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現場の教育実践レベルを暴露してしまったdolceさんへ

 結論から申し上げますと,dolceさんがブログで書かれていることは,dolceさんのいた学校が「低レベルな教育実践」しかしてこなかったこと,「低レベルな教育評価」しか行っていなかったことを証明するものになってしまっています。

現場の学校では,学習の評価はこうやってきたんですよ,と言えば,「ペーパーテストで能力を測ったつもりになっていること」の問題への答えになるはずだったのです。

>感受性の強さや美的感覚が強いといったようなものは認められずに終わってしまう恐れ

 なんて,学校教育にはないですよ,と堂々と言えばよかった。

 それが,音楽の指導をしながら,自分がそういう実践をしていなかったために,「学力」という言葉の意味づけがなされていない,と告白してしまった・・・・。

 「学力とは何か」については,「新学力観」が話題になった20年前をはじめとして,度重なる学習指導要領の改訂のときに学校がしっかり把握しておかなければならない問題であって,学校なりの捉え方があったはずなのです。

 それがただの「ペーパーテストへの批判」というdolceさんの目的のために,dolceさんの学校の「通常のペーパーテスト」がいかに低レベルのもの(ただの記憶力を測るもの,模範解答どおりに書かないといけないもの)であり,それを補うための学習評価も,全くなされていなかったのかを暴露してしまったんですね。

 もしかしたら,こう書かれてもその意味すら分からないでしょう。

 気持ちは分かりますよ。
 
 昔,dolceさんが学年主任だったときに,学年主任自らが

 「先生方が体罰をしたら,それは先生方が悪い」と生徒の前で言ってしまい,

 「大歓声があがった」・・・そして「体罰があったことを知った」・・・なんて体制の学校だったそうですから,

 それは学習評価どころではないでしょうね。


 さて,

>「学力とは何か」という質問はないでしょう。
>なぜなら、学力という言葉の意味づけがされていない

 というdolceさんの認識が誤りだったことを知って書かれたのが,新しい記事ですね・・・? 
 
 やっと「国は何を考えているか」に関心をもっていただけましたか・・・

 私のブログを読んでいただいてよかったですね。

 でも,まだ不勉強さがあらわれてしまっています。dolceさんが下に引用している「文部科学省の学力への言及」は,国会を通過した「学校教育法」に示された内容をもとにしているんですよ・・・。

 法律の内容を受けて,今回の学習指導要領の改訂の趣旨がつくられているのです。

 公教育のことを語るのであれば,ここは基礎・基本のど真ん中でしょう・・・?

>文部省が学力について言及しているのは次のところです。
>学力の3つの要素、(1)基礎的、基本的な知識や技能の習得、(2)知識や技能を活用しての問題を解決するための思考力・判断力・表現力の育成、(3)子どもたちの学習意欲の向上を図るために、特に言語活動や理数教育を充実します。
>通常、ペーパーテストで行なっているのは(1)基礎的、基本的な知識や技能の習得だけです。

>通常、行われているペーパーテストはこのようなもので、ほとんど記憶力を試しているに過ぎない。

 すでに今年の教員採用試験や自治体の教育委員会の面接で,「学力」に関する質問は出されているんですよ。これを今のタイミングで知らなければ,「不勉強な人」「基礎的,基本的な知識のない人」という判定結果になります。

 実技教科の免許をもっている人が,面接の質問で4観点を答えられる人が少ない,というのも最近耳にしました。

 そもそも4観点に課題もあるのですが,かといって全くそれを知らないというのも,指導のありようが見えてしまいますから,採用したくなくなる気持ちもわかりますね。 

 このブログでは観点別評価の課題についてたくさんふれていますから,ペーパーテストの限界は改めて申し上げるまでもないでしょう。

 しかし,dolceさんには,中高一貫校が実施している適性検査問題をぜひ解いてみてもらいたいと思います。たぶんdolceさんの想定の外にあるでしょう。「模範解答」がつくりにくい問題もあるんですよ。dolceさんの言う「通常」ではないものが「通常」になっています。

 ペーパーテストがなぜ優れているかというと,同一の基準で受験者が扱われるという,客観性,公平性にあります。

 さらに,聞いている内容が「基礎的・基本的な知識・技能」であれば,その定着度合いを見ることで,そのほかの能力への期待度もだいたいわかります・・・というか,「基礎的・基本的な知識・技能」すら身に付けてない人たちを重くみることはできない,というのは普通の考え方でしょう。

 もちろん,ほかの能力も,参考にすべきなのは確かです。

 でも,入試では,実は,これも参考にされているんですね。

 各教科の「評定」や「行動の記録」などで。

 本来であれば,dolceさんの言いたい諸能力が参考にされた結果が,「評定」なのです。

 dolceさんが,まさか「評定」の出し方を知らない,ということはないでしょうね・・・・。

 でも,dolceさんの文章からは,9教科別に,どうやって「評定」を出しているのか知らないのではないか,と思わせてしまうにおいがプンプンしています。

>ペーパーテストは人の能力のほんの一部、氷山の一角と考えた方がよいのではないかということである。
>実際、卒業後、社会に出て活躍している者と学校時代の成績とどのぐらい相関があるのか調べてみる必要があると思う。

 なんてことを書くから,成績はペーパーテストで決めていた,ということがばれてしまうのです。

 せっかく相対評価の時代から,絶対評価の時代に移る時代の現場経験ができたのに・・・・。

 でも,dolceさんの憤りと,私の憤りは全く同じであることがお分かりいただけましたか?

 まともな教育実践と学習の評価が展開できる学校を増やしていきたい!!

 そういうことですね。
 
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より