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2010年5月

状況悪化で自己正当化できる「ごまかし」

 ここ20~30年で,教育の世界で大きく変化したことは何か。

 間違いなく,子ども一人一人への目配りが必要になってきました。

 それ以上に,保護者への目配りもかかせないものになっています。

 教育は惰性の世界であることは確かで,「ここ数年おこっていない問題が,今年おこるということは考えにくいだろう」という認識が支配的だったのが,ようやく,「いつどんな新しい問題がおこるかわからない」という危機意識が必要になってきました。

 「今までのやり方では通用しない」という意識を持てている教師でも,「だからどうする」という段階で,いくつものタイプに分かれます。

 意識は持てていたのに,対策がゼロだった教師が,問題に巻き込まれるのは気の毒ですが,自分の意識の正しさを自覚する経験ができる分,成長の糧になる可能性があります。

 誤った対策を立てたために,問題が深刻になってしまうことも気の毒ですが,正しい対策への道が見えれば,教師としての成長が見込めます。

 一番困る教師というのは,「だからどうする」の部分の対策や責任を全部「国」とか「文科省」に押し付けて,思考停止するタイプです。

 自分の責任を「ごまかす」一番安易な方法で,こういう教師が多いために学校の信頼はどんどん低下していくのですが,本人はそれに気付きません(状況が悪化すればするほど,自分の意見の正しさが証明されるわけですから・・・)。

 この「ごまかし」という言葉をキーワードに,一度,自らの教育活動,あるいは学校の組織的な活動を全部洗いなおしてみたらどうでしょうか。

 ・・・「教育なんて一種のごまかしでしょ」なんて結論が出てくるのはこわいですが・・・。

 「生きる力」とは何か。「確かな学力」とは何か。

 どんな力が求められているのか,考えるだけでもいいわけです。

 「昔と同じ」と開き直ってもかまわないのです。同じような実績が残されているならば。

 しかし,社会性が育っていない,基礎的・基本的な事項が理解できていない,そういう子どもが増えてきているのなら,「それはその子どもと親の責任だから関係ないですよ」ではすまないわけで,「昔と同じ」ではない指導が求められているわけです。

 「不断の努力」という言葉が,ぴったりくるような教師が求められているのが,現在の教育の世界でしょう。

ストレス発散法としてのブログ


ブログネタ: ストレス発散法は何?参加数拍手

 選択肢の中にはありませんでしたが,「ブログの記事を書く」というのがストレス発散法になっている人は多いのでは?

 特に私のような教師の場合は,教育活動の中でのストレスはあまりないのですが,教師への信頼を損ねるような記事がブログで見つかると,ストレスに感じます。

 以前は直接コメントで異論をお伝えしていましたが,ストレス生産合戦になる場合も多いのでやめました。

 文部科学省の「熟議カケアイ」という場所もありますが,書き込んでいる教師が哀れに思えてきてやめました。

教育委員会のレベルを試す質問例


ブログネタ: 5月病になったことがありますか?参加数拍手

 5月病があるということ,その原因がどういうことか分かっているということは,その対策が立てられるということです。

 学校の場合には,「年間計画」を見れば,5月病を意識した対策があるかどうかが分かります。

 教師たちは「調査もの」を嫌がりますが,教育活動の分析は,本来は自分たちですべきものなものを,外部の人がやってくれるわけですから,もしいいフィードバックがあれば,感謝すべきものでしょう(それがないからストレスになるのでしょうが)。

 たとえば,不登校児童・生徒の多い学校の中で,休みはじめの時期がどの月に多いか,あるいは少ないか,分析しているところはどれくらいあるでしょうか。

 不登校の質問項目の中に,そういうものがあったかどうか忘れましたが,4月いきなりのパターンを除いて,どういう時期に,どういうきっかけで不登校がスタートするか,各学校なりの分析は必要でしょう。

 伝統的に,その対策としての教育課程が組まれている学校の場合は,不登校が少ないのかもしれません。

 そういうデータをもっている教育委員会はどれくらいあるでしょうか。

 こういう質問にすぐ答えられる教育委員会の指導主事は優秀ですよ。

 どこかで試してみたらいかがでしょう?

集中力と忍耐力の違い


ブログネタ: 集中力、あなたはどれくらい続く?参加数拍手

 子どもが長時間(といっても50分間),授業に集中できないことを理由に,30分とか40分に短縮して,授業を成立させようとする学校がありました。

 そういう学校を見学してすぐに気付いたのは,子どもが「たえること」が可能な時間が30分~40分が最大なのだな,ということでした。

 だれに同意を求めるというわけではありませんが,おもしろい授業なら,時間なんてすぐに忘れてしまうものですよね。

褒められてもうれしくない教師

 この地域は,「荒れ」とは無縁ですから・・・。

 というご紹介をいただくことがあるのですが,・・・だから,何なんでしょう?

 教師が優秀だ。ということでしょうか?
 単に,「いなかだ」という意味なのでしょうか?

 さて,子どもが教師の指示をよく聞いて動いているところを見られて,「いい生徒さんですね」と褒められることがありました。

 しかし,これを褒め言葉と解釈していた昔を恥ずかしく思っています。

 教師が動かず,学級委員や日直がよく声を出して目立っていて,「生徒さんがよく自治的な活動をしていますね」と褒められること・・・これをうれしく感じる時期もあったことを,今では恥ずかしく思います。

 どんな学校が「いい学校」なのか。

 これがイメージできるのは,精神的にはもしかしたら高校生くらいなのかもしれませんが,中学生でそれに気づける生徒が過半数を超えることができたら・・・。

 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より