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2010年6月

教師の仕事力【5】

 教師の仕事力は,実践を通して磨かれます。

 大学で学んだことが,どのくらい「教育」に役に立つのか。

 教師はみんな大学で学んでいます。

 しかし,それがろくな学び方でなかったために,実践的な指導力が身に付けられない,そういう意見の人がいるようです。

 こういう考えの人たちのおかげで,「教員免許更新講習」が誕生したわけでしょう。

 学問を身に付ければそれで教師になれる,そういうわけではないことは,どんな教師でも分かっていることだと思いましたが,そうは考えない教師がいるようです。

 大学にいたとしたら,これは相当やっかいな問題です。自分に罪はないと責任逃れをしているのなら改善の余地が見込めそうなのですが,本気でそう信じ込んでいるとしたら。

 内村鑑三は「後世への最大遺物」のなかで,力説していました。
 地質学を研究する人,動物学を研究する人はいくらもある。

 地質学者,動物学者はたくさんいる。

 しかしながら,地質学,動物学を教えることのできる人は実に少ない。
 
 文学者はたくさんいる,文学を教えることのできる人は少ない。
 
 教育実習が何のためにあるかというと,知識の不足が課題になることに気付くだけでなく,それ以上に,教えるということが自分にできるかどうかを知ることが,非常に重要なのです。

 「学ぶ」ことと「教える」ことの違いが理解できていない教師に,教師の資格はあると思いますか?

 ILLNESSさんはどうお感じでしょう?

教師の仕事力【4】

 記事へのご感想,ご意見,ありがとうございました。

 教師の評価基準設定を戦略を練って運用することが重要であることは理解できました。特に個人で設定した目標を全体で共有化するという部分。一瞬、個人で目標を設定するのはマズくない?とか思いましたが、全体で共有化してある程度の監視の目を入れることで、下手に低い目標設定をさせない役割も担ってるのかなぁ、と考えてしまいました。でもそれらを総まとめにして組織目標に持ってくっていうのは、なんだか面白いですね。上から押し付けられるよりは目指しがいのあるものだろうし、モチベーションも保てそうな予感がします。

 モチベーションを高めるという効果を感じていただけましたか。ありがとうございます。

 この目標設定に,保護者や地域の関係者,子どもの代表,大学の専門家などが参加するというのが私の考える究極の形ですが,隠された「戦略」が実はここにはあります。

 隠された「戦略」なので,ここではないしょにしておきます。

 ヒントは,自分の目標が自分で決められない教師が必ずいることです。

 あと弱いものを組織でカバーするという考え。甘ちゃんな自分としてはとても助かる考えです。もっとも、だから努力しない、というわけじゃないのですけども。やっぱり落ち込んだ時のセーフティーネット的なものはほしいですね。そこから這い上がれるように、少しでいいので手を差し伸べられると、まだがんばってみようかなって思えそうですから。

 学校に来なくなる教師。

 その多くに,心配されて声をかえられても,迷惑をかけたくない,と思って「大丈夫です」と言い続けて,本当に迷惑をかけてしまう,そんな流れがあります。

 常に無視され続けて,耐えきれなくて来なくなる,そういう教師は多くはないでしょう。

 周りのフォローがあれば・・・とよく言われますが,フォローを断られた結果,こうなるケースが多いのです。

 「ダメ教師」と言われても甘やかしてもらえる方が,気持ちの上では楽ですね。

 本物の「ダメ教師」に向かって「ダメ教師」とは言わないから,気持ちを広く,強くもつべきなのです。

 ただ一つ気になるのが、やっぱり絶対評価的なものはどこかに入らないかなぁって部分です。「安易」に運用されると危険と言われてますが、どこか部分的に「安易」でも大丈夫な絶対評価って下せないものですかねぇ? 自身の目標設定による自己評価や、他人の目から見た評価の方が意味の在りそうなものには見えるのですが、なんていうんでしょう。何か自分の位置を正確に把握できる取っ掛かり見たいな評価がほしいなぁとやっぱり自分は思ってしまいますね。研究授業も何気に絶対評価かなと考えてしまいましたが、あれも指導要領は参考程度で、結局自分で目標を設定してました。でも書かれていることを読むと、やっぱり難しいのかなぁ。しかも上から押し付けれた目標よりは良いと、自分で上に書いてるし……どうにも自分の中に矛盾を感じます。

 学校に子どもより早く来る,提出物の期限を守る,会議の時間に遅れない,報告や相談を怠らない,情報の管理を徹底する,法令を遵守する・・・以上のことは,絶対に実行すべきことです。

 評価の大きな問題は,教師にとって最も重要な「使命感」について,どんな評価ができるのか。

 道徳の評価と同じ意味のことになるのですが,これには絶対的な基準はありません。

 方向性の目標は定められても,基準を定めることは逆効果になってしまうからです。 

 今,話題の本,・・・これから「正義」の話をしよう・・・はお読みになりましたか。

 自由の尊重を大原則にすると,そこで美徳の話はしにくくなる。

 美徳は基準を定めてそれができたからどう,できないからどう,というものではない。

 廊下に落ちているゴミは,教師が率先して拾うこと・・・こんなことを何百と並べて,できた,できないとやってもあまり意味はないわけです。

 教育活動は,教師と子どもという中心の関係の他にも,校長や保護者,教育委員会,マスコミ,いろんな目で見られているという面があります。

 失敗は,外部の人が必ず気付いています。それを自分で気付くにはどうしたらいいのか。

 複雑な状況の中で,マニュアル主義,絶対評価主義は,行動を硬直化し,判断を誤らせる原因になります。

 大原則は大原則としてもっていて,一人一人の教師,それが集まる学校というところでは,PDCAサイクルをしっかり機能させ,実践から反省すべき問題を発見して,それを修正していく繰り返しをすることが大事で,あらかじめ評価基準を決めておく,ということにはあまり意味がないのかもしれません。

教師の仕事力【3】

 ILLUNESSさんへ,応援メッセージです。

 能力が高い教師の中で,同僚の教師の能力向上に関心がある人は,どのくらいいると思われますか。

 質問を変えると,どのくらいいてほしいと思われますか。

 教師の育てられ方は,様々です。

 昼間の時間には得られなかった感覚が,遅い時間まで職員室に残っていると,一緒にいる教師に対して芽生えてきます。お互いにです。

 教育とは全然違う話になるかもしれませんが,そういう話をし合える関係が,相互評価の土台になります。

 そこで教育観の話,授業の話,行事の進め方の話になることがあるかもしれません。

 教師の中には,「会議」として設定されている時間帯には,ほとんど何の役にも立っていないのに,オフィシャルでない時間帯になると,俄然,教育者っぽくなる人がいました。

 残業というのではなくて,ただそこにいることだけでも,全然違ってくるものです。

 基本的に仕事を家庭に持ち帰ってはいけない(情報管理などの意味からも)公務員が多いですが,教師はそれが「自由」です(たまに通知表が入った鞄を車上荒らしなどで失う教師がいますが・・・また茨城県では,入試問題が入ったメモリを盗まれ,作り直し,ということになりました・・・)。

 これを「恵まれた環境」と見るか,どうか。

 子どもの作文を読んでみたり,授業で使うネタを探してみたり,「やりたくなること」がたくさん生まれてくるのが教師です。

 授業中の子どもの目が「教師に対するほとんどすべての評価」というのが私のスタンスですが,「私は教育に使命感をもっている人間です」と言い切れるかどうかが,評価を気にする,気にしないの分水嶺ではないかと考えています。

 ・・・応援になっていなかったかもしれませんが。

ブログへの評価が気になりますか?

 評価を気にして,教師が単なるイメージアップを図ろうとするなら,それは逆効果です。

 ブログも同じ。

教師による教師の評価について

 ILLUNESSさん,ご訪問,またコメントをありがとうございます。

 ご質問にお答えいたします。

 教師が教師に評価を下すという部分には、基本賛成です。自分の現状がどうなってるのか把握できることは、たぶんすごく助かることだと思うから。ただちょっと怖いと思う部分もあります。この教師が教師を評価するということ。これって何かしらの基準を用いて教師を評価してあげないと、まずいんじゃないかと思いました。

 一番分かりやすい例は研究授業。指導計画・授業の実際・子どもの理解度・子どもとのやり取りと見とりなどなど,評価のポイントは様々です。教育実習の時に,そういう評価項目はありませんでしたか?基本は,現場で何年やっている教師でも同じです。「お疲れ様,ご苦労様」なんかは絶対禁句。もっと疲れ,苦労するために行うのが研究授業です。どんな細かいことでも見逃さずに,徹底的にやります。

 というのはですね、これを教師間で相対的に評価すると、すごく出来る人が出てきたときに他の教師がすごく肩身狭くなるんじゃないかと思ったんです。もちろんそれも正しい世界のなのかもしれないのだけども、ニートで現状駄目人間な自分はたぶんそれでつぶれちゃいそうな予感がしてならないのです。

 人と能力を比べられるのが嫌いなのは,どんな職業でも一緒です。

 ただ,草野球のおじさんがプロ野球選手と比べられても別に嫌にはなりませんよね。

 「同じ職場で仕事をしていれば,同じような能力を発揮すべきである」というプレッシャーを受けるからこそ,評価を嫌がるわけですが,評価されなくても,そのような状況があれば,見過ごすべきではない,ことはご理解いただけるでしょうか。

 教師の場合は,一応,子どもの前での権威を保たなければなりませんから,子どもの前で評価を公開することはしません。しかし,実は子どもがその教師の能力を一番よく知っているのであり,だからこそ子どもの評価も大事なのですが,ここでは,「肩身が狭くなる」と言われる感覚について。

 「肩身が狭くなる」ことが,努力への動機にならない方は,教職には向いていません。

 「子どもに本当に申し訳ない」という気持ちがあれば,自分から去っていただけるのですが,そういう人は残念ながらまれです。

 「低い評価を受けたらつぶれてしまう」ような弱い人は,教職には向いていません。

 一般の企業人にも,向いていないのではないでしょうか。

 でも,そういう人たちが,大量に教職に採用されています。

 こういう評価をしたら,どうなるか,先が読めるために,「思いやり」をもって,たとえば研究授業の実施を避けるように努力して,「人を傷つけない,やさしい」職場にしているのです。

 教師たちが異動先の学校でまずすることと言えば,「人にやさしい集団かどうか」を探ることです。

 いったん「やさしい」と判断したら,後は伸び伸び,「ゆとり」をもって仕事に当たれるというわけです。

 ここへ,評価を能力開発の道具として使いたがる管理職が入ってくれば,一斉に反旗を翻す,反抗する,当たり前のように起こっている現象です。

 ですから,評価には戦略が必要です。

 そう考えたときに、教師間で評価するにも基準――ぶっちゃけ絶対評価みたいな、ある一定の目標をクリアしていく感じの評価がほしいなとか思いました。

 基準はとても「公平」なものですが,「機械的」「安易」に運用されると危険です。

 それさえクリアしていれば,後は手を抜こう,と思ってしまうからです。

 あ、でも実際は何かしらの評価基準ってあるんですかね?こういう評価って基本賛成なんですけど、一歩間違うと現状の行き過ぎた成果主義やら教師間いじめを作りそうな予感がしたので。ちょい恐怖を感じながらコメントしてみたのですけども……どうなんでしょう?

 管理職が行っている人事考課というものには,ある程度の基準はありますが,キャリアや能力に応じて,個別にはかなり幅をもって運用します。

 現在,多くの自治体で導入するようになった目標管理は,まず教師自身が目標を設定して,それがどの程度の難易度なのか,どの程度達成できたのか,こういうことを考えながら1年間のスパンで活動するもので,年度末に評価します。

 しかし,キャリアプランといって,初任者ができること,10年目の教師が目指すこと,20年目の教師がやるべきことなどは,様々ですから,長いスパンで目標をもって研修にはげんでいく,そういうものもあります。

 私が提唱しているのは,つまらない研修はやめて,各教師が自分の目標を公開し,それへの意見を集めたり,助言や協力をもらえる教師を募ったり,研究会を紹介してもらったり,話し合いで一部修正したり,そういう時間をもって個人目標の「共有化」を図ることです。

 年末に一度,経過を報告し,年度末に最終発表する。その自己評価の結果を,教師でさらに評価し合う。

 教師の自己評価は厳しめになるのが普通ですから,最後の相互評価で評価は高くなれば,それだけやる気も増すでしょう。

 こういう個人目標の相互理解が,組織目標の設定に向かい,全員でその学校の教育課程を編成している,そういう実感がもてるようになる学校をイメージしています。

 弱い人が見つかれば,その弱さは組織でカバーしなければなりません。

 カバーしてもらっている,そういう安心感がもてる関係をつくらなければなりません。

 ・・・そんな簡単にいくかな・・・とベテラン管理職は思っているでしょうが,すべての教師が大学時代にこういう評価があることを当たり前として学べるようになれば,ちょっと違ってくるかもしれませんね。

 お答えになっていたしたか?

学力は低下してようが向上していようが・・・

当ブログへのコメントありがとうございました。

さて,「学力低下」についてですが,
順位の差でうんぬんは問題外として,
「低下していない,大丈夫」
「根拠がない,だから無意味」という
他で見られる姿勢にも問題があること
について,少し。

平均値で考えることにも意味はありません。

ただ,下位層の低下が著しかったり,
上位層の低下が見えてきたりすると,
現場の実感としては,「低下してきている」
と言われても簡単には否定できないところがあります。

現行の学習指導要領で,「教える内容・量が減った」
から,学力低下,という面もあります。

新しい学習指導要領では,若干時数が増えますが,
「V字回復」には至りません。

子どもに求められる学力とは何か,文科省は
3つの要素に整理して表現していますが,
そのレベルは昔も今も一緒で良いのか?
という問いも必要だと私は考えています。

教師が求めている学力が低下してはいないか。
そういう問題もあります。

学力は低下していない=教師は責任を果たしている
(のでとやかく言わないでくれ)
という意味で使いたい人もいます。

人は,「昔はよかった」と言いたくなる生き物です。
これが逆に言えば「今はよくない」ということなので,
「昔はよく勉強したのに」と嘆くための「学力低下」
だったりもします。

低下したかどうかなんて,もうどうでもいいでしょう。
学校で,学力をもっともっと向上させてあげよう。
そういう創意を教師集団がもっている学校に,
子どもは進学させたいものです。

教師の仕事力【2】

 伸びない人には,共通の原因がある・・・それは他人の評価を嫌がる人間・受け入れない人間だ・・・というのは,どの職業の人間をとっても言えることなのでしょう。

 教員も,自分の言い分が通らない,素直に聞いてくれない,などと嘆くことがありますが,それは周囲が能力を認めていないから,ということに気付いていません。一目置かれている存在なら,とっかかりくらいは感じるはずです。

 教員の中には,他人の評価を嫌がる一方で,やたらと自己評価は高い人間もいますが,こういう勘違いタイプは,努力をしません(能力は高いと信じているから)。だから,成長しない。自ら仕事を作り出さない。だから能力が向上しない。

 本当に仕事ができる人は,自分に厳しく,決して高い評価を出しませんし,だからこそ仕事をつくっても努力して先を目指します。

 子どもには散々な評価を下しながら,その子どもの状況を招いた人間に関する評価を無視することができるのはどうしてでしょうか。

 授業の評価ができるのは,厳密には子どもだけです。

 子どもの評価を避けたがる人間は,まず子どもとのコミュニケーションが成立しておらず,何でもかんでも無条件に押しつけたがっています。だから子どもはその教師を評価しない。それが分かっているから,評価を避ける。そんな関係を打破するのに重要なのは,子どもと一緒に同じ学校の教師がきちんと評価してあげることでしょう。

 教師が仕事力を伸ばそうと思える環境を,子どもがつくれる学校ができれば,日本の教育は変わるでしょう。

教師の仕事力【1】

 教育に関するすべての仕事は,そこから何かを学ぶためのものだと考える。

 優れた教師だけからではなく,ダメな教師からも,どこがどのようにダメなのかをしっかり自覚していれば,自分がそんな教師にはならないですみます。

 優れた教師にはもちろん,ダメな教師も軽蔑せずに,しっかりつき合って,良好な人間関係を築くのが,大切な仕事力です。

 親にしろ,生徒にしろ,とにかく面倒がかかる人たちが多い中,ダメ教師ほどうっとうしいものはない,と思うことがあるでしょうが,しっかり寄り添って,その行動パターン,性格,仕事の仕方などを分析すると,教師としてどうあるべきか,だけでなく,親や子どものどこが問題なのかもわかり,どうしてあげたらよいのかもだんだんわかってきます。

 そうやって人間観察をしっかりしているうちに,ダメ教師と自分が勝手にレッテルを貼ってしまった人の中に,本当に優れた面を発見し,それこそが自分に足りないことだ,と自覚できる日が来るかもしれません。

 そのレベルまで達することができたら,管理職も立派に勤まるようになるでしょう。

わかりやすい授業とは何か?

 学校に寄せられる要望は様々です。

 子どもからは,「わかりやすい授業を」「興味がもてる授業を」という要望が特に多いのは,実際に授業に参加してもわからない,わからないから余計におもしろくない,退屈だ,そんな思いを抱くことが多いからでしょうが,これを文字通りのメッセージとしてではなく,教師と「つながり」をもっていたい,そう願う子どもからのメッセージだと受けとめてみたらいかがでしょうか?

 という趣旨で,実は非常に恵まれた環境にあるほりさんのブログにコメントを入れました。

 ~ほりさんのブログへのコメントから~
 
 ほりさんにとって有用な情報をいかに提供できるかが,このブログにコメントする者の鍵のようなので,ちょっと緊張しながら書いたのですが,ご回答いただいてありがとうございました。
 ほりさんの学校では生徒による授業評価が始まっているのでしたっけ?大学ではもう当たり前になってきているようですが。

 さて,わかりやすい授業の話ですが,冒頭のような生徒を小馬鹿にしたような比喩,これが気に入らないのは別として,すでに「口を開けている」段階で,「うらやましい学校だな」と思う高校教師は多いでしょうね。
 高校教師が勤めたくない「つらい」職場は,進学校と困難校(偏差値で言うなら一番上と一番下)で,一番ラクができるのがほりさんのレベルの学校でしょう。

 冒頭のたとえは一般論として使われており,ほりさんの学校の生徒ではないと想定して,「わかりやすい授業」とは何か,校種を問わない説明をするなら,それは「先生の教育の意図がわかりやすい授業」なのでは?

 「わかっていないことは何か,どうすればわかるようになるか,がわかりやすい授業」をしていれば,「わかりやすい授業をしてほしい」とは言ってこないで,授業が終わった後,質問に来るでしょう。

 教師と子どもの間で,「教えるとは何か」「学ぶとは何か」の共通理解がないまま,あるいは子どもの側の意図を読み取ろうとしないまま,淡々と時間だけが流れていく高校の授業を何度か見たことがあります。
学校説明会の支援に出向いたついでに参観させてもらったので,本当の抜き打ちで,先生たちは普段通りの授業をしていたのでしょう。
 「学校公開でまさかこんな授業は見せられないから,少しは変わるんでしょうが,その変化に生徒はどんな思いを抱くのでしょう?」

 脱線してすみません。
 わかりやすい授業を!という声は,文字通りの意味の場合と,教師と子どもとの間のコミュニケーション不全をどうにかしてほしい!という願いとして受け止めてみたらいかがでしょうか?
ほりさんの学校では,そんな問題はないのかもしれませんが(ほりさんが生徒にこのブログの内容を伝えればいいだけのことなので)。

子ども相手であることがせめてもの救いの教師

 教師への風当たりの強さを,子どもの努力・能力不足とか,学習指導要領のせいだとか,外部要因に結びつけて責任逃れにやっきになっている教育関係者がいます。

 熟議カケアイへの書き込みからも,そのことがありありと感じられました。

 事務処理の時間が減れば,授業や生活指導が充実するなら,まずは独自に事務処理の時間を短縮する努力をして,その効果を証明してみせるべきなのに,「実際に授業がよくなった」という話はなかなか耳にできないものです。

 今は,学校の先生よりも「教えることが上手」「話が上手」な人で世の中があふれています。

 こんな例を出して恐縮ですが,テレビに映ってしまう大学の講義を見て,「教えるのが上手だなあ」とか「台本を読むのが上手だなあ」と感じる教師はどのくらいいるでしょうか?

 先生ではない人で,教えたり話したり人を惹き付けたりするのが上手な人たちにふれる機会が多くなった子どもや保護者が,授業公開や授業参観等でみる先生に幻滅してしまうのは,決して「子どもの頭の悪さ」のせいではありません。

 公立学校という教育の現場で子どもが得ているものは,本当に大きなものであり,授業ではほんのわずかな価値しか習得できていないのかもしれません。授業では,私立学校などとの開きが信じられないほど・・・中高一貫校で公立中から入ってきた子どもが授業の進度に遅れるようになってきた・・・なんて話を聞けば余計に・・・開いていても,その他の場面で学べていることははかりしれないほど大きい。

 では,公立学校は,どのような資質・能力をもった人間で運営していけばいいのか。

 「教科の知識すらあやふやだ」という批判もある現状で,何をどこまで求めていいのか議論しているうちに,人材派遣会社を通して「教師」が集められている学校のイメージがふとわきあがってきてしまったのがこわいところです。

 まだ実社会をよく知らない子ども相手であるからこそ,また,子ども相手であることを利用して,自分の課題を隠そうとする教師の態度が,どのような影響を子どもに与えていくのか。

 自分自身だけが救われた気持ちになって,社会全体が抱える負債が雪だるま式に増えていくイメージが,なかなか払拭できません。

教師にとっての「悪しき惰性」

一種の惰性ですが,その惰性を合理化しながら先へ進んでしまうということをしばしば人間はやっていると思います。 (網野善彦『歴史と出会う』洋泉社より)

 歴史家が歴史家になった経緯を読んでも,歴史の奥深さが分かる,それが「歴史」です。

 「政治」や「経済」,「地理」が奥深いものである,という実感はなかなかつかみにくいものですが,「歴史」はちょっとしたエピソードを聞くだけでも,かしこまってしまう・・・そういう特性が逆に,「だましやすい」「コントロールしやすい」教育の題材になってしまうのです。

 さて,中1プロブレムの正式な定義がなされているのかどうか知りませんが,子どもの側のその背景には,「悪しき惰性」があることを私は体感しています。

 小学校時代,甘やかされる家庭よりもひどい環境で学校生活を送っている子どもというのを目にすることがありました。

 「悪しき惰性」を身に付けてしまっているのは子どもなのですが,それを身に付けさせたのは小学校でした。

 では,中学校には問題がないのかというと,あまりに突然,強制的に「惰性」を断ち切る指導がよく見られます。不登校の原因の一つになっているこの「中学生同化政策」は,たった一つ,「どういう姿が望ましいか」を考えさせながら行動させるだけで違ってくるのですが。

 子どもでも大人でも,どのような「環境に出会う」かによって,大きくその進路が変わってくるかもしれません。教師の責任は,そういう意味でも非常に大きなものがあるのです。

 以上,100ページの1文からの引用です。

 「中学生同化政策」あるいは「中学校同化政策」というのは,耳慣れない言葉ですが,中学校の教師なら,心当たりがあることでしょう。

 それに対して批判的な教師も,得られる効果が絶大であるため,疑義を唱えることができない,そんな「政策」なのではないでしょうか。

 私のこのブログの中で,「ボタンのかけ違い」による「崩壊基盤の確立」についてふれたことがあったと思いますが,あまりに極端な「同化政策」は,もう通用しない時代になりました。

 さて,「悪しき惰性」に侵されているのは,子どもだけではないのは言うまでもないことです。

 教師にとっての「悪しき惰性」とは何でしょうか。

 そもそも「惰性で生きる」などと使われる「惰性」の意味は,あまりいい意味ではないのは分かっていますが,そこにわざわざ「悪しき」とつけたい理由は,本当に「悪い」影響を子どもに与えるからです。

 最も悪い「惰性」は授業です。

 子どもが分かる,分からないにかかわらず,「やりたいことだけ,やるべき(だと思っている)ことだけやる」教師にとっての授業は,おそらく「惰性」以外の何ものでもないでしょう。

 どんなに説明や話,板書や授業の展開などが稚拙でも,子どもが「分かる」その瞬間に興味をもっている教師は,「惰性」を感じさせません。

 「悪しき惰性」からの脱却の第一歩は,子どもの変化に対する関心をもつことです。

 そうすれば,「通用しなくなっている自分」に気付くこともあるでしょう。

 そのとき,子どもが悪い,親が悪い,社会が悪い,などと責任転嫁せず,自己分析に努める姿勢が教師には求められています。

公認「勉強会」「研究会」の拡充を

 勉強が嫌いで能力開発ができていない教師に「研修」「講習」という名の勉強を強いることでは,教師の資質・能力の向上を図ることは難しい。

 ラクをしたくて教師になろうとした人間,なってしまった人間に,能力開発のための苦労をさせることは難しい。

 「よりよい(落ち着いた)学校に異動したい」という動機で,仕事に熱心になる教師を責めることはできないが,能力の向上を果たした後,その教師はいなくなってしまうという問題。

 一つの突破口は,学校や自治体の枠を超えた,「勉強会」「研究会」組織の活性化にあると考えています。

 そして,それらの組織の詳細な情報公開を条件に,公的なお墨付きを与え,「研修扱い」にすることが,活性化の条件になると考えています。

当事者意識を高める授業見学の工夫

 教育実習生の中にも,授業見学に来る大学生の中にも,教員や他の実習生の授業をただぼーっとながめて何のメモも取らない人が必ずいます。

 「授業者になるために何が必要か」という問題意識が低く,ただの「お客さん」になってしまっては,その時間の「教育効果」は非常に低くなってしまいます。

 当事者意識を高める方法の一つは,見学した授業の指導案を書く,という課題に取り組むことです。

 授業者が作成した指導案を見ながら授業見学をしてしまうのが普通ですが,そうではなく,白紙の状態で教室に入り,導入・展開・まとめの流れと主発問,教材等を記録しながら,何がこの時間の目標なのか(子どもにどんな力をつけさせようとしたのか),どんな評価を教師がしているのか,どんな力がついたのか,などを読み取って,指導案に表現するのです。

 そのとき,授業の展開や発問などの課題に気付けたとしたら,自分ならこうした,という内容を合わせて書くのです。

 この活動は,単位認定試験として取り組んでも効果的ではないでしょうか。

熟議カケアイ 文科省への提案書(素案)に見る教師の問題群

 教員になる際につけるべき「力」は?そのつけ方は?

 この議論の前提は,教員に必要な力を養成段階で「つけることができる」ということです。

 大学生になる以前の学習・生活環境で培われた「力」が圧倒的にものを言う,なんてことがもし証明されたとしたら,この議論自体が無意味になってしまいますので,確信度が非常に高い仮説ですが,これはいったん置いておきましょう。

 「社会性」という資質・能力は,「教師になろう」と決めてから,さあ,身に付けよう,と思ってそう簡単につくものだとは思われないのですが・・・。

 さて,「社会性」とは異なりますが,学校現場では「当事者意識に乏しい教員」の課題があります。

 教員の中には,研究者肌というか,評論家的人間というか,独特の鋭い観察眼を持っていながら,当事者意識に乏しく,目の前の出来事を「他人事」として語る傾向が強い人がいます。

 教育実習生の中にも,こういうタイプが必ずいます。

 頭がよければ,1次の採用試験に通るので,教員になる確率が高くなります。

 実習中から,批判はできるけど改善のための行動はおこさない(おこせない)のです。

 一方で,黙々と現状打破に向けて行動し,失敗を繰り返す人もいます。

 こういう人は,残念ながら採用試験には合格できないでしょう。

 しかし,こういう人の背中を見て育つ子どもは,きっとたくましくなるだろうな,という期待を抱かせます。

 実際に,要領は悪いけれど,子どものために一心不乱に尽くしている教員はたくさんいます。

 子どもは,教えられる人間にどうしても似てしまうのです。

 口だけは達者で,文句ばっかり言っていてすんでしまうような教員にならった子どもは,何の抵抗もなく同じような態度をとるようになるのでしょう。

 「頭でっかち」の教員の卵を量産してしまうのがもし大学の教員養成課程の授業であったとしたら,何とか改善してほしいものです。 

純度100%のゆとり世代デビューまであと少し

 「ゆとり世代教育実習生」の一言。

 ・・・もうちょっと,常識的な行動がとれない?

 ・・・後輩なんて,こんなもんじゃないですよ・・・。

 来年の大学四年生は,いよいよ純度100%の本格的なゆとり世代に突入します。

 まだ,挨拶ができない,ルールを守らない,程度なら許せます(?)が,肝心な授業で教えるべきことが,何もわかっていないとなると・・・。

 ある大学の先生の嘆きは,

 教職試験の予備校のような大学の子はどんどん採用試験に受かるけど,学部で専門の勉強している学生は,なかなか試験に受からない・・・。

 教員採用にあたって,何を重視すべきか。

 あまりにも足りないことばかりで,何から手をつけていいかわからない状況なのでしょうか。

 そんなことはないでしょう。

 「教えられた経験がない」学生のうち,「教えてあげる」とみるみる変わる人が何%かはいます。

 こういう人が教師に向いている,そんな学生もゼロではありません。

 ・・・とは言っても,倍率2倍以下となると・・・。

中2プロブレムは中2担任プロブレム

 中学校2年生は,よく「中だるみ」の学年だと言われますが,これは教師にとって都合のよい話であって,担任などが「中だるみ」をしなければ,そんなものは起こらないのが中学校です。

 むしろ,中学校生活の流れを理解した2年生たちが,本当の離陸を体感する,3年生になる年への足がかりをつくる何ヶ月かが勝負なのであって,教師が最も指導力を発揮しなければならない期間なのです。

 中学生にとって,最初の1週間で学ぶことは,中学校生活にとって最も重要なことです。

 2年生になってからの数ヶ月で学ぶことは,学校生活にとって非常に重要なことです。

 2年生の残り3ヶ月と,3年生になって数ヶ月で学ぶことが,人生にとって非常に重要なことです。

 手抜きの教師に都合のよい話をいかに排除できるかが,学校改善の柱の一つです。

根深い教師の問題

文月さん,以下のコメントありがとうございました。

*******************
kurazohさんの記事はいつも興味深いものがあります。
kurazohさんのおっしゃるとおりで、
教師の方(特に高校教師)には「今までのやり方では通用しない」という意識を持って頂きたいし、
適切な対策をとっていただきたいと思いました。
どうも高校教師たちは適切な対策をとれていないように思います。

小→中→高と進むにつれ、子供は精神的に成長しているのに、
何故か高校の生徒指導が最も厳しくなってしまっているのは、おかしなことだと考えています。
私の地域も、小中に比べて、高校(進学校)の生徒指導が人権侵害的で異常だと実感しました。
(私の地域の小中の教師にもセクハラ・体罰、暴言等をする異常な教師が何人もいましたが。)
母校の教師たちが思考停止するタイプでないことを願うばかりです。
問題を起こした母校の教師たちは「不断の努力」をしていない教師たちかもしれないと思いました。
学校教育の問題を考えただけで、暗い気持ちになってしまう今日この頃です。何とかしていきたいものです。
私は、高校の悪しき伝統をいかにして打破していくのかに悩んでいるところです。

kurazohさんのように教師の問題について真剣に考えられている教師の方がいらっしゃるのは、
とてもありがたいと思っています。
******************

 教師の問題は,本当に根深いものです。
 
 最近,文月さんがコメントされたMさんの記事など,論外ですね。

 まともな一般読者のコメントに「その考えが学校崩壊のもとだ」なんて,異常な反応です。

 単純な話,教師から排除した子どもが,隣の教室で暴れだしたら,結局,排除した教師が止めに入らなければいけないでしょう。排除した子どもがおとなしく廊下で反省しているなんて幻想を抱いているだけで,(あるいはそういう「かわいい子ども」しか相手にしたことがないだけで)「本物の難物」には出会ったことがないのでしょう。

 家からMさんのような理由で排除された子どもが,せっかく学校に出てきているのに,また同じように「排除」され続けていって,うつになり,自殺に結びついたなんて,絶対に起こりえない問題とは言えませんよ。

 高校の教員たちの中には,こう言っている人がいるそうです。

 楽な学校に行きたい。

 進学実績がいいところは嫌だ。忙しいから。

 学力が低いところも嫌だ。生徒指導が大変だから。

 中堅で特色のないところが,一番いい。生活指導も適当でいいし,授業も手が抜ける。

 小学校や中学校では,こうはいかないものですが。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より