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藤田晋の成長学・教師編43 将来、教育界を支える人間はどこにいる?

 セオリー№43 将来あなたを助けてくれる後輩を育てよう

 教師にとって、教え子が教師を目指し、教職につくことは、どのくらい喜べることでしょうか。

 同じ職場で働くというチャンスは普通の教師にはないのですが、私の勤務校にはそういう「組み合わせ」の教師がいます。

 専門の教科まで同じということになると、指導力の方まで気になってしまいますが、普通の学校の教師という職業は、同じ教師を育てる職業ではないので、「同じような指導法」「同じスキル」「同じ教材」で授業を行うということもめったにあるわけではありません。また、だれもが「多くの教師たち」から学ぶわけで、それだけ「教師たちの仕事・影響」の重層性というのが認識できます。

 ただ、どの学校でも、目の前にいる子どものだれもが「教師にはならない」「教師にはなりたくない」と思ってしまっているようでは、将来、日本から教師はいなくなってしまいます。

 「金の卵」がそこにいるかもしれない・・・そういう意識で子どもの夢を育てたいものです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より