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教師としてどう生きたいのか? ふり返り366日【08/8/6】

 無責任な態度を教師がとったり、熱意が感じられなかったりすると、「使命感が足りない」という批判を受けることがあります。

 @nifty投票では、小学校教師・中学校教師、どちらに対しても「望むこと」のトップが「使命感」になっているのは、もしかしたら選択肢の最初にあるからかもしれませんが、実際、その通りだなと感じている教師自身も多いと思われます。

 今、教師たちに最も欠けているのが「使命感」だと・・・。

しかし、教師の「使命感」は、何で測ることができるのでしょう。

 熱心さ? 
 まじめさ?
 勤務時間の長さ? 
 部活動指導? 
 教材研究の量・質? 
 不登校生徒への対応?

 体罰などによる処分の数???

 「使命感」が足りない・・・というのは何から言えるか。
 この方が具体的によく分かってしまいます。

 また、「使命感」の空回りとか、特定の方向に限っての「使命感」が問題を起こすこともよくあります。

 「教師としてどう生きるか」を正面から問えるような職場は今、どこにあるでしょうか。

08/8/6 教職志望動機と「使命感」  教師を目指す動機。  採用試験の面接では必ず問われることではないでしょうか。  私の場合は人から言われた「ひとこと」なのですが、それではインパクトが足りない(またはそこをつっこまれると言いたくないことも言わなければならないので困る)と考えたせいか、別のことを言ってしまった気がします。  採用側としては、何が受験者から語られても、そこに教育への「使命感」「責任感」が嗅ぎ取れるかどうかが勝負になると考えられます。    「使命感」によって「働かずにはいられないで働く」ような職業というのがありますよね。  こういう職業は、公務員の場合、職につくまでの幻想に惑わされていた人が、現実の厳しさを知って「使命感」を喪失した後も、よほどのことがない限り失職しないですむという問題がありますが・・・。  教師の場合は、使命感を喪失させられた原因が子どもでも、失った使命感を取り戻させてくれる存在も子どもであるというラッキーな職業です。  どんな理由で教師になったにしろ、現場で教育にたずさわっていれば、本当の「使命感」に気付くことができるのが教職というものだと私は考えています。  何度も挫折を味わうことで、自分自身が成長できるのも教師であり、同じように挫折を体験した子どもにも、そこから次のステップに進ませてあげるのが教師です。  教師は、立場上、子どもの評価はいつもしていますが、自分自身へのふり返りや次のステップへの目標づくりをすることも、教師には求められています。  たとえば毎年の人事考課、サイクルは長くなりますが免許更新講習等がその機会になります。  そのようにして成長していった教師のライフスタイルを公表できる自治体が出てくるとおもしろいかもしれません。  目標とするロールモデルが見つかるとすると、教師志願の有力な動機になるのではないでしょうか。

 できたら、そこに「指導教諭」「主幹」「管理職」「指導主事」等になったロールモデルも入れてほしいものです。
 というのは、いきなり管理職になりたくて教師を目指す人は少ないのでしょうが、何年経っても「管理職」の仕事は「他人事」と考え続ける教師ばかりでは困るので、一応、あらかじめ、そういう道があり、そのような道を選んだ人がどのような成長を遂げていったのかを知っておくことは意味のないことではないと考えられるからです。
 
特に、世の中で最も「明るい印象のない」のが「副校長」という管理職ではないかと考えます。
 実際、精神的にも体力的にもつらい経験もする立場ではあります。しかし、「副校長」は(基本的には)ゴールではないので、その経験が校長になってどう生きたとか、校長と教諭の間でどのような仕事が最もやりがいがあったとか、何かプラスのイメージの発信がほしいところです。
 余計なことですが、副校長が「職務遂行上の負担」として最も感じているのが「仕事量の多さ」で、その中でも大きな量を占めているのは、「調査もの」と、「だれにふったらよいかわからない」仕事だそうです。
 この担い手が主幹になる、と考えられてしまっては、主幹のなり手もいなくなってしまうでしょう。
 「使命感」のみが原動力・・・なんていうのも寂しい話です。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より