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歴史は何のために学ばせているのか?


 小学校の研究会をのぞいてきました。

 何に悩むべきかが分かるようになり,思いも複雑ですが,小学校教師の価値観にかなり慣れるようになってしまうと,「細かいこと」よりも「より大事そうなこと」に気が回るようになってきます。

 史実に照らしてではなく思いつきであれこれ発表し続けられる,そういう光景も「小学生らしくていいかな」とあきらめるようになっていた一方で,その発言内容から,自分中心,利益追求・効率優先という「今の時代風の子どもらしさ」を痛感するようになると,「この学習は何のための学習なのか」という不安が襲ってくるようになります。

 小学校の歴史教育というのは,専門家がいない分野で,かつ世の関心も低く,批判の対象になりにくいのですが,ここで取り上げる「人物」やその「働き」を調べる学習というのは,社会科の目標を達成するために,本当にためになっているのかどうか,それが私の一番の心配です。

 様々な時代の戦争の話に「楽しそうに」参加している子どもを,どう捉えたらいいのか。

 自分は死なない前提で,いかに相手を倒すか(殺すか)ということに知恵をめぐらせている風景。

 小学生とはいえ,もう一年後の今頃は中学校で学習している6年生たち。

 社会科が育てようとしている子どもとは何か。

 根本的に,歴史の学習の前提から(目標から)考え直さなければならないことを直観した一日でした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より