直接的な被害を受けている人たちにとっては反・日教組という立場は分かりやすく、その「闘争」の経緯を読むと本当に壮絶なものなのですが、まだ日本には「教師には逆らわない」という「美徳」が残っているために、組織的な反・日教組の団体や運動は起こりにくいものです。
組織というのはその存在意義を示そうとすることで弊害が目立つようになるわけですが、その意義を終えたときには、名前だけが一人歩きし、そのおかげで個人の問題が隠蔽される・・・その方が今、問題であるわけです。
それは組合に限らず教育委員会でも同じで、「教育委員会が悪い」のではなく、本当はそこの部長だったり教育長だったり、一握りの人間に問題があるのに、他の職員も同じ色に塗られてしまうことがあります。
企業ではさすがに社長が起こした問題なら別の次元でしょうが、一握りの人間のミスが命取りになり、存続の危機に陥ることがあるので、「だれにも甘えは許されない」という思いがありますが、公的な組織の場合には、「それがなくなることはない」という信念?から、おかしな暴走がまかり通ってしまいます。
本来、それに釘を刺すような役割の人たちが、火に油を注ぐようになったとき、子どもたちにとって本当の不幸が訪れるようになります。
子どもを不幸にしない環境をつくる力は教師にはありません。
しかし、不幸な環境に耐える力を育む活動はできました。
それもできなくなったとき、帝国海軍のように仕事を継続するか、どうか。
船を失ったとき、海軍はどう戦うか。
まずは、教師が非常に狭い思考の殻に閉じこもっている状態を自覚して、そこから抜け出すことが肝心でしょう。
「100ページの1文」(09/11/05)より
教育行政と日教組の共通点
これまで私は、日教組による教育現場支配と戦うべく、市議会を舞台に多くの戦いを繰り広げてきた。
日教組の教師といっても、役員を押しつけ合ったり、会費が高いを不平をもらしたり、みんながみんな「高い意識」をもって活動しているわけではなく、「入るのが当たり前」の時代に入って「足抜け」ができないで困っている人もいるわけです。
政権が変わって「日教組の天下が来た!」と浮かれている人もいません。
学校が「組織ぐるみ」で不正をやるのは、ティームティーチングの実態を偽る報告とか、そういうものであって、後は組合員である、ないにかかわらず、個人的に行っているのが普通です。
「日教組叩き」に本腰が入らないのは、教育行政も実は根っこでは全く同じ性格をもっているからであり、それはすべて「日本的な仕事の風土」が公務員に根付いているからでしょう。
個別に解消すべき問題が学校には多く、それは「日教組をつぶす」という名目ではなくて、純粋に「教育の質を改善する」という活動でよいわけです。
日教組を今の教育行政で働く公務員と別個に考えていたら、教師や教育が変わる日は決して訪れないでしょう。
中山成彬はなぜ日教組と戦うのか

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