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親父と教師の機嫌 ふり返り366日【08/8/10-2】/昭和21年・第112問

 ついさっきまで機嫌が悪そうな教師が、管理職の批判を言い終わっただけで満足そうな表情に変わった場面を何度か見てきました。

 ブログで言いたいことをコメント欄に書き込み、最後を「いい気分だ」みたいな一言で締めくくる、そんな人もいましたね。

 何も解決したわけでもなく、しゃべったり書いたりするだけで「機嫌が良くなる」という仕組みは、ある意味では一つの問題解決の形ではあります。

 中には、しゃべったり書き込んだりしながらますます機嫌が悪くなるようなタイプもいるでしょうから、それと比べれば周囲にとっては助かります。
 
 昔も、嵐が去るのを待つ・・・というのが唯一の方法だった「親父のかみなり」、それに近い「教師の説教」というものがありました。聞いているふりをしているだけで、何も耳に入ってこず、心にも響いていないのはもしかしたら相手にも伝わっていたのかもしれませんが、「すべき態度をとることが大事」と見なされていた時代には、それでもよかったのかもしれません。

 今は、結果が求められる時代になりました。

 今のところ、塾の経営者とか、カウンセラーには、「失敗者」の側からの「結果責任」は求められていないようですが、将来はいかがでしょうか。

08/8/10 学力向上のために「死活的に重要なこと」とは?  ドラマでは、現場の士気を低下させるようなお役所や上司の姿勢にめげず、必死に現場で努力している人物が主人公としてよく描かれます。  このようなドラマを教育でつくろうとすると、「悪役」は文科省か教育委員会、校長や教頭という立場の人間になり、一般の教師が主人公になります。校長ならまだしも、指導主事が主役になるようなドラマは絶対につくられないでしょう。  このようなドラマの図式は、実は現場の実際の教師たちにも都合がよいものになっています。  「行政がとてもたくさんの書類を書かせるから、教材研究の時間が減っている」という事実が、どれくらいの教師にどの程度あてはまるのかはわかりませんが、それを「言い訳」にすれば、「何とかして時間をさいてでも、教材研究をしようとするなどという意欲はない」事実が隠蔽できます。  「余計なこと」「雑務」に時間をとられたとしても、「本務」は「本務」として実践できる環境がある(授業をさぼって試験問題をつくるわけにはいかない・・・でも小学校では、自習をさせておいて問題の採点をしている教師はいますね)以上、結果を残さなければならないのが教師のつらいところです。  現場の教師が困ってしまうのは、士気が高まるようなこと、たとえば「何でもみなさんの自由におかませします」「今まで通りでいきましょう」と言われてしまうことでしょう。  結果がついてこないと逃げ場がなくなり、あとは子どもか学習指導要領のせいにするしかなくなります。  責任を持たされることは、教育への情熱を高める上でも必須の要素なのでしょうが、責任をとる気がない、あるいは、責任をとる手段がない人にとっては、効き目のないことです。    今、どうしてこんなことを書いているかというと、何度か引用している内田樹「こんな日本でよかったね」(バジリコ)の、「日本の教育がひどいことになっているのは、教師たちが構造的に不機嫌にさせられているからである。」という一文にひっかかったからです。  教育ブログを読んでいても、そのような「不機嫌さ」を露骨に表現している記事が多いのです。  その一文には批判的な私ですが、次の内容はその通りであり、自分もそのように実践してきたことを記事でもふれてきました。  
膨大なペーパーワークに文科省や教育委員会からの締め付けに保護者からのクレームに勉強どころか基礎的な生活習慣さえ身についていない生徒たちに囲まれて、それでも「機嫌良く」仕事をしろというのが無理な注文であることは私にもわかっている。  でも、そういうときだからこそ「機嫌よく笑ってみせる」ことが死活的に重要だと私は思う。
 この「機嫌よく笑ってみせること死活的に重要だ」という表現に、私は強く同意します。  以下の部分の引用でその理由の説明になると思います。  
要するに教師自身の心身がアクティブな状態にあって、「気分がいい」ということだけが確保されれば、初等中等教育の基礎としては十分なのである。・・(中略)・・  教師が知的な向上心を持っていて、それを持っているせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちにはそれが感染する。教師たちが専門的な知識や技能を備えていて、そのせいで今すでに「たいへん気分がいい」のであれば、生徒たちは自分のそのような知識や技能を欲望するようになる。
 齋藤孝の著作にも同様な表現がありました。  もっと古い教育学者の著作も、直接的な表現ではありませんが、「教師自身が学ぶことを、授業を通して楽しんでいること」が大事だという主張は数多く見られます。  教師を含めて人間は、不機嫌にさせられてしまうのは非常に簡単なことですが、どんな状況でも機嫌よくいられる、というのは、その効果の絶大さを認識している人にしかできないことかもしれません。

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昭和の家庭史トリビア?【第112問】 
 昭和21年(1946年)の話です。
 『毎日小学生新聞』の「マアちゃん日記帳」でデビューした漫画家とは?
 ① 長谷川町子
 ② 藤子不二雄
 ③ 手塚治虫

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 【第111問の解答
 ②。理科:文科の定員は、理科の比率が引き下げられ、戦時中の9:1から、6:4になりました。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より