数余りを隠すために・・・
そもそも今のように小規模化している学校に、「備立」を構成するための人数がいるのか、人材がいるのかという疑問があります。
小規模校をなくしていくと、教師の数が余っているのがわかってしまいますから、反対するという論理はよく理解できますが、子どもにとって何が一番良いのかという発想がないのも気がかりです。
「100ページの1文」(09/12/19)より
大名主君からは伝令である「使番」が「先備」の旗頭の下に派遣され、敵軍の攻撃展開についての情報と作戦についての指示が伝達されるけれども、前線の指揮進退はあくまで旗頭の裁量に委ねられている。
封建社会、あるいは中央集権的な集団主義というと、上意下達型の服従システムであるとする通念が根強い日本ですが、「激しい現場」ではいちいち中央の指示を待つことはできないわけで、その場の指揮官が短期的には意思決定を行うケースというのは普通にあったようです。
短期的な意思決定を求められる場面が連続的に訪れる学校現場では、それだけ「前線の教師」の役割が重要で、責任も重いわけです。
しかし、現場には、現場にもかかわらず、「中備」「脇備」「旗本備」の立場に自ら安住し、「先備」ではなく「作戦中枢部」の方ばかりを見ている教師がいることが、「作戦中枢部」の人間たちにとっても負担となっています。現場の無責任体質は、組織を崩壊させる最大の原因の一つでしょう。
先日、ある質問をいくつかの学校にしたところ、すぐに返答をくれたのが1校、残りはすべて、「質問をもみ消す」べく「作戦中枢部」にすべてを委ねる結果となりました。ある1校の不正から始まった「改革」の行き着いた先がこの姿です。
現場には今、複雑な状況に耐えうる「備立」をもっている学校はどれほどあるのでしょうか。
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