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学力とは何か? と問われたら

 もし教員採用試験の面接で,

 「学力とは何ですか」と問われたら,

 スケールを大きくして答えてみたらどうでしょう。


 たとえば,

 「未来を切り拓く力」です,とか。

 
 さかんに塾や予備校の批判をしている人がいますが,現実的に,志願者が多い学校に入りたいと希望すれば,「入試」を勝ち抜かなければなりません。

 そのために最も有効な手段は何かと問われたら,その最も有効な手段を教えてくれる人から学ぶという答えになるでしょう。

 経済的に困難な家庭の子どもは不利になりますが,そういう子どもはそれなりに,努力しなければ,合格できません。


 ペーパーテストで測ることができる学力は,学力の一面でしかないのは当然のことです。

 しかし,その程度の学力なら,努力次第でいくらでもつけることはできるでしょう。

 
 それをやれる人と,やれない人で,現実的には実現可能な希望の範囲が変わってきます。


 学力について,この程度の小さいことばかり考えていたことをあとでふり返ると,きっと恥ずかしい気持ちになるときがくるでしょう。

 
 できることから実現させていく,これを子どもは子どもなりに,教師は教師なりに努力すべきです。

 子どもにとっても教師にとっても,手抜きをするのに便利な論理は,有害なだけです。

 
 「未来を切り拓く力」が本当に必要な子どもたちにとって,それがほとんど不要になってしまっている一部の公務員の教師たちほど有害なものはありません。


 面接では,有害な人間をふるいにかける必要があります。


 さて,
 
 「あなたは教員になって,どのように自分の未来を切り拓いていくつもりですか?」

 と二の矢が飛んできたら,

 「まずは教育の困難に正対して,さまざまな問題の解決に努力したいと思います」

 「常に現状に満足することなく,課題を見つけて,その解決に向けて全力を尽くします」

 「教育の仕事のすばらしさを実感し続けることができる教師を目指します」

 などというのが好感度は高いですが内容がない。


 「まずは優れた先生方からその指導理念や指導方法などを学び取って,少しでも教師としての力量を高めていきたいです。10年間くらいは,そのことだけを考えていきます。」

 のように具体的な目標とか数字があると,「実践者」としての資質を感じてもらえます。


 教師にとって一番欠けているのは,「学ぼうとする力」です。

 子どもの「学ぶ意欲」の低下は,教師の「学ぶ意欲」の低下が引き起こしている大問題です。

 
 どんな人からも,「学べる」ことはあります。

 間違いから学ぶ,これが教育失敗学です。

 子どもとともに学ぶ,これが教育創造学です。

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コメント

こちら側からのコメントは拒否なのに,堂々と書き込んでくる・・・素敵な姿勢です。

「学力とは何か」という質問はないでしょう。
なぜなら、学力という言葉の意味づけがされていないのですから。

学力について質問するのなら「あなたは、学力をどう定義しますか」となるでしょう。

「学力テスト」と名付けたテストが、学力を測っていると思っている人たちがいますが、その人たちは何もわかっていないと言えます。

「学力」の意味が大切なのは、本当に価値ある人間の能力をどう捉えるかということに関わっているからだと思うのです。

よく「ひとりひとり」という言葉が出てきますが、現行の入学試験が本当に、人間の価値を審査しているのかという疑問に対して、ほとんど意味をなしていないからだと思われます。

本当に、ひとりひとりを活かすためには、形式的なテストで人を価値判断するのではなく、その人が持っている価値をうずもれさせることなく評価することを考えねばならないと思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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    「楽毅」第二巻より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
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    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より