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小学校と中学校・高校との間の評価観の違い

 小学校は,その時間にできていたらそれでよしとする空気が濃厚で,中学校や高校になると,受験のときにできなければ意味がないと考えてしまう。


 小学校の「その場の満足主義」
 その場でできないと,評価は低いまま。

 中学校と高校の「その後(テストや受験)の満足主義」
 その場はできなくても,あとでがんばれば評価は上がる見込みがある。


 評価への見方としては両極端なので,指導の話になっても何もかみ合いません。


 中学校や高校では,その授業内ではできなくても,家庭でしっかりやってもらえれば,問題はないのです。

 宿題や課題として生徒に示されるものの中には,高度なものもありますから,個に応じた学習のスタイルも提供していることになります。

  
 中学校から見れば,1年たったら(1か月たったら,いいえ,1週間たったら?)忘れたりできなくなってしまったりすることについて,小学校の教師がいちいちAだのBだのといった評価をするのは無意味の極みで,最後の段階でできていなければ意味がない,ということになります。関係を中と高に変えても同じでしょう。

 半分以上の生徒がBBBB,BBBB,BBBB・・・と示されていることに,何の意味がありましょう。

 それを受け取った親や子どもは,意味がわかっているのでしょうか。

 
 小学校では,総括的な評価を非常に安易なつくりの業者プリントにたよっているため,子どもが本当に理解して「良質な知識」になっているのかどうかが分からないまま,単元ごとに評価していくことになります。

 中学校や高校では,最終的に総括では理解して「良質な知識」を持てているかどうかを問えば,そこに至った学習活動が確かなものだったことを推定することになっていました。
 しかし,今,中学校や高校でも小学校と同じような評価が求められるようになりました。

 
 今までの繰り返しですが,小学校は教師1人あたりの児童数が少ない。ただ,教科を複数教えているので,負担はその分の倍数となる。

 中学校は,教師1人あたりの生徒数が多い。私の場合は400人です。テストは年間4回あるので,1年分の答案用紙は1600枚。もしこれだけで評価をするとしても,4観点だから6400項目。

 AとB,BとCのどちらをつけるかは質的なもので捉えなければならないので,そのための思案をするのが千項目以上。

 ここに,単元ごととか,1時間の授業ごとの評価,そしてレポートなど提出物の評価もしなければならないとすると,さらに膨大なデータを扱うことになります。

 
 ここに,「簡便で効率的な評価」の研究の意義が明らかになるわけですが,とはいっても,そもそも評価というのは「簡便」ですまされるものでしょうか。

 「効率的な評価」とはそもそもどんな意味をもった評価のことなのか。


 負担感の軽減に進めよう,と示していますが,そもそも観点別学習状況の評価自体が余計な負担を教師にもたらしているのです。

 これは,部活でたとえれば,校庭50周を命じた顧問が,「多すぎる」と苦しさを訴えた選手に対して,「もっと効率的に走れ」と言っているのと同じです。

 1周ずつ走ってすぐに休める小学校の感覚で評価の話をされてしまっているので,よほどのことがない限りブレイクスルーは見込めません。

 「学習の途中で行っている形成的評価としての観点別評価は,評価の総括では使用しない。ましては評定を決定するときには,参考程度とする・・・総括的評価は,あくまでも,学年末時点の能力を問うものである」くらいのことを示してもらわないと・・・・。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
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  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
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