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「教育に情熱をかける教師のために」のdolceさんへの公開質問状

 学力を向上させたいと願う教師がどこにもいます。

 自分自身もそれを願っているし,子どもも「努力はしたくないけど,~はできるようになりたい」と思っているし,保護者からはきつい催促が待っている。

 その「学力」のとらえ方は,子どもや保護者の場合は「基礎的・基本的な知識・技能の習得」に関する面に偏っているかもしれませんが,教師の側は,それを活用させ,思考力・判断力・表現力を高める力もつけようと思っている。

 そういう教師に対して,今年1月からの「学力はどう定義すべきか」~「問題解決能力の検証」という記事は何かに役立つと思われますか?

 そもそもが,「やりたいことをやりに来ている子どもたち」を対象とした部活動の実践を紹介することが,その答えになり得るとは考えにくくはありませんか?

 問題解決能力については,記事の中で,何も検証されていないので,本題は(4)から始まるのですよね?

 dolceさんは,「受容主義では教師の行動がモデルになる」と言われますが,「AということはBではありませんか?」という質問をする人に対して,「私がBであると捏造している人間がいる」なんていう対応をとるような人間は決して受容主義ではないし,教師になってはいけない人間のタイプだと思われませんか?

 下のやりとりを読めば,「受容的態度」がとれない人とはどのような人のことなのか,よく分かると思います。

 dolceさん式の「捏造」という「決めつけ」方が,どのように行われているかについては,この記事の最後の方をお読み下さればよくわかります。どのような「悪意」をもって「捏造」という言葉を使うのかもよくわかります。

*******************

>私は自分の実践を脚色などしないで正直に書く。
>これがベストだとは思っていないし、こういうやり方がいいとも思っていない。
>だから、大いに批判は受け入れるし、また、批判に耐えてこそ本物に近づくと思っている。
>ただ、批判はいいのだが、恐らく私の実践に対して悪いイメージを他人に植え付けようとの意図だど思うのだが、私が「かくかくしかじかと言っている」と言ってもいないことを捏造をする人がいる。
>こういう場合「どこに、そういう文面がありますか?」と質問しても返事があった試しがない。捏造なのであたりまえの話だが。

*******************

 今は,批判の題材となる「実践に役立つことがら」は何もないのが現状です。

 私の記事を引用して,回答を寄せてくれましたが,その回答へのお返事は読まれましたか?

 あなたは「AはBだということではないですか?」という質問に対しては,

 『私がAはBだと言っている』とお前は捏造した,という反応のされ方をしていますが,

 これを捏造だと言ったら,世の中のすべての「意見」や「感想」はみんな「捏造」になってしまいますよ。

 改めて,お聞きしますが,dolceさんは,現行の学習指導要領に移行したときは,まだ現場の教師であったはずです。そこでは,「総合的な学習の時間」の指導を行っていたはずです。

 その指導で,「どのような学力観をもとに実践されていたのですか」というのが私の質問でした。

 まだ,お答えをいただいておりません。

 dolceさんの回答パターンを分析して,これが「受容主義」を理想とする人間かどうか,また,どのような実践を語ることができるのかどうかを,判断していただきましょう。

 一応,私の考えもここで書き加えておきます。太字がdolceさんの回答でした。

***********************

 [※1]学力については色々な人が、色々な解釈をしているからそれらの人の「学力の意味」は一致しない。「学力を勝手にイメージしている」からは抜け出せていないのではなく、現状がそうであるということです。つまり正しい認識をしているということです。

 これは,自分自身が書いた言葉を,私の言葉と誤解して,説明を加えた部分。

 dolceさんにとっては,「基礎的・基本的な知識・技能の習得」すら「勝手なイメージ」であって,その大切さを私が(私だけでなく,普通の人はみんな重要視していると思われますが)訴えると,「これを実現すれば学力というものが高まるのですか」とか,「学力の要素を全部挙げるとどういうことになりますか」という反応をされる。これは,事実ですね。捏造ではありません。

 なぜ,「基礎的・基本的な知識・技能の習得」の大切さを認めようとしないか。それは,推測ですが,今の日本のテストは,「基礎的・基本的な知識」ばかりに重点がおかれている。こういうテストは悪い。という認識をお持ちである。しかし,そういうテストが悪いからと言って,基礎的・基本的な知識の習得が悪いことではないはずです。
 これも推測ですが,dolceさんは,「基礎的・基本的な知識」しか出されないテストを想定している。つまり,文科省の学力調査の問題を知らない。知らないで批判している。これは推測ですが。

[※2]ということは、あなたは「基礎的・基本的な知識・技能」を習得させるということは学力を高めることだと捉えているわけです。しかし、そう捉えてはいない人もいるのですから、それはあなたのイメージということです。
つまり、他の人の考えとは一致していないから、学力については色々な解釈(勝手なイメージ)が存在するということです。

 もし,教師の中に,「基礎的・基本的な知識・技能」を習得させるということは学力を高めることだと捉えてはいない人がいたら,学校教育法を無視した人間ということになってしまいますね。こういうことだから,教師が信用されなくなるのだろう,というのが,私の推測です。

[※3]「基礎的・基本的な知識・技能」は学力のすべてではないと言っておいて、しかし,学力の一部であることは確かです。と言っているということは、あなたは学力の全体像を知っているということになります。だったら、学力とは何か、全体像を説明していただけませんか?
それから「基礎的・基本的な知識・技能」が学力の一部であることは確かですとは、どうしてそう断言できるのですか?
さらに、そのためには「基礎的・基本的な知識・技能」とは何かを明らかにする必要があります。

 学校教育法の内容をdolceさんはご存じなかったようです。推測ですが。学習指導要領も,もしかしたら音楽すら読んでいなかったのかもしれませんね。推測ですが。

[※4]タイヤは自動車の一部です。あなたは、ディーラーがタイヤを説明しただけで、自動車の全体にはこだわりませんか?

 私は車を買うとき,タイヤの説明を聞く人はそんなに多くないと思いますが。だから,これはたとえが悪い。まずは,「タイヤがついているのは大前提だ」というのが普通の人の認識でしょう。「基礎的・基本的な知識・技能」とは,学力を自動車にたとえると,知識がエンジンで,技能がハンドルとそれに連動して動くタイヤでしょうか。意欲はガソリンかな。教師の指導や教材といってもいい。ハイオクで動く自動車=子どももいれば,間違って水を入れられて故障してしまう自動車もある。こういうのを「たとえ」というのです。でも,自動車を学力にたとえること自体が,おかしいとも言える。自動車には運転手が必要です。これが,「思考力・判断力」の部分かな。ぶつかるのを防止する機能がある自動車はあっても,行きたいところに勝手に連れて行ってくれる自動車はない。
 
[※5]音楽の指導において、「基礎的・基本的な知識・技能」を高める指導をした方が、音楽への取り組みが主体的になったことを経験していますが。具体的には、音階練習、楽典、運指などの練習です。

 私が言いたかったのは,知識だけ詰め込むような授業をしたら,意欲が失われる可能性があるということだけ。dolceさんは,どうも質問の意図を読むこともできないようです。しかも,ここでは,「基礎的・基本的な知識・技能」の大切さを披露してくれました。

[※6]言語活動の充実って具体的にどういうことをするのですか?
毎日の生活で、必然的に言語活動は行われているのではないですか?

 中教審の答申やそれを受けて改訂された学習指導要領の解説にしっかりと書いてあります。

[※7]「学力」という用語の実体がはっきりしていないので、人によって捉え方、イメージは様々です。だから、それぞれ勝手にイメージしていることになると思いますが。決めつけるという言い方はおかしいですね。実態を言っているだけです。
自動車メーカーは、それぞれ特有な車を作っています。それぞれが作りたい車を勝手に作っているのではないですか?こういうのを「決めつけている」と言いますか?勝手に作るのは自由です。私はいけないなんて言っていません。それに、それぞれの人が自由に何かをイメージすることを束縛する人、束縛できる人なんているのでしょうか?

 公務員は,法律に従って仕事をする義務があるんですよ。 

[※8]こういうのを「決めつけ」と言うんじゃないでしょうか?

 私が,dolceさん自身は学力のイメージはほとんど語ることなく・・・と書いたのに対して,「決めつけ」と返したのですが,一連の記事を読めば分かるように,この段階では,人に「全体を語れ」と要求しているだけで,「私はこれが学力だと考えている,これに何か付け足すことはあるか」という論じ方はしないのというのは事実でしょう。
 dolceさんが書いていたのは,「学力の捉え方の問題」であって,自分自身の「学力のイメージ」に関する記述があったとしたら,教えていただきたいものです。
 
[※9]ここで言う安全な場所とはどこなのか、攻撃しているとは、どの部分なのか教えて下さい。

 安全な場所とは,「学力とは何か」を語らない,つまり,批判される題材を語っていない段階のことで,攻撃とは,ここに紹介しているような,わけのわからない質問をすることです。私なりの表現です。

[※10]その客観的事実を教えて下さい。

 信頼されない教師の典型的な姿・・・・このやりとりをdolceさん=教師,私=保護者,あるいは教育委員会の人間,という図式で読んでもらえるだけで,十分でしょう。私の推測ですが。

[※11]指導要録の記入については、決められた様式に従って記入しただけで、学力を意識して記入した覚えはありません。指導要録が、その人間を表す完全なものとも思っていません。

 これも,信頼されない教師の典型的な姿です。「決められた様式」の中に,個に応じた「学力を意識して記入」する内容があるのに,それをしていなかったという事実を本人が認めたのですからね。

[※12]いろいろな例がありますが、大学入試で数学の試験を行わない学校もあります。こういう大学は入試において、数学について測定していないのだから、数学については無視したのではないですか?
健康診断で、血圧しか測らないのであれば、心電図や血液検査は無視したことになりませんか?
測らないということは、その項目を無視したことになりませんか?

 全部を測定しないと満足できないなんて,そういう発想の人は,子どもをどのような目でみるのでしょうか?

[※13]学習指導要領に示された内容を習得させることが大切だ,と思っているということと「学力とは何か」は関係ないことです。私の意見をすり替えないでください。

 このように逃げるのが,信頼されない教師の典型的な姿なのです。

 こういう姿勢でいる教師にとっては,「あなたは学力を身に付けさせていない」という批判から逃げることができるのです。だから,dolceさんのような人間には,「あなたは学習指導要領に示された内容を習得させていない」という攻め方をしなければいけない。これはたとえ話ですよ。 

[※14]できます。それがどうかしましたか?
[※15]私は「賛成できないなどと言っていません」けど、人の意見を勝手に捏造しないでください。

 ここで,「捏造」という「決めつけ」が行われたので,くわしく見ていきますね。

 私は,次のように書きました。

>そもそも,学習指導要領が改訂されるときに,学校で「学力とは何か」を議論した経験はないのですか?
>dolceさんは,「豊かな人間性」を定義することができますか?[※14]
>定義できないものだから,その人間性の一面を向上させようとする取組に賛成できない,という姿勢になるのですか?[※15]

 dolceさんが,「学力の全体像,学力の定義がわかっていないのだから,学力のイメージは勝手なものだ」という論理でくるものだから,私が「豊かな人間性は定義できますか」と聞いたのです。

 それに対してどういうわけか,「できます」と答えてきた。これは無視しておきましょう。

 大事なのは,豊かな人間性とは何かが定義できないからといって,その人間性の一面を向上させようとする取組に賛成できない,なんていうことはありませんよね,という意味で,「そういう姿勢になるのですか」と問うているのです

 dolceさんが,「基礎的・基本的な知識・技能の習得」の大切さをなかなか認めないので,そういう質問をしたのです。しかし,その大切さを認めざるを得ないことを,告白してくれた,というだけの話なのですね。

 こういう話を,「人の意図がくみとれない」dolceさんは,「捏造」だと「決めつけ」をする。

 だから私は,

>「誤り」に気づいていただくためには[※16],すべてクリアにしてもらいたいと

 思っているのです。それなのに,

[※16]この言い方は、あなたの言い分が正しいとの前提に立つということです。ということは、あなたの言い分が正しいとの根拠が必要です。でなければ、頭から自分の言い分は正しいという固定概念からものを言うということになります。
「誤りに気づいてもらうために」と言っていますが、私には、どこが誤りなのかわからないので、気づきようがありません。私が「1+1=2」と言っているのに、あなたは「1+1=3」だということに、私が気づいていないと言っているようなものです。

 人の主張を聞くとき,相手が「頭から自分の言い分は正しいという固定概念からもの言う」という,固定観念を持っているのがdolceさんであるということが分かっていただけたでしょうか。

 自分の誤りに気づけない,そういう「仕組み」があることには気づいているのです。

 ですから,相手が「頭から自分の言い分は正しいという固定概念からもの言う」という,固定観念を捨てさえすれば,誤りに気づくはずなのですが・・・。

 そして,「受容的態度の大切さ」を訴えたいのであれば,まずはご自分がそれを示されないと・・・・。

************

 【仕事術に関する追記】

 dolceさんのような人間に誤りを認めさせるのは,至難な技です。

 こういう話を書いても,誤りを認めない人が,教員には多いのです。

 教育現場で一番たいへんなのは,「教員」であることが分かっていただけたでしょうか。

 教育委員会で仕事をしていましたが,どんな苦労があるか,ご理解いただけたら幸いです。

 「文部科学省のポチ」のような揶揄を平気でしてくる。

 指導力不足の教員というのも,頭は決して悪くないのです。しかし,その使い方が非常にやっかいです。

 なかなか,「世間」の中で仕事をしてもらうまでもっていくのは,困難なことです。

 
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dolceさんは,「絶対評価」が学習指導要領に示された目標に準拠した評価のことだということをご存じだったのでしょうか?

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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