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高等教育における「嘆き」「ぼやき」の世界 ふり返り366日【08/8/2】/第109問

 教育の質の向上には、教育を受ける側、学ぶ側の質の向上が必要だ・・・このような主張が、大学教師などからさかんに発せられます。

 内田樹の場合は、ブログでも、その記事をベースに出版している本でも、この趣旨の内容を繰り返し述べています。

 「専門家が国を滅ぼす」という主張をしていたのはだれでしょうか。

 高校教師にも同じような傾向があることは、ブロガーの記事を読むとよく分かります。

 大学教師や高校教師が偉そうにしていて、学生たちは遊んでばかりいる。

 コミュニケーションが非常に乏しい「死んだ世界」がそこにあります。

 それに対して、義務教育に携わる教師からは、そういう類の発信は少ない。
 
 「学ぼうとする姿勢」がない学生からの「これを学んで何の役に立つの?」という反応にあきれる態度は、あきれる態度をとることで自分の優位を見せつけることになるのは確かなのですが、すぐに出される例としての「気付き」の教訓は、基本的にもともと優れた知力を持っている人が無知に気付くというパターンのもので、それはとてもじゃありませんが義務教育では起こりにくい題材なわけです。

 学びの本質に気付かないから学べないのではなく、学ばないので学びの本質に気付けないのです。

 ですから、学ばないことを放置しないのが学校の役割であって、そのための苦労は想像を絶するものです。

 フィンランドのように「よき納税者を育てる」という打算的なものを全面に出して、「品位のない国」と批判されるのも嫌いな日本は、あくまでも正攻法で「意欲開拓」の研究に邁進しています。ただ残念なのは、そんなことをされなくても意欲が十分ある人が意欲を高める方法を考えていることです。

08/8/2 教員採用の望ましいあり方について  大分県の教員採用汚職事件を受けて、政府の教育再生懇談会(座長、安西祐一郎慶応塾長)がまとめた緊急提言の中に、教員採用・昇任プロセスの透明化を図るため、試験問題の公開を行うなどが盛り込まれたそうです。  また、教育委員会の閉鎖性を解消するため、事務局幹部職員に教員出身者以外からの積極登用などを訴えているようです。  政治的には正しい判断なのかもしれませんが、現実には多くの困難と新しい問題が浮上しそうです。  まず、試験問題についてですが、採用試験の問題分析を行った経験から言うと、全国的に「問題の質が低い」ことは明らかです。古い大学入試問題のパクリのようなものまであります。  場合によっては、「こんな程度の問題で採用を決めているのか」「この程度の問題ができると教職につけてしまうのか」という批判が新たに浮上するおそれがあります。  また、当然採点基準の問題が出てきて、自由に伸び伸び書ける論文ほど採点が難しくなり、結果として、見え見えのことばかりしか問えない問題が増えて、そういう問題しかつくれない教師をどんどんつくりだしていくことになります。  私の考える解決策は、教員免許の有無では資質・能力の適性はほとんどわからないので、司法試験や医師国家試験のようなタイプの資格試験を1次として導入し、各自治体が面接等を中心とした2次試験を行うようにすればよいのではないでしょうか。地方公務員としての身分の問題などがあり、難しいのはわかりますが、各自治体で採用試験をつくるコストというのは日本全体で見れば無駄のような気がしています(外部に委託している自治体もあります)。   次の事務局幹部職員の教員出身者以外からの積極登用もけっこうなのですが、結局は問題をつくったり教育の専門的なことに関する判断をするのは教員系の人間です。  そもそも事務方の採用に教員採用汚職のようなケースがあるかないか、調べないでも予想はつきます。  ペーパーで点をとる能力はなくても、地元を愛する心があればOKなんて理屈は、「わたくしども空間」重視の日本ならありがちなことでしょう。  「緊急提言」というものは所詮この程度のレベルのものです。  教員採用についての意見は、過去にも書いておりましたが、改めてまとめてみようと思います。  子どもの立場で考えると、「裏金でなった先生?ああ、でも、自分の力で受かったかもしれない先生より、100倍授業はわかりやすく、生徒思いでみんな大好きだったのに・・・」なんてコメントが聞かれる恐れがあることは、封印したいのですがどうしても出てきてしまうかもしれません。  不正は不正としてきちんと裁かれるべきことは言うまでもありません。  現場に立つチャンスをたった1年間でも失った人の無念さは痛いほどよくわかります。  しかし、充電期間が増えたことは、きっと後の子どものためになっていくと思います。  教師になりたい人は、素直に応援(ヤジも含む)したいです。

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昭和の家庭史トリビア?【第109問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 この頃、倉敷レーヨン(クラレ)がプレハブ住宅をつくり出しました。これは、どんな技術を生かして誕生したものでしょうか。
 ① 飛行機の翼
 ② 飛行機のプロペラ
 ③ 船のスクリュー

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 【第108問の解答
 ①の70%でした。供出実績は予定量の23%にとどまったようです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より