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dolceさんはやはり誤りを認めることができないのか?

 前の記事について,dolceさんから「反論」をいただきましたので,お答えします。


 やはり「学力を勝手にイメージしている」からは抜け出せていないと思いますね。

>思考をはたらかせるには,まず「言葉の意味と用法」を身につけなけれ
>ばなりません。つまり,「基礎的・基本的な知識・技能」は,今までも,
>これからも,必要な学力の要素に間違いありません。

だったら、これを実現すれば学力というものが高まるのですか?
「必要な学力の要素」と言われますが、では「学力の要素」を全部挙げるとどういうことになりますか?

 「学力とは何か」はわからない,といっている人に,この質問への回答をしても無意味のような気もしますが,こういうことです。

 「基礎的・基本的な知識・技能」を習得させるこということは,そういう意味での「学力」は高めることができた,ということです。「基礎的・基本的な知識・技能」は,学力のすべてではありません。しかし,学力の一部であることは確かです。

 「学力の要素」は学校教育法に示されているものをご紹介しましたが,なぜ「全部」にこだわる必要があるのでしょうか。

 dolceさんの言っていることは,「日本の経済がよくなったとしても,日本がよくなったとは言えない」ということですよね。

 「基礎的・基本的な知識・技能」だけを向上させようとすれば,主体的に学ぶ意欲が失われる可能性があります。こういうこともふまえて,今回の学習指導要領の改訂の趣旨に取り上げられています。特に思考力・判断力・表現力については,「言語活動の充実」によって支えていこうとうのが大きな変化です。ちゃんとやってきた学校はすでに「新しい取組」などではないのですが。

 「学力向上」といったときには,学力の総体を向上させることをねらいとしているのは当然ですが,学力にはさまざまな側面があり,それぞれの側面を相乗効果的に高めていこう,というのが普通の教師の考え方です。

 学力の全側面が解明されていないからといって,「学力を勝手にイメージしている」と決めつけるのはおかしなことです。「イメージ」なのだから,そもそも自由であってしかるべきでしょう。

 学力を広く考えるのは大切なことです。

 しかし,「きちんと定義されないのだから,それぞれのイメージは勝手なものだ」として否定的な発言をするのはいかがなものでしょう。

 自分の「学力のイメージ」はほとんど語ることなく・・・。

 こうやって自分だけ安全な?場所にいて,他者を攻撃するのが信頼されない教師の典型的な姿なのです。
 
****

また、視点を変えて、私が懸念するのは、あなたの言う
「基礎的・基本的な知識・技能」を測るためにどういう手段をとるのですか?

そして、ここで言われる「基礎的・基本的な知識・技能」とは具体的に何ですか?

 さしあたり,ご自分がなさっていた測定方法をふり返ってみてください。

 あなたは28年間教員をしていたのでしょう?

 指導要録に,何をどのように判断して記録しましたか?

 それはいい加減なものだったのですか? 根拠なく書き込みましたか?

 まだ学校に保管されているものがあるから確かめればすぐにわかるでしょう。

 行動所見などを見れば,どんな教師だったか,すぐにわかりますよ。

 基礎的・基本的な知識・技能については,さしあたり,学習指導要領に示されている内容から判断してきたでしょう?

****

よくわからない測定方法によって「かけがえのない一人一人」の力を無視してしまったということはないのでしょうか?

 かけがえのない力の中には,測定できないものがあるのは確かですね。

 しかし,測定していないから無視したことになる,というのもかなり一面的な考え方ですね。

 この「無視」というは,どのような場面を想定しているのですか?

 入試ですか?

 それとも指導要録ですか?

 それとも実際の授業場面ですか?

****

「誤りを認めることができるか」の「誤り」とは何ですか?

 たとえば,学力の重要な要素である「基礎的・基本的な知識・技能」・・・学習指導要領に示された内容を習得させることが大切だ,と思っている大多数の子どもや保護者,教師に対して,「学力を勝手にイメージしている」と決めつけるのは誤りです。

 というより,自分の「誤り」に気づこうとしないことが,根本的な「誤り」なのです。

 
 そもそも,学習指導要領が改訂されるときに,学校で「学力とは何か」を議論した経験はないのですか?

 
 dolceさんは,「豊かな人間性」を定義することができますか?

 定義できないものだから,その人間性の一面を向上させようとする取組に賛成できない,という姿勢になるのですか?

 質問ばかりですみませんが,「誤り」に気づいていただくためには,すべてクリアにしてもらいたいと思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より