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当て逃げ系・教育ブログの功罪(100ページの1文より)

教育ブログの中には,「当て逃げ」系の記事も多く見かけられます。

 ある人のブログに,問題解決的な学習に対する批判が載せられていました。

 この偏り方を簡単にご説明します。

 研究発表のときに開かれる研究授業,公開授業では,あるテーマのもとに,広くは教育理念から,小さいところでは授業の方法,進め方,評価にかんする検討をするために目標を設定しています。

 教育理念を批判するときも,その授業における目標がどのように達成されたかを題材にすべきなのですが,全然関係ない方向で批判する人がいる。

 その代表的な批判の例は,「附属だからできる」という言い方です。

 これを,「附属か,子どもが優秀でうらやましいな」と思っている人がひがんで言っているようなことならわらってすますこともできるのですが(だいたいそういう人に限って,自分が附属で授業を行うと「崩壊」が起こりかねないことは想像の範囲内に入っているでしょうか・・?)。

 しかし,本気で「附属でやっていることは,ふつうの公立学校の教師には役に立たない」という意味で語っているとしたら,二つの意味で,もしその人間が教師だったら,その資質を疑われかねない事態に陥っていると言えます。

 まず,教育内容について。

 たとえば問題解決的な学習を「悪」と一面的に捉える教師は,近年はやった「百マス」とかロボット育成風の教育が「学力向上」だと考えている節があります。「学力」のとらえ方が,せまいのです。
 存在が知られているあらゆる学習法は,どんなものにでも長所や短所はあるものです。

 百マスにも,専門性が高い教師のかかわりが不要とか,長所があるから流行したのです。

 問題解決的な学習の長所は,課題を自らみつけようとする姿勢がつくことです。

 えさをまかれないと食欲を満たせない水槽の金魚と,自分でえさを探す魚を比べて,見方によって,どちらが幸せか,答えは様々あり得るでしょう。

 何かの「全否定」をするタイプの人は,問題解決的な学習の失敗面・・・どんなに努力しても目に見える成果が手に入れないので不満である・・・を学習歴で刻み込まれたか,もしくはそういう教育をいっさい受けるチャンス=良さにふれるチャンスを得られなかった人か。

 本当は,それを非難したり批判する理由は,ほかにあるかもしれない。

 ただ,それを隠しておきたいので,批判されたら無視するか,はぐらかす。

 こういう態度が「教育ブログ」にふさわしくないのは,テレーゼさんのおっしゃる通りです。

 次に,「選民思想」について。

 かつてキリスト教国が行ってきた「未開」「半開」地域への「教化」行動。

 これを「侵略」行動ととられないために用意していたのが,「文明」と「野蛮」の対比でした。

 文明国を視察にまわった幕末の役人が,カトリックとプロテスタントが争っている場面を見ている風刺絵があります。「どちらが野蛮ですか?」といいたそう。

 選民思想を学校に導入されたら,たまらない。

 附属の学校には,「選ばれた優秀な子ども」が通っている。そんな学校では,何をやっても子どもはできるようになる,というか,もともとできる。そんな感性の人がいます。

 ・・・これは,せまい「学力」でみるならば,正しいことかもしれません。

 たとえば,文部科学省が実施したようなレベルの学力調査の問題なら,みんな解けてしまうとか。ただ,少なくとも附属の小学校レベルでは,それすらあやしい子どもはたくさんいるでしょう。

 なぜ「選民思想」がだめかというと,自分の教室にいる「学力が高い子ども」が疎外されている可能性が高いからです。もしくは,全く逆に,「学力が低い」とレッテルを貼られて放置されている子どもがいる可能性があるからです。

 せめて,学力が高い子どもをより伸ばす方法を身に付けるとか,そういう発想ならまだ救いがあるのですが。

 でも,俗に言う学力が低い子どもが,俗に言う学力が高い子どもに負けずに議論している。

 そういうことが,なぜ公立学校でできないのか。

 その答えをどう学ぶことができるのか。

 公立学校の教師ががんばらなければ,日本の将来が危ないというのは,だれも否定できないことでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より