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ようやくdolceさんの出番が到来!

 今まで大事な大事な質問をスルーしてきたdolceさんの答えが,ようやく次の記事で読めるようになると思うと,楽しみで仕方がありません。

 問題解決力を「高める」実践例なのですから,水準以上の期待でいっぱいです。

 本当にあるのか?という疑問は今までのやりとりの経緯からぬぐえないものもあるのですが,「理論」だけ知ってても何の役にも立たない,というのは初任者をはじめ多くの教師が抱いている感覚ですから,「実践」事例の紹介は本当に意味のあることです。

 これから教職につこうとしている人も,必見です。

 dolceさんの発想や思考過程は,小学校の教師特有の,「一人親的思考と行動の積み重ね」から生み出されてきた・・・これは「1クラス」が実践のフィールドなので無理もない話なのですが・・・ものであり,なかなか自分たちの実践の問題点が見えない・・・たとえば悉皆研修なら教師は学校を離れて子どもに「自習」をさせてもいいとか,「自習計画がある」とか,そういう発想が当然のようなものになってしまう・・・ことから,「自分のクラスがよければそれでよい」というレベルからどう抜け出すことができているのか,ということに興味がわいてくるのです。

 「問題解決力」のない教師に,「問題解決力を高める」学習指導が可能なのか,・・・「能力のない人でも指導は可能だ」という理論があるかどうか,わかりませんが・・・そこにも興味があります。

 今のところ,非常に眉唾的な言葉に,「問題解決主義」というのがあります。

 私はあまり耳にしたことがありません。

 「受容主義」という言葉もハテナです。

 少なくともdolceさんは「受容主義」ではない人の代表みたいなものですから。

 「受容主義」の代表は,dolceさんの記事が出たすぐ後になぜか長文のコメントを毎回入れているナントカさんのような人です。

 「集団主義」という言葉はありますが,これは最後に指導の成果が「個人」にかえるのか,「集団」こそ上位なのか,今のところあやふやです。「個人レベルで問題解決力は高められないのか」といういじわるな質問は避けておきましょう。

 さて,私が問題解決的な学習の指導者の評価を行うときにポイントにしているのは,以下のことです。

 ○既得の基礎的・基本的な知識や技能が,活用されているかどうか。

 ○問題解決的な学習をとおして,基礎的・基本的な知識や技能の習得がさらに促されているかどうか。

 ○生徒の単なる関心ではなく,知的好奇心を高める教材を「予備」も含めて教師が準備し,生徒に提示できているかどうか。

 ○学習をとおして,「新たな問題」に気づき,その解決に向けての意欲を高めているかどうか。

 ○生徒自身が学習の目的を自覚して,学習における進歩の状況を意識しているかどうか。

 ・・・問題解決的な学習というのは,そう簡単にできるものではありません。

 学力面でも,その「前提になるもの」が必要なのです。

 最後に,その点にふれられていくような方向性だと,本当に実践に役立つ指摘になると思われます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より