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2010年12月

教育改革にお金はいらない(100ページの1文より)

 たった1冊の本,それも1000円もしないような本が人の人生を変えることがあります。

 たった1つのブログにふれることで,眠っていた力がわき起こってくるということがあります。

 たった1人の教師のはたらきかけがきっかけで,学校を変えてしまうことがあります。

 10人の優秀な教師を集めるのではなく,1人の「影響力のある」教師によって9人の教師の力が最大限に引き出せる。そういうことがあります。

 研修などで招く講師がもたらす本当の「影響力」とは,広く浅く「その気にさせる」ものではなく,「影響力のある」教師を育てることにあります。

 こういう「影響力」をもつ人間は,文部科学省や教育委員会のような行政の社会では,育ちません。

 なぜなら,影響力を行使できる立場になるときには,影響力を隠すことの方が大事な仕事になるので。

 昔の指導主事も,優秀な教師に影響を及ぼすことはできても,教員全体に影響を及ぼすことはできなかった。

 恫喝をはじめとした悪影響を及ぼすのは得意な教育行政が,どうしたら教育現場によい「影響力」を及ぼすことができるか。

 これは他の行政の部署でも同じことが言えそうなところがあると思いますが,究極的にはお金がかからない改革を推進することです。

 お金がかからない改革とは何か。

 私は内田樹のように「何もしない」ことがベストだとは思っていません。

 まずは,教育委員会や文部科学省が「表彰制度」をいっさい廃止すること。

 そこから「すべきこと」が徐々に見えてくると思います。

本物を探す旅(100ページの1文より)

 ものまねのコロッケは,仕事を始めて1年で壁にぶつかって,それから2年間は本当に苦労の連続だったとのことです。

 環境が大きく変わると,最初はスタートの勢いで何とかもつものの,勢いだけで続けていくのは難しい。

 壁を一つ乗り越えた後は,自分で壁をつくれるかどうか。

 仕事が順風満帆のとき,コロッケの場合は,100%ウケる,のは当然のことと考え,200%,300%を追い求めていた,といいます。

 そのために,「人が寝ているときにもやらなければならないことがあった」。

 それだけ努力しても,50%の結果しか出ないことがある世界が教育。

 コロッケ本人は「にせものの分際で」という言い方をしますが,「本物と偽物」の違いがどこにあるかは,だれもが分かっていることです。

「教育の目的」を考えるために(100ページの1文より抜粋)

 言うまでもないことですが。

 公務員である教師は,教育基本法の第一条をまず念頭に浮かべます。

第一章 教育の目的及び理念

 (教育の目的)
第一条 教育は,人格の完成を目指し,平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。

 続いて,第五条の2では,義務教育として行われる普通教育の目的が示されています。

 第二章 教育の実施に関する基本

 (義務教育)
第五条 2 義務教育として行われる普通教育は,各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い,また,国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。

 教育基本法では,この「目的」を実現するために達成すべき「目標」を示しています。

 その「目標」を一つ一つながめてみれば,「教育に情熱をかける教師のために」さんが三択で挙げている粘土モデル的なものがあり,農耕モデル的なものがあり,生産モデル的なものがあるのです。

 公教育に携わる教師は,この目標をしっかり把握した上で,各教科や道徳,特別活動,総合的な学習の時間の目標を踏まえた教育活動を実施していくのです。

 そして,どのモデルであっても,最終的には子どもの幸福につながることを期待して教育実践を重ねていかなければなりません。

 ある子どもにとって「幸福」でも,別の子どもにとっては必ずしも「幸福」にはならないことがあるのは,よく理解していただいているようですが。

 ある学習塾のビルの前で,泣いている子どもの手を無理矢理引っ張って入れようとしている母親の姿を見て,胸が締め付けられるようになった目撃者は私だけではないと思います。

「新しい」を教育では使用禁止用語に!(100ページの1文より)

言語活動の充実・・・これが改めて重視された直近の背景は,改正学校教育法第30条第2項で,同法第21条に掲げる目標を達成するために留意しなければならないこととして,「学力の重要な3つの要素」が示されたことにあります。

 1 基礎的・基本的な知識・技能
 2 知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等
 3 主体的に学習に取り組む態度

 それを踏まえて中教審が学習指導要領の改善を答申し,この3点を含む,改訂の基本的な考え方が示されました。

 ただ,注意すべきことは,ここに挙げられた3点が,決して「新しい」ものではないということです。

 1900(明治33)年の小学校令施行規則は,国語科の新設と近代化に特徴があるものですが,第1条に示された6つの趣旨のうちの3番目に,

 知識技能教育では,「反覆練習シテ応用自在」になるように教育すること

とあり,着実に知識を定着させ,それを応用して使えるようにすることが求められています。

 こういうことを指して,「戦前に逆戻りだ」として批判する人はいないでしょう。

 また,6番目には,

 各教科間の連絡調整を図り,目的に向けた教育を施す

ことも重視されています。教育課程全体として教育効果を高めようとする意識が,今の教師たちに果たしてどれだけあるでしょうか。

 この小学校令施行規則による教育課程改革は,1941年の国民学校令までの41年間の教育のあり方を決める重要なものでしたが,国民学校令に示された教育の目的を見ても,平成になって「新しい学力観」とよんでいることが示されています。

 戦争に勝つために,科学的な能力をもった子どもの育成が重視されていましたから,

 国民学校の教育は立派な日本人をつくることを目的とする。日本人であることを真に自覚した美しい,すこやかな第二の国民を養成することを目的とする。自ら考え,自ら創造する能力のある人間を錬成することを目的とする。

・・・もし戦争がなく,アジアの平和や秩序をリードするような立場にあった日本として,このような目的を掲げていたとしたら・・・。
 


 国民学校令は,「皇国ノ道」=欧米や中国からの輸入思想を排除する日本固有の道を教育目的としており,内部矛盾があったとしても,「小さい木は小さい木として完成しながら大樹がそれから発展する基礎である如く,国民学校の教育は夫自身完成教育でありながら,同時に将来の教育の基礎であり生涯持続せらるべき自己修養の根幹である」という言葉からも分かるように,生涯教育の視野も含んだものでした。

 当たり前のことを当たり前に行ってきた。

 それをこれからも続ける。

 以前,他のブログでも紹介しましたが,1955年に発行された文部省検定済教科書「中学校の社会科 歴史的内容を主とするもの」(昇龍堂出版株式会社)の章末に示されている「研究課題」は,多様な言語活動を促し,教科の枠も超えたものでした。一部を抜粋します。

 2 日本の産業革命がおくれた理由を,話しあうこと。
 3 現在のわが綿工業の問題を調べること。
 4 日露戦争の影響を書きあげること。
 7 第一次世界大戦の損害の数字をあげ,戦争について討議すること。
11 先生から,このころの女工のくらしについて,話をうかがうこと。
14 日本にきて文化の発達につくした西洋人の小伝記をつくること。
16 芥川龍之介の作品を劇化すること。
22 全体主義を批評する会を開くこと。
32 平和や軍備についていろいろな意見を集め,話しあうこと。
33 水素爆弾のおろそしさについて,理科の先生にうかがうこと。

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小学校での本物の授業研究の方法

 100ページの1文の方で,提言を行いました。(一部を抜粋)

 「問題解決的な学習」的な学習と,「問題解決的な学習」は違います。

 中学校の担任をしていれば,教科は数学でなくても,全教科の成績推移を三年間,他クラスの子どもとの比較をしながら見守ることができます。

 成績が伸びない子どもは,「勉強の仕方が分からない」というタイプの子どもです。分かり方が分かっていない。単純な計算はできるが,国語の文章力が必要な問題が解けない。

 こういう「問題自体を理解するのに時間がかかる」ような問題は,塾のテキストにはないでしょう。

 本物の問題解決的な学習をしてきた子どもは,これは国語や社会科で学んだ文章力も鍵になるのですが,何が問われているかを適切に読み取り,正しい道筋を自分で選ぶことができるようになります。

 日本が外国と比べて弱いと言われているのがここです。

 ちょっと雰囲気が変わった,「見たことがない」タイプの問題にふれるだけで,そこで何を考えなければいけないか,とらえようとする努力ができない子ども。無回答の答案。

 これは「塾教育」の弊害でしょうか。

 問題解決的な学習は,単純に算数的な技能を身に付けるのではなく,国語力を身に付けるためにも重要なのです。

 小学校なら,算数の研究授業と,国語の研究授業を二時間連続で同じクラスで行って,どちらからのどのような好影響が反映されているのか,検討してみるのもおもしろいでしょう。

 音楽と算数でもかまいません。

 中学校の教師は,同じ単元の授業を1日5回行うのですが,小学校の教師は,算数の後に,国語,音楽,体育,理科と教えるわけでしょう。授業研究は1日まるまる行うべきですよ。

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当て逃げ系・教育ブログの功罪(100ページの1文より)

教育ブログの中には,「当て逃げ」系の記事も多く見かけられます。

 ある人のブログに,問題解決的な学習に対する批判が載せられていました。

 この偏り方を簡単にご説明します。

 研究発表のときに開かれる研究授業,公開授業では,あるテーマのもとに,広くは教育理念から,小さいところでは授業の方法,進め方,評価にかんする検討をするために目標を設定しています。

 教育理念を批判するときも,その授業における目標がどのように達成されたかを題材にすべきなのですが,全然関係ない方向で批判する人がいる。

 その代表的な批判の例は,「附属だからできる」という言い方です。

 これを,「附属か,子どもが優秀でうらやましいな」と思っている人がひがんで言っているようなことならわらってすますこともできるのですが(だいたいそういう人に限って,自分が附属で授業を行うと「崩壊」が起こりかねないことは想像の範囲内に入っているでしょうか・・?)。

 しかし,本気で「附属でやっていることは,ふつうの公立学校の教師には役に立たない」という意味で語っているとしたら,二つの意味で,もしその人間が教師だったら,その資質を疑われかねない事態に陥っていると言えます。

 まず,教育内容について。

 たとえば問題解決的な学習を「悪」と一面的に捉える教師は,近年はやった「百マス」とかロボット育成風の教育が「学力向上」だと考えている節があります。「学力」のとらえ方が,せまいのです。
 存在が知られているあらゆる学習法は,どんなものにでも長所や短所はあるものです。

 百マスにも,専門性が高い教師のかかわりが不要とか,長所があるから流行したのです。

 問題解決的な学習の長所は,課題を自らみつけようとする姿勢がつくことです。

 えさをまかれないと食欲を満たせない水槽の金魚と,自分でえさを探す魚を比べて,見方によって,どちらが幸せか,答えは様々あり得るでしょう。

 何かの「全否定」をするタイプの人は,問題解決的な学習の失敗面・・・どんなに努力しても目に見える成果が手に入れないので不満である・・・を学習歴で刻み込まれたか,もしくはそういう教育をいっさい受けるチャンス=良さにふれるチャンスを得られなかった人か。

 本当は,それを非難したり批判する理由は,ほかにあるかもしれない。

 ただ,それを隠しておきたいので,批判されたら無視するか,はぐらかす。

 こういう態度が「教育ブログ」にふさわしくないのは,テレーゼさんのおっしゃる通りです。

 次に,「選民思想」について。

 かつてキリスト教国が行ってきた「未開」「半開」地域への「教化」行動。

 これを「侵略」行動ととられないために用意していたのが,「文明」と「野蛮」の対比でした。

 文明国を視察にまわった幕末の役人が,カトリックとプロテスタントが争っている場面を見ている風刺絵があります。「どちらが野蛮ですか?」といいたそう。

 選民思想を学校に導入されたら,たまらない。

 附属の学校には,「選ばれた優秀な子ども」が通っている。そんな学校では,何をやっても子どもはできるようになる,というか,もともとできる。そんな感性の人がいます。

 ・・・これは,せまい「学力」でみるならば,正しいことかもしれません。

 たとえば,文部科学省が実施したようなレベルの学力調査の問題なら,みんな解けてしまうとか。ただ,少なくとも附属の小学校レベルでは,それすらあやしい子どもはたくさんいるでしょう。

 なぜ「選民思想」がだめかというと,自分の教室にいる「学力が高い子ども」が疎外されている可能性が高いからです。もしくは,全く逆に,「学力が低い」とレッテルを貼られて放置されている子どもがいる可能性があるからです。

 せめて,学力が高い子どもをより伸ばす方法を身に付けるとか,そういう発想ならまだ救いがあるのですが。

 でも,俗に言う学力が低い子どもが,俗に言う学力が高い子どもに負けずに議論している。

 そういうことが,なぜ公立学校でできないのか。

 その答えをどう学ぶことができるのか。

 公立学校の教師ががんばらなければ,日本の将来が危ないというのは,だれも否定できないことでしょう。

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子どもを木ではなく森として見る教育

 私の願いは,本当に子どものためになる教育の実現,これに尽きます。

 批判されて,キレたり折れたりするような教師には,現場に立つ資格はありません・・・なんて強気なことを書いているのは,半分,自分を叱咤激励するような言葉です。独り言です。

 私の尊敬する先生方が多い小学校の校内研究では,授業者を絶対にほめないという鉄則があるそうです。どんなに計算され尽くした授業にも,問題はある・・・そういう認識がなければ,本当の授業改善はできません。

 本質的な部分で批判されるとさすがに教師は折れそうになるのですが,それを支えて踏みとどまるには,信念しかありません。場合によっては,今までのやり方をすべて捨て去る勇気もいるものです。

 些末な観察ではなく,もっと大きく授業を見ましょう。木を見て森を見ず,では絶対にだめなのです。木だけを見る授業研究の方法は,早く捨て去りましょう。

(以上,100ページの1文より)

 上の記事で,もし「木」=子ども一人一人というとらえ方をされてしまっていたとしたら,それは間違いです。

 子ども一人一人も,「森」です。

 もちろん,クラスを森に見立てて,子どもを木として認識することもできますが,一人を子どもを真剣に見ようと思ったら,一本の木ではなく,一つの森として認識した方がよいでしょう。

 表面だけ見ても,その中がどうなっているか,決して分かりません。

 子どもが40人から35人に減れば,教師の負担が減ると,真面目に主張している人がいますが,これは大間違いです。

 いい教師は,10人なら10人なりに,40人なら40人なりの仕事をするのです。

 40人から5人に減ったとしましょう。私なら,その負担の重さに耐えられなくなるかもしれません。

 教育にしろ,福祉にしろ,本当に手をかけなければいけない子どもがいる場合は,1人でもたいへんなのです。

 逆に,そうではない場合は,40人でも楽な仕事です。

 教育は「量」より「質」だ,という考えに100%反対の人は少ないでしょう。でも,ほとんどの人は何の疑問もなく「量」の話ばかり考えています。

 35人とか40人とかいうレベルの数の違いは,教師の質の違いと比べると,ほんのわずかな差の問題です。

好き・嫌いにこだわりすぎる小学校教師の問題点

 このブログでは,小学校と中・高校の教師のギャップについてたびたびふれてきました。

 中学校教師として,高校教師とのギャップも確かに大きなものを感じるのですが,強烈な断絶があるのが小学校教師です。

 私は,中学校や高校の教師と比べて,小学校の教師に「不真面目」な人が多いとは決して思いません。

 むしろ,小学校には「不真面目」な教師はいないと断言することもできます。

 中高には「不真面目」な教師はごろごろしていますが,そういうアイデンティティの取り方も可能なのが中高なのです。

 この「不真面目さ」への寛容がない小学校という環境に哀れさを覚えるとともに,「真面目さ」への危惧を強烈に感じるのが小学校教師なのです。

 様々な教科の学習の時間をつぶして,百人一首ばかりを徹底していた小学校教師がいました。ありがたいことに,中学校で百人一首大会を開くと,この学級から上がってきた子どもが多いクラスが「圧勝する」のです。

 あるクラスでは,新聞づくりばかりやっていました。新聞づくりはとても得意でも,おそらくその教師が嫌いだったと思われる算数が全然できない子どもたちがたくさんいました。

 ある小学校では,「午後は眠くなって座学には向かない」という判断から,午後は体育ばかりやるクラスがありました。

 これらの小学校教師は,みな大真面目だったに違いありません。

 「子どものため」に,とても真剣だったのでしょう。

 子どもの生き生きとした姿を見るのが教師のつとめだと信仰しているからです。

 私からみるとまるで「異教徒」のように感じられる信仰が小学校教師に根付いているのは,おそらく教員養成のときに刷り込まれる教育観の影響だと思われます。

 私は教育書のたぐいを大学時代に片っ端から読んでいきましたが,そこには宗教的権威ともいえる「教育者」の実践記録が山のようにありました。

 「子どもが変わる」「目が輝く」・・・今ふり返れば,ナントカ商法にも使えるようなフレーズで満たされている本を読んで教師になった人は,決して少なくないでしょう。

 そうして「優秀な小学校教師」になった人の中には,教員養成系の大学の教師になって,自分の実践を紹介し,次の教師を育てる人も出てきます。

 学力低下が叫ばれるようになった新しいところでは,計算で集中させて点が取れる子を増やすとか,塾の方が向いていそうな教師も増えていますが,ものまねで成果を上げようとするのではなく,自分の信念をもって,私から見れば首をかしげるような評価の原理を持っているのが小学校教師です。

 外見的要素から子どもの変容を判断し,とにかく「生き生きとしている」「目が輝いている」「葛藤している」ということにこだわらないと気が済まない小学校教師たちが一番気にしているのが,「子どもがその教科の学習を好きと言ってくれるかどうか」です。

 (このアンテナの感度をさらに高める結果になったのが,「関心・意欲・態度」の評価の登場でした)

 私の手元にある,数年前の教育雑誌のタイトルが,「社会科好きにする指導法」です。

 私のセンスでは,「社会科好き」というのは非常に醜悪なフレーズです。

 「歴史好き」とか「地理好き」ならまだわかるのですが,「社会科好き」というのは,「教科の学習が好き」というわけですから,「社会科」という教科の時間に生き生きすればいいという発想です。

 もちろん「社会科嫌い」が多いから何とかしたい,という気持ちもあるのでしょうが,教師は「社会科」を好きにさせるために「社会科」の授業をするのでしょうか?

 好き・嫌いが子どもの学習行動に大きくかかわるのは小学校らしい問題なのかもしれませんが,好きでも嫌いでも学ばなければならないこと,理解しなければならないこと,正面から向き合わなければならないことがあることは,本当は子どももよくわかっているはずです。

 それなのに,教師の方が好きになってくれたのか,嫌いなのかを気にしているので,ある教師は,小学校を卒業して中学生になっている生徒に,アンケート調査まで実施していました。

 中学生でも,わざわざ手紙を郵送してくれた先生に,「あなたの授業は嫌いでした」という回答を堂々と送るのは失礼なことだ,ということくらいわかっています。

 「あなたの授業は楽しかった」「好きだった」と答えるのが礼儀です。

 日本人のアンケート好きにも私はアレルギーがありますが,それは「本音とたてまえを分ける」文化をもつ日本では,そのデータの妥当性に疑問があるからでしょう。

 たいへん気の毒なことに,中学校での私が行った質問では,「問題点」の方が多く指摘されました。

 どう見ても「好きだった」ようには思えません。

 子どもは子どもなりに,質問した人がどういう回答を期待しているかを判断して回答するのです。

 私の研究授業を参観される先生の中には,「○○先生の授業は楽しいですか」と生徒に聞かずにはいられない方が必ずいらっしゃって,「楽しい」と生徒が言っていた,ということを研究協議のなかでわざわざ伝えて下さったりするのですが,これもその先生なりの単なる「礼儀」とも受け止められますが,生徒が「楽しい」と答えてしまうのは,私に対する礼儀なのです。

 子どもに授業評価をさせる場合には,匿名性が高く,冷静な判断が下せる時期に,第三者が第三者のために実施することが信頼性を確保するための重要な条件になります。

 つまり小学校の授業の評価は,中学校に入ってから行うのがベストです。
 
 しかも,「授業は楽しかったですか」などという抽象的で意味のないことは絶対に聞きません。

 「小学校の社会科の学習で楽しいと思えたことは何ですか」「楽しくないと思えたことは何ですか」と聞きます。

 すると,内容ではなくて「話し合い」とか「発表」とか「調べ学習」とか,学習形態のことが「楽しいこと」の筆頭にきます。

 つまり,「社会的事象に対する関心・意欲・態度」がもてるようになったのではなく,「学習形態の楽しさ」が味わえたというだけの話なのです。

 ここまでで,小学校が「楽しい学習」にこだわる問題点がご理解いただけましたでしょうか。


 おそらく,ここで「では,詰め込み式の学習がよいというのか」という感情をお持ちの方がいらっしゃると思います(教師の中にはいないでほしいと切に願いますが)。

 それは,中学校・高等学校で「楽しい社会科,地理歴史科,公民科」の授業を経験されたことがない方の一般的な反応であろうかと思われます。

 そういう方は,自分自身が小学校のときは楽しかったですか,とお聞きすると,何がどう楽しかったか,思い出せるでしょうか。

 「好き・嫌い」とか,「楽しい・楽しくない」という感情を超えた,たとえば「集中できる・集中できない」「熟考できる・熟考せず,瞬間的に答えを出しておしまいになる」という授業のイメージはできないものでしょうか。

 「子どもが集中する・熟考できる社会科の指導法」というタイトルなら,分かるのです。

 なぜ「社会科好きにする指導法」なのか。二重の意味で問題のあるタイトルです。

 教師から,社会科を好きになってほしい,というメッセージを流し込まれ続けた真面目な子どもは,「好きにならなければならない」と思うようになるのです。

 有名小学校の研究授業でよく出会います。

 子どもが「意図的に」積極的に授業に参加している態度。

 子どもの「主体性」を最も強力に奪っているのが,小学校教育です。

ゆとり世代教師への期待と絶望

 「うんめい」さんから寄せられていた以下のコメントへのお答えです。

 確かに,若い教師に対する厳しい目は,これからもっと強くなるかもしれませんね。

 小学校では,「あたり」「はずれ」感覚が親たちの頭をよぎることも増えるでしょう。

 ただ,子どもたちは,若い教師だけでなくて,ベテランの教師にも,年配の教師にも中学,高校等でふれることができます。

 若い教師は,自分一人だけで仕事をするのではなくて,さまざまな経験を積んだ教師と協働で子どもに向かいます。

 もし「うんめい」さんが危惧されるような「若い教師」がそのままベテランになり,定年近くになっても同じようなら,本当に日本は危ないでしょうが,教師もそれなりに成長します。

 今はとても人望を集めている教師でも,若い頃は手が付けられない暴力教師だったかもしれません。

 また,ご心配の教師は,昔も今も,各学校には必ずいながら,何とかやっていけているという面もあるのです。

***************************
コメント、失礼します。
 いやあ、困りました。何が、困るのか?それは、教師になろうと、また子どもを立派と言える社会人に育てようと、本当に努力してきた人が浮かばれなくなることです。
 私も、教育者に、少しあこがれを持っていました。友達も。その友達も。先生になろうと、何年もがんばってきた。でも、なんかもういいや、って皆諦め始めました。
 お勉強なし大卒ゆとり世代の若い子は、私たち30歳以上グループと違い、何の苦労もいりません。私たちに比べるなら、簡単に、学校の先生に採用されてしまいます。若ければ、ここでは書けないけれど、いろいろ得。実際、若く、社会経験もまるでないイケイケ兄ちゃんたち変な人が、採用されてきています。彼らは子どもの頃、ゆとり教育で、万引きしてもかまわないよ、人殺ししたってさ、と教わってきてしまいました。それを、正しいこととして、新しい世代の今の子に教えてしまっている構図ができていると分析できる。完全に、洗脳され、麻痺してしまっている訳なのです。
 そうしたことに、問題があるのでは、とまず思われます。

 制度のせいにするのはよくないことなのかもしれないが、そもそもゆとり教育では危ない教員が生まれてしまう、と10年前から指摘されていました。NHK教育テレビで、当時からすでに強く疑問視されていました。なのに。なぜ、今こうなるとわからなかったのでしょうか。
 若い教師に言わせれば、「だってえ、私たちも、昔子供の頃に人殺し教わったもの。やっちゃえ、やっちゃえ。だからいいじゃん」。
 いろいろな人がいますが、一つにゆとりの洗脳を受ければ、そのレベルになるのです。私たち30歳過ぎの世界とは、常識が、あまりに違いすぎるのです。
 さらに恐ろしいのは、2010年、そうした教師に教わってしまった不運な子が、成長して2020年成人になったとき。もうその2020年成人の子では、申し訳ないが、常識ある生活が送れなくなるでしょう。結婚しても、2030年頃、しっかりと家庭教育を施せなくなります。そして、そのちぐはぐ2030年家庭教育を受けたそのまた子も常識がなくなる。そして、常識ない2040年成人に。そして、そのまた子のまた子も・・・。省略しますが、こんな、恐ろしい連鎖が待っているはずです。
 もう、この連鎖を止めるのは、容易ではありません。だからこそ、あんなゆとり教育なんて、やっちゃいけなかったのに。と、言ってももう遅いのですが。
 私たちは、学校の先生にならない。なったところで、彼ら若教師とは、考え方や行動が絶対にあいません。もう、学校の先生になっても、しょうがない気がします。
 皆さん、学校関係者ではないから、自分は子どもと関わらないから、と安心なんてしてはなりませんよ。今の教育を受けた子は、数十年後、あなたのそばに、大人の姿となって、家の隣人として関わることになるのかもしれないのですよ。もう、ゴミのマナーなど、確実に守れない。夜中も、テレビゲームの音。赤ちゃんの、虐待叫び声。悲しいですが、そんな未来が待っているのかもしれません。
 話は少し変わって、やがて老人になる2050年の私たちを支えてくれるはずの彼らは、きっと裏切ります。年金なんて、払ってくれなくなりますよ。
 
 どうか皆さん、真剣に考えてください!
 
 長くなりました。急に、すみませんでした。なお、この書き込み内容は、私個人の思い込みなどではありません。さる大学機関の統計を元にした、警告です。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より