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2011年11月

特効薬を求め,群がる人間を食いものにする会社

 そんな会社,ありますかね。

 そういう団体,近くにないですか。

 どうしてそういう会社や団体の雑誌を読んでも,ためにならないのでしょうか。

 
 せっかく「これだ!」と導入したものなのに,どうして,すぐ飽きてしまうのでしょう?

 売れる本だけつくって,売ってもうけてきた人たちは,何か感じることがないでしょうか?


 でも,なぜかほとんど読む人がいないと思われるような本を,学校は継続して買ってくれています。

  「団体」が作り手でそこに加入している人がみんな買ってくれるからでしょう。宗教本と同じ。

 ほとんど愚痴の固まりのような記事や特集しかないその価値のなさそうな雑誌が,私と同じ主張の特集を組んでいるのに気づき,思わず読んでしまいました。

 書いている人は,みんな名前を知らない人たちだけですが,最初の座談会からピンぼけ&無知の連続で,これだけおかしな解釈がまかり通ること自体,観点別学習状況の評価は行き詰まっていることを意味します。

 
 自分たちの指導力のなさを子どものせいにする相変わらずのパターン。

 評価の方法自体を間違えてしまっていることに気づかずに,問題だ問題だと,写真で顔が載っている先生が堂々と述べ,それが活字になり,雑誌となって世の中に出てしまっている。


 抽象的な言葉のオンパレードで,これは,間違いなく,「学習指導要領」が分かっていないで語っているとしか考えられません。ましてや,「学習指導要領の解説」など,手に取ったこともない教師がいるのでしょう。何が目標となっているかを理解しないで,評価はできません。

 絶対評価とは,目標準拠評価なんですから。


 「団体」の人間が「団体の人間」の書いている本を参考文献にするから,同じ内容の繰り返し。

 代案がなし。

 がっかりする,というのではなく,自分の「評価」が間違っていないことに,安心してしまったひとときでした。 


読んで「すばらしい!」と思ったこと・・・全く成果が出ていないことをきちんと自覚できている。

なぜ小学校の統廃合が必要か?

 都市部で小さい規模の小学校は,できるだけ早い時期に統廃合を進めていかなければなりません。

 これには,たくさんのメリットがあります。

 「小学校までの距離が遠くなる」というデメリットがありますが,たとえば今,私の住んでいるところから15分程度で着く小学校は,5~6校あります。

 歩いて5分のところの学校がなくなって,10分かかる学校に通うことになっても,それは深刻な問題ではありません。

 30分以上歩かなければならないとしても,これは健康にもいいですよ。

 財政支出が減らせるということをここで強調したいわけではなくて,今,小規模校を襲っている深刻な問題の解決を教師としては強く願っているということです。

 小学校で学年1~2学級程度の学校は,その学年の担任が1人か2人,ということですよね。

 こういう学校に,新規採用の教員がどんどん入ってくるような事態になったらどうですか。


 私の見てきた小学校では,新規採用で1年目に担任を持った教師が,翌年は保護者の強い要望で担任を持てなくなった,ということがありました。「もうたくさんだ」「二度とごめんだ」という評価です。

 今,50歳代の教師が小学校にもたくさんいますが,この方々が退職される今後10年間,新しく入ってくるのは20歳代,30歳代の人たちということになります。競争率がおそろしく低い,かつ,「ゆとり世代」,という「双子の恐怖」を背負った世代が教師になっていくのです。

 
 小学校の教師というのは,中学校と比べて,校内で学べる機会が少ないのが現状です。

 中学校よりもはるかにたくさんの「校内研修」を実施していても,です。

 だから平日だというのに有名校の公開授業,研究発表会は満員御礼になるのです。


 休日に部活指導もない,「気ままな暮らし」を営むことができる代表的な公務員の小学校教師で,こういう公の研究会に参加せず,独学もせず,たまにある授業参観日だけどきどきしていればいい,という人たちが,勤めはじめて20年くらいして初めて学級崩壊を経験し,それが「いつおきてもおかしくはない自分の指導力の低さが原因だった」ことに気づいても,教育を受けた子どもにとっては「手遅れ」なのです。

 そもそも小学校レベルの教育内容で問題が起こること自体がおかしい。

 小学生にそっぽを向かれることがおかしいのですが。


 小学校は各学年,少なくとも3クラスか4クラスはあって,同じ学年の教師が切磋琢磨や学び合いができ,子どもも運動会や学芸発表会で盛り上がれる,そんな「規模のメリット」を享受できる環境が,特に今は求められているのです。

 
 統廃合の「汚れ役」は,地元の教育委員会です。

 しかし,この「汚れ役」を堂々とつとめることができる教育委員会を支援する自治体が,「教育の自治体」として信頼を勝ち得ていくでしょう。


 学校の統廃合に反対されている方々には,かつて,自分たちが,大規模校で教育を受けてきて,「多くの大人に囲まれるメリット」をもう一度,思い起こしていただきたいと思います。

 教師になりたてで学年主任となる人間と,多くの現場で切磋琢磨して指導力を鍛え上げられている担任と,教師を選べるとしたら・・・なんて話は必要ないでしょうね。

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民主主義社会の勝者と敗者

 多数派が勝つ投票制度を最も恐れているのは,公務員です。

 「こういう役所のこういう仕事は,こうすればもっと低コストで,効率よく,しかも質が良いものに変わる」という提案がなされることが,公務員にとっては「恐怖の情報」です。

 人々の仕事が増え,失業率が下がり,社会全体が豊かになることを「喜ばない」のは,権益を握っている人たちです。

 「こういう学校のこういう教育は,こうすればもっと低コストで,効率よく,したがって今よりこれも充実し,進学率が上がり,こういう学校を卒業できたことへの誇りが高まり,さらに質が高い教師が集まってくる」という提案がなされることが,公立学校にとっては「恐怖の情報」です。

 今までは,現実味がない「恐怖」だったのが,大阪の動きから「脅威」に変わることになるのでしょう。

 

「元気」を強要される気の毒な子どもたち

 久しぶりにコメントをいただいてありがとうございました。

 子どもたちが「元気」に育つには・・・?

 という質問について,ちょっと違った角度から,気の毒な子どもたちを紹介します。

  
 ある小学校の教育目標(?)の一つに,「元気な子ども」というものがあり,子どもは何かにつけて,「元気よくすること」を強要されています。

 「元気よく挨拶しよう!」

 「元気よく遊ぼう!」

 「元気よく返事をしよう!」

 「元気よく遊ぼう!」

 「元気よく手を挙げよう!」

 などなど。

 
 低レベルな小学校の授業を参観すると,「ハイハイハイ!」といっせいに子どもが挙手して発言を待つような場面に出くわします。

 授業者はにやにやしながら,指名相手の子どもを探します。

 いざ指名してみたら,「分かりません」・・・というのは別の話で,

 こういう子どもの「奴隷化」「家畜化」の教育はいかにも醜悪で,そういう子どもを作りたい教師には「お似合い」の授業なのですが,クラスの中には,当然,「ここは発言しないでおこう」「もっとじっくり考えてみよう」「まず他の人の意見を聞いてみよう」などと考えている子どもが必ずいます。

 
 ある優秀な生徒が,こういう愚痴をこぼしていました。

 小学校の担任の先生は,じっくり考えようとすると,「もっと積極的に発言しなさい」とか,「反応が鈍い」とか批判してきます。仕方がないからそういう努力もしてみましたが,とても疲れました。

 ・・・小学校の教師たちの中には,「思考・判断」という「頭の働き」の意味が分かっていない人がいます。

 「関心・意欲・態度」を学習指導要領が示す目標とは全く別の話で理解している人がいます。


 奴隷養成機関の小学校では,「考える子ども」は必要ないのです。

 「考える」のは,子どもの仕事ではないのです。


 元気が一番,などという「信仰」の教師の中には,崩壊状態の教室に「満足」している人もいるでしょう。

 みんな「元気」に自分の好きなことをして遊んでいる。

 
 私が廊下越しに参観した授業では,担任教師はこういう場面で「内職中」でした。

 
 「元気」な大人や先生は,こちらの気持ちがへこんでいたりするときにたまに近くにいてくれるので十分。

 鬱陶しいので普段は遠くにいてほしい。

 そういう子どもも小学校高学年ならたくさんいるでしょうね。

 
 元気な人がみんなそうだと強弁したいわけではないですが,私が出会った教師のうち,「元気」な人の多くは,人の言うことを聞かないタイプが多いです。

 だから元気でいられるのかもしれませんね。

奴隷をつくる学校

 目の前にいる子どもが,教師である自分の切り出した話題について,頭を回転させているかどうか。

 自分の頭で考えているかどうか。


 そんなこと,どんな教師でも「気づける」ものだと一般的には考えられているでしょう。

 残念ながら,それに「気づけない」人がいます。

 「気づこうとしない」人もいます。

 もっと言えば,「そんなことはどうでもいい」という人もいます。

 
 「賛同者以外お断り」タイプの教育ブログを読めば,すぐにお分かりになるでしょう。

 こういう人を,教師としての「資質」の一部を欠いている人,といいます。


 私の身近にいらっしゃる「教員採用試験予備校」系の大学の先生は,「公立の子ども」にも,「公立の先生」にも,あまり「資質」は期待しておられないようです。


 子どもは,頭がしっかり回転しているときは,「ハイハイハイ!」などと餌に群がる鯉のような反応はしません。

 紙に書いてある文章や教科書の文章を棒読みするようなことはしません。

 そういうときは,頭は回転できないのです。


 教師の側で考えてみましょう。

 教師は,どういうときに最も頭を回転させているでしょうか。

  
 先日,研修会で「久しぶりに頭を使った」というコメントを耳にしましたが,

 普段,「頭を回転させる機会がない」のが「忙しい教師像」なのでしょうか?


 1時間の授業づくりをイメージしてみましょう。

 どこでどのように生徒の頭を回転させるかを,教師は構想の段階でどのくらい自分の頭を回転させて生みだそうとしているでしょうか。

 
 「学び合い」の初歩の段階として,「話し合い活動」を重視する傾向がありますが,「話し合い活動をさせておけばよい」という安易な教師は後をたちません。

 はっきり申し上げれば,教師の手を抜くための隠れ蓑として,「話し合い活動」が行われる場面は,大きな公開授業の場面でも見られることがあります。

 
 ある授業で,教師の話題に刺激を受けて,自分なりの問題解決に取り組もうとした生徒がいました。

 当然,もう教師の話や他の生徒の話など,耳に入りません。

 こういう生徒が「褒められる」学校がどのくらいあるでしょうか。


 「考える」ことが習慣化していない子どもたちは,ただの奴隷にしか見えません。

 こういう奴隷が育つことで,得をする人がいるから,今の教師も社会はかろうじて支持しているのでしょうか。 

子どもを裏切り続ける教師たち

 子どもを見世物にして,「いいイベントだった」と肩を寄せ合う醜悪な大人たちに向けて。


 先日,一般の先生方が参加するタイプの研究会に出かけていきました。

 そこで私が味わった気持ちは,単純な言葉では言い表せません。

 そもそも6時間あれば何万語を発することができるかを真面目に計算したことがあるようなタイプの人間が,沈黙を通すことに無理もありました。

 「幻滅」「屈辱」「落胆」

 そのどれもぴったりきません。
 

 そういうのを通り越して,一言で表せば
 
 「憤り」「怒り」です。

 
 多くの力ある人たちが,いつからここまで「諦め」の境地に入ったのでしょうか。

 いつから「現状満足」の世界に浸り始めたのでしょうか。

 いったいだれが,「守り」に入った人間たちに異議を唱えなくなったのでしょうか。


 子どもたちに対する「裏切り行為」に,ここまで鈍感でいられるのはなぜでしょうか。


 公立学校の信頼回復を,私は今まで「教師の指導力向上」に求めてきましたが,それは不可能であることがわかりました。

 公立学校の信頼回復の本当の手段は,「子どもの学力向上」しかありません。

 それは,教師の指導力にかかわるものではなく,子どもの「学ぶ力」によるものです。


 新しい情報発信の仕方を進めなければなりません。

教育ブロガーの「神経回路」

 ブログを書くような教師や元教師の「頭と心」を知るようになってから,同じ共通点を持っている人が多いことに気づきました。

 これは,ブログを書く人の共通点というより,教師になる(なろうとする)多くの人が持っている共通点だろうと想像できます。

 常に厳しい評価の目にさらされている私自身は,以下の人たちとは違っていると信じてはいますが,実際は似たところがあるように見えるかもしれません。

 そういう人たちの共通点は,『偏っている』ということです。

 私がたいへん嫌っているのは,『自分を守る』という意味での,激しい偏り方です。

 一見,ブログで自分の考えを公開するということは,自分をさらけ出すことになる(自分の長所だけでなく,欠点もわかってしまう)わけですから,自分に厳しい人かと思ってしまいますが,ある人は議論になるとすぐに行き詰まってしまうため,それができないように予防線をはってしまう。 『偏っている』ことを相対的な目で見てもらいたくない,あるいは,間違っている部分があることに気づかせたくない,そういう「思考回路」でしょう。

 あえて「課題に気づかせる」というねらいで言挙げする人がいるかもしれませんが,そういう人なら,議論こそ「待ってました!」という話でしょう。しかし,「気に入らなければ読まなければいい」という態度です。

 ある人は,自分が精神的な部分に課題がある(またはあった)と自分から宣言してしまう。

 ある人は,議論中に自分が嘘をついていることがばれてしまっても,それを見事にスルーできる自分がいる。

 私が「ミラー現象」という言葉で表現したある人の「思考回路」は,自分が自分の批判対象になっている・・・つまり,鏡に映った自分に向かって話していることに気づかない人がいる。


 自分で作り話を書いておいて,その直後に「作り話を書いている不届きな者がいる」と言えてしまう「神経回路」。

 「お前,作り話をしただろう」と言われる前に,先手をうって,「作り話をしている輩がいる」と言挙げする。

 実際は,自分自身が一番怪しげであることがそれでばれてしまうのですが・・・。


 自分のことを問題にされる前に,人のことを問題にする・・・教師の場合,同じ大人では管理職しか標的にできる人間はいないので,自分の指導力の低さ(これが学校にとっては最大の問題なのですが)は棚上げして,「国旗掲揚反対」とやる。国旗は当日の会議では6時間ももめれば収束できますが,低い指導力によって台無しにされた子どもの学力は取り返しがつかないのです。こういう大問題は横に置いておける「神経回路」(実際には,「子どもが悪い」と本気で考えている・・・から,自分が救われるのでしょうが・・・)。

 
 何事に対しても「傍観者」でいられるタイプの教師(このタイプがまた非常に多いわけですが・・・)を除くと,こういう人である確率が,一般の人よりも,教師の場合はかなり高い。ちゃんと責任を感じて,自分が許せなくなる人が多いのは,教育という難しい仕事の場では当たり前のこと。

 教育というのは,そういう気持ちで努力と実践ができて,病気にならない人が,現場に立てるという,厳しい仕事です。問題は,教師の場合,プロスポーツの世界と違って,「あの選手はもう現役では通用しないな」という結果がはっきり見えにくいことと,「公務員」であるため,そういう評価を下せる人間がいないことが課題です。

 
 どうして『偏る人』が多いのか。その科学的な分析方法は分かりませんが,直観的には,ある程度の使命感を持っているにもかかわらず,子どもを変えることができない自らの指導力の低さを自覚できないでいる人の,自己防衛機能としての「消極的行動」(=傍観者),「積極的行動」(=ブロガー)ではないかと考えています。

 私にあてはめると,「公立学校の教師はこんなことではいけない,変えていかなければならない,と強く思っても,直接的にふれあえる人であっても,うまくいかない・・・言葉の力だけでは,変えられない・・・・自分の力のいたらなさを強く自覚させられることを隠すための積極的行動が,このブログなのかもしれません。

 本来の仕事がそれに当たっているか,当たっていないかの違いだけです。

あなたは,公立学校の教師である必要がありますか?

 「子どもが悪い」系・教師ブログをつくっている教師への言葉です。
 

 この質問文の意味は,ちょっと分かりにくいでしょうか?

 高校の先生などは,義務教育ではないから,余計に

 「あなた,公務員ですか?」

 と問いたくなる人がいます。

 これ,周りの「密度」がある線を超えると,あっという間に「無法地帯」になるのでこわいところです。

 こういう教師の意識レベルは,小学校や中学校から「成長」していないところに共通点があります。 

 
 つい最近も,またまた最悪な出来事がありました。

 「もう打つ手がない」という行政には,いいアイデアを提供したいところですが,それをやると「教育公務員は必要ない」なんてことになって自分の首を絞めかねないので,やはり教師の質の低下が行き着くところまで来ている状況を嘆くことや,少しでも被害者が少なくなること=防衛技術を広めること・・・に力を注ぐことしかできないのかもしれません。

 
  ・・・免許更新制の代わりに,全国一斉「教師の」学力考査なんてやられたら,きついでしょうね・・・でも,少しは「勉強」するようになるでしょうか・・・?

 小学校の先生は,英語の塾に通う日が来る?
 

なぜそこまでしても学力はつかないのか?

 とても立派な「研究」発表をネット上でもたくさんみることができます。

 でも,「これでは学力はつかないな」と直観で分かってしまいます。

 どうして,「そこまで」教師が頑張っても,子どもに学力がつかないのか?

 ・・・その答えは,子どもに聞いてみるのが一番でしょう。


 あと,「お話」の嘘が見抜けるようになってしまったのは,「作り話系」の「作り話」に酔う世代の人間をたくさん見てきたからでしょう。

 こういう幻想の社会で生きてこられた方々が育てた人間が,大人になったら現実的なものの見方・考え方ができるというのは,逆に感謝しなければならないのでしょうが,今後,幻想系高齢者が現実型壮年者にとってどれだけ「重荷」になりそうか,想像するのもこわいくらいです。

分かっていないからこそのものの見方

 相手が「スゴイ人」とは知らずに話をする場合と,相手が「スゴイ人」と知って話をする場合とでは,当然,態度が変わってくるでしょう。

 こういうとき,相手のことを知っていた方がよかった,という場合と,逆に知らなくてよかった,という場合があります。

 普通は,話し始めると「スゴイ人」というのが伝わってしまうものかもしれませんが,それが伝わる人と,伝わらない人がいます。

 あるいは,「スゴイ人」であるのを相手に分からせてしまう人と,分からせない人がいます。

 本当に「スゴイ人」とは,どのタイプの人でしょう?


 
 世の中には,ことの本質が分かっていない人がたくさんいます。

 教師としては情けない話ですが,ことの本質が分からない人には,何をどう説明しようが分かるようにはなりません。

 分からないことにかけては天才的というか,無敵の能力を発揮しています。

 カウンセラーなどは,そういうものだと相手を理解し,受容していればいいのでしょうが,教師というのはそうはいきません。

  何とか分からせようと努力します。

 ただしどんなに努力しても,その人への効果は全くなく,その意味では徒労に終わるわけで,「そんな意味のないことはしない方がいい」と思われてきますが,こういう努力をする大きな利点は何かというと,「そういう努力をしてくれる人なんだ」という理解をその他の人から得ることができます。

 ですから,徒労に終わろうが,逆に反発を受けようが,やらなければいけないのです。

 教師の仕事は,1対1の応対が,1対40の応対でもあるのです。

 これが,教師の仕事の本質です。

 
 この本質を理解しない教師は,無駄なことはやらなくなります。

 そして,信頼を失っていきます。


 本質が分からない人は,無駄なことをしない教師を信頼します。


 その結果,子どもは無駄なことをしない人間になり,学校を卒業していくことになります。


 若い教師に本質を教えられる人も,これからどんどん減っていくことでしょう。

分かっていればこそのものの見方

 病院に行くと,「点数」=料金が書かれた領収書をもらえるようになりました。

 ある耳鼻科での話です。

 ただ耳の様子を見ただけなのに,面倒な治療をしたことになっていました。

 この自治体では子どもの医療費はタダなので,親が

 「ぼったくられた」わけではありません。

 税金が無駄に使われている実例です。

 こんな程度のことをしただけで・・・,5分程度の仕事で・・・,医者は5000円も

 稼ぐことができるんだ・・・。

 医者なら分かる話なのですが・・・・。


 これは,実は人ごとではない話なのですね。教師にとっても・・・・。 

「ゆとり教育は失敗したか?」という疑問文の過ち

 教育ブログの中には,「何も分かっていない人たち」による世迷い言があふれています。
 
 現場感覚のない人間の最大の欠点は,辞書に書かれた言葉の意味や

 ウィキペディアに書かれたことで理解したつもりになっていることです。

 教育学者やマスコミがいかに一面的であるかは,いちいち説明するまでも

 ないでしょう。

 マスコミも,マスコミに利用される教育学者も,「分かりやすいこと」を示す

 ことが使命ですから。


 「分かりやすさ」に飛びつく人間をこれ以上増やさないこと,

 これが「ゆとり教育」の目標にかなうことですから,「ゆとり教育」が始まる

 以前から失敗してきた教育を,どう軌道修正できたか,という問いもあり得ます。

 さて,「ゆとり教育」の評価をする場合に,大切なのは,

 「ゆとりの中で~の力をつける」

 の「~の力」がつけられたかどうかを考えることです。

 つけられたのなら,

 その効果を高める方法は何だったのか,

 そのようにふり返らなければなりません。


 「~の力」がつけられなかった,のならば,

 なぜ「~の力」がつけられなかったのかを分析して,

 その力をつけるための工夫をしなければなりません。


 「ゆとり教育は失敗したか?」のような寝ぼけた問いを

 発する人の中には,おそろしいことに,

 「ゆとりの中で~の力をつける」ために

 「何をしたのか」

 が言えない人もいるでしょう。

 それでは,そもそも評価すらできないのです。


 私が観点別学習状況の評価に批判的なのは,

 その観点の評価ができる学習指導や学習状況
 
 が見られないのに評価してしまっていることが

 大きな理由の一つです。
 

 
 中学校からみれば,小学校というのは

 子どもの学習環境も,

 教師の教育の環境も,

 子どもと教師の関係(40対1)も,

 学習指導要領の見直しにかかわらず,

 つねに「ゆとりに満たされた」ものです。

 
 ですから,「ゆとり教育は失敗したか?」

 という問いが,

 「小学校教育は今までどうして失敗し続けてきたのか」

 という意味で使われるのなら,よい疑問文なのです。

 
 一度,小学校教師の「嘘のない」週案とか,

 子どもの「学級日誌」の公開を進める「開かれた学校」を
 
 つくってみると面白いことになります。

 
 「ゆとり」を時間的なゆとりとしか考えていない人には,

 朝7時に出勤して夜11時まで学校で働いている中学校教師の

 1日に密着してもらえると,いろいろなことが分かってくると思います。

内田樹ファンの教師の痛さ

 「子どもの頭の悪さ」を定期的に嘆いている公立高校の教師のブログがあります。

 「気に入らなかったら立ち去れ」という但し書き付きのこのブログ主は,過去にコメントでのやりとりもあった「責任逃れ系」の代表格です。

 抽象的な言い方で申し訳ありませんが,いくつかの学校,いくつかの市町村,いくつかの都道府県で現場の状況を実際に見てきた立場からいうと,

 「自分の聞きたいことしか聞かない」

 「自分の答えたいことしか答えない」

 教師たちが多いところでは,子たちはたいへん不幸な状況におかれています。

 自分の読みたくないものは読まない,という姿勢を,読み手に対しても要求するほど,内田樹の言う人間の劣化は教育現場を蝕んでいるのです。

 内田樹が教師擁護論のような記事を書くものだから(それが本になるのだから),内田樹のファンになるのは仕方がないのですが,そこで批判されている劣化している人間が自分にあてはまるということは,平気で読み飛ばせる・・・というか,自分のことだということに気づけないでいる。

 「子どもはバカだ」とブログで嘆くような時間の無駄をしている教師を批判するような時間の無駄をしている自分もどうかとは思いますが,

 どうしたら「自分がおかしい」ことに気付かせるかが,教師としては勝負の分かれ道なのです。

 中学校に上がってきたばかりの小学生の中には,毎年必ずといってよいほど「自分は何をやっても叱られない」という信仰をもっている子どもがいて,それは不幸な経験に基づく誤解に過ぎないことをわからせるのに,一苦労するものです。

 これが大人になるまで信仰が死んでいない場合は,できれば多くの第三者からの「証言」「協力」がほしくて,公開されたコメントでのやりとりの場をつくりだしているのです。

 私の力不足で,第三者からの協力はごくわずかしかいただけなかったのですが,ありがたいことに,そういう「記録」は今でも消されずに残っているところが救いです。

 私のスタンスはどなたを相手にしても同じなのですが,私が選んだ相手も,みなさんほぼ「同じ」であることが懐かしく思えます。

 自分のことが全く見えていない教師たち。

 都合の良いことしか見ようとしない教師たち。

 都合の悪いことを全く見ようとしない教師たち。

 こういう教師たちばかりの学校という職場は,こういう教師たちにとっては最高の「楽園」であり,子どもたちにとっては「地獄」なのです。

 ただ,そういう子どもも自分を教えてきたような教師になれば,「楽園」が待っています。

 こういう教師が今,増えてきていることを本気で危惧しています。
 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より