時差及びオセアニア州に関するタイムリーな教材
教科書会社は,ちょっとあせっているかもしれませんね。
日付変更線の一部が変更になりました。
サモアの標準時が日付変更線の東側から西側へと変更に。
サモアのカレンダーの12月30日は消滅。
この背景は何だろう・・・
読売新聞の記事に出ています。
イギリス・アメリカとの結びつきが強かったオセアニアでは,近年,アジアとの結びつきが強くなっていることを新しい教科書では題材にしています。
標準時が変わったことで,アジアとの時差が縮まりました。
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教科書会社は,ちょっとあせっているかもしれませんね。
日付変更線の一部が変更になりました。
サモアの標準時が日付変更線の東側から西側へと変更に。
サモアのカレンダーの12月30日は消滅。
この背景は何だろう・・・
読売新聞の記事に出ています。
イギリス・アメリカとの結びつきが強かったオセアニアでは,近年,アジアとの結びつきが強くなっていることを新しい教科書では題材にしています。
標準時が変わったことで,アジアとの時差が縮まりました。
「言葉の向こう側」にあるものが受け止められない人間は少なくありませんね。
「学力を向上させてほしい」という親の願いは,切実なものです。
受験に際しては,「うちの子を合格させてほしい」というのも,切実なものです。
この強い願いを「願い」として受け止める,ただこれだけができない教師が,本当に何でもないことで,親とトラブルを起こします。
人とトラブルを起こしやすい人のタイプは,教育ブログを探してみるとそこら中に転がっているので参考になります。
「そんなことは保証できない」などと(本音を)言えば,相手にすがるものがなくなることを想像できない教師は少なくありません。
親を追いつめる教師は,間接的に子どもも追いつめることになっていることに気づけないのですね。
「ヴィトゲンシュタインの考え方は,どのような生き方の中で育まれてきたか」・・・そういう関心の持ち方ができる人が,教師には向いているのでしょう。
もし教員採用試験の面接で,
「学力とは何ですか」と問われたら,
スケールを大きくして答えてみたらどうでしょう。
たとえば,
「未来を切り拓く力」です,とか。
さかんに塾や予備校の批判をしている人がいますが,現実的に,志願者が多い学校に入りたいと希望すれば,「入試」を勝ち抜かなければなりません。
そのために最も有効な手段は何かと問われたら,その最も有効な手段を教えてくれる人から学ぶという答えになるでしょう。
経済的に困難な家庭の子どもは不利になりますが,そういう子どもはそれなりに,努力しなければ,合格できません。
ペーパーテストで測ることができる学力は,学力の一面でしかないのは当然のことです。
しかし,その程度の学力なら,努力次第でいくらでもつけることはできるでしょう。
それをやれる人と,やれない人で,現実的には実現可能な希望の範囲が変わってきます。
学力について,この程度の小さいことばかり考えていたことをあとでふり返ると,きっと恥ずかしい気持ちになるときがくるでしょう。
できることから実現させていく,これを子どもは子どもなりに,教師は教師なりに努力すべきです。
子どもにとっても教師にとっても,手抜きをするのに便利な論理は,有害なだけです。
「未来を切り拓く力」が本当に必要な子どもたちにとって,それがほとんど不要になってしまっている一部の公務員の教師たちほど有害なものはありません。
面接では,有害な人間をふるいにかける必要があります。
さて,
「あなたは教員になって,どのように自分の未来を切り拓いていくつもりですか?」
と二の矢が飛んできたら,
「まずは教育の困難に正対して,さまざまな問題の解決に努力したいと思います」
「常に現状に満足することなく,課題を見つけて,その解決に向けて全力を尽くします」
「教育の仕事のすばらしさを実感し続けることができる教師を目指します」
などというのが好感度は高いですが内容がない。
「まずは優れた先生方からその指導理念や指導方法などを学び取って,少しでも教師としての力量を高めていきたいです。10年間くらいは,そのことだけを考えていきます。」
のように具体的な目標とか数字があると,「実践者」としての資質を感じてもらえます。
教師にとって一番欠けているのは,「学ぼうとする力」です。
子どもの「学ぶ意欲」の低下は,教師の「学ぶ意欲」の低下が引き起こしている大問題です。
どんな人からも,「学べる」ことはあります。
間違いから学ぶ,これが教育失敗学です。
子どもとともに学ぶ,これが教育創造学です。
中学校の教師になると,一度くらいは「荒れた学校」を経験することになるでしょう。
そのときの心得がいくつかあります。
まず,なぜ自分がその学校に異動させられることになったか,その理由を考えましょう。
可能性は,いくつかあります。
両極端な例は,
指導力を見込まれて,「建て直し」のために選ばれた場合と,
指導力不足を見込まれて,「退職するきっかけ」を本人につかませるために選ばれる場合。
そのどちらでもなければ,たまたま「余ったカード」でまわされただけ,としておきましょう。
もし,だれかに直接頼まれて,「建て直すためにがんばってほしい」と言われた場合は,あまり期待されていないと思った方がよいでしょう。
これは,あとで恨まれないための「方便」に過ぎません。
異動先で思うような働きができなかったとき,「期待されていたのに申し訳ない」という気持ちを抱かせるための作戦です。
思うような働きができたときは,「期待通りの働きをしてくれてうれしい」という言葉がかけられます。
教師の中には,「空気が読めない」人が少なからずいます。こういう人が,「荒れた学校」向けに選ばれていきます。「空気が読めない」ことは,心を病まないですむための最高の防護手段でもあるからです。
自分の指導力に不安があって異動する場合は,まず「虚飾を捨てる」ことが肝腎です。
変にこれまでの実績を買いかぶられると,できなかったときに本当に白い眼で見られます。
精神疾患で休職する教師のうち,一番多いのが,50歳以上で異動してから2年以内の教師だそうです。
30年近くの経験を積みながら,若い教師から「使えない」と非難されることほどつらいことはありません。
虚飾を捨てれば,荒れた学校ほど「気分が楽」なところはありません。そういう生き方をしていた教師を見てきた経験からすると,子どもにとって「気分が楽」になるそういう教師の存在もなかなか重要であることが分かります。
特に荒れた学校に異動することになった理由が見つからない場合は,まずこれからの6年間をイメージします。
そのイメージのあり方と,実際の過ごし方が,残りの教師人生を左右することになるでしょう。
どのようにイメージするかは,本人次第です。とにかく,イメージを描くことが大切です。
最後に,初任者として荒れている学校に赴任した場合ですが,これは本当に不幸な教師人生のスタートだと言わねばなりません。
荒れている学校の荒れている理由の大部分は,子どもや保護者にではなく,教師集団にあります。
現場で教師から学ぶべきことが極端に少ないのが荒れた学校の特徴です。
しかし,「子ども」から学ぶ場としては,最高の舞台でもあります。
荒れた学校の子どもの動きは分かりやすいですから,その動きをつぶさに観察し,教育の意味を探ることが可能になります。
当たり前ですが,生徒がすでに学校に来ている以上は,指導が100%通じない,ということはありません。
空き時間のときに,「見回り」という名目で,授業中の廊下を移動して,授業の空気を感じ取ることができます。
そこにある「教育的雰囲気」が,どのような教師のどういった言動から醸し出されているか,感じ取るチャンスは,荒れた学校が一番たくさんあります。
子どもにいつも近い場所にいましょう。
近い場所にいる,というのは,「一緒にいる」という意味ではありませんのでご注意を。
疾風にして勁草を知る。
教員採用で関係がある「学歴」は,大学卒か大学院卒か,ということくらいです。
大学がどこであるか,というのは問題ではありません。
教員採用試験の予備校のような大学卒でも,差別されることはありません。
逆にいわゆる「偏差値が高い」大学だと,教員になってから逆差別を受ける可能性はありますが。
(ネット上では,文系の大学院生というのは教員採用試験に落ちた「落ちこぼれ」というレッテルが貼られているようで,お気の毒なことです)
教員になったら,重視してほしい「学歴」とは,「学習・研究歴」のことです。
教員になってから何をどう学んできたか。
こういう「学歴」に関心をもってほしいと思います。
ただ,一度,公務員になってしまうと,そういう「努力」からいっさい無縁になる人がたくさんいます。
研修というと「めんどくさいもの」になってしまうのです。
免許更新講習を本当に「めんどくさそうに」受ける人を目の当たりにしてきました。
(どちらかというと「熱心」な人が多いのが救いですが)
法律で定められているから研修するのではなく,研修したいから研修する。
そういう「向上心」は自分の受けてきた教育の成果なのか,現場で子どもと切磋琢磨して得られる「教育欲」がもとになっているのかはわかりません。
こういう意欲がわくことは,教師としては大事な資質です。
dolceさんという「教育に情熱をかける教師のために」(教育ブログ)の管理人さんは,おもしろい「学歴観」をひろうしてくれています。
彼によると,「人の脳の発達は21歳頃を頂点」とするそうで,
「若い頃は優秀であったとしても、中年頃では頭は退化」する人がいるそうです。
これが,「学歴をあてにしない理由」だそうです。
こういう人にとっては,大卒くらいの年齢では「学歴」が重要だということになります。
「優秀な大学を出た人」を「高卒の人」より「優秀だ」と見るのは明らかで,こういうのを学歴差別というのです。気をつけましょう。
教職を志す皆さん,もし面接試験で,
「良い学校とは,どのような学校のことですか」
と問われたら,どう答えたらよいと思われますか。
dolceさんという「教育に情熱をかける教師のために」(教育ブログ)の管理人さんは,
「良い教師」がいて,「良い施設」のある学校のこと
で,だから東大はよい学校,ということを以前に書いていました。
もし面接でこう答えたら,二の矢が飛んできます。
良い教師とはどのような教師ですか。よい施設とはどのような施設ですか。
これに答えられても,結局,「良い学校」とは何かには答えることができません。
「良い学校とは何か」という問いは,小学校教師にとって苦手な分野なのでしょう。
小学校の教師というのは,中学校の教師と比べるとはるかに大学の教師に近いタイプの教師です。
小学校や大学が,個人プレーで成立しやすい職場だからです。
場所によっては,「それしかない」とも言える。
だから,信頼されない教師というのは,小学校の場合,たいてい「個人としての力量に乏しい教師」のことをさしていることになります。
これが中学校だと,「個人としての力量が優れている」からこそ「信頼されない」教師も存在します。
その意味が分かっていたら,「良い学校とはどのような学校か」と聞いてきた理由が分かるはずです。
もし面接試験で,「良い学校とは」と問われたら,これは「個人」としての教師が集まる場所としての「学校」のことをさしているわけではないことを悟り,「組織」とは何かにふれる必要があるのです。
・・・でも,働いた経験もない人に,「組織とは何か」について答えられるでしょうか。
答えられなければなりません。
「組織の中で動いてきた」実感がもてる人間を採用したいのです。
民間人を教師として求めようとする発想はここから出てきます。
学級集団も,生徒会も,部活動も,組織です。
こういう組織で「組織とは何か」を学んでくれてきたとしたら,願ってもない資質をもっていることになります。
教師には,個人で動く能力は高くても,組織の中で力を発揮できない人がいます。
人は個であるときと,集団であるときとでは全く異なる資質や能力を必要とします。
個としての能力は個人で高められますが,集団としての能力は集団の中でないと高まりません。
教育実習では,先生方の「連携プレー」・・・できたら,保護者との連携,子どもとの連携など,さまざまな「相互促進効果」を体感し,その良さを「良い学校」の具体的な姿として言葉で表現できるようにしましょう。
本で読んだ知識を披露するだけでは,すぐにバレます。
そういう意味では,「良い学校」で教育実習を行う,というのもとても重要ですね。
学校という職場に入ると,いかに多くの職務があるか,ということが,「点検すべき項目」だけを見てもわかります。
教育実習で学校を訪れたら,可能な限り「昨年度の学校評価の総括」を見せてもらってください。
もし拒否されたら,あなたが勉強して知っている法律を根拠に,もう一度,請求してみてください。
生徒の学習評価が適切に行われているか,適切に行う努力をしているか,という点検項目をご紹介しましょう。
学習評価を評価する場合は,学習指導の評価とセットで行う必要があることは言うまでもありません。これは一部を( )内に示しました。
○項目○ 信頼性の高い観点別学習状況の評価が行われているか
チェック1 学習指導要領に示された目標・内容をよりどころにした評価規準と評価時期,評価方法が作成できているか。
(学習指導要領に示された目標・内容をよりどころにした年間指導計画,単元ごとの指導計画が作成できているか)
チェック2 作成した評価規準やそれぞれの評価場面における評価方法等をどう見直し,具体的にはどのような修正を行ったか。
(学習評価を踏まえ,学習指導の内容や方法をどう見直し,具体的にはどのような改善を図ったか)
*ここが最重要。
チェック3 他校の評価規準や評価方法等との比較・検討やすり合わせを行ったか。
(他校の実践と自校の実践はどのように異なっているか,同じ教材を活用して効果的だった単元は何か,など)
チェック4 校内において,より多くの教員の考えを反映し,評価規準,評価方法,総括方法等を定めたり,修正することができたか。
(校内において,他教科の教員お実践で参考になったことを受けて,指導をどのように改善することができたか)・・・以下略
チェック5 学年,教科を超えて情報交換を適宜行い,教員の評価の考え方や進め方についての意思統一,共通理解を図ったか。
チェック6 校外の研修等に積極的に参加し,研修内容について校内で発表するなどでして,共有の財産にすることができたか。
チェック7 評価に関する校内研修(授業研究を含む)を充実させることができたか。
チェック8 評価について,学年・学校通信,各種懇談会,学校ホームページなどの多様な方法で情報発信できたか。
チェック9 なぜそのような評価結果になったのか,という声に対して,明確な根拠に基づいた説明ができるようにしてあったか。実際に,どのような相談が寄せられ,どのように解決したか。
チェック10 広く実施された学力検査結果や各種調査結果等のデータを利用し,自校の状況と比較検討し,課題を発見してその解決に向けて努力することができたか。
信頼されない教師は,「見える学力」よりも「見えない学力」の方が大事なんです,などといって「見える学力」を向上させらない言い訳をします。
このような教師には絶対にならないで下さい。
「見える学力」も「見えない学力」も大事なのです。
小学生なら,「見える学力」の向上が「見えない学力」の向上を加速させます。
今年も,「みなさんが勉強をする気になるまで待ちます」などといって,2日間,授業をしなかった小学校教師の話を聞きました。
保護者の訴えにより,「ようやく勉強する気になったようですね」などという寝ぼけた話で授業は再開したそうですが,絶対にこのような教師にはならないで下さい。
そして,今まで「見えない学力」というイメージに安心感を抱き,学力向上の努力を図ってこなかった教師の目を覚ます(?)評価が,来年度から始まることを確認しておきましょう。
平成24年度から,観点別学習状況の評価で,「思考・判断」という観点が「思考・判断・表現」というものに変わりました。詳しい説明は省きましょう。
今まで「見えない学力」などと読んで育成をさぼってきた教師たちは,大慌てすることになります。
「見えない学力」をいかに「見える化」にしていくかが,教師の力量です。
なお,「見える学力」「見えない学力」などという話は,ここ数年で出てきたものではありません。
これを今ごろ「発見した」などという人がいたら,二十年以上も勉強していなかったことの証明になっています。
人の悪口が好きなdolceさんに,久しぶりにお便り申し上げます(コメントに書き込めないので)。
はじめにお断りしておきますが,私はダメな教育ブログの記事を指摘しているだけで,dolceさんがダメな人間だとは申し上げていませんので。
学力の課題も含めた公教育の信頼の低下に対して,自分自身を見つめ直さなければならないのは,すべての教師の責務であると私は考えています。
もちろん子どもは子どもなりに,親は親なりに,行政は行政なりに,見つめ直す必要のあることはたくさんあります。
しかし,教師というのは,子どもに対して直接的なはたらきかけができる「公務員」です。
確かに,不幸な出来事をきっかけにして現場を去るに至った人もたくさんいます。
しかし,そういう人も,「当時,もっとこういう教育ができれば」とふり返ることがあると思います。
現職の時,こういう教育実践はまずい,と思ったこともたくさんあったと思います。
しかし,たとえば教育実践のあり方の話し合いで,相手の主張が受け入れられないからといって,「幼児なみの思考」とか,「知能のはたらきがない」とか,「狂っている」とか,そういう言葉を相手に投げかけられることに対して,「教師はこういうことが書ける資質の人間がいるのだな」と思われる心配をしないというのは,配慮に欠けることです。そういうことが書ける人というのが,どういう人かということは,指導に配慮を要する児童・生徒について研修したことがある教師はみんな知っています。
私は行政の処分に対して不服をもち,裁判をおこしている元教師とその裁判の内容をよく知っています。
そのうちの一人にdolceさんはそっくりです。
相手の人格を否定するようなことを平気で書いてしまうのです(処分を受けた人は,これもその理由の一つだったのですが)。
第三者から,自分自身がどのような人間かを憶測されることを考慮することなく。
私はdolceさんが書かれている内容のおかしな点をさまざま指摘してきました。
「言ってもいないことを勝手につくりあげるので、あなたはハンドル名を捏造とした方がよいではないかと言ったことがある。彼のブログはその後消滅してしまった。」
とありますが,私のブログ本体は消滅しておりません。
dolceさんは辞書に書いてあることや書籍を紹介していますが,それがご自身の実践に照らし合わせて,どのように示したら「教育に情熱をかける教師のために」なるのか,決して捏造されることなくお話しいただけたらと思います。
書いてあることを書くのは簡単なのですが,そこに書かれていることの本当の意味,それが書かれるに至った背景,その言葉が実際上,どのように運用されているのか,どのような解釈が行われているのか,何が求められているのか,そういうところに「思考」を働かせていくのが大事です。
書かれていることをそのまま実行すれば,よい授業ができるようになるわけではありません。
書かれていることをそのまま実行すれば,正解が得られるのであれば,きっと人間は「思考」することをやめるでしょう。
書かれていることにしばられることなく,もし事実でないことが見つかれば,「その憶測は事実ではない」と指摘すればよいのです。
今,教師になっている人たちは,基本的に「学校的な優等生」です。
人の言うことを簡単に信じます。
だから,ある業界では教員は「カモ」とよばれています。
こういう教師には,現場で何が起こっているか,裏で何が起こっているかを示していかなければなりません。
「教育に情熱をかける」タイプの教師にこそ必要な情報は何か。
それをここで書いています。
長くなりましたので,「学力」については,次の記事にしますが,一言だけ。
小学校段階では,せめて「点数が取れる」ような教え方を先生方はしてください。
それだけで子どもは「やる気」になります。
100点を取らせるようにするのは,最終的なねらいではありません。
そのねらいを達成させることで,次のねらいがより達成しやすくなるのです。
小学校では,国の学力調査レベルの問題のように,「だれでも100点がとれる」テストでよいのです。
貧しい家庭の子どもは学力が低い,という「教育社会学の成果」を,さらに多くのデータで裏付けさせ,「貧しい家庭でも学力が高い子どもが多い」学校の指導法を参考にするという。これが文科省の熱意です。
貧しい家庭の子どもとして育ち,家に専門書がなく,ピアノはおろか学習塾にも通えず,「最高のプレゼント」が野球のグローブだった私のような教師からは,この類の調査は
「何も得るものはないだろう」
という気がしてなりません。
それよりも,「高い報酬を受け取っていながら,満足のいく指導ができない教師」の「お金の使い方」を調べるとか,「教師の学習実態」にせまる方がよほど「改革」の足しになるでしょう。
しかし,自分たちに都合の悪くなる調査は絶対にしないのですね。
観点別学習状況の評価やその総括が,いかにいい加減なものかはどこの学校を探してもすぐに見つかりますよ。
中学校では,来年4月から,もうはるか昔に公示されたものという感覚のある「新しい学習指導要領」に基づく指導が始まります。
社会科では,特に地理的分野の内容がかわるので,年間指導計画も大きな見直しが必要なのですが,新しい教科書については,「見本」を採択資料作成のときに手にとることはできても,「本物」を一般の教員は手にしていないのが普通です。
これはおかしなことですね。
来年度の教科書が手元にない教師が,何をたよりに指導計画をつくるかというと,教科書会社が作っている指導計画の資料です。
「主たる教材」としての教科書は見ずに,「指導計画資料」を使って「指導計画」をつくっている,こういうことが「おかしい」と感じる行政マンはいても(これすらいないかも・・・),「どうすればいいか」と考える行政マンはいません。
「新しい学習指導要領のねらいを実現するためには,各学校における生徒や地域の実態等に応じた適切な教育課程の編成・実施,指導方法等の工夫が重要」だといいながら,教科書で教えるのではなく教科書を教えるのがやっとの教師たちに,「主たる教材」としての教科書が手元にないまま,指導計画がつくられていることを見過ごす行政に,本気で
「学力向上」
を果たさせようという意思は感じられません。
「学力向上」が最も必要なのは,教科書を教えるタイプの教師なのです。
「評価規準の作成,評価方法等の工夫改善のための参考資料」を売り出すよりも,先にすべきことがある,ということに,数年前に気づく行政マンがいてもよかったのですが。
「変わる」能力というか資質は,どのような人にも備わっている,と考えるのが,様々な「教育」制度の存在理由です。
問題は,その能力を引き出す人の能力,つまり「変える」能力とか資質というのは,どのような人にも備わっているのかどうか。
疑いは,荒れた学校の子どもや教師,親たちにふりかかってきます。
私はもし教員採用の面接官なら,「教育実習であなたの何が変わりましたか」と問います。
さらに,「教育実習で,子どもの何を変えることができましたか」とも問います。
前者については,「授業」や「教育」の難しさについてのコメントを,
後者については,「子どもの可能性」についてのコメントを期待します。
学校には,家政婦のミタのように,「自ら変わることを封印している」人がたくさんいます。
保護者の暴力に毎日耐えている生徒。
家庭崩壊状態の教師。
いじめをしていないと精神的に安定できない生徒。
いつもだれかの評価ばかり気にしている教師。
「病んでいる」という印象を真っ先にもつ学校には,本当に多くの困難が,顕在化しており,そしてはるかに多くの困難が潜んでいる。
そういう学校現場で力を発揮できる教師が求められています。
スポーツを経験していない人を責めるわけではないですが,「自分に対する甘さ」があればもうそこには存在できない,そういう環境を経験していない人に,酷な要求をしてくのは気がひけてしまいます。
あなたには,「自分の甘さ」に気づける場が,今までどれだけありましたか。
という問いかけを,家政婦のミタからもらいました。
読売オンラインに,給与のカットが進められている大阪府の行政職員採用試験で,受験者数が昨年の約10倍になったというニュースが報道されています。
理由は,対象者の年齢の引き下げと,試験問題を専門知識が必要な問題から小論文に変更したことが挙げられています。
教員採用も「優秀な人材の確保」が喫緊の課題ですが,ここまら学べることは多いでしょう。
結局,教職教養やら一般教養でいい点数をとれても,「ただの優等生」が「優秀な教師」になれるわけではないことは,歴史が証明しています。
採用試験に出る問題ばかり勉強している人には気の毒な結果になるかもしれませんが,いろいろな「知識」をどうやって「活用」することができるかが,「小学生や中学生にも求められている」わけなので,「知識」だけで合格できる今の制度は「言っていることとやっていることが大違い」という哀しい現実なのです。
10本くらいのテーマで知識や資料を活用する論文を書かせる・・・評価がたいへんですが,これをやれば間違えのない人材が選べる確率が向上しますね。
いい刺激になることをいのっています。
教育の「失敗」を引き起こす原因を見逃せない私が,やりとりの末に「コメントを入れられなくなった」教育ブログが2つあります。
はじめのうちは相手も私の質問に答える余裕があったのですが,途中から放棄せざるを得ない状況になりました。
コメントのやりとりは,不特定多数の人が読めますから,自分の分が悪くなってくると,「言い負かされている状況の公開」になってしまうので,自身の「教育ブログ」としての格好がつかなくなってくる。
一人は,「嘆き節」専門。
もう一人は,「ずれ」専門。
こういう「自分は絶対的に正しい」型人間は,辞書で言葉の意味を引いてきたり,本に書いてあることを引用してきたりと,「幼稚な信頼性の向上」を図ったりもするのですが,そもそもこういうタイプの人が,教師には向いていない。
実態から逃避する手段としての「本」の活用。
「運用」という任務遂行技能の欠如。
相変わらず,「認識不足」の記事ばかり書き,まるで自作自演の「提灯コメント」がついている。
自作自演でない場合は,「似たような教師」のブログからのトラックバックがついている。
これから教師になろうとする人が,絶対に参考にしてはならない人たち。
視野が狭すぎて,批判されたこと自体に腹を立て始める。
自分の誤りや嘘を認めない。
都合の悪い質問には答えない。
自分は正しいことを言っていると信じている。
こういう人,ある意味では「行政」に非常に向いているとも言えますが,教師には絶対に向いていない。
子どもからもすぐに「見下される」存在になります。
人から評価されることを極端に嫌う。
低い評価に耐えられない。
こういう人は,もはやあらゆる職業に向いていません。
少なくとも,人に「何かを教える」職業は,無理です。
自分は「安全圏」にいて,教える相手を「評価するだけ」なんて・・・。
「家政婦のミタ」のように,自分なりの「解釈」を絶対的な自信をもって述べるのはいいのですが,それは「異論」もでないほど完璧なものでなければなりません。
そもそも「異論」が出て当然の主張をしながら,「異論」は受け付けない。
欠陥だらけの教育論はこのブログには最高の題材ですから,どんどん取り上げたいのですが・・・。
家政婦のミタを堪能した人たちによって,「見直されるきっかけになる教師」が増える一方,「見限られる教師」も増えてしまうことでしょう。
一方には,批判に耳を貸さないタイプ。
もう一方には,批判にただただふりまわされるタイプ。
批判に耳を貸さない,というのは一見,「ブレのなさ」を示しているように見えますが,それは「公務員」ができる態度ではありません。
家政婦のミタのような資質が教師には必要なところがあります。
議論中に感情をコントロールする力。
ぶれない信念。教育への使命感。
ぶれにぶれている子どもや親,教師に自分の位置を正しく認識させるには,相手の自分がぶれてはなりません。
家政婦のミタの安定感が必要です。
そして,相手の成長を見極めて,「笑ったり」「泣いたり」「怒ったり」すればよいのです。
体罰容認。
心に深い傷を負った人は,何でもやらかせる(殺人も)という人間観。
死にたい,という人を死なせてあげようとする姿勢。
言うことを聞かない子どもは,家から追い出す厳しい態度。
教育現場で(なくても,もちろん,実生活では)なかなか真似はできないことですが,「そこまでして初めて相手を変えられる,心を動かせる」というメッセージは,教育現場にどう響いてくるでしょうか。
テレビを通して(さらにはインターネットを通じて),こうした強い刺激が子どもたちにもふりまかれている一方で,現実の社会生活は,平々凡々とした毎日が繰り返されていく。
テレビ慣れした子どもたちは,卒業式のあと,最後の別れの場面で「この人,どんなことを言ってくれるのか」と期待するようなところがありましたが,私の場合は照れもあったので,写真をとっただけで事務的にサヨナラしました。
「要求」は,どんどんエスカレートしてくる。
テレビでは,実現していることがたくさんあるから。
実際の生活でも,それを求めようとしている。
勘弁してほしいと思うかたわら,「本当に相手のことを考えている,ということを伝えるには,どうしたらよいか」を真面目に考えざるを得なくなります。
始まって5分間で,いえ,1分で,もう打ち切りにしたい教育実習生の授業がありました。
もし,「もうやめなさい」と言って,代わりに授業を始めたら,その大学生はどうなりますかね。
生徒の前で,「続けさせて下さい」と訴えるか。
「すみませんでした」と言って,あっさり授業をやめるか。
生徒のことを考えると,そもそも教育実習生に授業をさせることが間違っている,なんてことになってしまう。
あるいは,教員免許をとろうなんて気持ちをなくさせることが,最もその大学生のためになり,万が一間違ってその人が教員になり,子どもが不幸になることを防ぐことができる,ということになる。
それでも実際上は,低い評価しか出せないことがわかっていても,教育実習生の授業は続く。
指導力不足教員の授業は続くのです。
「家政婦のミタ」の,「教師改造」版はできないか,とちょっと考えてみましたが,ダメ親ぶりは公にできても,ダメ教師を公にするのは,なかなか厳しいでしょうか。
あしだまな演じる「笑わない児童」が,ダメ教師たちを目覚めさせていく・・・ある人は現場を去り,自分が生き生きできる職場で働き,ある人は本当に変身できて,最後にあしだまなが「ほほえむ」・・・どうも気分が滅入っていきます。
私が受け持っている大学の学生は,厳しい指導に耐えられているのですが,他の学校の先生にお聞きすると,もう授業を打ち切るどころの話ではない学生もいるようです。
どこがどうダメなのかを,学べる場所がないんですね。
もし「家政婦のミタ」が同姓のあのおばさまだったら・・・あの家族はどうなっていたのでしょう。
恵まれた時間枠ではないのに,あれだけの視聴率を残した「家政婦のミタ」。
もし教師が,教室で「先生,家政婦のミタ,見た?」と問われたら,どうしますか。
まずは,
「それは業務命令ですか」と返す?
「そうです」と言われたら,
「承知しました」と答える・・・のがセオリーでしょうか。
もう実行している教師もいるでしょう。
小学校のように一日中一緒にいなければならない教師は,「話題についていけない」のがネックになっていくでしょうから,テレビドラマへのアンテナもはっておく必要を感じていることでしょう。(小学生が見るテレビドラマにしては,時間帯が遅すぎる。だから「録画でみなさいね」というのもお忘れなく)
小学校の教師になろうとする人たちにお伝えしたいことは,「子ども」にとっての「教師」とは,「家族の一員ではない」「他人」であることをしっかりと自覚してほしいということです。
子どもを研究の道具にする教師がいる一方で,わがままに抵抗できず「都合のいい教師」「甘い教師」に成り下がる人が後をたちません。
「家政婦のミタ」のように無表情になる必要はないのですが,教師の中には演技じみた「子ども大好き人間」がいます。醜悪の極みです。
「家政婦のミタ」のように,「死にたい」と言っている人を殺そうとすることも許されないのですが,「死にたい」と訴えてきた子どもから,原因を根掘り葉掘り聞き出そうとすることも許されません。
「家政婦のミタ」から学べるのは,「一線を画す」姿勢。
コメントにも,それが必要です。
いじめを深く理解していない子どもには,「心の傷は,簡単には癒せないことがわかった。だから『いじめ』を今まで以上に許せなくなった」と伝え,
親の愛情に飢えている子どもには,「親も愛情に飢えていることがわかった。愛情に飢えると,愛情からほど遠い行動をとるようになり,ますます愛情を失っていく。優しくするとか,願いをかなえてあげることが本当の愛情の表現ではないのだ」と伝え,
人の言うことをハイハイきいてしまう素直な生徒には,「承知しました,という言葉の使い方がわかった。あなたはその程度の人間なんですね,それで本当にいいのかどうか,思い知らせてあげます,という意味でも使えるのだ」と伝え,
教師という職業の存在理由に気づかせます。
それが伝えられない現場からは,将来の「よい教師」は生まれてこないでしょう。
最後に,テレビに出演する女優も男優も,子役も,選りすぐり中の選りすぐり,何万人分の1の人物が演じているので,成立するのがテレビドラマだ,ということも付け加えます。
金八先生のときも,どんなに荒れた学校を再現しようとしても,私にはどの中学生役の子どもも,「台詞がきちんと覚えられる優等生」にしか見えませんでした。
最終回の視聴率40%超えで,本当に「伝説のドラマ」になってしまいました。
話題もつきないようです。
「希衣ちゃん」役の本田望結ちゃんは「ポスト・あしだまな」か?
続編はつくられるのか?
松嶋菜々子の次回作は?
などなど。
脚本を手掛けた遊川和彦氏のインタビュー記事も多数見かけられます。
私は,教育の観点から,ドラマの「ミタ」と現実の社会を考えています。
家政婦という立場で,非常に「教育的な言葉」を繰り出す「ミタ」。
しかし,プロセスにおける行動自体は,ほとんど「やってはいけないこと」。
「一歩間違えばたいへんなこと」。「犯罪行為」。
教育現場でも,特に荒れた学校をたてなおすときには,似たようなことが起こっています。
しかし,現在は「やってはいけないこと」は,やってはいけない。
教師を「やっていくこと」ができなくなってしまう。
だから,「ミタ」の「思い切りのよさ」に羨望のまなざしを向ける教師も少なくないかもしれません。
でも,「業務命令」によって「笑顔」を見せる→魅せる「ミタ」と,
「泣き顔」をその笑顔に向ける家族たち・・・・そういう場面を経験できる「生きた人間」の職業は,そうはないでしょう。
仏様=仏像のように「生きていないもの」ならできるのかもしれませんが。
松嶋菜々子は,「ミタ」を「仏像」として演じていたのだと考えています。
本当はすでに「死んでいる」のが,「家政婦のミタ」です。
最終回を見て,受け持ちのクラスの子どもたちがつくり,最後までみんなで問い抜いた「自立と自律」というクラス目標を思い出しました。
自律とは何か,
自立とは何か,
それを問い続いているうちに,
いつの間にか,みんなそれを手に入れました。
家政婦のミタが口を開こうとしたときに,
絆が強くなった「家族」が口を開いていく。
私はここが「ほほえむ」タイミングかなと思いましたが,違っていてほっとしました。
もし「教育」だったら,「目標達成」の場面です。
最後の晩餐の場面は,「卒業式」と同じでしたね。
教師というのは,「別れ」のつらさを毎日の忙しさで紛らわすものです。
「荒れた学校」への異動は,最高の舞台を手に入れたことになります。
まばたきだけで同意や感動を伝えられる教師は,あなたのそばにいますか。
(蛇足) 三田=サンタの落ちはやり過ぎか。
人を変える一言とは?
安易な人間は,「その一言だけで変わった」→「その一言で変えられる」
と考えてしまいます。
この間違いには,たとえば研究会に参加して,目の前の成功を表面的に真似しようとして失敗した経験がある教師ならばわかるでしょう。
大学生や大学院生が不幸なのは,「元優秀な教師」に習って,その話に「なるほど」と思っても,それを実行して自分が失敗する機会がないことです。
幸福なのは,それを実行して成功したつもりになってしまう機会がないことです。
人を変える一言とは?
コップに水を1滴ずつ,入れて,こぼれる直前を想像してみて下さい。
最後の1滴で,コップから水がこぼれる。
この1滴が,「人を変える一言」です。
これが,教育でいう「成功」の瞬間です。
その一言の前に,どのくらいの数の「言葉かけ」があったか。
もし「家政婦のミタ」の再放送があったら,丹念に調べてみて下さい。
学校評価の項目の中に,各分掌の業務で「いくつ失敗があったか」「その失敗について,どのような対処をしたか」「その対処の結果,業務はどのように改善されたか」の三つが入っている学校はあるでしょうか。
おそらく皆無でしょう。
学校評価の項目の中に,「そんなこと,そのときに判断して行動していないとおかしいでしょう」と思えるものはいつくあるでしょうか。
「やるべきこと」「改善されておくべきこと」がどんどん先送りされていく。
やるべき人が,やるべきときには,すでに異動していない。
やるべきときが来ているのに,異動したての教員には,なぜそれをやるべきなのか,どうしてそれをやることになったのか,などの情報が伝わっていない。
そんなことも起こっています。
本当に必要な「学校評価」がなされていない背景には,
「失敗を失敗と認めようとしない」
教師個人個人の意識が背景にあります。
「和を乱す」「やる気をなくす」
なんていう中学生のような理屈から,「失敗状況を無視する」ことが常態化しているのです。
総括の意味で12月とか年度末に行う学校評価とは,そのときそのときの短期的な評価を踏まえた改善に向けた動きと改善後の状況を確認するものです。
「失敗状況を無視する」教育現場には,そもそも学校評価に値するものは存在しないのです。
教職につこうという人は,学校現場にひそむ「悪しき伝統」を見抜き,「改革」を遂行していく気概をもってほしいと思います。直観的に,「間違っていること」には気づいていくと思います。
・・・その前に,今,大学や大学院で受けている(?)授業や学んでいる自分の姿勢を「評価」してみてください。
本当に愛情をもっている子どもには,
媚びるような親ではなく,
甘やかす親ではなく,
厳しく接することができるはずだ・・・というメッセージは,
教育現場には,
本当に愛情をもっている生徒には,
媚びるような教師ではなく,
甘やかす教師ではなく,
厳しく接することができるはずだ・・・という形で響いてきます。
しかし,ただ厳しく接することはできても,厳しく接する生徒に対して,愛情も感じさせることは簡単ではありません。
愛情を感じながら,厳しく接することも,簡単ではありません。
自分を忘れることができたら簡単そうですが,人間,そう簡単でもありません。
裏の裏を見てきた私には,「感動させようとする意図」が見えてしまうので,そう思えるのかもしれませんが,「耐えている自分」に酔うことができたら,実はそんなに難しくはないのです。
制作者は,今,どんなふうに酔っているでしょうか。
いよいよ明日が最終回ですね。
ネット上のアンケート結果では,視聴率30%超えは確実な?ドラマですが,物語上では,「たいへんな失敗」とその克服過程が描かれており,当ブログの趣旨からも見逃せないものとなっています。
このドラマが,どのような社会現象を引き起こすのかは分かりませんが,
「人を教育しているミタ」が
最も「教育されることを必要としている」・・・あたりの矛盾は何とも言えません。
「あやかり商法」として,今回の最終回では松嶋菜々子の「笑顔」をあえて見せずに,
「続編」へのつなぎを考えるテレビ局サイドの人がいてもおかしくないでしょう。
そういう期待の裏切り方ができるのがテレビというものです。
しかし,もし「笑顔」が見えるとしたら,今年のもやもやの一部が晴れるような気分になれるかもしれません。
ドラマの成功が,人間の「失敗」に支えられているという話は,
どうも教育の世界ではスムーズにいかないのです。
教育の世界は,たとえば各学校の「教育課程」を読めば分かる通り,ほとんど「本当に実現させる気はないだろう」と思えることが平気で書いてあります。そして,全教員がその「教育課程」を熟知して,その内容に基づいて自己の仕事の成果を検証することなどなく,ただ「例年通り」のようなかたちで4月を迎えるようになる・・・。
ドラマの人間は「リセット」が可能ですが,
きちんとできていないことでもできていることにしている教育の世界では,そもそも「リセット」という発想は生まれません。
せめて,これから教師になる人たちには,最初に抱くはずの疑問を決して自分の中でもみ消さないよう,感覚を研ぎ澄ましてほしいと思います。
人間の良さを実感させるために,醜さを全面に出す。
そういう効果で「視聴率」が稼いでいるのが「家政婦のミタ」です。
人間の良さを実感させるために,醜さを隠す。
これが「教育の効果」が乏しい現実だとしたら,哀しいものです。
本当の危機に直面しない限り,「教育」も変わらないのでしょうか。
これまで出されてきた各教員の「観点別評価」の根拠の「誤り」が学問的に,科学的に実証され,「入学選抜」の間違いが明らかになったら,どうなるのでしょう。
教員の評価についても同じことです。
評価が何か「他の目的」に使われる場合,その評価には「完全なすきのなさ」が求められます。
しかし,そのためにかける時間は莫大なものになるのは当然。
「客観性」だとか「妥当性」だとか言っているわけだけら,「完全なものはできない」のはだれでも分かっていること。
「成績が悪いことを納得させるための評価資料」
これが評価の実態です。
「評価」の意義が誤解され,そもそもの「きまり」が無視され,「正しさ」が失われている教育現場でも,その方が都合のよい人々がいるうちは,教育現場に「法」や「きまり」を語る資格はないでしょう。
言語活動を充実させようとする努力は,昭和20年代から始まっていました。
いえ,明治時代の教師たちの中にもいたはずです。
中教審の答申が出され,その内容を受けて学習指導要領が改訂されるわけですが,改訂の趣旨に「言語活動の充実」がもりこまれたから,あわてて「どうしたらいいか」と考えている学校があったとしたら,それはすでに「手遅れ」になっている証拠です。
今度は,「簡素で効率的な評価」に注目が集まります。
どうしてかというと,「観点別評価を毎時間の授業で行って,それを評価の総括にも活用する」ことが一般化してくると,「膨大なデータの収集に時間がかかり,処理の方法も難しい」「負担感が増している」という悩みが出てきて,「指導のための評価」という意義が失われ,「評価のための評価」「苦情処理の根拠とするための評価」になってしまっていることが問題視され,「改善しなければ」という声が高まっているからです。
しかし,これは導入当初から分かっていることであって,10年たって「顕在化してきた」というのは,そういう評価活動が定着するまで10年かかった,という証拠でもあるでしょう。
評価の目的と機能が分かっている人なら思われることでしょうが,「簡素で効率的な政府」ならまだ理解可能でも,「簡素で効率的な評価」という言葉はいかがなものでしょう。
「そこになお,客観性や妥当性を求めたら,テストの点数で決めるのが一番だろう」という結論になってしまいます。
「B」が「おおむね満足」という「基準」であり,「A」がそれ以上に質の高さを認められるような「十分満足」という「基準」であり,さらに,評定となると,「3」が「おおむね満足」であり,「4」が「十分満足」で,さらに程度が高いのが「5」ということになっていますが,これが「基準」ではないことは明らかです。
教師だけでなく,生徒にとっても「基準」になりうるのは,たとえばそこに実在する,ある特定の生徒の学習状況であって,この生徒との相対評価であれば,まだ客観的な評価は不可能ではないのです。
ある生徒の作品を「B」として,それよりも質が高ければ「A」,また,ここも大切なのですが,これよりも質が低ければ「満足できない」ぎりぎりの作品も「B」として,「C」との違いも説明できるようにします。
問題になるのは,どうしてその作品が「おおむね満足」の範囲内にあるのか,という根拠ですが,もし毎時間,ある1観点でも評価しようとしたら,この「おおむね満足」の範囲内での一番よい状態と一番悪い状態の二つを示すことが求められるわけです。
しかし,「思考・判断・表現」という1つの観点で作品を評価しようとしても,そこには他の観点との関連が当然,生まれてきます。そこを加味しながら評価することになれば,「これは資料の活用が不十分な作品だが,理解していることが自分の言葉で表現できている」ものと,「資料の活用は十分だが,これまで学んだ知識が十分に生かしきれていない」ものとの差で悩むことになります。
純粋にただ一つの観点で評価できる,という発想自体が,学力をとらえようとする方法の前提の段階で誤っているとも言えます。
毎時間の評価とは,このようになされるものであって,ここに「効率」を追究する余地はありません。
求めようとするべきなのは,学力を向上させる上で「効果的な評価」です。
効果的な評価を実現するということは,
学力を向上させる上で「効果的な指導」がなされているということです。
「効果的な指導」を行う場合,そこで「効率的な評価」が生まれる余地がでてきます。
そして,学力を向上させるという意味での「効果的な評価」は,「効率的な指導」の原動力になるということです。
さらに言えば,小学校には存在しない「総括的な評価」の活用が,中学校では重要です。
この点についてはまた別の機会に書くことにします。
教育がからんでいるドラマの脚本で一番気にかかるのは,脚本家の「子ども観」です。
「よい子ども」のイメージが,いかにもステレオタイプです。
「中学生日記」の終焉もきっかけにして,そろそろ「新しい」子ども像を提供してほしいものです。
「家政婦のミタ」では,愚かな大人たちと好対照になるように子どもたちの振る舞いが設定されていますが,子どもたちによる家政婦のミタへの「執拗な励まし」は,もう常識の範囲を超えています。
フィクションだからこそできることで,それで「ウケる」のですが。
ただ,このような大人による「子どもの利用」の方法が,私には非常に気がかりなのです。
あれほど「強さを維持できる」子どもは滅多にいないでしょう。
子どもはもっと深い傷を背負うことになるはずで,そういう傷を背負った人たちが,おそらく「子どもを窓から投げ落とす」ようなことができるようになっていくのでしょう。
子どもには大人以上に深い傷が残る可能性のある弱い存在であるのに,「そういう傷を深く負う」のは大人の特権だと誤解し,子どもは「何も考えなくてよい」「何も感じなくてよい」というメッセージを暗に送り続けているようなドラマに思えてしまいます。
大人よりもあっさり立ち直って,大人の心配をしている子どもをしっかり描いているのですから。
「深く苦しむ大人が,その状況によって子どもを苦しませることには,鈍感であってよい」というメッセージも,伝わってきます。
すでに様々な声が寄せられていることと思いますが,視聴率が高い,つまり影響力が強いドラマの場合には,それが「社会現象」になっていく,ということは過去にもありましたので,邪推してみました。
「家政婦のミタ」の大ヒットは,もはや「ニュース」扱いですね。
遅い時間帯の放送ですが,子どもと一緒に見ている家庭も多いことでしょう。
家族の絆を感じさせてくれるドラマです。
来週の最終回で主人公の松嶋菜々子がどのような演技を見せてくれるのか。
視聴率30%超えという声も聞こえてきます。
家政婦のミタは,子ども4人の父子家庭を「教育」していますが,実は最もよい「教育」を受けているのはミタ自身であるというのが,大きなテーマで,視聴者は「笑わない」「笑えない」ミタの「変化」を期待し続けているわけです。
インタビューを読んでみると,「まばたき」等で「変化」を表現する工夫などは松嶋菜々子本人の追究意欲の表れでもあるそうで,非常によく「計算」されたドラマであることがわかります。
家政婦のミタを,精神疾患に苦しみ休職状態である教師とすると,やはり最もよい治療は「子どもによる癒し」だと思われてきます。
教師が子どもに「教育」されるとは何事だ,という反応もあるでしょうが,教師は子どもによって「教えられ」「育てられている」存在なのです。
そこを勘違いしている指導力不足教員は,研修センターでどんなことをやっても何も改善しないでしょう。
よい教師は,「よい子どもたち」の「犠牲」の上に成長しているという面を忘れずに,あとは自分をどれだけ「犠牲」にして子どもを育てていくか,というのが,このドラマを見て改めて感じさせられたことでした。
福井新聞に,校長が「指導力不足教員」の認定にふみきれずにいる実態が報道されていました。
実際には,校長による評価で教育委員会は課題のある教師の実態を把握している=だから実質的に「指導力不足教員」が1校に集中しないように異動の際に調整している・・・わけですが,校長のなかには「指導力不足状態」を隠し,あるいは本当にその現象が生まれないように学年や分掌で「仕事をさせないように配慮していた」ために校長には気づかずに「まじめでいい先生」として「異動カード」を教育委員会にまわってしまい,異動先の学校で「非常事態」が生まれることがあります。
今年の東京都のある市の教員は,異動してすぐの1学期に「犯罪者」となり,中1の生徒たちを「担任が犯罪者だった子ども」にしてしまいました。こういう犯罪が起こるとき,マスコミに校長がもらす言葉は,「まじめでいい先生だった」・・・と本気で答えているケースが多いでしょう。
もし,指導力不足教員が,全教員の1%を占めていたとしたら・・・小規模校なら数校に1名いるかいないかですが,6000人の教員がいる福井県には60人いるはず。しかし今年は「ゼロ」だったそうです。
・・・では,なるべく多くの「指導力不足教員」を認定し,研修を受けさせれば,問題は解決されるかというと,難しいのは「欠員」となった箇所に非常勤講師をあてたり,他の教師の負担にしたりするので,現場にも影響はあるし,そもそも研修を受ければ改善されるのか,という問題もあるわけですね。
犯罪だったら刑務所,交通違反だったら講習などなど,「教育を受ける場」はさまざまありますが,指導力不足の教師の場合,問題は「子どもがいない場での研修では意味がない」ことにあります。
指導案をいくら書いても,模擬授業をいくらしても,授業ができるようにならないのは当然のことです。
研修の場所は,もはや「墓場」なのかもしれません。
どこかの県で,「指導力不足から立ち直った教師のモデルケース」を発表しているところはないでしょうか。
県議会でそういう事例の紹介を教育委員会に求められることはありそうです。そういう情報がほしいですね。
「教職から離れる決意をさせる場所」・・・研修が,「墓場」とよばれる所以です。
「墓場」に大人を送り出せる覚悟のある校長はなかなかいないでしょう。
民主党内部からの消費増税反対論は,民主党全体への「反感」を和らげる効果があります。
ここに民主主義のよさを感じる人もいるでしょうし,結局は多数派の決定にならざるを得ないという無念さを感じる人もいるでしょう。
ただ,そういう「よさ」を「演出する」目的で「反対」の姿勢を表明する,という「操作主義」もついてまわる世界です。
民主主義には,「演出」がつきまとう。
そして多くの人が,悪く言えば「だまされる」,和らげて言えば「納得させられる」のです。
「反対表明」は,提案の実行の末,それが失敗したとき,「だから言ったじゃないか」と威張る根拠にもなる。
これが,全体主義だと,「異論」は出されないので,一見すると全員一致,一枚岩で動いていくようになりながら,実際にそれが誤った方向だったとすると,とりかえしのつかないことになる。
学校現場の職員会議では,何かの提案について,「異論はあっても何も言わないのがよい」のか,「異論を表明した方がよいのか」。
どうでもいい「異論」と,多くの生徒たちにとって意味のある「異論」は,どう区別したらよいのか。
昨日,ある企業の方とお話していたときに,「何も言わない人はどんどん出世する」という話題になりました。
行政でも同じようなものでしょう。
時間が有り余るほどあり(仕事をしない教員の場合はこれがストレートにあてはまる状況なのですが),会議に湯水のような時間を費やす余裕があればいいのですが,学校や企業というところは,「いかにまわしていくか」にかかっている部分もあるので,「出世しやすい人」には同じ要素があるのかもしれません。
学校の教師のように「出世する必要がない」タイプの人には,「何でも言える」強みがあるのも特徴的でしょう。
「あくまでも自分たちの主張だから,それを通す」タイプの「異論」には,うんざりですが,「それを主張することでの,その人自身にプラスの要素がなく,社会や集団の全体にとってよい」場合には,「正当性」を訴えやすいのですが・・・なかなか難しいですね。
観点別学習状況の評価の大幅な見直しを求めようとするときには,無駄な評価行動よりも有益な指導への手間の増大をセットにしなければ,説得力がなさそうで,つらいところです。
「簡素で効率的な」評価よりも,「簡素で効率的な」指導を訴えようとすれば,様々な誤解も生まれるでしょうし。
・・・一番困ってしまうのは,「何も言わない」+「何もしない」・・・・という人たちでしょうか。
そう思って学校教育を見てみれば,主体的な人間をつくるための場であるのに,子どもが主体性を発揮できるような場面で,「生徒に何も言わせない」+「生徒に何もさせない」ようにしていることがないかどうか,自問すべきでしょう。
反対のための反対をしてきた人たちを山ほど見てきた私の今のスタンスは,「教師は前進を重視する」「子どもの場合は停滞をためらわない」というものです。
小学校は,その時間にできていたらそれでよしとする空気が濃厚で,中学校や高校になると,受験のときにできなければ意味がないと考えてしまう。
小学校の「その場の満足主義」
その場でできないと,評価は低いまま。
中学校と高校の「その後(テストや受験)の満足主義」
その場はできなくても,あとでがんばれば評価は上がる見込みがある。
評価への見方としては両極端なので,指導の話になっても何もかみ合いません。
中学校や高校では,その授業内ではできなくても,家庭でしっかりやってもらえれば,問題はないのです。
宿題や課題として生徒に示されるものの中には,高度なものもありますから,個に応じた学習のスタイルも提供していることになります。
中学校から見れば,1年たったら(1か月たったら,いいえ,1週間たったら?)忘れたりできなくなってしまったりすることについて,小学校の教師がいちいちAだのBだのといった評価をするのは無意味の極みで,最後の段階でできていなければ意味がない,ということになります。関係を中と高に変えても同じでしょう。
半分以上の生徒がBBBB,BBBB,BBBB・・・と示されていることに,何の意味がありましょう。
それを受け取った親や子どもは,意味がわかっているのでしょうか。
小学校では,総括的な評価を非常に安易なつくりの業者プリントにたよっているため,子どもが本当に理解して「良質な知識」になっているのかどうかが分からないまま,単元ごとに評価していくことになります。
中学校や高校では,最終的に総括では理解して「良質な知識」を持てているかどうかを問えば,そこに至った学習活動が確かなものだったことを推定することになっていました。
しかし,今,中学校や高校でも小学校と同じような評価が求められるようになりました。
今までの繰り返しですが,小学校は教師1人あたりの児童数が少ない。ただ,教科を複数教えているので,負担はその分の倍数となる。
中学校は,教師1人あたりの生徒数が多い。私の場合は400人です。テストは年間4回あるので,1年分の答案用紙は1600枚。もしこれだけで評価をするとしても,4観点だから6400項目。
AとB,BとCのどちらをつけるかは質的なもので捉えなければならないので,そのための思案をするのが千項目以上。
ここに,単元ごととか,1時間の授業ごとの評価,そしてレポートなど提出物の評価もしなければならないとすると,さらに膨大なデータを扱うことになります。
ここに,「簡便で効率的な評価」の研究の意義が明らかになるわけですが,とはいっても,そもそも評価というのは「簡便」ですまされるものでしょうか。
「効率的な評価」とはそもそもどんな意味をもった評価のことなのか。
負担感の軽減に進めよう,と示していますが,そもそも観点別学習状況の評価自体が余計な負担を教師にもたらしているのです。
これは,部活でたとえれば,校庭50周を命じた顧問が,「多すぎる」と苦しさを訴えた選手に対して,「もっと効率的に走れ」と言っているのと同じです。
1周ずつ走ってすぐに休める小学校の感覚で評価の話をされてしまっているので,よほどのことがない限りブレイクスルーは見込めません。
「学習の途中で行っている形成的評価としての観点別評価は,評価の総括では使用しない。ましては評定を決定するときには,参考程度とする・・・総括的評価は,あくまでも,学年末時点の能力を問うものである」くらいのことを示してもらわないと・・・・。
いつまでも「根に持つ」タイプの人は,教師には向いていません。
教職を希望している方は,参考にして下さい。
教育ブログには,「根に持つ」タイプの教師がたくさん参加しているのがよく分かります。
徹底してこういうタイプの教師を糾弾していくこと,「改心」させることが,学校の正常化に結びつきます。
問題行動に対する生徒指導では,生徒に対する「復讐心」を持ってはいけません。
正義感に強く,融通が利かない,警察官の方が向いているような教師の中に,生活指導の能力が乏しい人が目立ちます。
「行動を許せない」という意識よりも,「人間を許せない」という意識の方が強くなってしまうと,子どもとの「会話」が成立しなくなります。
言葉が通じなくなるのです。心が通じない,という「かっこいい」表現は使わない方がいいでしょう。
言葉が通じていないのです。
自分の思い通りにいかなくなると,ますます自分ではなく,問題行動を起こした子どもを責めるようになります。
このような悪循環にはまり,問題が長期化したり,深刻化したり,潜在化したりするようになるのです。
私の経験ですが,「坂道を転がり落ちる」最初の状況に立ちあうことができた学校がありました。
「生活指導が厳しい」というので評判の「いい学年」の「表面だけ」を真似しようとした学年が,崩壊への坂道を転がり始める,というのは,決して私がかかわった学校だけの話ではないと思います。
「厳しくすればいい学年になる」なんて,普通の感覚ではあり得ない方向性を選択した学年には,「指導すればするほど悪くなっていく」という泥沼の時間が待っていたのです。
子どもの悪口が多い学校や学年には,未来はありません。
「いい学年」でも,「子どもの悪口」が登場する場合はあります。しかし,その会話は,「笑いながら」なされます。
「困った学年」の特徴は,真剣な表情で「子どもの悪口」を言い合うのです。
そういう学年には,必ず複数の「根に持つ」タイプの教師が紛れ込んでしまっています。
本当に恨まれるべきなのは,「根に持つ」タイプの教師であり,
恨むのは,こういう「教育の真実」を知った子どもたちなのです。
大学で習得できない教師としての資質の一つに,「生徒指導の能力」があります。
私の同世代か,それより上の教師たちには,保健体育の教師でなくても,大学時代に体育会で過ごした人もたくさんいました。
最近の若い人には(私の身近だけかもしれませんが)そういう人がいないので,あるとき人事部の方に「体育会出身者はわざと採用しないようにしているのですか」と冗談まじりにうかがったことがありました。
部活動の指導がまともにできない教師が増えてきて,中学校現場としては「人材不足」に悩んだという経験が複数校でありました。
部活動の指導ができないなら,まだいいのです。
そもそも,生徒指導,生活指導というものの意味が分かっておらず,それができないがために学習指導が成立しなかったり,道徳の授業もできず,特別活動の指導もできず,ましてや総合的な学習の指導などはまかせておけない・・・今の50代教師の若い頃の時代のように,生徒数が多く,同僚も多かった時代には,教師たちの「学び合い」ができましたが,同世代の同僚が少なく,そもそも学校が小規模化して,大きな規模の生徒の動かし方を全く知らないまま経験年数だけ重ねるような教師が増えている現状です。
コミュニケーション能力が足りないことが話題になるのは,教師に限らず,新卒社会人全般の傾向のようですが。
教師には,1対1のコミュニケーション能力ではなく,自分対40人とか,自分対200人のコミュニケーション能力が必要になります。普通の大学生活では,そういう大人数とのかかわりは存在しませんね。
大学でちゃんと授業に出て模擬授業などをしているような人には,OECDの「コア・コンピテンシー」の重要部分が身に付かない「教育」しか受けられないでいるのが現状です。
学習指導の前に,生徒指導のあり方を習得するのが教師の仕事の第一歩です。
しかし,大学生が指導を受ける大学教師というのは,いわば学習指導の専門家(?がつく人も少なくないですが)。私が知っている現場経験のある大学教師は,学習指導の能力はあっても生活指導の能力に欠ける人が多数派です。あくまでも私の知る範囲ですが。
教室で独り言を教師が話しているだけで,だれも学んでいない授業をし,テストの点が悪かったりすると「聞かなかった方が悪い」と開き直るような教師には,「生活指導」が必要になります。
そういうことで言えば,この世で最も「生活指導」が必要なのは,大学の教師ということになりますでしょうか。
現場の教師で言えば,そもそもの「前提」がおかしい人が目立ちます。
部活で遅刻してきた生徒に注意して逆ギレされ,「開始時刻を何時にしたらいいか,話し合いで決めろ」なんていう異常な指導ができるだけでなく,それを公衆の場に堂々と晒すようなことできる人を探そうと思えば,教育ブログというのはサンプルの宝庫です。
模擬授業ではなくても,通常の会話で「授業がうまくできそうかどうか」はたいてい分かりますが,模擬授業が始まると「スイッチ」が入ったように生き生きする人がいます。
教師経験のない事務方の人たちは,たいていこの「生き生きした姿」にだまされて「採用」したくなってしまいます。これが間違いのはじまりです。
こういう「模擬授業」の「演技」が通用しない場所。
それが学校現場というところです。
もし大学等で模擬授業の実践を「授業力向上」のための「重要要素」と考えている人がいたとしたら,そもそも「模擬授業」はだれにとっての何のために行うものなのかを認識しておかなければなりません。
ただの「一人芝居」でよいのであれば,家で鏡に向かってやればよいのです。
勘違いしている人たちが行っている「模擬授業」は,「先生ごっこ」に過ぎません。
まず単純に,これだけのチェックをしてみて下さい。
1 50分の授業をしていますか。
2 30人以上の人を相手に授業をしていますか。
3 生徒が実際に使用する教材(教科書は資料集)は全員が持っていますか。
4 生徒役の人が主役になる授業をしていますか。
5 (学習内容に関する)評価のための問題やアンケートをつくっていますか。
4番目のチェックポイントは,指導案の段階でチェックできるのですが,「30人以上の生徒の学習進度がバラバラになった状況下での動き方」などについては,模擬授業を行わないと「練習」になりません。
模擬授業についてあれこれ言っても,正直あまり意味はありません。
たいていは,模擬授業を行う前の段階が問題なのです。
徹底的な教材研究が前提になければ,教師の仕事はわざわざ試験をやってまで人を選ぶ必要のあるものではなくなってしまいます。
大学で学んでいる人より,中学生の「説明」や「まとめ」が優れているような場合,「子どもから学ぶのが教師の仕事」というのはあまりにもストレートすぎて,可哀想な気もしますが,そういう実態があります。
大学受験をクリアしている人なんだから,
大学の授業を受けている人なんだから,
中学生よりも知識が豊富なんだから,
授業は上手にできるはずだ・・・・
という話が成立しないのはよくわかるはずです。
尾木直樹氏がたくさんの本を出して,新しい学校に転勤したとき,「私は尾木ファンです」「本をたくさん読んでいます」と同僚の先生から言われて,しかし実際には「本当に読んでいてくれたのか」と思えるような指導の実態をみたとき,がっかりしたという話を番組でしていました。
いい先生が「本」を書いても,役に立たないのです。
教員向けに「教師の規範意識を高めるための資料」をつくっても無駄なのです。
大学の先生の中には,学校現場での経験がある人も多いですが,そういう人が,「いい先生」をなかなかつくれないのはなぜか。
やはり一番大きな理由は,
教師になろうとしている人たちが,自分の児童・生徒時代に,「いい先生」に出会えなかったことにあるのでしょう。
大学生になって「いい先生」に出会えても,「頭の中で分かっておくべきこと」のストックは増えますが,それは「果実」としての「知識」というより,単なる「情報」です。
果実が,どんな気候のもとで,どんな土壌のもとで,どんな人の手によって成長してきたのかを知るすべはありません。
スーパーで買ってきたりんごを食べて,おいしくて満足した,それだけのことです。
総合的な学習の時間の指導ができない人。
総合的な学習の時間の企画が立てられない人。
総合的な学習の時間の「意義」がわからない人。
これは,教師としての資質に欠けるというより,そういう学習体験がなかったためによる,「胎児」の状態にあるがための状況です。
文字がわからない人にソフトウェアのプログラムの意味を理解させることができないのと同じです。
ですから,「いい先生」に児童・生徒時代に出会えなかった人は,現場に入ってから,「いい先生」の近くで,「気候」や「土壌」を,「成長の過程」を肌で感じていくしかありません。
大学が,「現場でしか学べないこと」に気づいて,教育実習の充実を考えたり,行政がその期間の延長を考えたりしても,結果は「大差ない」でしょう。
教師になる人を教育しているのは,現在の現場の教師であり,現在の現場の教師が教育している子どもたちの中からしか,将来の教師は生まれてこないのです。
最近,私とキャッチボールしているある女子生徒は,筋力も十分にあって,同じ年齢の男子顔負けのボールを投げることができます。
もともとやっているスポーツの特性も生かし,「しなる腕」で投げることができることだけでなく,ピッチャーとしてボールを投げる上でのポイントを,簡単なコツの説明だけで次々にマスターしていきます。
教師をしていると,「教えてあげたことで子どもが変わること・できなかったことができるようになったこと」に喜びを感じる場面を経験できます。
子どもが,「変わったこと・できるようになったこと」に喜びを感じている場面を経験できます。
教師は,「喜びを感じる場面を経験できたこと」で,子どもに対して感謝をします。
子どもは,自分自身が変わったこと・できるようになったことで,教師に対して感謝をします。
教師も子どもも,相手だけでなく,自分への信頼感を高めることができます。
しかし一般的には,このような関係はそう簡単には生まれないのです。
唐突ですが,教育論も書いている内田樹の欠点は,こういうところにもあるのです。詳しくはいつか書くことにします。
授業である教科を教えて,できるようになったことで,子どもは教師に感謝の念を強く抱くようになるでしょうか。そうするのが当然だと完全に洗脳に成功している学校は別として,「教師は教えるのが当たり前の仕事」だし,「子どもは子どもでできるようになるのが当たり前」と考えられているのが普通ではないでしょうか。
授業が「正座,起立,礼,よろしくお願いします!」という形で始まる学校は多いのではないでしょうか。終わるときは,最後が「ありがとうございました」です。
この「ありがとうございました」の一言に,どれだけ「感謝の念」がこもっているのでしょう。
これから教職につきたいと思っている方には,自分にとっては何気ない「成長の一場面」が,教職についてからは「教師の仕事として決定的な場面」を作り出す「原料」になる可能性があります。
自分の成長を支えてくれた教師への信頼感と,成長できた自分への信頼感が,感情全開で語れるようなエピソードを用意しておきましょう。
面接のときに威力を発揮するはずです。
重要な生活指導の場面で,威力を発揮するはずです。
「吾が争う所は,周人の恥ずる所なり」
ある先生の授業を参観して,自分自身の授業を「恥」と感じるようなセンスが,教師たちには備わっているでしょうか。
教師は,他人の評価はけっこう正確にできるものの,自分自身の評価は苦手な人が多いものです。
これも一種の「ミラー現象」。
悪口を言っているけれど,周囲からは「自分自身の反省」をしているかのように聞こえてしまう。
人柄によっては,「自分のことは棚に上げて」と反発を受けてしまう教師もいるでしょう。
子どもたちは,大人たちの「きれいごと」にうんざりしています。
大人たちはどうでしょうか。
「恥をかくのが嫌だから,研究授業は若い先生にさせよう」
・・・恥の文化は一応,あることはあるのでしょう。
ある研究会では,「褒め合うこと」「慰め合う」ことがモットーで,厳しい「批判」というのはどこからも飛んできません。
その結果,研究発表ではとんでもないイタい目に合ってしまう。
「褒め合うこと」が恥である,というくらいの「高さ」がほしいところです。
「教師が慰め合う姿は,子どもから見れば恥となる所なり」
授業とはどういうものか。
たったこれだけの問いに答えるのに,どれだけの言葉が費やされてきたか。
とてもたくさんの言葉を目にしてきた人たちなのに,どうして
「激しい誤解」が成立するのか。
どうしても私には理解できないことです。
しかし,どんなに頭では理解できても,実践できない人というのはいます。
結局,子どもと同じで,「わかったつもり」にはなっているけれど,「わかっていない」「理解していない」証拠なのかもしれません。
授業は,子どもが何をするかが大事なのです。
課題が終わった子どもから「遊んでいい」・・・「遊べる」というエサを与えて,「勉強のやる気を出せた」と言えてしまう,とりかえしのつかない「ズレ」。
こういうことが平気で言える小学校教師が,教育を破壊してきたのですね。
ノルマを達成しただけで満足し,それ以上,先に進めない人間をつくって満足している。
こういう教育が,社会を停滞させていくのですね。
もし,「やる気を出せた」と自慢したいのであれば,終わった人から遊んでいい,という指示のもと,終わった子どもが「さらに先を学んでいく」ことを示せればよかったのに。
私の小学校時代,早く課題が終わった子どもは,教室の後片付けを率先して行う(掃除の時間が短縮でき,放課後に遊ぶ時間が増える)とか,分からない子に教えてあげるとか,それが一般的でした。
よい学習環境を経験している子どもでないと,まともな教師にはなれないのでしょうか。
塾の方が何十倍も学習の効果が高いことが証明されてしまいましたね。
「使命感」について,直接的に面接官から問われることはないのでしょう(いろんな質問への答えの内容や答え方から,使命感をもっているかどうかは判断されますから)が,万が一,問われたら何と答えますか。
あなたは,教師としての「使命感」は強い方ですか,弱い方ですか。
「強い方です」と答えさせるための誘導質問ですね。
「どうして強いと言えるのですか」
「研究意欲が旺盛です」
「どのようにして研究しているのですか」
「優れた先生の授業を見学したり,本を読んだりしています」
「あなたは,優れた先生の授業を見学したり,本を読んだりしている先生は,使命感がある先生だと思っているのですね」
「そうです。授業を改善させようとする意欲があるからです。」
「あなたが考える教師としての使命感は,そんな程度のものなのですか」
「・・・」
ふりだしに戻りましょう。
毎年多くの教育実習生を指導したり,研究会に属していたり,行政の仕事で学校を訪問することが多かったりしたので,私は普通の教員よりは「授業見学」をよくしています。
私は授業で何を見ているのでしょう。
特にこれといったチェックリストは持ち合わせていません。
隅から隅まで,あらゆるところにいちゃもんをつけられます。
それくらい批判的に授業を見ることで,自分の授業の改善に役立つのです。
もし,教師の総合的指導力を見抜こうとして授業を見るときは,教師と生徒との間の「呼吸」を感じ取ろうとします。
小学校の教師の文句ばっかり言って申し訳ありませんが,どうして小学校の教師は,あれだけいつも一緒にいる子どもたちなのに,授業になると違う空気を吸っているのかが理解できません。あえてそうしている立派な人もいるのでしょうが,よそよそしいというか,もっと「近く」にいていいでしょう,という印象が強い教師が多い。
そして,もっと「離れろよ!」といいたくなるほど,休み時間になるとベッタリしている。
これ,逆でしょう。
中学校の教師の指導力不足になると,これがどういう場でも「離れている」。唯一,部活動だけ,生徒を奴隷にできる。生徒は,教師の呼気を吸うだけ。
教育実習生にはほぼ習得できないのが,この「呼吸」の合わせ方です。
小学生というのは,いつも表情に変化があり,そしてそれが頻繁にあり,「教師の目をひきつけよう」と努力しているのがわかりますが,これは単なる「自分を見てほしい」というアピールであって,授業の内容の反応とは無関係の場合があって,逆にやっかいです。だから,計画的に「離れる」人もいる。
中学生というのはとても授業がしやすい。それは,中1も後半になってくると,だんだん「自分をおさえる」ことができるというか,「自分をおさえたくなる」ようになってくる。
だから,授業の中での反応というのは,内容に直結したものが多い。これにしっかり反応するのが,教師としての「礼儀」です。
生徒の反応に反応できない人は,どんどん「違う世界の人」になっていく。
指導力不足教員の授業を見ると,本当に「この世の人か」と思ってしまいますよ。
背筋が寒くなってきたのでこのへんでやめます。
昨日は,指導主事の大先輩と,副校長先生お二人とミニ忘年会をご一緒させていただいたのですが,実習生に対する評価について,同じような経験をなさっていることがわかりました。
私もその先生も,教育実習に関しては事前指導から相当厳しいものがあるという「定評」があり,さらに「評価も厳しい」という「情報」もあるのですが,その「情報」を裏付けるようなことをすると,大学側から(学生を通してなのかもしれませんが)「評価が厳しすぎる」という指摘をいただくことがあるのです。
結局,「どうしてそのような評価になったか」を説明する羽目になるのですが,大学としては,ちゃらんぽらんな指導を受けて「高い評価」をもらっている他の学生も知っているので,「不平等だ」という感覚があるのでしょう。
ここから先,私の書きたいことは,お読みの方もお分かりになるでしょうね。
もし「不平等だ」と言うのなら,ちゃらんぽらんな指導を受けて「高い評価」をもらっている学生の評価を「適正に下げてほしい」という要求をするのが「正しい」選択なのです。
でも「正しい」ことはしないのが,大学としての「立場」なのでしょう。
教員採用のときに,教育実習の評価をみている教育委員会があったら,教えてほしいです。
その評価が適切なものだったかのかどうかを一番よく分かっているのは・・・。
横浜市議会の木下議員の「観点別評価の問題点」という記事を読みました。
評価の総括で,3段階評価のABCを5段階にする上での悩みを解消する手段として,観点別評価自体を5段階にしてしまうという例を県教委が出したそうで,その問題点を質問したというものです。
市教委は県教委からあらかじめこういう質問が出たときのQ&Aをもっていたはずで,その回答を知りたかったのですが,記事からは読み取れませんでした。
観点別評価の問題解決は,よほど有力な学者が文科省に正面向かって訴えないと難しいと考えてきましたが,神奈川県教委のような形で「やってしまう」ところが出てくると,案外,解決に向けてのスピードが上がるかもしれません。
AとBの違いでさえ,説明が難しいのに,A丸とAとBの違いなんて,気が遠くなる話です。
「全観点の評価が可能な問題を作っている」ことを根拠に,90点以上とれれば5,80点以上で4,70点以上で3,50点以上で2,50点以下は1などとすれば,問題づくりと採点にかかる手間は増えても,評価にかかる手間はいっさい省ける,そんなたぐいの主張が出てくるのも間近でしょう。
教員採用試験の面接で,「観点別学習状況の長所と短所について述べなさい」という問題が出たときは,正しい「短所」を答えると不採用となる恐れがあるのでご注意下さい。
指導力がなく,人の指導力のあるなしも分からない人が,何だかそれなりの「教育論」を書くことができる。
これは本当に不思議なことです。
指導力がなく,人の指導力のあるなしも分からない人に教育されても,「指導力がある」人が育ってしまうのことは,決して不思議ではないのですが。
また,指導力がなく,人の指導力のあるなしも分からない人の教育論を読んで,「指導力がある」人が育ってしまうことも,不思議ではありません。
教育には,「こうしたからこうなった」ということが語れない,難しさがあります。
指導が上手で本も出している,そういう人が指導した子どもなのに全く学力がついていない,そういうことも,山ほどあります。
指導自体は稚拙でも,タイミングが正しければ,絶大な効果をもたらす,というのが「生活指導」です。
指導自体は稚拙でも,教材が良質であれば,絶大な効果をもたらす,というのが「学習指導」です。
教師にも「コーチング」が求められる時代が来るのでしょうか。
教師という人間には,「裏の裏」が理解できる人が向いています。
指導というものは,通り一遍のものでは通用しません。
すでに分かっている子どもに対して,「ゆっくりていねいに」教えてあげる必要はありません。
教師が何を語るかではなく,子どもに何を語らせるかに注力しなければなりません。
教師の仕事は「こうすべきだ」と一言では表現できません。
あるときは画一性が物を言い,あるときは変幻自在であることが物を言う。
私はみすぼらしい,指導力のない教師の一団が,「こうされるとやる気をなくす」と駄々をこねているさまを,何度か目にしてきました。
以前は「子どもレベル」と思って「かわいらしく」見えていましたが,歳をとってくると,「もういい加減にしろ」と言いたくなってきます。
指導とは,「こうすべきだ」・・・こういう話は,ときと場合によっては,「正解」になります。
ただ,ときと場合によっては,「大間違い」のもとになります。
「そうすべきでない」ときに,「こうすべきだ」という信念に従って「仕事」をされると,迷惑するのは子どもと「分かっている教師」です。
また,「こうすべきではない」ことでも,「そうすべき」ときは,そうしなければなりません。
「そうすべき」相手にしないこともあるし,「そうすべきでない」相手にすることもあります。
教師というのは,山の何合目から「下を見渡せるか」が勝負です。
ときには頂上にいて,常に上ばかり見ている人もいますが,麓にいて,「上から目線」だけを感じている教師もいます。
「いい加減に,登ってこいよ」・・・なんて,定年前の人たちには言いにくいのですが。
ある教育ブロガーが,「学力テスト」うんぬんと書いています。
おそらく「問題」を実際に見ていないし,「ねらい」も分かっていない。
この人は子どもたちが「塾」で熱心に学習し,「学校」では学習に意欲が高まらないことに不満をもっているのでしょう。
あるいは,自分のような「学校の先生」より,「塾の先生」が子どもの信頼を勝ち取っていることに不満なんでしょう。
塾の先生は商売でやっています。
学校の先生は,何のために教育をしているのでしょう。
塾の先生がつくる「問題」と,学校の先生がつくる「問題」と,どちらの方が「優れている」のでしょう。
いわゆる「学力テスト」の「問題」は,一般的な「塾」が扱っている「問題」ではありません。
「学力向上」への課題やヒントがたくさん隠されている「問題」を出題者は「考えさせられて」,かなりの「議論」を通して子どものもとに届けられます。
このような「メッセージ」が受け取れない教師たちが,現場には多いので,
本来は「全校実施」が原則だったのです。
指導の改善を,どのような指針で行っていくのか。
自分がつくる問題を「子どもができる」「できない」だけで,本当に「学力の実態」が把握できるのか?
そういう疑問をもったり,
自分がつくる問題で「子どもに力がついているはずだ」という確信があるが,
それを確かめたい,と思っていたりする教師にとって,
「学力テスト」は願ってもないチャンスでしょう。
小学校の教師で,「業者のテスト」しか使っていないような人には,「指導の改善に生かす調査」というのは自分の頭で理解可能な範囲を超えてしまっているのかもしれません。
今の時代は,新採のときはもとより,教育実習の場でも
「褒める」「励ます」
が基本なのでしょうか。
現場で何年かやってしまうと,
「あなたの授業はおかしい」
という指摘を周囲の人はしにくくなります。
教育ブログを読むと,授業を実際に見なくても
「おかしな授業」をしているに違いない人が散見されます。
「おかしな授業」に気づかず,何年も「おかしな授業」をやり続ける人が増えていくのでしょうか。
「中身のなさ」で致命的な授業が多いのですが,人によっては「ちゃんと座らせることが基本」なんていうレベルなので,どこを認めてあげたらよいのか困ってしまうことになるでしょう。
「褒める」「励ます」ことは,だれでも,だれに対してもできることです。
「叱る」「疑問を投げかける」ことは,だれでもができることではありません。
しかし,相手次第で,だれに対してもしなくてはいけないことなのです。
だから,こうなった,という実例にあふれてしまっているでしょう。
一度,「自分の試験問題はおかしいのではないか」とふり返ってみて下さい。
問題自体が間違っているのは論外。
先日,ある自治体に招かれた研修会では,荒れた学校でのエピソードを交えて話を進めたのですが,研修会後,事務局の方に「こちらでは荒れて困っているような中学校は少ないですか」とお聞きしたところ,厳しい表情をされ,「どこも同じか」とやや暗くなってしまいました。
学習指導に関する研修だったのですが,学習指導が成り立ちにくい環境で教えている先生方にとって,本当のニーズは「学校の建て直し」とか,「教師集団の建て直し」の方にあるのかもしれません。
ただこれは「校長」のリーダーシップにかかわる問題でもあり,そもそも課題が「口外厳禁」になってしまっている学校の先生は,そういうことを自治体の研修で学ぶ機会は皆無なのでしょう。
学習指導の充実で建て直せるレベルではない学校では,とにかく中1の最初の1週間がすべてなので,研修は4月3日くらいに実施するのがベストですが,まだ組織も固まっていないときにそんな研修はできないのが普通でしょう。しかし,私が担当した初任者研修の第1回目は4月3日でしたから,不可能ではないのです。
年度途中の建て直しは,容易なことではありません。
昔,ある先生が,「研修で学校を離れるときが一番ほっとする」ともらしていました。
その先生の本心だったと思われますが,こういう学校の子どもたちは本当に気の毒です。
こういう学校を変える唯一の手段は,「生徒を生かす」ことです。
授業で生かせば学習指導が充実し,学力も向上しますので一石二鳥です。
集団で行動する機会を増やし,生徒たちの前に生徒たちを立たせていく。
目の前の景色を一変させることで,「学校はだれのためのものか」に気づかせることに成功したら,簡単に学校は建て直せます。
ただ,本当に一番やっかいなのは,生徒ではなくて,先生たちなんですね。
気の毒なのでそこにまでツッコミを入れませんでしたが,何となく想像はできました。
教育ブログをいくつか検索してみれば,どういうのがやっかいだか,すぐに分かるでしょう。
「教師は悪くない」のが前提の人間たちを変える本当の力をもっているのは子どもです。
ある人に,東京都が教員の給与も含めて都立高校にかけているお金をどこかの民間の教育機関に預けて任せたら,今よりはるかにいい学校がたくさんできるかもしれませんね・・・と冗談を言ったら,はげしくうなずかれてしまいました。
東京都立より,K大学とかT大学,M大学附属なんとか高校の方が,学力も進学率もぐんと伸びたりして。
・・・大阪がやろうとしていることに,一番あせっているのは東京都かも。
かなりの数の公務員を減らすことも同時に実現できそうです。
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