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指導力不足教員の「墓場」

 福井新聞に,校長が「指導力不足教員」の認定にふみきれずにいる実態が報道されていました。

 実際には,校長による評価で教育委員会は課題のある教師の実態を把握している=だから実質的に「指導力不足教員」が1校に集中しないように異動の際に調整している・・・わけですが,校長のなかには「指導力不足状態」を隠し,あるいは本当にその現象が生まれないように学年や分掌で「仕事をさせないように配慮していた」ために校長には気づかずに「まじめでいい先生」として「異動カード」を教育委員会にまわってしまい,異動先の学校で「非常事態」が生まれることがあります。

 今年の東京都のある市の教員は,異動してすぐの1学期に「犯罪者」となり,中1の生徒たちを「担任が犯罪者だった子ども」にしてしまいました。こういう犯罪が起こるとき,マスコミに校長がもらす言葉は,「まじめでいい先生だった」・・・と本気で答えているケースが多いでしょう。

 もし,指導力不足教員が,全教員の1%を占めていたとしたら・・・小規模校なら数校に1名いるかいないかですが,6000人の教員がいる福井県には60人いるはず。しかし今年は「ゼロ」だったそうです。

 ・・・では,なるべく多くの「指導力不足教員」を認定し,研修を受けさせれば,問題は解決されるかというと,難しいのは「欠員」となった箇所に非常勤講師をあてたり,他の教師の負担にしたりするので,現場にも影響はあるし,そもそも研修を受ければ改善されるのか,という問題もあるわけですね。

 犯罪だったら刑務所,交通違反だったら講習などなど,「教育を受ける場」はさまざまありますが,指導力不足の教師の場合,問題は「子どもがいない場での研修では意味がない」ことにあります。

 指導案をいくら書いても,模擬授業をいくらしても,授業ができるようにならないのは当然のことです。


 研修の場所は,もはや「墓場」なのかもしれません。

 どこかの県で,「指導力不足から立ち直った教師のモデルケース」を発表しているところはないでしょうか。

 県議会でそういう事例の紹介を教育委員会に求められることはありそうです。そういう情報がほしいですね。


 「教職から離れる決意をさせる場所」・・・研修が,「墓場」とよばれる所以です。

 「墓場」に大人を送り出せる覚悟のある校長はなかなかいないでしょう。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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    「楽毅」第二巻より
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  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より