人を不幸にする不幸な存在
改革の先頭に立っている人が,「猛進」する場合,それが「暴走」であるのか,「果敢な挑戦」であるのかは,結果からしか判断できないのかもしれませんが,「暴走」という結果になるリスクを減らすために,「諫める」人というのが必要になる場合があります。
ただ,マスコミなどは「諫める」ふりをしながら,「煽る」のが得意技です。
子どもたちには,「人の不幸」が「飯の種」になる職業への抵抗感があり,これを「公共性」という概念から修正していく指導というのが必要になってきますが,ときには「知る権利」という個人の欲求を優先してしまい,他人の不幸の上に立つ幸福を追い求める資質を育ててしまう場合もあります。
少なくとも,子どもにとっての「知る権利」の中には,「世の中の問題点を知らされる権利」というのが入っているべきでしょう。「知らされる権利」と表現することもできるでしょうか。そうでないと,知らず知らずのうちに人を不幸にする,不幸な存在になってしまいます。
「100ページの1文」(09/10/06)より
それまで聚楽第の利休屋敷で、御茶頭として大名や公家から高い尊敬を受け、当代一の文化的権威を誇った利休が、突然没落したわけです。
千利休のように、「見苦しい最期を迎えることができない」プレッシャーを受けることが、日本の社会では伝統的に受け継がれてきているように思います。
それは、本当に素晴らしいことかどうか。
歴史や伝統を心酔するようになるリスクは、「見苦しくない最期」のための理不尽な死を擁護してしまうことにある気がしています。
「和魂」の美しさが、「散り際の潔さ」などに象徴されるのはちょっと待ってほしいように思います。
著者が教育関係者なので「教育」のカテゴリーにしました。
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