うな」と叱られて終わりになってしまうのでしょうか。

 戦前から,学校ではよく子どもに「歌わせて」いましたね。

 感動させていましたね。

 どんな歌詞で感動していたか,今思えば本当にぞっとする思いです。

 音楽は「人間性を豊かにするという幻想を抱かせる道具」とか,「人間の思考力を奪ってきた」なんておそろしいことを考えるのは私だけでしょうか。

 確かなことは,指導者によって,合唱ほど「仕上がりのうまさ」に違いがでてくるものはない,ということです。

 そういう点から見れば,小学校の音楽ではやはり「専科」でやってもらうのが妥当でしょうね。

 残念ながら,私の学校時代は,音楽の時間は先生が歌っているか,レコードをたれ流しているか,どちらかしかありませんでした。

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dolceさんの逃走ルートの危うさ

 dolceさんにとっては避けるしかない話題だということはわかっていたのですが,「学力」を「問題解決力」の方向へ拡大解釈することによって,学習指導の面にふれなくなっていく,・・・生徒指導の話にすりかえていく,というのはあまりにも予想通りで?残念なことですね。音楽の先生でも,学習指導に詳しい人はたくさんいるのですが・・・・。

単に知識を記憶して脳に留めておくだけ、あるいはそれを試験で記述するだけでは学力としての力を持たないと思う

というdolceさんのコメントから,今まで「頭を使う問題」に出会ったことがないのだ,という哀しい過去を垣間見ることもできます。

 dolceさんの集団指導の問題点は過去にふれており,dolceさんも記事で反論されていたのでくわしくはふれませんが,もし以下のような主張を強くすると,自分で自分の首をしめることになる可能性があります。

*******

 教師に求められる指導とは、教師自らの知性も必要であるが、集団をまとめる力、すなわち統率力が大切と考えられる。

 こう考えてくると、学級崩壊など秩序の乱れは、子どもの躾は大きく影響するところであるが、教師の統率力の低下も考えられるのではないかと思う。

 荒れた学校、荒れたクラスなど秩序の破壊された集団を立ち直らせたという実例は、みな教師の優れた統率力と言ってもよいではないか。

*******

 一見,何気ない当たり前のようなことを書かれているようですが,ここにいくつかの落とし穴があります。

 まず,「統率力」は,すぐには育たない能力であること。

 次に,「統率力」の中には,「メンバーの個性を殺したり,リーダーに過度に心酔させたりすること」で成り立つたぐいのものもあること。

 さらに,「統率力」のある人が必ずしも別の人の「統率力」を育てられるとは限らないこと,も心しておくべきことです。

 荒れた学校が立ち直るのは,「教師の優れた統率力のおかげ」ではありません。

 表面上,落ち着いた生徒の状態をさして,「立ち直った」と勘違いする教師がいますが,案の定,「こわい人」がいなくなるだけであっという間に学校が荒れ出す・・・というか,隠していた姿があらわれるだけ,ということになる学校が多いのです。

 荒れた学校が「立ち直った」と言えるようになるのは,教師の統率力ではなくて,子どもの統率力を育てることに成功した教師の指導力があってこそなのです。

 子どもに統率力がないのに,「教師に指示が受けられない場合,何かあったら学級委員の指示に従え」という命令を下すような教師では,「無責任な人」にしか思われないのです。
 
 さて,dolceさんからは何が飛び出してくるか。

 かなりじらされているので,本当に待ち遠しいです。

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女子にたよる学級経営と劣化していく指導力

 小学校段階だと,男子に比べて女子の学力,真面目さ,コミュニケーション能力が明らかに高いので,「効率」を重視する=「手抜き」の正当性を主張する教師は,女子の能力を最大限に「利用」して,毎日を「流す」ことができるようになります。

 「手抜き」傾向は,中学校まで引き継がれている場合もあります。

 この「手抜き」とは,「遅れている男子は,指導して能力を高めるのは効率が悪い=かなりの労力を要する・・・ので,放置しておく」という意味です。

 ちょっと脇道に逸れますが,教員採用試験も,男性・女性の区別を全く考慮に入れないで採用を決めると,「ほとんど合格者が女性になってしまう」という事態があることは,いくつかの自治体の方から耳にしました。

 そもそも大学で真面目にこつこつ勉強していた「優等生さん」が女子には多い。

 もちろん地区によっては,「男性の志願者の方が優秀だ」というところもあるかもしれません。

 ただの「優等生さん」は,「大半が自分のようでない子どもたち」に囲まれて,「だれも言うことを聞いてくれない状況」にショックを受け,すぐに辞めたくなってしまう,そんな例も少なくないでしょう。

 ただ,私の現場や行政の経験,子どもを通わせていた公立小学校の状況から判断して,女性のデモシカももちろんいますが,いくつもの優良企業に内定がとれるような女性が,一生涯の「働きやすさ」を考慮して,教職を選ぶ,ということはあると思います。

 私の学校の同僚でも,3人お子さんを産んで,そのたびごとに産休,育休をとっていました。

 こういう方は,勤めている年数より休んでいる年数の方が多くなる,ということもありえます。

 一般企業ではなかなか難しいでしょうね。

 さて,女子にたよる学級経営は,どんな社会を生み出すことになるのか,という「社会学者の研究」があればいいのですが,直観的には,「ますますだらしない男性フリーターやニートを増やす」だろうと思われます。

 「一人親」としては,やはり「しっかりものの長女」がいれば,家事は楽なのです。でも,本当にこの「楽」は社会全体のためになっているか。

 女子のリーダーもいてかまわないのですが,男子もしっかり育てていかない限りは,「次の一人親」を生み出すだけの教育になってしまっていないか,というのが私の危惧するところでもあります。

 ・・・生徒のいいリーダーが育つだけで,教師たちの「多忙感」はふっとんでしまうのですが,そこに甘えた瞬間に教師の指導力の劣化が始まります。

 中学校には,自分の指導力のおかげだと勘違いしている人がいて,本まで出してくれているので分かりやすい話なのですが。

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「考えるヒントで考える」をヒントに考える

 小林秀雄の「考えるヒント」を手がかりに,「気鋭の若手評論家」である中野剛志が考えたことをしるした「考えるヒントで考える」(幻戯書房)をヒントに教育問題を考えてみます。

 宮本武蔵は,「観」と「見」を区別した,という話を小林秀雄がしている。

 武蔵の「見」とは,

 相手の動きを分析的に見る目であるのに対し,

 「観」とは相手の存在を全体的・包括的に直覚する目であるという。

 「見ようとする意識が,目を曇らせる」という経験を,教師はどれだけ語ることができるでしょうか。

 「見の目を弱く観の目を強くすること」が,どれだけできるでしょうか。

 観念論や精神論ではなく,実践論としての「観」を,武蔵は重視していました。

 「兵法は,観念のうちにはない。有効な行為の中にある」

 この言葉が,どれだけ響いてくるでしょうか。

 教師として,個別具体的な問題の解決に,今まで本当にひたすら専念してきたと言えるでしょうか。

 武蔵は,当面の目的を遂行しようとする実践的な行為を経験し,その経験を通じて得たものだけを信じました。

 私の場合は,いかにもあやしい「教育論」「教育実践」をどう斬っていくか,・・・しかも「対話」が成り立たない相手に対して・・・難しいことですが,「当たり前のようにおかしい」学校現場を変えていく突破口になることを信じて,異を唱えていきたいと思います。

 私にとって,「教職は,天職である」と呼んでみたいのは,

 小林秀雄が「天職」のことを,

 「自分の職業に対していよいよ深まって行く意識的な愛着の極限概念」だと言っていることからも刺激を受けているからです。

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塾がないと困る

 そんな地域があるのもご紹介しましょう。

 それは,問題解決的な学習ばかり取り組まされて,「基礎・基本が身に付かない」子どもに危惧を抱く親がいる学校です。

 大学受験のことを,小学校のころから考える保護者がいる地域の話です。

 もし学校が,塾のような「知識注入型」ばかりの授業をしていたら,そういうことにはならなかったでしょうね。

 理論的には最低のことをしている学校が信頼され,最高のことをしている学校が信頼されない。

 「よい」教育とは何か,という議論が成り立たない背景はこんなところにもあります。

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ようやくdolceさんの出番が到来!

 今まで大事な大事な質問をスルーしてきたdolceさんの答えが,ようやく次の記事で読めるようになると思うと,楽しみで仕方がありません。

 問題解決力を「高める」実践例なのですから,水準以上の期待でいっぱいです。

 本当にあるのか?という疑問は今までのやりとりの経緯からぬぐえないものもあるのですが,「理論」だけ知ってても何の役にも立たない,というのは初任者をはじめ多くの教師が抱いている感覚ですから,「実践」事例の紹介は本当に意味のあることです。

 これから教職につこうとしている人も,必見です。

 dolceさんの発想や思考過程は,小学校の教師特有の,「一人親的思考と行動の積み重ね」から生み出されてきた・・・これは「1クラス」が実践のフィールドなので無理もない話なのですが・・・ものであり,なかなか自分たちの実践の問題点が見えない・・・たとえば悉皆研修なら教師は学校を離れて子どもに「自習」をさせてもいいとか,「自習計画がある」とか,そういう発想が当然のようなものになってしまう・・・ことから,「自分のクラスがよければそれでよい」というレベルからどう抜け出すことができているのか,ということに興味がわいてくるのです。

 「問題解決力」のない教師に,「問題解決力を高める」学習指導が可能なのか,・・・「能力のない人でも指導は可能だ」という理論があるかどうか,わかりませんが・・・そこにも興味があります。

 今のところ,非常に眉唾的な言葉に,「問題解決主義」というのがあります。

 私はあまり耳にしたことがありません。

 「受容主義」という言葉もハテナです。

 少なくともdolceさんは「受容主義」ではない人の代表みたいなものですから。

 「受容主義」の代表は,dolceさんの記事が出たすぐ後になぜか長文のコメントを毎回入れているナントカさんのような人です。

 「集団主義」という言葉はありますが,これは最後に指導の成果が「個人」にかえるのか,「集団」こそ上位なのか,今のところあやふやです。「個人レベルで問題解決力は高められないのか」といういじわるな質問は避けておきましょう。

 さて,私が問題解決的な学習の指導者の評価を行うときにポイントにしているのは,以下のことです。

 ○既得の基礎的・基本的な知識や技能が,活用されているかどうか。

 ○問題解決的な学習をとおして,基礎的・基本的な知識や技能の習得がさらに促されているかどうか。

 ○生徒の単なる関心ではなく,知的好奇心を高める教材を「予備」も含めて教師が準備し,生徒に提示できているかどうか。

 ○学習をとおして,「新たな問題」に気づき,その解決に向けての意欲を高めているかどうか。

 ○生徒自身が学習の目的を自覚して,学習における進歩の状況を意識しているかどうか。

 ・・・問題解決的な学習というのは,そう簡単にできるものではありません。

 学力面でも,その「前提になるもの」が必要なのです。

 最後に,その点にふれられていくような方向性だと,本当に実践に役立つ指摘になると思われます。

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小学校の「忙しい」は,主婦か主夫の話。

 小学校は「学級王国」と呼ばれることがありますが,私が名付けたのは

 小学校教師=「大きな一人親家庭」のお父さんかお母さん。

 忙しい,忙しい,と言っているのは,主婦か主夫のような話です。


 小学校の教師があまり経験できないのは,

 「主婦としてのたいへんさ」ではなく,「子どもとしてのたいへんさ」です。

 効率よく仕事ができるのは,家事のような働きのこと。

 家計簿をつけたり,食事のメニューを考えて食材をそろえたりするのは,それなりのこつが必要でしょう。というか,意識があれば経験でわかるようになっていく。一人でできることです。

 そして,こういう仕事は,いつか惰性になり,

 「できることであれば人にかわってほしい」仕事になる。

 中学校の教師が抱えている,「子どもとしてのたいへんさ」とは何のことだか,

 おわかりになりますか?

 どこかのブログにも,「効率本」にも,ここが書かれていない。

 だから,中学校では通用しない・・・というか,子どもにも通用しない教師になってしまうのです。

 とても気の毒なことなのですが,子どもの「教師を見る目」はたしかなもの。

 小学校時代にはそのレベルの言語化はできなかったことでしょうが,記憶をもとに思考できる。

 ある生徒が言った言葉が忘れられません。

 「帰って家のことでもしれてばいいのに」・・・まあ,中学生ならむしろこういうことが言えるようにならなければ一人前にはなれないのですけれど。

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仕事の効率を上げた教師がすることは

 教育の仕事です。

 その仕事をする場を与えられているという幸福感をよりいっそう高めてくれるのも,

 教育の仕事です。

 現場を知らない大学生レベルの作文で満足していてはいけません。

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小学校教師?のピントのズレ

 小学校の先生とお話しできるのは,異文化理解という観点で貴重な機会です。

*すみません。コメントをいただいたのは,公立高校の英語の先生でした。以下の記事は,もし小学校の先生がそのようにお話しされたら・・・という前提でお読み下さい・・・。

 本当に感謝いたします。

 こちらの観点からすると,小学校の先生のあり方を批判しているように聞こえるかもしれませんが,それが常態であるなら,それまで,という話です。

 夜の8時過ぎであるというのに職員室には何人もの先生方がいて当たり前のように仕事をしていました。

 「夜の8時過ぎであるというのに」という表現から,明らかに「夜の8時過ぎまで仕事をするとは,何と熱心なことか」という尊敬の念が感じられて,すばらしいです。あとで話すような,貴重な仕事をされているはずですね。

 それと、小学校は朝が早いです。私の地区だと7時前にはすでに生徒は登校を始めています。

 そんなに早く校門を開けるのもいかがなものか,と思わないでもないですが,子どもにとっては,始業前に1時間も遊ぶことができるとは,何と恵まれた地区でしょう。うらやましいです。

 仕事の効率化の本には,「頭を使う仕事は午前中に」という鉄則が書かれています。朝6時に出勤して教材研究ができれば,1日の授業も本当に充実したものになりそうですね。

 また,朝の30分くらい,体を動かす,というのは健康のためにもベストですね。子どもと一緒に汗を流すのもいいでしょう。

 私も朝の7時から8時まで朝練をしていたころがありましたが,そのころの体重はベストの状態を保っていました。

 加えて小学校では「空き時間」も「昼休み」もありません。

 私が参観した小学校では,授業中にも「空き時間」をつくっていたスゴ腕の教師がいましたね。子どもは思い思いに自習をしてくれているから,それにその課題もやさしくてだれも何も質問しないから,教師は自分の仕事を思う存分していました。

 「昼休み」で,給食の片付けが終わった後は,ただひたすら子どもと遊ぶ。

 よく学び,よく遊べ。自主的に動くときに,子どもは子どもらしさを存分に発揮します。こういう姿を見逃す手はない!

 昼は給食指導の時間です。

 給食指導は,清掃指導とともに基本中の基本ですね。そのとき,どのような動きをしているかによって,教師の力量はだいたい分かります。

 準備と食事と後片付け,さまざまな場面で子どものよさを存分に味わえる,貴重な時間があるというのはうらやましい限りです。

 確かに教材研究は難しくないかもしれませんが、授業で使う教材の用意には労力が必要です。

 教材研究が難しくない,というレベルに達しているとはすばらしい。

 個に応じた指導が小学校ではやりやすいから,児童ひとりひとりに別々の課題をつくることができますね。

 こういう教材準備は,人数×(別々の作業時間の平均)という時間がかかるから,バカにならないですね。これをしているとだいたい夜の8時くらいになってしまうでしょうか。

 小学校が中学高校よりも恵まれている点があるとすれば、土日のクラブ活動が少ないことでしょうか。

 そうですね。小学校の教師は,土日も教材研究や教材の準備がたくさんできるのですね。また,地域のボランティア活動にも参加できるし,PTAのバレーボールとかソフトボールの練習にも参加できる。

 地域のために貢献してくれる教師は,公務員の鏡として,本当に大切にしてもらえそうですね。

 さて,今までの話に,登場しなかった「教育」の仕事があります。

 これをいつ,どのようにやりましょうか。

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塾より質が悪い教育現場の改善に向けて

 先日,ある酪農農家を訪問したときに,「中学校でも農業の学習をするのですか」と驚かれた経験があります。

 中学校の社会科では,「先生の雑談に付き合い」,「知識の穴埋めプリントで終わった」という「悪感情」が残っていらっしゃるようでした。

 訪問した農家は全部で5件で,小麦や小豆,バラ,イチゴ,肉牛などの生産農家でした。ここで印象に残っているのは,「これからの農業は,個人が『職人的な』はたらきをするというのでは,ダメだ=コストの面で,外国産に太刀打ちできない」ということでした。

 これは,学校現場の教師にもあてはまります。

 学校現場の教師には,あまりにもひどすぎるという限界を下回らない限りは,その仕事を続けることができてしまう,という「メリット」があります。農家はそうはいかない。

 ただ,農家にもメリットはある。農地があれば,補助金がおりてしまう。補助金がおりると,もう生産しなくてもよい,といっている農家すらある・・・つまり,競争原理がはたらかないと,「何もしない」という選択肢が生まれてきてしまう,ということです。

 dolceさんは,塾の教育の目的を非常にせまいものに限定した上で,そんなことは本来はぐくむべき「学力」とは違う,と主張しています。

 しかし,ここが教育現場にとっては,最大の「弱点」というか,とりかえしのつかない「問題点」になる可能性があることをdolceさんは忘れている。

 つまり,dolceさんが批判している教育を,塾より低いレベルで展開している学校現場がある,ということです。

 社会科でいえば,穴埋めプリントで展開してしまう授業

 「生きる力」を身に付けさせる授業とは全く正反対の授業しかできない教師がいる。

 それは,「受験があるからだ」という。

 つまり,塾と同じで,かつ,成果の乏しい教育活動をして,不足分は塾の仕事にゆだねている。税金は無駄に使われ,さらに家計の支出を必要とする。

 この問題点を無視して,塾の教育に難癖をつけることはできないのです。

 dolceさんは,以下のように述べています。

スポーツなら、強いチームを作るための過程では、勝った負けたではなく、いかに戦ったかが大切なのである。

 図らずも,「強いチームを作る」ことの大切さを主張しています。

 「強いチーム」とは試合に勝つチームのことです。

 つまり,受験に勝ち残るためには,最終的には,最低でも「基本的な知識・技能」の習得が必要なのです。

 そういう力を身に付けるためには,思考力・判断力・表現力の育成を重視した授業をしていかなければならない。そういう授業を展開することによって,「基本的な知識・技能」が確かな学力として定着できる。

 それなのに,つまらない授業をして,基礎も身に付かない。つまり,結果として,「強いチームを作る」ことができないから,塾にたよることになっているのです。

 では,どういう教育が求められているのか。

 私がすべての教師が読むべきだ,と考えているのは,学習指導要領解説の総則編の第5節,「教育課程実施上の配慮事項」です。

 もう4年前に出された資料ですが,これを読まずに教育課程を編成すること,学習指導や生活指導,進路指導を展開することはできません。

 「そんなことはしていません」と批判を聞き流すことができないことが書いてあります。

 学校現場にとって必要なのは,目標とする教育を実現するために,学校にどのような人材を集めるか,ということもあります。

 「それは学校の教師のやることではない」から「学校ではやらない」のではなく,「学校でやるために,だれだれさんの協力が必要だ」と主張するのも教師の仕事なのです。

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dolceさんの文部科学省的学力観と「生きる力」

 dolceさんが事典から引っ張ってきた「問題解決能力」を成立させる3つの要素=①情緒的感動性②知性③実践能力を,「生きる力」をつけるために各教科において実践しなければならない,というのは正しい主張です。

 その実践を具体的に行うための条件設定まで考えなければいけないのが現場の教師なのですが,ここでは脇においておきます。

 文部科学省が,「生きる力」をキーワードに教育の目標を示すようになったのは,今から16年前の話でした(当時は文部省)。

 1996年,中央教育審議会が「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」という諮問に対する第1次答申の中で,

 我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。

 と述べています。この理念を受けて創設されたのが総合的な学習の時間でもあります。

 この時点では,「ゆとりの中での特色のある教育によって生きる力をはぐくむ」という方針でしたが,「ゆとり」という示し方をしたために,そして週5日制を実施するために授業時数を大幅に削ってしまったために,「基礎的・基本的な知識・技能」の習得がおろそかになってしまったという批判なり反省なりを受けて,新しい学習指導要領では,「ゆとりでも詰め込みでもなく、生きる力をよりいっそうはぐくむ」という方針に変わりました。

文部科学省というより,中教審の答申で,「基礎・基本の重視」という前提となる当たり前のことを「書かなかった」こと,文部科学省が「基礎・基本の重視」を大きく取り上げなかったことが,余計に「問題解決的な能力を育成するような授業が,都道府県名やその位置すら知らない子どもを生み出す」として批判の対象になったのです。

 学力や生きる力をめぐる問題を扱う場合は,そういう「基礎知識」を頭に入れておく必要があります。

 docleさんは,10年前の文部科学省の方針どおりの主張をしているだけなのです。

 あと,dolceさんの理解が不十分であるのは,学習指導要領というのが現場の教師や元現場の教師だった教科調査官によって,中教審の答申等をふまえて作成していることで,特に各教科等の「解説」はこういう人でなければ書けない,ということです。

 学習指導要領を批判する,ということは,現場の教師を批判している,ということになってしまうのです。

 学習指導要領は大臣が誰であろうが関係なく、別の人間が作っているのではないかと考えたくなる。

 それはあたりまえのことですね。大臣が替わるたびに学習指導要領をつくっていたら,大変なことになります。

 また,dolceさんの「生活指導」観は,学習指導要領の「総則」に書かれていることと同じで,正しい主張です。

 結局,dolceさんも文部科学省のポチであったということです。

 さて,

 子どもがどれだけ答えを知ったかではなく、いかに問題に取り組んだかを最も評価すべきなのである

 という主張も,ほぼ正しいものです。

 ただ,残念なのは,「いかに問題に取り組んだか」は,「どんな問題に取り組んだのか」も含めて,現実的には指導にあたった教師しかわからないものであり,外部の人間はそれを評価することができません。

 ですから,今では,「観点別学習状況の評価」を踏まえて「評定」としているのであり,これが入学選抜のための資料にもなっているのです。

 しかし,生徒を受け入れる側からすると,こうした「評定」が高いのに,「基礎的・基本的な知識及び技能」が身に付いていない人がいる・・・だから,より信頼性の高いデータとして,

 「いかに問題に取り組んだか」は,その結果,身に付いたはずの「知識及び技能」を重視して判断したい,という学校が増えるようになりました。

 dolceさんはご存じだと思いますが,日本の戦後の教育がスタートしたとき,問題解決能力の育成が重視され,そのような方針で学校は教育内容を編成することができたのです。

 しかし,その成果が十分に得られなかった。

 学力低下の問題は昭和20年代から始まっているというのは,このブログで紹介したとおりです。

 「問題解決能力の育成」というのは,それを目標に掲げたとしても,実現させるためには相当の指導力が必要なのです。

 もしdolceさんが「問題解決能力の育成」について,ブログの趣旨通りの内容をお知らせいただけるのであれば,一番良いのは「総合的な学習の時間」の指導をどう工夫して,どんな成果が出せたのか,ということを教えていただくことです。

 あと,塾を攻撃するのは何の意味もないことで,繰り返しになりますが,ますます現場の足を引っ張ることになることを自覚していただきたいのです。

 「基礎的・基本的な知識及び技能」も習得させられない学校に期待できない子どもや親が,「しかたなく」選んでいる場所なのだということを,忘れてはなりません。義務教育は無償なのに,高い教材を買わされる。しかし力はつかない。それなら塾の教育も無償のかたちで実現できないか,それが杉並区和田中ではじまった取組でした。
 
 あともう1点,
 
子どもがどれだけ答えを知ったかではなく、いかに問題に取り組んだかを最も評価すべきなのである

 については,「個に応じた指導」を行う上で,非常に重要な視点です。

 個人内評価では,この観点は欠かせません。

 私の予想では,Aさんはこうした,こうだった,というdolceさんが紹介することはできますが,「学校全体として・・・を実践し,・・・・という成果を得た」という話はできないと予想します。

 なぜなら,「教師の仕事の効率化」という発想が可能なのが小学校教師であり,「学校の仕事の効率化」という組織の問題を語れないのが小学校教師の特色だからです。

 余計な話ですが,組織なら,成果の上がることを効率的に仕事ができる人に仕事が集中してしまい,結果として,人の仕事も引き受けるため,「早く家に帰る」ことなどできなくなるのが中学校です。

 それがいいと言っているわけではありませんが,子どものことを考えれば,それもやむなしです。

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dolceさんの大矛盾

 指導のインチキがバレてしまうと,生徒は教師の強制を無視することができるようになります。

 それ以上に困るのは,指導すべき生徒を無視できてしまう教師が増えることです。

 さて,dolceさんの矛盾はごまかしのきかない方向へと進んでしまったようです。

 *** dolceさん語録 ***

 私は何度も言っていますが「学力とは何か」について、我が国の教育制度では明らかにしていません。
 だから、あちこちで学力云々と語っているのは、個人が勝手にイメージしている学力に過ぎません。
 そういうてんでバラバラな解釈の学力を公教育が聞き入れて、教育に取り入れることなどできないのです。

 →

 周知の通り、文部科学省は学習指導要領を発行しています。
 文部省が学力について言及しているのは次のところです。
(該当箇所略)

 →

 この度の指導要領改訂に際し、私は全く新鮮味を感じないのは「そんなこと、とっくに語られていますよ」ということ「すぐれた理論があるのに、実践しなかっただけではないのですか?」と言いたいわけである。

 *** 矛盾点及び誤り,不十分な点 ***

 新しい学習指導要領に新鮮味を感じない=その理念はずっと前から分かっていた・・・のに,・・・私は何度も言っていますが「学力とは何か」について、我が国の教育制度では明らかにしていません・・・と言ったことや,「基礎的・基本的な知識・技能の習得」以外の大切なことを重視した指導について指摘できなかったため,…ブログの趣旨を満たせなかったこと。

 「すぐれた理論があるのに、実践しなかっただけではないのですか?」とは,自分のことか,というのは置いておき,その理論(この妥当性が証明されてこその「理論」なのでは?)として

 問題解決能力の力をつけるためには①情緒的感動性②知性③実践能力の3つが要件であり、このどれ一つが欠けてもよくない

 というものを紹介し,

 これを見ると、今回の学習指導要領の意図を汲んだものという感じは受けないだろうか。
 
 と書いていますが,そのような能力については「事典」が出版される以前から学習指導要領には示されており,完全に的外れの指摘であること。

 現場の教師であったにもかかわらず,

 私は音楽が好きで、楽器も演奏するのだが、上達するためには我流ではダメで、正しい理論、伝統に基づいた指導を受ける必要がある。

 という抽象的な・・・中身がない,「当たり前の固まり」のような・・・説明だけを書いて,「音楽の指導に悩んでいる現場の教師に心をこめて,具体的な指導法や実践に役立つことがら」というブログ本来の「あるべき記事」は見られないこと。

 *** 矛盾しない点 ***

 この人は指導者としては有能ではないなと感じる時は、その人の言葉が常に抽象的な説明に終わっている時です。

 つまり・・・

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「忙しさ」の意味が分かっていない小学校教師

 shiraさん,コメントありがとうございました。
 
 このブログへのコメントをいただく方はとても限られているので,とても貴重なご意見ありがとうございました。

 そして,私の「思った通り」のことを指摘いただいて,これにも感謝しております。

 小学校には,とても真面目な先生が多いです。これは以前にも書きました。

 私は普通の小学校教師よりも,「数多くの小学校の現場」を知る立場におりました。

 どの先生も,真面目に,「仕事をこなそう」としていただいております。

 問題は,「教育という仕事」をどう捉えるか,ということになります。
 
*******************

 私も自分の個人的経験と見聞(伝聞ではなく見聞)から「小学校はひどく忙しい所」と結論づけさせていただきます。
 私はかつて、とある小学校の教頭先生のクルマに誤って接触してしまった際、連絡先を尋ねたところ「単身赴任で自宅にいる時間があんまりないんで電話場号覚えてないんだよ」と言われました。で、翌日勤務先に電話をして詫びのために出向いた所、夜の8時過ぎであるというのに職員室には何人もの先生方がいて当たり前のように仕事をしていました。
 それと、小学校は朝が早いです。私の地区だと7時前にはすでに生徒は登校を始めています。加えて小学校では「空き時間」も「昼休み」もありません。昼は給食指導の時間です。確かに教材研究は難しくないかもしれませんが、授業で使う教材の用意には労力が必要です。
 小学校が中学高校よりも恵まれている点があるとすれば、土日のクラブ活動が少ないことでしょうか。
 kurazohさんはどこの地区のどんな場所でそのような経験をしたのか知りませんが、少なくともそれを一般論にするのはやり過ぎでしょう。

*******************

 学校で時間を過ごす教師が多いのは,小学校も,中学校も同じです。

 でも,小学校の先生は,上の文章を読んでも「忙しくなさそう」なことは明らかですね。

 こういう感覚の教師が多いから,「教師のための時間術」なんて本が成立するのです。

 上の文章に,小学校の最大の問題が隠されているのをお気づきになれないでしょうか。

 小学校の教師たちは,「忙しいこと」が「嫌なこと」なのですね。

 だから,「楽できないか」と考える。

 「楽できないか」と考える「暇がある」のが,小学校の最大の特徴なのです。

 私は,

 小学生にはとても気の毒ですが,小学校における児童とは,大量生産の工程にある部品であることもよくわかりました

 と書きました。

 この意味をもう少し掘り下げる必要がありそうですね。

 最後に。

 小学校が中学高校よりも恵まれている点があるとすれば、土日のクラブ活動が少ないことでしょうか。

 「土日のクラブ活動が少ない」といっても,たとえば小学校で,1か月に6日くらい,土日に学校に行っている,という人は皆無でしょうね。この表現は果てしなく不適切でしょう。

 土日にクラブ活動のためにたとえば1か月に2日,児童を引率したり,学校で指導をしている教師は全体の何%でしょうか。

 それと,shiraさんは,中学校の免許をお持ちでも,絶対に中学校の教師にはならない方がよいですね。

 あなたは本当に「恵まれている」人なのです。

 だれが「恵まれない人」か,わかりますか?

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dolceさんは「PISA型学力」をご存じでしたか?

 これまでの質問の反応はなしですね。基本的にスルーの方針ですか?

 さて,学校教育法や新しい学習指導要領の改訂に大きな影響を与えることになった,PISA型学力について,これまでdolceさんはどんな見解を発表されてきましたっけ?
 
 もう4年も前の記事に,補足をした過去の記事を以下にご紹介します。

 学力については,もうこれ以上お話しすることもない,という感じですが,私のPISA型学力については,そんなもの,今までも十分に育成されてこなければおかしかった,という主張をしているものです。

 ご意見ありますか。

*****************

 子どもたちにとって教科の知識や技能を「活用する」「使う」場というのは,今まで普通は「定期考査」「小テスト」「単元テスト」「業者テスト」「入学試験」などのことに限られていました。

 ですから,このような「」での効率的・効果的な活用方法を習得させる・習熟させる場としての塾というものが機能していました。

 テストというものの性質上,どれだけ短時間で正確に「正解」にたどりつくかが重要であって,「横道」にそれてはいけないのが原則です。

 しかし,「本物」の活用力を調べるためのB問題では,1つの問題を答えさせるのに2ページを使って条件や正解に結びつけるための資料を提供したりしています。

 PISA型学力読解力を想定に入れていることは明らかですが,実はこのようなタイプの学習指導は,学習指導要領の中で示されているものでした。

 PISAに刺激を受けたとは言っても,そのような能力の育成を今まで無視していたわけではなくて,教師によって軽視されてきたと言ってよいわけです。

 観点別学習状況の評価を出すときに多くの教師が悩んでいたのが,関心・意欲・態度思考・判断のような,「測定することが困難」な能力の評価でした。

 これらの観点を評価するのに適した問題が,徐々に開発されたり,観点の能力を育成できる授業が行われたりするようになれば,現場の実感としての「学力観」にようやく広がりが生まれ始めることでしょう。

 「テストの点をとるための関心・意欲・態度」を育成するのが教師の仕事ではないわけです。

 教師たちは口々に「でも入試が変わらなければ・・・」と言いますが,上位校は別として,公立高校の入試得点の半分は内申点でしょう。この内申点で本来の学力をきちんと評価してあげることが,教師としてのつとめであると考えられます。

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08/4/24 教師がB問題から学ぶべきこと

 教師にとって、「学力調査」は他人事ではありません。
 中学生全員を対象にする調査であるということは、その指導者も全員、問題の内容を把握する、ということです。
 公開されている問題を見れば明らかなことですが、学力調査は、新学習指導要領実施後の具体的な指導法やそのときに扱う教材のあり方、また評価方法を提示していくねらいもあるようです。
 新学習指導要領総則の「教育課程編成の一般方針」には、「基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ(・・・A問題で評価)、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむ(・・・B問題で評価)」とあります。
 調査は抽出でもよいとする主張もありますが、国が全児童・生徒(これからの国民)だけでなく、指導者であるすべての教師に求めているメッセージを直接伝えきるところに意義があると考えます。
 2年後くらいには、観点別評価のあり方も変わると思いますが、そのころまでには各教師の責任で作成がまかされている「定期考査」もがらっと変わったものになっているでしょう。
 学力調査は評価のためのように一般の人は考えるかもしれませんが、学力向上に欠かせないのは生徒の努力だけでなく、教師の指導力の改善もあります。B問題がつくれる発想が授業にも求められているわけです。
 定期考査の問題を分析する塾があれば、これまでの学校の不十分な評価のあり方が浮き彫りになるはずですが・・・・。

08/4/24 B問題が入試まで波及するかどうか

 「解くことに意味を感じる」問題、「解いたことで改めて学んだ実感が持てる」問題づくりが、今後ますます求められてきます。
 このとき、出題者には豊かな構想力と表現力が、解答する生徒には読解力・解釈する力と表現力が、それぞれ問われることになります。
 本来、授業そのものもそうあるべきなのですが。
 今後、入試問題まで波及できるかどうかが課題です。
 公立の中高一貫校の適性検査は、B問題の傾向が強いわけですが、これはある程度の国語力(読解力)がついていれば解けてしまいます。(私の予想では、中高一貫校の場合、文系ではある程度の成果が残せそうですが、理系のセンスがあまり問われないで選抜されているため、大学入試でどれだけ実績が残せるかが課題になりそうです。)
 採点に時間がかかったり、採点基準の難しい入試は実施者が嫌がるでしょう。
 後で問題に対するクレームが浮上するかもしれません。
 学習指導や評価の数々の壁については、「最終的には入試が変わらなければ・・・」と長い間言われ続けてきました。
 流れは、急激に変えることはできません。
 移行期間の授業時数増の報道がありましたが、時数が増えるだけの物理的な変化だけではもちろん不十分です。入試が学力問題の化学変化をおこせるかどうか・・・。

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35人学級になっても何も変わらない?

 学校現場に足を運んでいらっしゃらない方はよくわからないかもしれませんが,今,小学校の1学級の平均児童数は何人だと思われますか?

 「○○県 小学校 学級数」 と検索していただければ,よくわかります。

 埼玉県だと31人,東京都千代田区は30人未満でした。

 35人学級というしばりをつくると,困るのは,いつも定員いっぱいにとっている国立学校などです。

 国立学校は入学希望者が多いわけで,40人でもよい,と考えている教師や子どもが多いのなら,それでもいいじゃないか,という人がいる。

 いやいや,研究校として,現場の参考になる少人数でできる教育実践を行う必要がある,という人もいます。

 しかし,実態として平均が30人以下なのだから,今までも「参考になる教育実践」といったら,それは「40人でもできること」であり,今までが参考にならなかったのか,という話になってしまいます。

 そもそも「集団指導」(「一斉指導」に「グループ別指導」も含む)を重視している日本では,25人でも,30人でも,35人でも,40人でも,極端な話5人でも,教師のやることは同じようなもの。

 私は子ども2人のクラスで,黒板を使って行われる授業をみたことがあります。

 何が変わるか?

 個に応じた指導の機会は本当に増えるのか?

 あまり期待できない,というのが,正直な思いです。

 驚いてしまうのですが,教師は「数人」を対象に授業をすると,その能力(「各児童の学習状況をみとる能力」)が手に取るようにわかってしまいます。

 このへんが,「塾の先生に負けている」という実態を示している部分かも知れません。


 繰り返します。

 現在の1学級の平均児童数は,35人以上ではない。

 35人学級になって,「変わる」のは,定員いっぱいにとっている学校だけの話。

 そこの「競争率」が高まるだけの話。

 36人の入学生が入れば,1クラスではなく,2クラスになり,1学級18人のクラスができる,というだけの話。

 1クラスの人数が30人以下,実践は普通に行われているという話。

 で,そういうクラスではどういう成果が出ているのか,というデータは,学力調査の結果で,でるのか,でないのか。という話です。

 こういうデータは,自治体ごとに出せますね。

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内田樹の「学力とは何か」

 ビジネス社「橋本主義(ハシズム)を許すな!」の第1章に書かれている内田樹の学力観です。

 点数で示される学力は,確実に下がっていることを示した上で,

 今,劣化を問題にしなければいけないのは,「学ぶ力」のことだ,ということ。

 学ぶ力とは何か。乾いたスポンジが水を吸うように,自分が有用だと思う知識や技術や情報をどんどん貪欲に吸い込んで,自分自身の生きる知恵と力を高めていって,共同体を支え得るだけの公民的成熟を果たすこと。

 私の感覚で一言で言えば,そういう「学ぶ力」を本気で身に付けさせようとしたら,物資も情報もなかなか手に入らない「他国」に行って,子どもたちに共同生活を送らせること,それが一番だろうということです。

 知識や技術の面での「不足」が感じにくい今の日本の社会で生活している以上,このような「学ぶ力」を吸収できるのは,ごくごく一部の学校の,ごく一部の生徒だけだろう,ということです。

 この要求を満たせる教師は本当に一握りでしょう。

 なぜなら,内田樹がエピソードを語っている人間は,本当に大きな成功をおさめているごく限られた人間に関してのものであり,そういう人にあてはまる「学ぶ力」を大切にせよと言われても,現実の大多数の子どもたちには当てはめにくい話です。

 内田樹の大問題は,もう一点。

 競争に勝つために,生徒は足を引っ張り合っているという。

 上記の本では,新しいエピソードを紹介してくれました。

 まずその事実認識が誤りだし,その原因が教育政策にあるとも言う。

 もっとよく,普通の学校の,普通の授業をみてほしいと願っているのは,そういうことです。

 「教師の質を上げることが大事」

 ということを,より強くメッセージとして発してほしいのですが,私が今まで見たところでは,そういうことは「願っていない」のか,「あきらめている」のか,書くつもりはないようです。

 残念なのは,「学力テスト」と聞くだけでアレルギー反応を起こす教師の支持を受けてしまっていることで,そこまで「現場の教師と子どもはバカではない」というのが私の考え,というか希望です。

 「学び」というのは,なんだか分からないけど,この人についていったら「自分がほんとうにやりたいこと」に行き当たりそうな気がするという直感に従うというかたちでしか始まらない。

 と言われてしまったとき,そういう「自己PR」が上手なのは私立の学校で,あるいは本当の伝統校だけで,「ハク」のない公立学校ではただただうなだれるしかないのではないか,というのが,私の危惧です。

 都立高校が一時期,PRに力を入れていましたが,私の卒業生も「だまされた」とつぶやいていました。

 「だから言っただろう」と言ったことは内緒です。

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学校内モンスターがいかに教師たちの足を引っ張ってきたか

 想像どおり,大事な指摘はスルーされてしまったようです。

 以下の指摘については,回答をいただけました。

*****************************

 現場感覚の乏しさを疑わせる数々の見解[※2]をお知りになりたい方は,どうぞdolceさんのブログをおたずねください。

 無知ぶりを披露してしまった決定的な箇所は,

>指導要録の記入については、決められた様式に従って記入しただけで、学力を意識して記入した覚えはありません。指導要録が、その人間を表す完全なものとも思っていません。

 というところです。だれも,生徒を表す完全なものをつくれ,とは言っていません。

指導要録というのは,決められた様式によって,「学力を意識して記入」しなければいけないことになっているものです。[※3]

******************************

[※2]思い込みでなく、具体的にお示しください。

 dolceさんはいつもそれを具体的にお示しくださっています。

 新しい記事でも,ペーパーテストといえば,記憶力テストのことだとしか想像できない。

 学力調査の問題を知らないし,適性検査問題も見たこともないだろう,といっているのは,そういうことです。

 学力テストの結果がよい学校が,記憶力テストばかりをやっているかというと,そうではない。

 そういう現場感覚がゼロだから,
 
 塾の人をこきおろすのも,現場の教師からすれば「誤解されるからやめてほしい」と思われてしまうのです。

 ついでに言えば,自作自演のコメントもどうにかしてもらいたい。

次に引用した部分にも具体的に示されています。

[※3]決められた様式に従って記述するということは、文部科学省の指針に従うということです。それは「文部科学省の言う学力」も含んでいるということです。

だから、私は文部科学省のポチになるなと言ったのです。

学力の意味について問題にしているのは、そんなことではないのです。
もともと文部科学省(文部省)はサービス機関として出発し、後、学習指導要領は法的拘束力を持ったものの、それを忠実に守ればよいというものではないのです。
幅や弾力性を持った指針であり、外枠を決めているだけで、中身については曖昧さを含んでいるのです。
曖昧さを含んでいるので、人によってマチマチな解釈や研究が存在するのです。

だから、ひとつの例として学力とは何か~点数ばかり追うなにおいて学力を育てる (岩波新書 新赤版 (978))
を取り上げたのです。

 まず,

>指導要録の記入については、決められた様式に従って記入しただけで、学力を意識して記入した覚えはありません。

 と言っていたのに,

>決められた様式に従って記述するということは、文部科学省の指針に従うということです。それは「文部科学省の言う学力」も含んでいる

 と書いてしまった,ということは,「学力を意識して記入している」ことの告白です。

 そして,次の箇所が現場感覚の乏しさを証明している部分です。

>学習指導要領は法的拘束力を持ったものの、それを忠実に守ればよいというものではないのです。
>幅や弾力性を持った指針であり、外枠を決めているだけで、中身については曖昧さを含んでいる

 弾力性があるからこそ,指導要録には,各教師の豊かな学力観に基づく記述が可能なのに,「学力を意識して記入した覚えはありません」などと告白してしまう。

 こういう教師がいるから,行政は「しばり」をきつくしていくのです。

 幅や弾力性があると,「何もしない」というのが選択肢に入ってくるおそれがある。

 中身が曖昧だと,「何もできない」人もいてOKになってしまう。

 だから,「忠実に守るべき」内容ばかりになってしまっているのが,新しい学習指導要領であり,そのような事態を招いたのが自分たちのような教師だということに「気づこうとする」気が全くない。

 小学校では完全実施になった,中学校では4月から完全実施になる学習指導要領の性質をご存じない。

 これが現場感覚の乏しさの具体的な例です。

 「基礎的・基本的な知識・技能」の定着すらあてにならない学校現場の批判に対して,「幅や弾力性を持った指針であり、外枠を決めているだけで、中身については曖昧さを含んでいるのです。曖昧さを含んでいるので、人によってマチマチな解釈や研究が存在する」などといってその批判に正対しないばかりか,逆に相手を批判してしまう

 こういう教師たちが真面目に努力している教師たちの首をしめているという実態に,なぜ気づけないのでしょうか。

 dolceさんが失職する3年前に出された中学校の「評価規準の作成,評価方法の工夫改善のための参考資料」をぜひお読みになってください。

 学校が何をしなければいけないかがよくわかります。

 「外枠を決めているだけで、中身については曖昧さを含んでいる」学習指導要領を具体的に実施していくために,各学校は涙ぐましい努力をして評価資料をつくっているのです。

 学校として「学力の全体像」に近いものを作成しているんですよ。
 
 そして,その実現状況が思うようにいかないで苦しんでいるのです。

 だれが,苦しみ,だれが平然としていられるか。

 学校の自己評価や外部評価も実施されると,だれが苦しみ,だれが平然としていられるか。

 苦しむべき人が苦しまないで,平然とすべきでない人はいつまでたっても平然としている,これが学校なのです。

 dolceさんのような教師が実際に現場にもいて,平然としているばかりでなく,逆に攻撃の側にまわるのです。

 学校現場は,こういう学校モンスターの面倒もみなければいけないのです。

 これがどれだけ心理的な負担になっているか,モンスター側としてはわかるすべもないでしょう。

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誤りを認めないタイプの人の問答形式

 現場にいれば,こういう教師はいます。また,こういうタイプの保護者もいます。論理的につめるのは,dolceさんの反論を読めばわかるように,全く逆効果で,その方法でいくと行政の「苦情対応」も軽く1時間以上に及ぶこともあるのですが,あえてその方法でつめていきましょう。

 批判対象の原文がなくても,何がおかしいかはわかりますので,ここでは引用を省きます。

[※1]学力については色々な人が、色々な解釈をしているからそれらの人の「学力の意味」は一致しない。「学力を勝手にイメージしている」からは抜け出せていないのではなく、現状がそうであるということです。つまり正しい認識をしているということです。

 これは,dolceさんが自分の言葉と私の言葉を区別できなくなって,誤って自分の言葉を言い換えたところですので飛ばします。矛盾につきあっていると,こちらの頭もこんがらがってきます

 あえてふれると,「地域が勝手なことを言っている」と本音をそのまま口にしてしまう公務員がもしいたら,ある意味では憎めないのですが,そういう「勝手な自己表現」をしてしまう人によって,周囲の人がどれだけ迷惑をこうむるか,いつか「わかる日」が来てほしいものです。

[※2]ということは、あなたは「基礎的・基本的な知識・技能」を習得させるということは学力を高めることだと捉えているわけです。しかし、そう捉えてはいない人もいるのですから、それはあなたのイメージということです。
つまり、他の人の考えとは一致していないから、学力については色々な解釈(勝手なイメージ)が存在するということです。

 勝手なイメージという表現と,色々な解釈という表現では,相手に与える印象は天と地ほどの違いがありますね。それに気づくセンスはまだ残っているということです。

 でも,「基礎的・基本的な知識・技能」を習得させることは学力を高めることにつながらないと捉えるのは,dolceさんくらいでしょうね。それがなければいくら意欲があってもダメだ,というのが,「基礎的・基本的な知識・技能」ですから・・・。

 「あなたのイメージ」というのがちょっと苦しすぎます。せめて,「一般の方々のイメージ」くらいにしてほしいものです。しかし,批判のための批判をするときには,自分を「少数派」にしないのがモンスターらしさです。

[※3]「基礎的・基本的な知識・技能」は学力のすべてではないと言っておいて、しかし,学力の一部であることは確かです。と言っているということは、あなたは学力の全体像を知っているということになります。だったら、学力とは何か、全体像を説明していただけませんか?
それから「基礎的・基本的な知識・技能」が学力の一部であることは確かですとは、どうしてそう断言できるのですか?
さらに、そのためには「基礎的・基本的な知識・技能」とは何かを明らかにする必要があります。

 前の記事で触れましたが,ここの論理が不明です。AはBの一部である,と言っていることは,Bの全体像がわかっていることになる,というのはどういうことでしょう。

 Aが私の性格の一部だとわかったら,私の性格の全体像がわかっているということになるのですか?

 モンスターには独特の思考回路があるようですが,それを追及するのは無駄なことでしょう。

>「持っているお金を全部出しなさい」と言った時、言われた人が1万円出したら「これは全部ではない(一部だ)」と言えるのは、全部を知らなければ言えないことです。

 1万円出したのなら,1万円は所持金の「一部」であるか「全部」であるかのどちらかでしょう。

 一部であっても,全部であっても,これはdocleさんにとっては都合の悪いことですね。

 お得意の「集合論」(?)はどうなりましたか?

>「一部であることは確か」と言えると言うことは、問題にしている一部が、ある全体の一部だという認識がなければ言えないことです。
 
 「基礎的・基本的な知識・技能」を活用する能力が求められています。つまり,A以外にBという要素もわかっているから,Aは学力の一部となるのです。

 「基礎的・基本的な知識・技能」は,各教科ごとに,学習指導要領に示されています。暇があれば,小学校の教科書を開いて,一つ,一つ,説明していくことになります。

[※4]タイヤは自動車の一部です。あなたは、ディーラーがタイヤを説明しただけで、自動車の全体にはこだわりませんか?

 タイヤがなければ車は走らない,っていう意味がわかりますかね。私はあえて,具体的に眼に見えるものを例にあげていません。

 話は「学力」についてですから。

 dolceさんの思考回路の特徴は,全体像がわかっているものでしか話ができない,というものでしょう。

 でも,あとで,「豊かな人間性とは何か」が定義できる,とおっしゃっていましたので,すごいものが見られそうな期待はありますが・・・。これは本当に自虐的な冗談でしょうね・・・・。

[※5]音楽の指導において、「基礎的・基本的な知識・技能」を高める指導をした方が、音楽への取り組みが主体的になったことを経験していますが。具体的には、音階練習、楽典、運指などの練習です。

 これはちょっと原文が必要かもしれませんが,私が言いたかったことは,「基礎的・基本的な知識・技能」だけを詰め込むような教育をすれば,「主体的に学ぶ意欲」が損なわれる可能性があるということです。指導力がある教師なら,学ぶ意欲を高めながら,「基礎的・基本的な知識・技能」の習得を実現しているのです。

 dolceさんには,文章の「意図」を汲み取ろうとする「意図」が全くありません。こういうのが「批判」のための「批判」であり,これは本当は相手には伝えない言葉ですが,自分の心の中で思いながら,クレーム対応は行うのです。

[※6]言語活動の充実って具体的にどういうことをするのですか?
毎日の生活で、必然的に言語活動は行われているのではないですか?

 すでに私のブログで何度もふれているので,ここでは省略します。
 基礎的・基本的な知識や技能を活用する場面をどう作るかが勝負なのです。

[※7]「学力」という用語の実体がはっきりしていないので、人によって捉え方、イメージは様々です。だから、それぞれ勝手にイメージしていることになると思いますが。決めつけるという言い方はおかしいですね。実態を言っているだけです。
自動車メーカーは、それぞれ特有な車を作っています。それぞれが作りたい車を勝手に作っているのではないですか?こういうのを「決めつけている」と言いますか?勝手に作るのは自由です。私はいけないなんて言っていません。それに、それぞれの人が自由に何かをイメージすることを束縛する人、束縛できる人なんているのでしょうか?

 車づくりと教育を一緒にしてしまうのがdolceさんらしいところ。

 まず,(車づくりだけに限らず,)教育は,dolceさん一人がやっていくものではないのです。

 教育現場では,教員の協働が必要です。小学校教師が学力を「それぞれ勝手にイメージ」しているようでは,教育課程はつくれません。指導要録なんてつくれません。総合的な学習の時間を運営できますか?

 小学校の教師が,学力を「それぞれ勝手にイメージ」して教育しています,と言い切れる「信頼される学校」は公立ではごく少数でしょう。こういう姿勢だからクレームが来るということが,なぜdolceさんにはわからないのでしょう。

 以下の点については,「地域モンスター対学校モンスターの戦いの結末は?」などの記事でふれています。


[※8]こういうのを「決めつけ」と言うんじゃないでしょうか?
 
 dolceさん流にお答えすれば,実態を述べているだけです。一番いいのは,dolceさんの学力の定義を述べてもらうことでしょうが,できないですぐに「逃げる」ことになるでしょうね。

[※9]ここで言う安全な場所とはどこなのか、攻撃しているとは、どの部分なのか教えて下さい。

 dolceさん以外の人は,dolceさんのブログを読めばわかることです。

[※10]その客観的事実を教えて下さい。

 ご自分でブログに書かれていたことが客観的な事実なら,そのことです。

[※11]指導要録の記入については、決められた様式に従って記入しただけで、学力を意識して記入した覚えはありません。指導要録が、その人間を表す完全なものとも思っていません。

 前の記事でふれました。

[※12]いろいろな例がありますが、大学入試で数学の試験を行わない学校もあります。こういう大学は入試において、数学について測定していないのだから、数学については無視したのではないですか?
健康診断で、血圧しか測らないのであれば、心電図や血液検査は無視したことになりませんか?
測らないということは、その項目を無視したことになりませんか?

 ペーパーテストだけを評価とみるくせは,どうやっても抜けないみたいですね。

[※13]学習指導要領に示された内容を習得させることが大切だ,と思っているということと「学力とは何か」は関係ないことです。私の意見をすり替えないでください。

 「関係ない」なんて開き直りにすぎません。開き直る態度を取る人の決まり文句が,「意見をすり替えられた」です。

[※14]できます。それがどうかしましたか?

 できますと言いながら,やらない。それがモンスターの流儀。

[※15]私は「賛成できないなどと言っていません」けど、人の意見を勝手に捏造しないでください。

 賛成できないとは言っていませんが,

 >だから、あちこちで学力云々と語っているのは、個人が勝手にイメージしている学力に過ぎません。

 >そういうてんでバラバラな解釈の学力を公教育が聞き入れて、教育に取り入れることなどできないのです。

 とは言っている。これが賛成できないということなのでは?

[※16]この言い方は、あなたの言い分が正しいとの前提に立つということです。ということは、あなたの言い分が正しいとの根拠が必要です。でなければ、頭から自分の言い分は正しいという固定概念からものを言うということになります。
「誤りに気づいてもらうために」と言っていますが、私には、どこが誤りなのかわからないので、気づきようがありません。私が「1+1=2」と言っているのに、あなたは「1+1=3」だということに、私が気づいていないと言っているようなものです。

 いいえ。自分の「誤り」に気づく力は,自分自身の中にあるのです。

 教育者として,「子どもに教わった」経験はないですか。

 子どもも,誤った行動をとっている,しかし,その行動の中から,自分の誤りに気づくことができる。

 こういうのを「他山の石」というのですよね。

 私の言い分の中にも,誤りの部分があってもよいのです。

 平々凡々な,当たり前のことや,憶測でものを語っている。

 でも,そういう人から何も学ぼうとしない,というのは,教育者としては,おかしい。

 楽器がうまく演奏できない人の動きをみて,なぜうまく演奏できないのかに気づける指導者は,優秀な指導者でしょうね。

 dolceさんには,「正しい」か「誤っている」しかない。0か1しかない。

 本当にコンピュータから離れて暮らす時間も必要じゃないですか。

>上記はコンピュータのプログラミングに使われるC言語の予約語と言われるものである。
>プログラムに用いる単語と言ってもよい。
>言いたいことは、コンピュータのプログラムを作るのには、たったこれだけの単語でよいということである。

 こんなことを得意げになって書くから,「ああ,そういう人間なんだな」と思われてしまう。

 「どういう人間」のことを指すか,きっと想像はできないでしょうが。

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*モンスター対応では,相手に攻撃させる材料をあえてつくる(詰まない)・・・つまり,こちら側が「完全にはならない」のがコツです。 

現場感覚ゼロの学校モンスターをどうする?

 あまり早くお返事してしまうと,dolceさんの場合は大事な話を「なかったこと」にしてしまうので,公開するのはもう少しあとにします。

 以下のような話には,あまりおつきあいできない気もするのですが・・・。

>「基礎的・基本的な知識・技能」は学力のすべてではないと言っておいて、しかし,学力の一部であることは確かです。と言っているということは、あなたは学力の全体像を知っているということになります。

 たぶん,dolceさんは教師の指導力の全体像は見えていないでしょう。私も同じです。

 でも,周囲から評価される分,これは「指導力がある」と呼んでいいな,これは「指導力が乏しい実例だな」と気づく例が出てきます。ということは,部分的にも,指導力とは何かがわかっているということになります。

 一部であることを知っているなら,全体像を知っていることになる,というのは,どのような論理なのでしょうか?

 dolceさんお得意の「図解」で示していただけると助かります。
 
 なぜ,日本語の語彙や用法をはじめとした「基礎的・基本的な知識・技能」が,学力の一部である,と言ってはいけないのか?

 dolceさんの思考回路がわかる方はいらっしゃいますか???

 現場感覚の乏しさを疑わせる数々の見解をお知りになりたい方は,どうぞdolceさんのブログをおたずねください。

 無知ぶりを披露してしまった決定的な箇所は,

>指導要録の記入については、決められた様式に従って記入しただけで、学力を意識して記入した覚えはありません。指導要録が、その人間を表す完全なものとも思っていません。

 というところです。だれも,生徒を表す完全なものをつくれ,とは言っていません。

 指導要録というのは,決められた様式によって,「学力を意識して記入」しなければいけないことになっているものです。

 興味のある方は,平成22年5月11日付けの文科省の通知をお読み下さい。

 「小学校,中学校,高等学校及び特別支援学校等における児童生徒の学習評価及び指導要録の改善等について(通知)」です。

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地域モンスター対学校モンスターの戦いの結末は?

 片方が反論されているところを見たことがないので,両者ともにただ人に迷惑のかからないモンスターなのかもしれませんが,地域モンスター対学校モンスターの対抗は「おもしろ哀し」の演劇です。

 dolceさんは,
 
>私は何度も言っていますが「学力とは何か」について、我が国の教育制度では明らかにしていません。
>だから、あちこちで学力云々と語っているのは、個人が勝手にイメージしている学力に過ぎません。
>そういうてんでバラバラな解釈の学力を公教育が聞き入れて、教育に取り入れることなどできないのです。

という主張を,次のように補足訂正されています。

 理由は,途中で「学力」は法律や中教審の答申,文部科学省の行政文書,学習指導要領等できちんと示されていることを知ったからでしょう。それをブログでも引用しています。

 また「学力への勝手な意味づけ」という決めつけはゆずりませんが,「勝手な意味づけ」ではないことは,当事者でなくても,たとえば小学校4年生でもわかることです。

>私が言いたいことは、学力というものの意味がいくつかあるということで、それぞれが学力に対して勝手に意味づけしたものを、あたかも共通のものとして論じても意味がないと言っているのです。

 意味がないことをしているのはご本人ですね。

 とにかく共通のものがないという前提で話を進めているのはdolceさんですから。

 それなのに,人の「思考回路がおかしい」と非難して,論じている。

 2012年には,早くご自身の「おかしい思考回路」に気づいていただきたいのですが。

>誰でも小学校4年生以上の学力を保証せよとわめいている、この者は、自分から発信する意見に対しては異論や反論は認めないと言っています。
>これは「買ってくれなきゃヤダ」とわめいているダダッ子と同じです。
>あちこちの機関にねじ込んで、他人の意見は聞かない、オレの言うことだけ聞けなどと言うことは、そもそも民主社会にはなじまない態度です。
「オレのいうことだけ聞け」という態度だから、少しも正しい思考回路に修正されないのでしょう。
>まさに、地域に凄む迷惑なモンスターと言えます。

 もしdolceさんが学校現場にいたとしたら,これは地域モンスターと学校モンスターの戦いになります。

 地域モンスターは学校モンスターが勝手にそう呼んでいるだけなので,「勝手な戦い」なのですが。

 モンスターとよぶのはモンスターなのです。

 そういう意味では,本当に「共通のもの」。


 「共通のもの」を探ろうという気になれば,できるのです。

 「小4以上の学力を保証せよ」の「学力」は,「基礎的・基本的な知識・技能」のことを指している。

 学力はA,B,C,D,E,・・・・ 

 たくさんの要素が考えられる。

 その中で,地域の人は,Aを重視して,その力の習得を保証してほしい,と望んでいる。

 なぜなら,地域の人にとっては,「基礎的・基本的な知識・技能」がなければ,「その次の学力」を身に付けることができない,そう考えているからです。

 それを,学力のFとかGとかがわかっていないくせに!などといって,

 相手を批判するのは,「共通のもの」を探る気がない,という姿勢の表明にすぎません。


 すべての学校は評価規準資料をつくっていますから,その資料に基づいて批判することが可能なのです。

 塾の先生は,「どれだけ評価規準に示された『おおむね満足』の状況が実現されていないか」が手に取るようにわかるからこそ,学校への批判を展開しているのです。

 だから,「共通のもの」を探る気がない,というのは,「批判をかわす」ことしか考えていない,ととられても,仕方がないわけです。

 こういう態度をもし現場の教師がとったらどうなりますか。

 相手の意図を全く汲み取ろうとしない。

 自分から発信する意見に対しては異論や反論は認めないような教師がいたら。

 このようなやりとり(?)は,ネット上の中だけであれば,dolceさんも言うように,問題はないのです。

 しかし,このdolceさんのような意識の公務員が現場にいたら,いかがですか。

 いかがですか,ではない,たくさんいるのです。それで,公立学校が信頼されないのです。

 こういう人たちを何とかしなければ,という「あせり」は,「強い改革」にどうしても結びついてしまいます。

 観点別学習状況の評価を評定に総括する,という方針は,学校現場から見れば,非常に強く厳しい「しばり」です。

 「そうまでしないと評価(がきちんとできる指導)をしない」

 という意識が,学者や行政の側にあったのです。

 「少しずつ,確実にやるよう努力します」としか,本来は学校は言うことができない。

 でも,「学力を保証します」くらいのことは言わないといけないところに追い込まれている。

 これは,学校現場に厳しく言えば,自業自得なのです。

 「気づき」の2012年に,していただきたいものです。

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現場の教育実践レベルを暴露してしまったdolceさんへ

 結論から申し上げますと,dolceさんがブログで書かれていることは,dolceさんのいた学校が「低レベルな教育実践」しかしてこなかったこと,「低レベルな教育評価」しか行っていなかったことを証明するものになってしまっています。

現場の学校では,学習の評価はこうやってきたんですよ,と言えば,「ペーパーテストで能力を測ったつもりになっていること」の問題への答えになるはずだったのです。

>感受性の強さや美的感覚が強いといったようなものは認められずに終わってしまう恐れ

 なんて,学校教育にはないですよ,と堂々と言えばよかった。

 それが,音楽の指導をしながら,自分がそういう実践をしていなかったために,「学力」という言葉の意味づけがなされていない,と告白してしまった・・・・。

 「学力とは何か」については,「新学力観」が話題になった20年前をはじめとして,度重なる学習指導要領の改訂のときに学校がしっかり把握しておかなければならない問題であって,学校なりの捉え方があったはずなのです。

 それがただの「ペーパーテストへの批判」というdolceさんの目的のために,dolceさんの学校の「通常のペーパーテスト」がいかに低レベルのもの(ただの記憶力を測るもの,模範解答どおりに書かないといけないもの)であり,それを補うための学習評価も,全くなされていなかったのかを暴露してしまったんですね。

 もしかしたら,こう書かれてもその意味すら分からないでしょう。

 気持ちは分かりますよ。
 
 昔,dolceさんが学年主任だったときに,学年主任自らが

 「先生方が体罰をしたら,それは先生方が悪い」と生徒の前で言ってしまい,

 「大歓声があがった」・・・そして「体罰があったことを知った」・・・なんて体制の学校だったそうですから,

 それは学習評価どころではないでしょうね。


 さて,

>「学力とは何か」という質問はないでしょう。
>なぜなら、学力という言葉の意味づけがされていない

 というdolceさんの認識が誤りだったことを知って書かれたのが,新しい記事ですね・・・? 
 
 やっと「国は何を考えているか」に関心をもっていただけましたか・・・

 私のブログを読んでいただいてよかったですね。

 でも,まだ不勉強さがあらわれてしまっています。dolceさんが下に引用している「文部科学省の学力への言及」は,国会を通過した「学校教育法」に示された内容をもとにしているんですよ・・・。

 法律の内容を受けて,今回の学習指導要領の改訂の趣旨がつくられているのです。

 公教育のことを語るのであれば,ここは基礎・基本のど真ん中でしょう・・・?

>文部省が学力について言及しているのは次のところです。
>学力の3つの要素、(1)基礎的、基本的な知識や技能の習得、(2)知識や技能を活用しての問題を解決するための思考力・判断力・表現力の育成、(3)子どもたちの学習意欲の向上を図るために、特に言語活動や理数教育を充実します。
>通常、ペーパーテストで行なっているのは(1)基礎的、基本的な知識や技能の習得だけです。

>通常、行われているペーパーテストはこのようなもので、ほとんど記憶力を試しているに過ぎない。

 すでに今年の教員採用試験や自治体の教育委員会の面接で,「学力」に関する質問は出されているんですよ。これを今のタイミングで知らなければ,「不勉強な人」「基礎的,基本的な知識のない人」という判定結果になります。

 実技教科の免許をもっている人が,面接の質問で4観点を答えられる人が少ない,というのも最近耳にしました。

 そもそも4観点に課題もあるのですが,かといって全くそれを知らないというのも,指導のありようが見えてしまいますから,採用したくなくなる気持ちもわかりますね。 

 このブログでは観点別評価の課題についてたくさんふれていますから,ペーパーテストの限界は改めて申し上げるまでもないでしょう。

 しかし,dolceさんには,中高一貫校が実施している適性検査問題をぜひ解いてみてもらいたいと思います。たぶんdolceさんの想定の外にあるでしょう。「模範解答」がつくりにくい問題もあるんですよ。dolceさんの言う「通常」ではないものが「通常」になっています。

 ペーパーテストがなぜ優れているかというと,同一の基準で受験者が扱われるという,客観性,公平性にあります。

 さらに,聞いている内容が「基礎的・基本的な知識・技能」であれば,その定着度合いを見ることで,そのほかの能力への期待度もだいたいわかります・・・というか,「基礎的・基本的な知識・技能」すら身に付けてない人たちを重くみることはできない,というのは普通の考え方でしょう。

 もちろん,ほかの能力も,参考にすべきなのは確かです。

 でも,入試では,実は,これも参考にされているんですね。

 各教科の「評定」や「行動の記録」などで。

 本来であれば,dolceさんの言いたい諸能力が参考にされた結果が,「評定」なのです。

 dolceさんが,まさか「評定」の出し方を知らない,ということはないでしょうね・・・・。

 でも,dolceさんの文章からは,9教科別に,どうやって「評定」を出しているのか知らないのではないか,と思わせてしまうにおいがプンプンしています。

>ペーパーテストは人の能力のほんの一部、氷山の一角と考えた方がよいのではないかということである。
>実際、卒業後、社会に出て活躍している者と学校時代の成績とどのぐらい相関があるのか調べてみる必要があると思う。

 なんてことを書くから,成績はペーパーテストで決めていた,ということがばれてしまうのです。

 せっかく相対評価の時代から,絶対評価の時代に移る時代の現場経験ができたのに・・・・。

 でも,dolceさんの憤りと,私の憤りは全く同じであることがお分かりいただけましたか?

 まともな教育実践と学習の評価が展開できる学校を増やしていきたい!!

 そういうことですね。
 
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低コンテンツ,無コンテクストのクレーマーたち

 以前,以下のような記事を書いて,コンテンツ(内容そのもの=文字情報、数字データ等)よりコンテクスト(コンテンツ以外のもの=状況、脈絡、雰囲気など)が重視された社会の問題や,一方でネット上ではコンテクストが無視されやすい状況を指摘しましたが,コンテンツが貧弱な上にコンテクストを全く無視して相手を非難しようとする人が増えている状況なので,改めてこの課題を見つめ直さなければと思うようになりました。

 学校は,外部に必要な情報をどんどん提供しなければなりません。

 たとえば,中学校で今年の4月に完全実施になる学習指導要領では,どのような「学力」が重視されているか。だから,どんな学習指導を重点的に行うようになるか,これを説明する責任は学校にあります。

 しかし,この内容すら「内部で知らない教師たち」がいるのも現状です。

 その証拠が,「教科書を見ないと教え方が分からない」と言っている多数の教師たちの存在です。

 「学力」をめぐるコンテンツ,コンテクストの不統一,バラバラさ,無知さ加減にはあきれるばかり。

 低コンテンツ,無コンテクストのクレーマーが生まれてしまうのも無理はありません。

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****************

 コンサルティングを仕事にしている人の中には、アメリカではやっていることをそのまま日本に導入しようとする人もいるようですが、業績を上げているコンサルティング会社は、もっと広い視野から企業活動を捉えているようです。
 日本語による日本でのコミュニケーションの特質に、コンテンツ(内容そのもの=文字情報、数字データ等)よりコンテクスト(コンテンツ以外のもの=状況、脈絡、雰囲気など)が重視されるということがあります。
 「一を聞いて十を知る」
とか、「空気を読め」「察して下さい」
などというのは、「高コンテクスト」・「低コンテンツ」という特質を裏付けるものです。
 掲示板ではないブログでも、コメント欄への書き込みにまじめに答えていればコミュニケーションの手段になっているわけですが、人にとっては(私のように?)相手の意図が読めずに見当違いのことを答えたり、まともに質問に正対してくれない人もいます。
 質問がコメント欄に残ったままで自説を語り続ける人もいますから、ブログというのもよほど神経が図太くないと続けられないものだということがよくわかります。
 特に日本の中高年世代は高コンテクスト・コミュニケーションに慣れ親しんできたため、若い世代の部下に「おい、あれ」「ほら、それ」ですますことができなくなり、悩んでいる上司がクライアントになるのが、最近のコンサルティング業のようです。
 学校現場でも、「そんなこと言わなくてもわかるだろう」「見て覚えていればこんな間抜けなことはしないですんだだろう」という叱責がベテラン教師から若手教師にとぶことがあります。
 「内容なんて関係ない、お前の言い方が気に入らん」という人をなだめるのも一苦労です。
 若手教師の言い分としては、それはきちんと言葉で表現してくれないと分かりません・・・ということがあるのですが、もしこれが若い教師一般の話であれば、学校現場でも「高コンテクスト・コミュニケーション」が低下していることになり、「高コンテンツ」がコミュニケーションに求められることになります。
 私がコメントさせていただく方と、コミュニケーションがうまくいかない理由の一つにも、コンテンツについての関心や知識に大きな隔たりがあることが感じられます。
 理想的には、高コンテンツで高コンテクストが一番なのでしょうが、まず文字情報のやりとりしかないブログでは高コンテクストは望むべくもなく、コンテンツで勝負するしかありません。
 そういう点では、若者の「メール文化」も、「あれあれ」「そう、それ」では何も通じないので、「高コンテンツ」化への移行を促進する効果があるかもしれません。
 非常に多様性の高いメンバーを相手にするコンテクストフリーの環境の中で、コミュニケーションをどのようにリードできるか、これが、教師やファシリテーターに求められる資質であると考えられます。

学力クレーマーと学力向上クレーマーの違い

 社会人は,一般的に承認されている規則,ルールに従ってふるまうことが求められます。

 世の中というのは,たとえば

 1,2,3,4,5,6,(  )・・・・

 という数字の並びがあって,(  )に何が入るか,と問われたとき,多くの人が「7」と答えることで成立しているようなものです。

 2,4,6,8,10,(  )・・・・

 なら,「12」とか。

 こういうわかりやすさを共有できることが,社会で人間が生きていく根本にある,という考え方があります。

 しかし,中には,「(  )に何がくるかはわからないのが正解だ」と言い張って,

 最初の問題の答えは,1かもしれないし,11かもしれない,それは,1から6の数字の繰り返しの並び(学校現場では,6人のグループをつくるときなどで使います)であったり,下一桁が7,8,9,0の数字は使わない(これはどんなルールかよくわかりませんが)可能性があるからだ,と言うかもしれない。

 こういう人は,社会からは「変人」「奇人」と見られ,疎外される可能性があります。

 しかし,こういうのが,全く新しい発見をして,社会の進歩に貢献してくれる「研究者」の資質かもしれない(進歩であると同時に破滅をもたらすものもあるでしょうが)。

 「研究者」は,少数の人であることが,望ましいでしょうね。ものごとが先に進まなくなります。

 クレーマーという人間を仮に,「研究者」でもないのに,「多くの人たちの承認」が得られていることに背を向けて異議を申し立てる人,とすると,その迷惑さ加減がわかりますね。全体主義・軍国主義の中で,「戦争反対」を訴えるというのは,「例外」です。


 世の中には,すべてを言葉で表現することが難しいものがあります。

 というより,言葉ですべてが表現できる,相手にわからせることができる,と考えるのがおかしい。

 あることを知らない人が,知っている人たちから,自分が知らないものを自分が知らない言葉で説明されても,いつまでたっても「あること」が何か,「わかった」とよべる状態にはなかなかなりません。

 「象」とは何かは,やはりいくつかの種類の象を実際に見ることで,「わかった」と言える状態になる。

 こういう例でさえ,「蝶」と「蛾」の区別はなかなか「わかりにくい」のが正しいかもしれない。

 

 学校の教師も,これでよく失敗します。

 自分がわかっている言葉で,相手がわからないことを説明しようとしますが,その「自分がわかっている言葉」が相手もわかるとは限らないことを忘れてしまうからです。

 たとえば,歴史の授業ではこういう事態が頻繁に起こっています。

 「学力」については,学校教育法や学習指導要領などで具体的に示されているものが何をさすのか,これは教師は何となくわかっても,子どもの方ではなかなか「わかる」状態にならないのが普通でしょう。

 でも,教科書に出ている問題が解ける,解けない,そこに書かれている意味がわかる,わからない,楽器が演奏できる,演奏できない,という「違い」は,だれの目から見てもわかる。

 その「違い」の穴埋めを学校がすべきかどうかは,そもそも「違い」が生まれないはずのものについて「違い」が生じた場合は責任を追及されることがあるかもしれませんが,「違い」の程度が低ければ,「そこまで学校が責任を負うことはない」と考えられてしまうでしょう。だから,評価で「努力を要する」という判定を下すことが学校に許されているのです。

 「学校はこの違いを埋めてくれない」ことが子ども,親の側に承認された場合,あるいは,「学校が想定していないもっとたくさんのことができるようになること」をめざす場合は,塾や習い事の教室に通うようになるわけです。

 塾の側から,「学校ではこんなこともできるようにしてくれないのか」と言われることもあるでしょう。

 塾の側は,「あなたがこれをできるようにならないのはおかしい,もっと努力しなさい」と子どもに言う場合もあるでしょう。しかし,「努力する場」としての「塾」は,家庭や学校より適しているので,結局,通うことになる。

 塾の側は,「これができる,できない,という違いが,希望通りの進学を果たす上でどの程度,問題か,問題でないか,が学校よりもわかっていて,学校よりひとりひとりの要望に応えやすい」という利点もあるのが特徴でしょう。

 塾嫌いの人間が,「入試をなくせ」というのは当然の理屈です。

 そうでなければ,学校が責任を負わなければならなくなるから。

 「入試をなくせ」という主張を,塾と全く切り離したところで展開するのであれば,また別の話になります。

 そういうタイプの人の主張には,「入試をなくせ」ではなく,「入試で問うものをもっと増やせ」という話に変化する可能性も秘めています。
 
 しかし,塾をなくしたい,というのが話の前提である以上は,入試をなくせとか言えなくなってしまうでしょう。

 
 クレーマーと,そうでない人の違い。

 「学力の要素をすべてあげる」ことを第一と考える人。

 「学力の要素のうち,もっと学校でしっかりとつけさせることができるもの,つけさせるべきものとは何かを追究する」ことを第一と考える人。

 世の中に「完全」があると信じ込んでいる人。

 世の中に「完全」なものはない,と認識できる人。

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dolceさんはやはり誤りを認めることができないのか?

 前の記事について,dolceさんから「反論」をいただきましたので,お答えします。


 やはり「学力を勝手にイメージしている」からは抜け出せていないと思いますね。

>思考をはたらかせるには,まず「言葉の意味と用法」を身につけなけれ
>ばなりません。つまり,「基礎的・基本的な知識・技能」は,今までも,
>これからも,必要な学力の要素に間違いありません。

だったら、これを実現すれば学力というものが高まるのですか?
「必要な学力の要素」と言われますが、では「学力の要素」を全部挙げるとどういうことになりますか?

 「学力とは何か」はわからない,といっている人に,この質問への回答をしても無意味のような気もしますが,こういうことです。

 「基礎的・基本的な知識・技能」を習得させるこということは,そういう意味での「学力」は高めることができた,ということです。「基礎的・基本的な知識・技能」は,学力のすべてではありません。しかし,学力の一部であることは確かです。

 「学力の要素」は学校教育法に示されているものをご紹介しましたが,なぜ「全部」にこだわる必要があるのでしょうか。

 dolceさんの言っていることは,「日本の経済がよくなったとしても,日本がよくなったとは言えない」ということですよね。

 「基礎的・基本的な知識・技能」だけを向上させようとすれば,主体的に学ぶ意欲が失われる可能性があります。こういうこともふまえて,今回の学習指導要領の改訂の趣旨に取り上げられています。特に思考力・判断力・表現力については,「言語活動の充実」によって支えていこうとうのが大きな変化です。ちゃんとやってきた学校はすでに「新しい取組」などではないのですが。

 「学力向上」といったときには,学力の総体を向上させることをねらいとしているのは当然ですが,学力にはさまざまな側面があり,それぞれの側面を相乗効果的に高めていこう,というのが普通の教師の考え方です。

 学力の全側面が解明されていないからといって,「学力を勝手にイメージしている」と決めつけるのはおかしなことです。「イメージ」なのだから,そもそも自由であってしかるべきでしょう。

 学力を広く考えるのは大切なことです。

 しかし,「きちんと定義されないのだから,それぞれのイメージは勝手なものだ」として否定的な発言をするのはいかがなものでしょう。

 自分の「学力のイメージ」はほとんど語ることなく・・・。

 こうやって自分だけ安全な?場所にいて,他者を攻撃するのが信頼されない教師の典型的な姿なのです。
 
****

また、視点を変えて、私が懸念するのは、あなたの言う
「基礎的・基本的な知識・技能」を測るためにどういう手段をとるのですか?

そして、ここで言われる「基礎的・基本的な知識・技能」とは具体的に何ですか?

 さしあたり,ご自分がなさっていた測定方法をふり返ってみてください。

 あなたは28年間教員をしていたのでしょう?

 指導要録に,何をどのように判断して記録しましたか?

 それはいい加減なものだったのですか? 根拠なく書き込みましたか?

 まだ学校に保管されているものがあるから確かめればすぐにわかるでしょう。

 行動所見などを見れば,どんな教師だったか,すぐにわかりますよ。

 基礎的・基本的な知識・技能については,さしあたり,学習指導要領に示されている内容から判断してきたでしょう?

****

よくわからない測定方法によって「かけがえのない一人一人」の力を無視してしまったということはないのでしょうか?

 かけがえのない力の中には,測定できないものがあるのは確かですね。

 しかし,測定していないから無視したことになる,というのもかなり一面的な考え方ですね。

 この「無視」というは,どのような場面を想定しているのですか?

 入試ですか?

 それとも指導要録ですか?

 それとも実際の授業場面ですか?

****

「誤りを認めることができるか」の「誤り」とは何ですか?

 たとえば,学力の重要な要素である「基礎的・基本的な知識・技能」・・・学習指導要領に示された内容を習得させることが大切だ,と思っている大多数の子どもや保護者,教師に対して,「学力を勝手にイメージしている」と決めつけるのは誤りです。

 というより,自分の「誤り」に気づこうとしないことが,根本的な「誤り」なのです。

 
 そもそも,学習指導要領が改訂されるときに,学校で「学力とは何か」を議論した経験はないのですか?

 
 dolceさんは,「豊かな人間性」を定義することができますか?

 定義できないものだから,その人間性の一面を向上させようとする取組に賛成できない,という姿勢になるのですか?

 質問ばかりですみませんが,「誤り」に気づいていただくためには,すべてクリアにしてもらいたいと思います。

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dolceさんは誤りを認めることができるか?

 2012年最初のテーマがこれとは・・・。

 塾関係の方のブログを敵視しているdolceさん。

 こんなことをおっしゃっています。

>私は何度も言っていますが「学力とは何か」について、我が国の教育制度では明らかにしていません。

 文部科学省のHPは当然ご覧になっていますよね。

 「確かな学力」とか,学校教育法に示された「学力の要素」とかはご存じないのでしょうか?

 「新学力観」が話題になったころ,あるいは総合的な学習の時間の指導が始まったときは,まだ現職だったと思われますが・・・・?

****

>だから、あちこちで学力云々と語っているのは、個人が勝手にイメージしている学力に過ぎません。
 
 普通の教師は,学習指導要領に示された目標を達成することが,「学力」を身に付けさせることだと考えています。だから学習指導要領の内容を,さまざまな教材や指導方法を工夫して,子どもに定着させるように努力しているのです。

 普通の子どもや保護者がイメージしている学力は,たとえば「教科書に書かれていることを理解して,活用できるようになっている力」のことです。

 文部科学省は,今までの学力が「知識・技能」に偏重していた,という反省から,「思考力・判断力・表現力」を伸ばしたり,主体的に学ぶ意欲を育てることを重視していますが,思考をはたらかせるには,まず「言葉の意味と用法」を身につけなければなりません。つまり,「基礎的・基本的な知識・技能」は,今までも,これからも,必要な学力の要素に間違いありません。

 これを「個人が勝手にイメージしている学力」とよぶのは誤りでしょう。

 この面の学力すら身に付いていない子どもが多いようでは,学校が責任を果たしているとは言えない,というのは当然の話で,特定の指導に配慮が必要な子どもを例に出して,「私に責任はない」というような態度を示すのは,最低の教師の姿であり,「だから教師はだめなんだ」と思われる原因になるのだと言わざるを得ません。

 批判を受ける原因に気づけないのはなぜなのでしょうか。

****

>そういうてんでバラバラな解釈の学力を公教育が聞き入れて、教育に取り入れることなどできないのです。

 バラバラの解釈でも,未来を生き抜くための力として必要だ,重要だとの共通理解が得られるなら,どんどん公教育に取り入れるべきでしょう。

 教育は,dolceさんのような視野の狭い人間をつくらないようにするために,多面的・多角的なものの見方や考え方を身に付けさせる努力をしなければなりません。
 
 dolceさんは中高一貫校の適性検査問題をご覧になったことがありますかね。

 求めている学力とは何かを,しっかりメッセージとして発している学校が増えてきています。

****

 dolceさんの「誤り」は,特定の人を批判するために,思考の及ぶ範囲を極端に狭めてしまっていることです。

 まずはボタンのかけ違いからスタートしているわけですから,同じ出発点から始めたいところですが・・・。

 さて,これから教職をめざす方々には,職場にこういう教師がいた場合,周囲はどのようにバックアップしたらよいか,フォローしたらよいか,あるいは遠ざけたらよいかを真剣に考えておいて下さい。

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学力向上に後ろ向きの人間をなくすための2012年

 同じような考え方を基礎としながらも,進む道が違ってしまう人がいるのはなぜか。

 それは自分なりの解釈を大切にしようとするかどうかの違いです。


 「正しさ」は自分にしかない,相手は完全に「間違っている」,しかしそういう考え方が受け入れられない,という経験をすると,人間は激しくゆがむものです。

 もともとゆがんでいた人が,そのゆがみを矯正できないところまで到達してしまう負のスパイラルに陥る例を私もたくさん見てきました。


 何かあると,相手は「正しくない」,という主張を全面に掲げる。


 過去には,権力者が言ったことが「正しいこと」であり,それをただ受け入れるのが人々の義務でした。

 現在は,「正しいこと」とは何かを追究し続けることが,私たちにとっての課題です。


 「正しいこと」は,みんなでつくりあげていく,そういう生き方が求められているのです。

 
 こんなご意見が寄せられました。ダメ教師を象徴するようなコメントの全文を紹介いたします。


***********************

「学力とは何か」という質問はないでしょう。
なぜなら、学力という言葉の意味づけがされていないのですから。

学力について質問するのなら「あなたは、学力をどう定義しますか」となるでしょう。

「学力テスト」と名付けたテストが、学力を測っていると思っている人たちがいますが、その人たちは何もわかっていないと言えます。

「学力」の意味が大切なのは、本当に価値ある人間の能力をどう捉えるかということに関わっているからだと思うのです。

よく「ひとりひとり」という言葉が出てきますが、現行の入学試験が本当に、人間の価値を審査しているのかという疑問に対して、ほとんど意味をなしていないからだと思われます。

本当に、ひとりひとりを活かすためには、形式的なテストで人を価値判断するのではなく、その人が持っている価値をうずもれさせることなく評価することを考えねばならないと思います。

************************

>「学力とは何か」という質問はないでしょう。
なぜなら、学力という言葉の意味づけがされていないのですから。

(回答)たった一つの言葉だけで,その人を「採用しない」決定的な要因になるほどの言葉があったのですね。

 「学力という言葉の意味づけはなされていませんから,その質問には答えられません」などと答えたら,そのあとの質問はもう必要ないでしょう。

 まず,この方にとっては,「正解」が決まっている「問い」しか「問い」にならないのですね。

 こういう人が学力を語ると,それは非常にせまいものになる可能性が高いでしょう。

 「学力とは何か」とは,みんなが追究している,教育にとっては大事な「問い」です。

 その「問い」に,あなたは現時点でどのような「見解」をもっているか,そういう趣旨で「問われる」ことはあります。私が実際に問われた問いだから,「あなたの指摘は間違っている」と指摘せざるを得ません。

 学力とは何か,の意味づけがなされていないので,学力をつける教育はできない,という教師がいたら,子どもや保護者はどう思うでしょう。
 
 「問い続けることのできる力」が,現在の「学力観」では重要視されています。

****

>学力について質問するのなら「あなたは、学力をどう定義しますか」となるでしょう。

(回答)もしこの質問をされたら,「私は学力を定義する立場にはありませんが,学校教育法には,生涯にわたり学習する基盤が培われるよう,基礎的な知識及び技能を習得させるとともに,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくみ,主体的に学習に取り組む態度を養うことに特に意を用いなければならないとありますから,教科ごとの基礎的な知識や理解,社会科であれば資料活用の技能,それらを活用して思考・判断し,表現する力,さらには社会的事象に対する関心・意欲・態度を基本的な学力の要素として認識したいと考えています」と答えるのがよいでしょう。

****

>「学力テスト」と名付けたテストが、学力を測っていると思っている人たちがいますが、その人たちは何もわかっていないと言えます。

(回答)そうではありません。まず,ペーパーテストで学力のすべてを測っていると考えている人は一人もいないでしょう。しかし,学習指導要領に示された内容に関する基礎的・基本的な知識や技能の習得状況は容易に測ることができます。資料を活用し,根拠をもって自分の考えを示す力もある程度は測定することができるでしょう。
 「何もわかっていない」と決めつけるのは,「何もわかっていない」と決めつけたいこの人の心のあり方の説明にすぎないのです。  

****

>「学力」の意味が大切なのは、本当に価値ある人間の能力をどう捉えるかということに関わっているからだと思うのです。

(回答)「本当に価値のある人間の能力を捉える」には,「学力」という面だけから人を見てはいけないわけですよね。なぜ「学力」が高いのに,裁判で有罪判決を受けるような結果になるのか。なぜ「正しい」はずの自分が有罪なのか。そういうことを考える能力は,「学力」の範囲を超えているでしょう。

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>よく「ひとりひとり」という言葉が出てきますが、現行の入学試験が本当に、人間の価値を審査しているのかという疑問に対して、ほとんど意味をなしていないからだと思われます。

(回答)入学試験のうち,学力検査が「人間の価値」全般を審査することを目的としてないことは,だれの目にも明らかでしょう。主にひとりひとりの「基礎的・基本的な知識・技能の習得状況」を確かめるのが学力検査の目的です。

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>本当に、ひとりひとりを活かすためには、形式的なテストで人を価値判断するのではなく、その人が持っている価値をうずもれさせることなく評価することを考えねばならないと思います。

(回答)そのために,小論文や作文,面接などが入学試験では取り入れられているのです。しかし,それでも「人の価値」はそう簡単には測定できません。「人を選抜する」には,どこかの時点で妥協しなければならないことはつらいことです。
 東京都では,服装や態度が悪い生徒の入試得点を低く操作していたことがありました。これを,決まりを無視した行動と,簡単に批判できないのは,もしかしたら正しい「価値判断」なのではないか,と考える人がいるのがわかっているからです。

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 おそらくこの質問を寄せた方と,私との間には基本的な見解の相違はありません。

 しかし,「態度」が正反対になっています。

 「小学校卒業段階では,4年生くらいまでの学力は全児童に保証すべきだ」と意見に対して,

 特別な支援を必要とする児童を例に挙げて,こんな子どももいるんだから無理な話だ,

 とつきはなすような教師があなたの学校に一人でもいたら,どうですか。

 こういう0か1かという発想しかない単純な・・・それでも「コンピュータはその原理で動くのだ」と主張するのかもしれませんが・・・人ではなく,

 4年生くらいまでの学力の総体として,学習指導要領に示された内容をどう解釈するか

 という前向きの発言をする人でないと,教育は前進しないでしょう。

 「4年生くらいまでの学力」という言い方は,単純に,教科書に書かれていることが理解でき,活用できるようになっていること,くらいの意味であることは明らかです。

 「自動車の免許を取りたいと思って自動車学校に入学したら、その自動車学校では、入学者を必ず合格させると約束はしていないのと同じ」なんてことを言ってしまうと,「実技の面では合格させるまで学ばせるだろう。なぜ,税金を使っている学校で,それができないんだ」という反論を受けてしまうのは必然でしょうね。


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 「態度」を変える力が,未来を生き抜くために非常に重要な「力」であることは間違いないでしょう。

 では,反論を,どうぞ。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より