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「評価の簡素化・効率化」という醜悪な発想

 言語活動を充実させようとする努力は,昭和20年代から始まっていました。

 いえ,明治時代の教師たちの中にもいたはずです。

 中教審の答申が出され,その内容を受けて学習指導要領が改訂されるわけですが,改訂の趣旨に「言語活動の充実」がもりこまれたから,あわてて「どうしたらいいか」と考えている学校があったとしたら,それはすでに「手遅れ」になっている証拠です。

 今度は,「簡素で効率的な評価」に注目が集まります。

 どうしてかというと,「観点別評価を毎時間の授業で行って,それを評価の総括にも活用する」ことが一般化してくると,「膨大なデータの収集に時間がかかり,処理の方法も難しい」「負担感が増している」という悩みが出てきて,「指導のための評価」という意義が失われ,「評価のための評価」「苦情処理の根拠とするための評価」になってしまっていることが問題視され,「改善しなければ」という声が高まっているからです。

 しかし,これは導入当初から分かっていることであって,10年たって「顕在化してきた」というのは,そういう評価活動が定着するまで10年かかった,という証拠でもあるでしょう。

 
 評価の目的と機能が分かっている人なら思われることでしょうが,「簡素で効率的な政府」ならまだ理解可能でも,「簡素で効率的な評価」という言葉はいかがなものでしょう。

 「そこになお,客観性や妥当性を求めたら,テストの点数で決めるのが一番だろう」という結論になってしまいます。

 「B」が「おおむね満足」という「基準」であり,「A」がそれ以上に質の高さを認められるような「十分満足」という「基準」であり,さらに,評定となると,「3」が「おおむね満足」であり,「4」が「十分満足」で,さらに程度が高いのが「5」ということになっていますが,これが「基準」ではないことは明らかです。

 教師だけでなく,生徒にとっても「基準」になりうるのは,たとえばそこに実在する,ある特定の生徒の学習状況であって,この生徒との相対評価であれば,まだ客観的な評価は不可能ではないのです。

 ある生徒の作品を「B」として,それよりも質が高ければ「A」,また,ここも大切なのですが,これよりも質が低ければ「満足できない」ぎりぎりの作品も「B」として,「C」との違いも説明できるようにします。

 問題になるのは,どうしてその作品が「おおむね満足」の範囲内にあるのか,という根拠ですが,もし毎時間,ある1観点でも評価しようとしたら,この「おおむね満足」の範囲内での一番よい状態と一番悪い状態の二つを示すことが求められるわけです。

 しかし,「思考・判断・表現」という1つの観点で作品を評価しようとしても,そこには他の観点との関連が当然,生まれてきます。そこを加味しながら評価することになれば,「これは資料の活用が不十分な作品だが,理解していることが自分の言葉で表現できている」ものと,「資料の活用は十分だが,これまで学んだ知識が十分に生かしきれていない」ものとの差で悩むことになります。

 純粋にただ一つの観点で評価できる,という発想自体が,学力をとらえようとする方法の前提の段階で誤っているとも言えます。

 毎時間の評価とは,このようになされるものであって,ここに「効率」を追究する余地はありません。

 
 求めようとするべきなのは,学力を向上させる上で「効果的な評価」です。

 効果的な評価を実現するということは,

 学力を向上させる上で「効果的な指導」がなされているということです。

 「効果的な指導」を行う場合,そこで「効率的な評価」が生まれる余地がでてきます。

 そして,学力を向上させるという意味での「効果的な評価」は,「効率的な指導」の原動力になるということです。


 さらに言えば,小学校には存在しない「総括的な評価」の活用が,中学校では重要です。

 この点についてはまた別の機会に書くことにします。

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宮城谷昌光の言葉

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「歴史の活力」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
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  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より