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教師の仕事力【4】

 記事へのご感想,ご意見,ありがとうございました。

 教師の評価基準設定を戦略を練って運用することが重要であることは理解できました。特に個人で設定した目標を全体で共有化するという部分。一瞬、個人で目標を設定するのはマズくない?とか思いましたが、全体で共有化してある程度の監視の目を入れることで、下手に低い目標設定をさせない役割も担ってるのかなぁ、と考えてしまいました。でもそれらを総まとめにして組織目標に持ってくっていうのは、なんだか面白いですね。上から押し付けられるよりは目指しがいのあるものだろうし、モチベーションも保てそうな予感がします。

 モチベーションを高めるという効果を感じていただけましたか。ありがとうございます。

 この目標設定に,保護者や地域の関係者,子どもの代表,大学の専門家などが参加するというのが私の考える究極の形ですが,隠された「戦略」が実はここにはあります。

 隠された「戦略」なので,ここではないしょにしておきます。

 ヒントは,自分の目標が自分で決められない教師が必ずいることです。

 あと弱いものを組織でカバーするという考え。甘ちゃんな自分としてはとても助かる考えです。もっとも、だから努力しない、というわけじゃないのですけども。やっぱり落ち込んだ時のセーフティーネット的なものはほしいですね。そこから這い上がれるように、少しでいいので手を差し伸べられると、まだがんばってみようかなって思えそうですから。

 学校に来なくなる教師。

 その多くに,心配されて声をかえられても,迷惑をかけたくない,と思って「大丈夫です」と言い続けて,本当に迷惑をかけてしまう,そんな流れがあります。

 常に無視され続けて,耐えきれなくて来なくなる,そういう教師は多くはないでしょう。

 周りのフォローがあれば・・・とよく言われますが,フォローを断られた結果,こうなるケースが多いのです。

 「ダメ教師」と言われても甘やかしてもらえる方が,気持ちの上では楽ですね。

 本物の「ダメ教師」に向かって「ダメ教師」とは言わないから,気持ちを広く,強くもつべきなのです。

 ただ一つ気になるのが、やっぱり絶対評価的なものはどこかに入らないかなぁって部分です。「安易」に運用されると危険と言われてますが、どこか部分的に「安易」でも大丈夫な絶対評価って下せないものですかねぇ? 自身の目標設定による自己評価や、他人の目から見た評価の方が意味の在りそうなものには見えるのですが、なんていうんでしょう。何か自分の位置を正確に把握できる取っ掛かり見たいな評価がほしいなぁとやっぱり自分は思ってしまいますね。研究授業も何気に絶対評価かなと考えてしまいましたが、あれも指導要領は参考程度で、結局自分で目標を設定してました。でも書かれていることを読むと、やっぱり難しいのかなぁ。しかも上から押し付けれた目標よりは良いと、自分で上に書いてるし……どうにも自分の中に矛盾を感じます。

 学校に子どもより早く来る,提出物の期限を守る,会議の時間に遅れない,報告や相談を怠らない,情報の管理を徹底する,法令を遵守する・・・以上のことは,絶対に実行すべきことです。

 評価の大きな問題は,教師にとって最も重要な「使命感」について,どんな評価ができるのか。

 道徳の評価と同じ意味のことになるのですが,これには絶対的な基準はありません。

 方向性の目標は定められても,基準を定めることは逆効果になってしまうからです。 

 今,話題の本,・・・これから「正義」の話をしよう・・・はお読みになりましたか。

 自由の尊重を大原則にすると,そこで美徳の話はしにくくなる。

 美徳は基準を定めてそれができたからどう,できないからどう,というものではない。

 廊下に落ちているゴミは,教師が率先して拾うこと・・・こんなことを何百と並べて,できた,できないとやってもあまり意味はないわけです。

 教育活動は,教師と子どもという中心の関係の他にも,校長や保護者,教育委員会,マスコミ,いろんな目で見られているという面があります。

 失敗は,外部の人が必ず気付いています。それを自分で気付くにはどうしたらいいのか。

 複雑な状況の中で,マニュアル主義,絶対評価主義は,行動を硬直化し,判断を誤らせる原因になります。

 大原則は大原則としてもっていて,一人一人の教師,それが集まる学校というところでは,PDCAサイクルをしっかり機能させ,実践から反省すべき問題を発見して,それを修正していく繰り返しをすることが大事で,あらかじめ評価基準を決めておく,ということにはあまり意味がないのかもしれません。

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コメント

 こんばんわ~
 またまた自分のコメを記事にしていただきありがとうございます。

 隠された戦略というものがとても気になりますね。ヒントもあるし、当分は考えるネタが尽きなさそうです。

 フォローが返って駄目なことがあるのですか。あぁでも、心配されるとプライドも働いちゃう時があるかも……。自分ならプライドは投げ捨てちゃうんですけどね。心配される自分をすぐに認めちゃって。でもなかなか弱い人を助けるって難しいんですねぇ……。

 絶対評価は難しいですか。しかし諦めきれないような……。「これから「正義」の話をしよう」っていう本は知りませんでした。しかし調べてみると、2400円……。とりあえず本屋にあれば立ち読みしてみます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より