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家庭が稼停・過低・下底に・・・ ふり返り366日【08/8/3】/昭和20年に禁止されたもの

 社会を覆う大きな「望ましいとは思えない」空気とは何でしょうか。

 「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はない」と考える人が、とても多くなっているようです。

 根拠とセットで調査してほしいものですが、そうではないので理由や背景は憶測でしか語れません。

 子どもがいる家庭は「稼停」。稼ぎが停滞するから?

 子どもがいる家庭は「過低」。過去最低の「暗い未来」しか見えないから?

 子どもがいる家庭は「下底」。教育費がかかり、もともと収入が低ければ、苦しい生活になるのが目に見えているから?

 子どもがいる家庭には、幸せの「過程」が味わえるのに・・・。

08/8/3 「弱さ」が最強の「武器」になる社会  「守り」ではなく「攻め」の精神科医・・・と区別することがあるとしたら、その代表として、中嶋聡(『「心の傷」は言ったもん勝ち』新潮新書の著者)、香山リカ(『うつ病が日本を滅ぼす!?』創出版の著者)の二人が挙げられると思います(たまたまその2冊の本を読んだというだけの理由ですが)。  2冊の書名からも明らかなように、二人が危惧している社会への共通の問題意識があります。  香山リカは、  
今の30代、40代が『われもわれも』とばかりに“心の病気”を訴え始めているように見える。そして、この状態が続くと、どこかで企業のモラルや社員の士気が一挙に崩壊し、それが社会にも深刻な影響を与えるのではないか、と半ば本気に思っているのだ。
   
自尊心が強く自分幻想も大きく、他人からの評価には傷つきやすく、落ち込んだかと思うと時には攻撃的になることもある人たちが、ちょっとした挫折をきっかけとして、少し耐えて乗り越えようとすることもなく、次々と「私、うつ病です」と戦線離脱していくと、会社も役所もそのうち成り立たなくなるのではないか。 (以上、「あとがきにかえて」から抜粋)
   中嶋聡は、  
人一倍努力して、少しでも自分を向上させる。そしてその結果、少しでも世の中の役に立つような仕事をする。そのことの価値を疑う人は、ほとんどいませんでした。しかし現在では、そのような考え方は、ださく、格好悪いことのように受けとめる人が多いようです。
 
被害者の立場の極端化を許しうるような、ある共通の構造があることを指摘しています。そしてそのような構造にもとづいて、訴えさせすれば被害者の主張がそのまま認められ、加害者とされた人が一方的に断罪されてしまう現代社会のありかたを、「被害者帝国主義」と名づけました。  「時代が変わった」と人はよく言います。それは、仕方のないことなのでしょうか。変わってしまった価値観は、すべて受け入れ、適応していかなくてはならないものなのでしょうか。 (以上、「はじめに」から抜粋)
 昔なら「弱い」立場だった人が、これからは、その「弱さ」を武器とすることで「最強」の存在になってしまう。  香山リカが当惑している最近のうつ病患者は、かつては考えることができないほどある意味ではタフで、強い自己愛や万能感をもった人たちだそうです。  企業のジレンマは、「弱い」人を守るためには、競争力の低下は絶対に避けなければならない。しかし、「弱さ」を容認すると、競争力が低下し、「弱い」人を守れなくなる・・・。  ある経営者は、「ゆっくり休みながらやりなさい」と言うと、若者は本当に休んでしまうので、最近はあえて「とにかく辛抱してがんばりなさい」と言うことにしているそうです。  しかし、「しっかりしろ」「がんばれ」はうつ病の人への禁句になっている・・・。  香山リカの場合は、自分は「戦後民主主義教育」と「80年代的サブカルチャー」をよりどころとする人間だと言っています。  「80年代原理主義者」とよばれて批判された経験がある彼女の価値観とは、
自由、平等、反権力が何より重要 オトナよりコドモ 強いものより弱いもの 金儲けより人助け 多数派より少数派 構築より解体 管理より自律 整理より混沌 体系的より散発的
などというもので、「ああ自分にもあてはまる」という人も多いでしょう。  その香山リカの違和感を、どう捉えたらいいのか。    中嶋聡の場合は、「被害者帝国主義」という造語からもわかるように、やや過激です。  「タイミングのよい体罰は容認する」という、「○×式」ではない、あいまいな部分を残すことに重きをおこうとしていることに特徴がありますが、反発される方も多いでしょう。  私が二人に注目したのは、自分も感じている近年の「問題行動」や「家庭の対応」の質の変化の問題を考えるヒントになると考えたからです。  「ギャンブル依存症は病気なんだから!」と非常に強い態度に出る人。こういう保護者への対応はどのようにしたらいいのか。  「~のせい」にする能力が非常に高まっている生徒。なかなか納得させられないで困るケースもありました。  時間をおいて少し考えてみようと思います。

*********************
昭和20年に廃止・中止・禁止されたもの。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 ○警官の夏の白服は敵機の目標になるということで、夏の盛りでも黒服に。
 ○GHQ,チャンバラ映画を軍国主義的として上映禁止に。
 ○国史、修身、地理の授業を停止。
 ○学校での神道教育を禁止。
 ○弁当を持参できない子どもが続出し、午後の授業は中止に。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より