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« 学力向上に後ろ向きの人間をなくすための2012年 | トップページ | dolceさんはやはり誤りを認めることができないのか? »

dolceさんは誤りを認めることができるか?

 2012年最初のテーマがこれとは・・・。

 塾関係の方のブログを敵視しているdolceさん。

 こんなことをおっしゃっています。

>私は何度も言っていますが「学力とは何か」について、我が国の教育制度では明らかにしていません。

 文部科学省のHPは当然ご覧になっていますよね。

 「確かな学力」とか,学校教育法に示された「学力の要素」とかはご存じないのでしょうか?

 「新学力観」が話題になったころ,あるいは総合的な学習の時間の指導が始まったときは,まだ現職だったと思われますが・・・・?

****

>だから、あちこちで学力云々と語っているのは、個人が勝手にイメージしている学力に過ぎません。
 
 普通の教師は,学習指導要領に示された目標を達成することが,「学力」を身に付けさせることだと考えています。だから学習指導要領の内容を,さまざまな教材や指導方法を工夫して,子どもに定着させるように努力しているのです。

 普通の子どもや保護者がイメージしている学力は,たとえば「教科書に書かれていることを理解して,活用できるようになっている力」のことです。

 文部科学省は,今までの学力が「知識・技能」に偏重していた,という反省から,「思考力・判断力・表現力」を伸ばしたり,主体的に学ぶ意欲を育てることを重視していますが,思考をはたらかせるには,まず「言葉の意味と用法」を身につけなければなりません。つまり,「基礎的・基本的な知識・技能」は,今までも,これからも,必要な学力の要素に間違いありません。

 これを「個人が勝手にイメージしている学力」とよぶのは誤りでしょう。

 この面の学力すら身に付いていない子どもが多いようでは,学校が責任を果たしているとは言えない,というのは当然の話で,特定の指導に配慮が必要な子どもを例に出して,「私に責任はない」というような態度を示すのは,最低の教師の姿であり,「だから教師はだめなんだ」と思われる原因になるのだと言わざるを得ません。

 批判を受ける原因に気づけないのはなぜなのでしょうか。

****

>そういうてんでバラバラな解釈の学力を公教育が聞き入れて、教育に取り入れることなどできないのです。

 バラバラの解釈でも,未来を生き抜くための力として必要だ,重要だとの共通理解が得られるなら,どんどん公教育に取り入れるべきでしょう。

 教育は,dolceさんのような視野の狭い人間をつくらないようにするために,多面的・多角的なものの見方や考え方を身に付けさせる努力をしなければなりません。
 
 dolceさんは中高一貫校の適性検査問題をご覧になったことがありますかね。

 求めている学力とは何かを,しっかりメッセージとして発している学校が増えてきています。

****

 dolceさんの「誤り」は,特定の人を批判するために,思考の及ぶ範囲を極端に狭めてしまっていることです。

 まずはボタンのかけ違いからスタートしているわけですから,同じ出発点から始めたいところですが・・・。

 さて,これから教職をめざす方々には,職場にこういう教師がいた場合,周囲はどのようにバックアップしたらよいか,フォローしたらよいか,あるいは遠ざけたらよいかを真剣に考えておいて下さい。

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コメント

それでも,今年は「狂ってる」とか「頭がおかしい」とか「小学生レベル」というけなし方はされていませんね。
とても品のよいdolceさんに成長されたことが伝わってきます。

今度の墓穴のほり方は,痛々しいですね・・・・。
自分のコメントと私のコメントの区別もつかなくなってしまって・・・・。

音楽専科の先生への偏見が高まりそうなコメントですね。
最後の決め手は「文部科学省の犬」ですか。
現場の嘆きがまたよみがえってきました。

やはり「学力を勝手にイメージしている」からは抜け出せていないと思いますね。

>思考をはたらかせるには,まず「言葉の意味と用法」を身につけなけれ
>ばなりません。つまり,「基礎的・基本的な知識・技能」は,今までも,
>これからも,必要な学力の要素に間違いありません。

だったら、これを実現すれば学力というものが高まるのですか?
「必要な学力の要素」と言われますが、では「学力の要素」を全部挙げるとどういうことになりますか?

また、視点を変えて、私が懸念するのは、あなたの言う
「基礎的・基本的な知識・技能」を測るためにどういう手段をとるのですか?

そして、ここで言われる「基礎的・基本的な知識・技能」とは具体的に何ですか?

よくわからない測定方法によって「かけがえのない一人一人」の力を無視してしまったということはないのでしょうか?

「誤りを認めることができるか」の「誤り」とは何ですか?
あなたの言っていることが正しいのですか?

「学力」の意味はどこに定義してありますか?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より