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教師にとっての「悪しき惰性」

一種の惰性ですが,その惰性を合理化しながら先へ進んでしまうということをしばしば人間はやっていると思います。 (網野善彦『歴史と出会う』洋泉社より)

 歴史家が歴史家になった経緯を読んでも,歴史の奥深さが分かる,それが「歴史」です。

 「政治」や「経済」,「地理」が奥深いものである,という実感はなかなかつかみにくいものですが,「歴史」はちょっとしたエピソードを聞くだけでも,かしこまってしまう・・・そういう特性が逆に,「だましやすい」「コントロールしやすい」教育の題材になってしまうのです。

 さて,中1プロブレムの正式な定義がなされているのかどうか知りませんが,子どもの側のその背景には,「悪しき惰性」があることを私は体感しています。

 小学校時代,甘やかされる家庭よりもひどい環境で学校生活を送っている子どもというのを目にすることがありました。

 「悪しき惰性」を身に付けてしまっているのは子どもなのですが,それを身に付けさせたのは小学校でした。

 では,中学校には問題がないのかというと,あまりに突然,強制的に「惰性」を断ち切る指導がよく見られます。不登校の原因の一つになっているこの「中学生同化政策」は,たった一つ,「どういう姿が望ましいか」を考えさせながら行動させるだけで違ってくるのですが。

 子どもでも大人でも,どのような「環境に出会う」かによって,大きくその進路が変わってくるかもしれません。教師の責任は,そういう意味でも非常に大きなものがあるのです。

 以上,100ページの1文からの引用です。

 「中学生同化政策」あるいは「中学校同化政策」というのは,耳慣れない言葉ですが,中学校の教師なら,心当たりがあることでしょう。

 それに対して批判的な教師も,得られる効果が絶大であるため,疑義を唱えることができない,そんな「政策」なのではないでしょうか。

 私のこのブログの中で,「ボタンのかけ違い」による「崩壊基盤の確立」についてふれたことがあったと思いますが,あまりに極端な「同化政策」は,もう通用しない時代になりました。

 さて,「悪しき惰性」に侵されているのは,子どもだけではないのは言うまでもないことです。

 教師にとっての「悪しき惰性」とは何でしょうか。

 そもそも「惰性で生きる」などと使われる「惰性」の意味は,あまりいい意味ではないのは分かっていますが,そこにわざわざ「悪しき」とつけたい理由は,本当に「悪い」影響を子どもに与えるからです。

 最も悪い「惰性」は授業です。

 子どもが分かる,分からないにかかわらず,「やりたいことだけ,やるべき(だと思っている)ことだけやる」教師にとっての授業は,おそらく「惰性」以外の何ものでもないでしょう。

 どんなに説明や話,板書や授業の展開などが稚拙でも,子どもが「分かる」その瞬間に興味をもっている教師は,「惰性」を感じさせません。

 「悪しき惰性」からの脱却の第一歩は,子どもの変化に対する関心をもつことです。

 そうすれば,「通用しなくなっている自分」に気付くこともあるでしょう。

 そのとき,子どもが悪い,親が悪い,社会が悪い,などと責任転嫁せず,自己分析に努める姿勢が教師には求められています。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
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  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より