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dolceさんの文部科学省的学力観と「生きる力」

 dolceさんが事典から引っ張ってきた「問題解決能力」を成立させる3つの要素=①情緒的感動性②知性③実践能力を,「生きる力」をつけるために各教科において実践しなければならない,というのは正しい主張です。

 その実践を具体的に行うための条件設定まで考えなければいけないのが現場の教師なのですが,ここでは脇においておきます。

 文部科学省が,「生きる力」をキーワードに教育の目標を示すようになったのは,今から16年前の話でした(当時は文部省)。

 1996年,中央教育審議会が「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」という諮問に対する第1次答申の中で,

 我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。

 と述べています。この理念を受けて創設されたのが総合的な学習の時間でもあります。

 この時点では,「ゆとりの中での特色のある教育によって生きる力をはぐくむ」という方針でしたが,「ゆとり」という示し方をしたために,そして週5日制を実施するために授業時数を大幅に削ってしまったために,「基礎的・基本的な知識・技能」の習得がおろそかになってしまったという批判なり反省なりを受けて,新しい学習指導要領では,「ゆとりでも詰め込みでもなく、生きる力をよりいっそうはぐくむ」という方針に変わりました。

文部科学省というより,中教審の答申で,「基礎・基本の重視」という前提となる当たり前のことを「書かなかった」こと,文部科学省が「基礎・基本の重視」を大きく取り上げなかったことが,余計に「問題解決的な能力を育成するような授業が,都道府県名やその位置すら知らない子どもを生み出す」として批判の対象になったのです。

 学力や生きる力をめぐる問題を扱う場合は,そういう「基礎知識」を頭に入れておく必要があります。

 docleさんは,10年前の文部科学省の方針どおりの主張をしているだけなのです。

 あと,dolceさんの理解が不十分であるのは,学習指導要領というのが現場の教師や元現場の教師だった教科調査官によって,中教審の答申等をふまえて作成していることで,特に各教科等の「解説」はこういう人でなければ書けない,ということです。

 学習指導要領を批判する,ということは,現場の教師を批判している,ということになってしまうのです。

 学習指導要領は大臣が誰であろうが関係なく、別の人間が作っているのではないかと考えたくなる。

 それはあたりまえのことですね。大臣が替わるたびに学習指導要領をつくっていたら,大変なことになります。

 また,dolceさんの「生活指導」観は,学習指導要領の「総則」に書かれていることと同じで,正しい主張です。

 結局,dolceさんも文部科学省のポチであったということです。

 さて,

 子どもがどれだけ答えを知ったかではなく、いかに問題に取り組んだかを最も評価すべきなのである

 という主張も,ほぼ正しいものです。

 ただ,残念なのは,「いかに問題に取り組んだか」は,「どんな問題に取り組んだのか」も含めて,現実的には指導にあたった教師しかわからないものであり,外部の人間はそれを評価することができません。

 ですから,今では,「観点別学習状況の評価」を踏まえて「評定」としているのであり,これが入学選抜のための資料にもなっているのです。

 しかし,生徒を受け入れる側からすると,こうした「評定」が高いのに,「基礎的・基本的な知識及び技能」が身に付いていない人がいる・・・だから,より信頼性の高いデータとして,

 「いかに問題に取り組んだか」は,その結果,身に付いたはずの「知識及び技能」を重視して判断したい,という学校が増えるようになりました。

 dolceさんはご存じだと思いますが,日本の戦後の教育がスタートしたとき,問題解決能力の育成が重視され,そのような方針で学校は教育内容を編成することができたのです。

 しかし,その成果が十分に得られなかった。

 学力低下の問題は昭和20年代から始まっているというのは,このブログで紹介したとおりです。

 「問題解決能力の育成」というのは,それを目標に掲げたとしても,実現させるためには相当の指導力が必要なのです。

 もしdolceさんが「問題解決能力の育成」について,ブログの趣旨通りの内容をお知らせいただけるのであれば,一番良いのは「総合的な学習の時間」の指導をどう工夫して,どんな成果が出せたのか,ということを教えていただくことです。

 あと,塾を攻撃するのは何の意味もないことで,繰り返しになりますが,ますます現場の足を引っ張ることになることを自覚していただきたいのです。

 「基礎的・基本的な知識及び技能」も習得させられない学校に期待できない子どもや親が,「しかたなく」選んでいる場所なのだということを,忘れてはなりません。義務教育は無償なのに,高い教材を買わされる。しかし力はつかない。それなら塾の教育も無償のかたちで実現できないか,それが杉並区和田中ではじまった取組でした。
 
 あともう1点,
 
子どもがどれだけ答えを知ったかではなく、いかに問題に取り組んだかを最も評価すべきなのである

 については,「個に応じた指導」を行う上で,非常に重要な視点です。

 個人内評価では,この観点は欠かせません。

 私の予想では,Aさんはこうした,こうだった,というdolceさんが紹介することはできますが,「学校全体として・・・を実践し,・・・・という成果を得た」という話はできないと予想します。

 なぜなら,「教師の仕事の効率化」という発想が可能なのが小学校教師であり,「学校の仕事の効率化」という組織の問題を語れないのが小学校教師の特色だからです。

 余計な話ですが,組織なら,成果の上がることを効率的に仕事ができる人に仕事が集中してしまい,結果として,人の仕事も引き受けるため,「早く家に帰る」ことなどできなくなるのが中学校です。

 それがいいと言っているわけではありませんが,子どものことを考えれば,それもやむなしです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
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    「孟嘗君 2」より
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    「太公望 中」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より