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インフルエンザにかかっていても都立高校が受検可能に!

 別の記事でも補足説明をいたしましたが,こちらのページへのアクセスが増える時期になりましたので,追記しておきます(平成27年1月3日)。

 私の住んでいる地域では,私立高校の受験は全く想定になく,「都立高校」受験だけが高校進学への道だった生徒がたくさんいました。

 しかし,もしこのような生徒が,入試の直前にインフルエンザにかかってしまった場合,都立高校や中学校の先生に相談したら,「受検はできません」と答えられてしまい,夢が絶たれてしまうことになります。熱が下がっていても,規定の日数を経過し,医師の診断がおりるまでは,正式には「出席停止」扱いになります。

 それを知っている受検生や親は,どういう行動をとるか,想像できますか。

 中学校にも高校にも,自分がインフルエンザにかかっていることを隠すことで,受検の機会が確保できます。

 高校で試験を受けても,他の受検生に感染しなければ,何事もなかったことになります。

 隠すことに成功できた生徒には予定通りの未来が訪れ,正しい判断で隠さずにいた生徒は未来が絶たれる。

 こういう事態を想定しなければならないのが,インフルエンザ対策なのです。

 平成21年の新型インフルエンザのときと同様の対応を,都立高校はべきですが,実態はそうでもないようです。

 「ほとぼりが冷めた」という感じの対応になっていますが,普通のインフルエンザでも,ごくまれに重い症状となる子どももいることを想定に入れるべきです。

 もちろん,管理を徹底するとしたら,入校時に全員の体温チェックをすることですが,下がったばかりの生徒はこれでは見抜けません。

 「別室受検可能」という措置が講じられない以上は,正しい判断をして未来を失うか,隠すという判断をして希望をつなげるかのどちらかが選ばれることになります。

 高校側として,何が正しい行動か,個別に判断することはなさそうですから,都としてはっきりとした見解を示すべきなのです。 

**************************


 平成21年12月17日付けの東京都感染症対策本部・教育庁からの文書「新型インフルエンザに関する東京都の対応等について(第262報)(平成22年度東京都立高等学校入学者選抜における新型インフルエンザへの対応について) 」で、以下のような発表がありました。
 体調不良等の申し出があった場合には、別室受検により個別に対応する。
 また、インフルエンザに罹患している受検生であっても、医師による受検可能の判断等があった場合には、別室受検により個別に対応する。

 これ、都内の公立中学校の先生方や受検生の皆さんはご存じなのでしょうか?

 昨年までは受検不可能でした。・・・というより、「インフルエンザにかかっている生徒は出席停止扱いのはずだから、入試に出席していないはずだ」という回答でした。
 
 私の都への要望は、
「インフルエンザにかかったら公立高校への受検資格を失うことになるというのはおかしい」という意見のもと、
「罹患者が黙って受検することで、感染が拡大する恐れがある」
「出席停止扱いにするという法令の趣旨は、感染の拡大防止のためであって、受検資格を奪うことではない」
「感染拡大防止策としては、別室受検が妥当であり、実際、学校内の定期考査等では行われているはずの措置である」
「したがって、申し出をきちんとさせて、別室受検の措置をとるべきである」
 以上のようなものでしたが、実現してほっとしています。

 残る問題は、私はたまたま都教委のHPを見て知ったのですが、これを知らない教師や中学生はいないのか?ということです。
 直接担当部署に聞けばいいのでしょうが、一度「クレーマー扱い」されると二度と関わり合いをもちたくなくなるものです。クレーマーへの恫喝も記録に残してありますがえげつないものでした。

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教育」カテゴリの記事

コメント

文科省が調査した結果は,「別室受験対応」と答えたのは47都道府県すべてでしたね。

東京都は,危うく「ただひとつ,別室受験を許可しない都道府県」になるところでした。

実は,その前の年まで,都は受験させない方針だったのです。

感染拡大防止のセンスが役人には決定的に欠けていることが明々白々でした。

熱が下がったばかりの子が,感染していているから受験はあきらめる,なんて,思うわけがないでしょう。

今まで受験会場でインフルエンザウイルスをもらった人の数を調査してもらいたいくらいです。

受験はその人の人生を決めます。

今年は各地でインフルエンザ対策に頭を悩ましたことでしょう。

受験生のことを考えればしっかり対応してもらいたいものです。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
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    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
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    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より