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教師の仕事力【5】

 教師の仕事力は,実践を通して磨かれます。

 大学で学んだことが,どのくらい「教育」に役に立つのか。

 教師はみんな大学で学んでいます。

 しかし,それがろくな学び方でなかったために,実践的な指導力が身に付けられない,そういう意見の人がいるようです。

 こういう考えの人たちのおかげで,「教員免許更新講習」が誕生したわけでしょう。

 学問を身に付ければそれで教師になれる,そういうわけではないことは,どんな教師でも分かっていることだと思いましたが,そうは考えない教師がいるようです。

 大学にいたとしたら,これは相当やっかいな問題です。自分に罪はないと責任逃れをしているのなら改善の余地が見込めそうなのですが,本気でそう信じ込んでいるとしたら。

 内村鑑三は「後世への最大遺物」のなかで,力説していました。
 地質学を研究する人,動物学を研究する人はいくらもある。

 地質学者,動物学者はたくさんいる。

 しかしながら,地質学,動物学を教えることのできる人は実に少ない。
 
 文学者はたくさんいる,文学を教えることのできる人は少ない。
 
 教育実習が何のためにあるかというと,知識の不足が課題になることに気付くだけでなく,それ以上に,教えるということが自分にできるかどうかを知ることが,非常に重要なのです。

 「学ぶ」ことと「教える」ことの違いが理解できていない教師に,教師の資格はあると思いますか?

 ILLNESSさんはどうお感じでしょう?

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教育」カテゴリの記事

コメント

ご丁寧なコメントありがとうございます。
早く非常勤の働き口が見つかることをお祈りしています。

さて,実習生でよくある授業のタイプは,実習生の「研究発表会」ですね。完全に子どもは聞き役になってしまう。実習生は,よく勉強したかもしれない。子どもも,「よくがんばったね」と声をかけている・・・・でも,これって「反対」ですよね。

教師が「学ぶ」ことで精一杯になり,「教えること」がおろそかになってしまうと,子どもが「私も学びたい」とは思わなくなります。

今は「学ぶ」ことすらしない教師が多いですから,実習生を責めることもできないのですが・・・。

 こんにちわ~
 グザッと来そうな投げ掛けに正直ビビってますが……
 まだ教員として本格的に働いたことのない自分としては、非常勤でもいいので早く働いてみたいというのが正直なところです。働くことが基本怖い自分としては、少しでも経験がほしいので。
 大学で学んだことっていうのは、最初はたぶん余り使えないというのが自分の考えですかね。というよりも、学んだものを使えるまでには時間が掛かるというのが自分の認識です。やっぱり知識っていうのは使ってかなきゃ自分のものにならないだろうし。そのために早く働いてみて、自分の知識をどう生かそうかなぁとか考えてみたいのですけど。ただ在る程度知識をインプットしないとアウトプットも出来ないのでなんとも難しいところですかねぇ……。

 教育実習の時は疲れましたねぇ。特に1時間授業するだけで、その間全力疾走したんじゃないかと思えるほどに体力を消費したような気がしました。自分はまだ「学ぶ」ことと「教える」ことの違いというのは具体的には分からないのですけども、あの精神的な体力の消費はヤヴァイと思いましたし、その他にも時間の配分とかも何度も失敗したりで難しいと思いました。
 でもやっぱり経験はいいですね。実際に現場に出てみないと分からない事だらけで、学ぶことが多かったです。

 それで『「学ぶ」ことと「教える」ことの違いが理解できていない教師に,教師の資格はあると思いますか?』という質問に対して実習経験しかない自分の答えとしては、Yes!……と言いたいところなんですが、気持ちはNoですかねぇ。
 実際に実習に出て、学校の知識と現場は違いましたから。その程度でも「学ぶ」ことと「教える」ことが違うとは思いました。そしてこうやって分けておけば、反省なんかもしやすそうですね。下手に一緒くたにして混乱すよりはよさげな気がします。ただこういうのを意識下に持ってくるにはやっぱり訓練が必要かな? とか思わないでもない今日このごろですかね。それでこのコメ書いてて思ったのが、今の大学ではそういう知識を出す訓練が少ないのかな?ってことですかね。それでもこれからまだ長い人生の中で、知識を出すことも実践の中でちゃんと確立すればいいのかな、なんて甘いこと思っちゃったりしてるんですけど。とまぁ、自分の中ではこんな感じです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より