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2009年11月

自分の「それらしさ」に疑念が持てる賢さ

 私は、つくづく「権威」に弱い人間だと痛感することが多いです。

 「学会」などというと、そこに堂々と反対意見が言えないような、敷居の高さを感じます。

 せっかくの異論があっても、肩書きのすごい「偉い先生たち」の前では思考停止状態です。

 現場の先生方にも、こういう経験をたくさんしてもらえると、「学校らしさ」「学校のよさ」が実感できるかもしれません。

 それらしい名前のそれらしい場にいることだけで、何となく自分が「それらしく」なっていると感じてしまう愚かさに、自ら気付くことが大切でしょう。

落ちる子どもを育てる教育 ふり返り366日【08/8/1-2】/第108問

 リーダーには、その組織の性格にももちろん左右されますが、様々なタイプが存在します。

 小学校では「リーダー」役を固定化しない傾向があるようで、そういうところでストレスをためてきたリーダー候補は中学校でとても積極的に活動します。

 理想は「リーダー」選出が民主的に行われること・・・そのためには「必ずリーダーになれないリーダー候補」が複数いることが必要になります。

 教師として大事なのは、「リーダー」をつくることよりも、「リーダー候補で終わるリーダー候補」を育てることです。

 「弱い子ども」は、「選ばれなかったときのショックが大きいと予想」して、「立候補しない」ことを選択してしまうおそれがあります。また、実際に「選ばれなかった」ことで、大きなショックを受けることもあります。

 これがバネになる子どもと、「根絶やし」になる子どももいます。

 もう一つ、教師としての重要な役割は、より望ましいリーダーを選出できる子どもの育成です。

 これも難しいのですが、だいたいその成果で、「道徳」の教育力は測れるのでしょう。

08/8/1 望ましいリーダーの特徴  リーダーシップに関連する著作は非常にたくさんありますが、「望ましいリーダーの特徴」について複数回答による調査をした結果、次のような順(回答率が高い順)になった(長期間の調査で、上位の項目にはあまり変動がない)という事例が紹介されている本(中谷彪著「信頼と合意の教育的リーダーシップ」晃洋書房)がありました。 正直 前向き姿勢 有能であること 人を鼓舞すること 聡明(知的) 公正 寛容 応援してくれる 率直 信頼できる 協力的 決然とした 想像力に富んだ 大望がある 勇気がある 思いやりがある (以下略)  アメリカ合衆国を中心に、6大陸の国々での調査を集計したものだそうですが、国別の特徴別順位を比べてみると、興味深い点が見つかります。  それは、「望ましいリーダーの特徴」として「正直」を選んだ人が、他国と比べて日本はダントツに低いということです。  原典にあたってみないと、その分の回答がどこにまわったかわからないのですが(もしかしたら「思いやり」か?)、アジア諸国と共通して低いものもある一方で、日本は「正直」であることを「望ましいリーダーの特徴」として選ぶ人が少ないことは非常に目立ちます。  逆に考えると、欧米諸国などは「正直でない」「嘘をつく」リーダーが多いこと、日本では基本的に「正直」であることは当たり前のこと、などのことからくる回答結果なのかもしれませんが。  「有能であること」や「前向きな姿勢」はどの地域の国でも回答率が高い。  また、「人を鼓舞する」ことは、アジア地域がアメリカやカナダ、オーストラリアより低い(日本はその中でも最低)。  この後半の傾向については、私の場合は何となく納得してしまいます。  これらの「特徴」(=「長所」)は、何も企業のリーダーに限らず、日本の学校経営者にも、そして教師自身にも止められるべき資質であるとも考えられます。  「人を鼓舞する」「応援する」リーダーや教師は好ましいことは確かですが、問題はそれを行う「タイミング」と「」です。  以前ご紹介した林壮一著「アメリカ下層教育現場」(光文社新書)では、著書が受けたアメリカのユース・メンターリング(「若者への助言・指導」)のプログラムでインストラクターが示した「状況に応じて使い分ける20種類の褒め方」というのが紹介されていました。  こういう言葉がぽんぽん飛び出している教育現場って日本ではあまり想定できません。  しかし、当然、こういう表現があることを学んで、本当に言われて相手がうれしく感じるとき、効果が大きいタイミングというのをねらって言えることは大事なことだと思います。  英語の方がニュアンスが通じやすいと思いますが、訳語で紹介されているので半分くらいを抜粋します。 「素敵だね!」 「素晴らしい考えだ」 「いい仕事をしたね」 「キミがその仕事を出来るって、こちらは分かっているよ」 「トライし続ければ、必ずやり遂げられるさ」 「まさに、その通りだね!」 「キミがどうやって、それをやったのか僕にも見せてくれるかな?」 「それこそが、進む道だね」 「僕はキミを誇りに思うよ」 「完璧だ!」  「立派だ!」    管理職試験や教員採用の面接で、特定の状況を説明した後、何と言ってどのように褒めるかを演じてもらうような選考内容があってもいいかもしれませんね。

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昭和の家庭史トリビア?【第108問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 この年は、米の収穫量が587万tと、大正・昭和期最大の凶作となり、食糧危機が深刻化しました。米の収穫量は前年比ではおよそ何%だったでしょうか。
 ① 70%
 ② 50%
 ③ 30%

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ブログランキング 歴史

 【第107問の解答
 ③のタケノコ生活でした。

「自分らしさ」の呪縛 ふり返り366日【08/8/1】/第107問

 「自分らしさ」という言葉が、「わがままな人間に認められる個性」であるという実感をもっている人は少ないでしょう。

 「人からも理解されるその人らしさ」ではなく、「人から理解される必要のない」自分らしさになってしまっている現状を食い止められるのは、学校現場なら教師やクラスメイト、職場なら管理職や同僚、家庭なら親や兄弟、親戚といったところでしょう。

 学校で行われる、「将来、どんな職業に就きたいと思いますか」というアンケート項目の中に、「自分らしさが生かせる仕事」というものを入れると、これを選ぶ子どもが非常に多くなる傾向があります。

 これは、「自分らしさ」が何なのか分かっていない子どもたちにとってみれば、結局「どんな職業に就きたいか分からない」と答えていることと同じです。

 学校や社会では、「協調性」が大事だと思わせられる生活を送りながら、「自分らしさ」を大事にというプレッシャーをかけられている面がありますが、「協調性」は「同調」していれば傍目には障害がない一方、「自分らしさ」は「同調」や「協調」とは全く違う・・・という固定観念が邪魔をしていると考えることもできます。

 そもそも、「~らしさ」という言葉自体が何かの型にはめてしまうような指向性のあるものですから、「自分らしい」という言葉そのものが大きな矛盾を抱えているとも言えます。

 「小学生らしい小学生」
 「中学生らしい中学生」
 「高校生らしい高校生」
 「大学生らしい大学生」
 「社会人らしい社会人」
 「先生らしい先生」

・・・って、それぞれどんな人のことを指すのでしょうか。

08/8/1 個性に共感できる子どもと教師  岡潔の『対話 人間の建設』の一節から、個性への共感について考えてみたいと思います。  
各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。個性はみなちがっているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。・・・・そういういろいろな個性に共感がもてるというのは、不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです。
 子どものことで言えば、「いいものに素直に共感することができる力」には欠けている部分があるのではないか、というのが多くの教師の印象でしょう。  個性に共感する普遍性を育てる(こういう対象は普遍性とは言わない?)ために、さまざまな方策が工夫されても、プロセスの中では多くの葛藤や対立があり、一見すると結果として失敗したように見えることもあります。  しかし、それが成功への第一歩になっていたことに、後から気付くこともある。  また、今の生徒たちは「空気を必死で読む」ために、個性を「正しく出せていない」(そっくりそのままの個性ではなく、飾ったり本質をぼかしたりした表現になってしまう?)ことが、共感を得にくい原因になっているのではないか、という気もします。  クラスによっては、うまくいっているようでも、そっくりそのままでない見せかけの個性を尊重するため、共感を欠いたドライな人間関係が固定化しているところがある。  だから多少の衝突は覚悟の上で、その人の「いいもの」を探したり、自ら「いいもの」を追求していける人になってほしい。人それぞれ、きっとその人にしか出せない「いいもの」があるはずである。人に共感できる人になることが、人から共感される人になることにもつながる。  そのいうメッセージを込めた指導の事例を過去にご紹介いたしました。  教師にも、同僚に対して、管理職に対して、このような姿勢を持つことが求められている、というのが一貫した私の考えです。  一人一人の教師の「いいもの」を共感し合える教師集団の力は、はかりしれない偉大なものになるはずです。  たまたまコンピテンシーディクショナリーを作ってくれた教師がいましたが、これは今でも私の宝物になっています。

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昭和の家庭史トリビア?【第107問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 敗戦後、手持ちの晴れ着・袴・コートなどを田舎や闇市で食料に換える生活が一般的になりました。このため、流行することになった言葉とは?
 ① ハダカ生活
 ② ツクシ生活
 ③ タケノコ生活

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ブログランキング 歴史

 【第106問の解答
 ①の米(「人造米」)でした。

病気休職する教師が子どもに与える影響についての研究?

 小中学生にとって、親の存在、親の生き方、在り方というのは絶大な影響力をもつものです。

 教師をやっていて、子どもの荒れや生活の実態に「無理もないな」と感じざるを得ないことはたびたび訪れます。

 むしろ、どうしてこれほどまでに「普通」でいられるのだろう。「普通」はいつまで「普通」でいられるのだろう・・・。

 気苦労は絶えません。

 変なたとえですが、患者が亡くなっていくことに感傷的になっている暇がない病院関係者と同じような心境でしょうか。

 もっと感情移入をした方がいいのでは?というプレッシャーをテレビドラマを視聴したことで感じてしまうような教師もいるでしょうが、400人に対してそれが果たして可能かどうか。

 学級の40人に対してすら、相当厳しい。

 この気苦労が、内部=同僚教師にもまわさないといけない学校現場も少なくありません。

 教師の重要な資質・能力に、「精神的なストレスを感じない」か、「精神的なストレスを短時間で解消できる」というものがけっこう求められていることは、病気休職者の増加からも分かるでしょう。

 担任を任せても、いつ学校に来られなくなるようになるか分からない・・・そういう教師による子どもへのストレスの影響を研究している人はいるでしょうか。

「100ページの1文」(09/11/21)より

親にとっての自分と自分の子どもと子どもの関係

 「目標にたどりつく道は最短でなくてもいい。目標に向かってやり続けていくことが大事」と、Aさんは言います。

 子ども自身をありのままに見るのではなく、子どもは見ずに、親がそうさせたい子ども像ありきなので、どんどん追い込まれてしまう子どもが増えているようです。

 親が苦労のプロセスを経ている場合は余計にやっかいです。

 なぜ自分と同じ苦労ができないのか。自分の子どもなんだからできないはずはない。

 「自分」と「自分の子ども」と「子ども」との関係がよく分かっていない「親」は、まず「木」の下に降りてきて子どもを見ることから始めるべきでしょう。

 遠くを見て、足下を見て、遠くを見て、足下を見る・・・その地道な繰り返しで、きっと目標は達成されていくのでしょう。

「勉強しろ」と言わずに子供を勉強させる法

進路指導が成立する条件

 進路を前にして、「親と子どもがあせっている」「親があせり、子どもはのんびりしている」「親はのんびりして、子どもがあせっている」「親も子どもものんびりしている」という4タイプに、「親も子どもも実力以上の力があると誤解している」「親だけ誤解している」「子どもだけ誤解している」「親も子どもも的確な認識である」という4タイプをかけて、16通りの指導の対策を立てる必要があります。

 どの組み合わせが最も指導をしやすいか、どれが最悪の組み合わせか、分かりやすいと思います。

 では、どの組み合わせが最も多いのでしょうか。

 学校にとって最もやりやすくて同時にやりにくいのは、「塾の先生の言うことが絶対です」という親と子どもの組み合わせです。

 結局、ご自由にどうぞ、で教師はすんでしまうわけですが、私にも経験があるように、「本当に信頼できる人がだれかを間違っていた」ことに気付くのは、すべてが終わってしまった後であり、手の施しようがない状態も目にしてきました。

 子どもにとって、本当に信頼できる人が、「自分自身」であり、「自分の親」でない限り、進路指導はうまくいきません。

「100ページの1文」(09/11/21)より

親にとっての自分と自分の子どもと子どもの関係

 「目標にたどりつく道は最短でなくてもいい。目標に向かってやり続けていくことが大事」と、Aさんは言います。

 子ども自身をありのままに見るのではなく、子どもは見ずに、親がそうさせたい子ども像ありきなので、どんどん追い込まれてしまう子どもが増えているようです。

 親が苦労のプロセスを経ている場合は余計にやっかいです。

 なぜ自分と同じ苦労ができないのか。自分の子どもなんだからできないはずはない。

 「自分」と「自分の子ども」と「子ども」との関係がよく分かっていない「親」は、まず「木」の下に降りてきて子どもを見ることから始めるべきでしょう。

 遠くを見て、足下を見て、遠くを見て、足下を見る・・・その地道な繰り返しで、きっと目標は達成されていくのでしょう。

「勉強しろ」と言わずに子供を勉強させる法

組織が悪という印象のベールが個人の問題を覆い隠す

 直接的な被害を受けている人たちにとっては反・日教組という立場は分かりやすく、その「闘争」の経緯を読むと本当に壮絶なものなのですが、まだ日本には「教師には逆らわない」という「美徳」が残っているために、組織的な反・日教組の団体や運動は起こりにくいものです。

 組織というのはその存在意義を示そうとすることで弊害が目立つようになるわけですが、その意義を終えたときには、名前だけが一人歩きし、そのおかげで個人の問題が隠蔽される・・・その方が今、問題であるわけです。

 それは組合に限らず教育委員会でも同じで、「教育委員会が悪い」のではなく、本当はそこの部長だったり教育長だったり、一握りの人間に問題があるのに、他の職員も同じ色に塗られてしまうことがあります。

 企業ではさすがに社長が起こした問題なら別の次元でしょうが、一握りの人間のミスが命取りになり、存続の危機に陥ることがあるので、「だれにも甘えは許されない」という思いがありますが、公的な組織の場合には、「それがなくなることはない」という信念?から、おかしな暴走がまかり通ってしまいます。

 本来、それに釘を刺すような役割の人たちが、火に油を注ぐようになったとき、子どもたちにとって本当の不幸が訪れるようになります。

 子どもを不幸にしない環境をつくる力は教師にはありません。

 しかし、不幸な環境に耐える力を育む活動はできました。

 それもできなくなったとき、帝国海軍のように仕事を継続するか、どうか。

 船を失ったとき、海軍はどう戦うか。

 まずは、教師が非常に狭い思考の殻に閉じこもっている状態を自覚して、そこから抜け出すことが肝心でしょう。

「100ページの1文」(09/11/05)より

教育行政と日教組の共通点

 これまで私は、日教組による教育現場支配と戦うべく、市議会を舞台に多くの戦いを繰り広げてきた。

 日教組の教師といっても、役員を押しつけ合ったり、会費が高いを不平をもらしたり、みんながみんな「高い意識」をもって活動しているわけではなく、「入るのが当たり前」の時代に入って「足抜け」ができないで困っている人もいるわけです。

 政権が変わって「日教組の天下が来た!」と浮かれている人もいません。

 学校が「組織ぐるみ」で不正をやるのは、ティームティーチングの実態を偽る報告とか、そういうものであって、後は組合員である、ないにかかわらず、個人的に行っているのが普通です。

 「日教組叩き」に本腰が入らないのは、教育行政も実は根っこでは全く同じ性格をもっているからであり、それはすべて「日本的な仕事の風土」が公務員に根付いているからでしょう。

 個別に解消すべき問題が学校には多く、それは「日教組をつぶす」という名目ではなくて、純粋に「教育の質を改善する」という活動でよいわけです。

 日教組を今の教育行政で働く公務員と別個に考えていたら、教師や教育が変わる日は決して訪れないでしょう。

中山成彬はなぜ日教組と戦うのか

内田樹の「後ろめたさ」の教育観/家庭の昭和史第106問

 ブログでときどき繰り返される内田樹の教育観は、自分でも一面的であることはわかっているようですが、基本的には「本を読むのが好きな学者の教育観」です。

 大学を魅力のあるものにしようとする過程で、「学ぶ意欲のない人間」に辟易している様子が手に取るようにわかります。

 実際、大学教師の大部分が痛烈に感じたことがある思いでしょう。

 「どうして目の前の人間はこんなに『学ぶ』ことに集中できないのか?」

 これに対する簡単な答えの一つは、「だから目の前にいる」ということです。

 「大学に通って学ぶ」とか、「本を読んで学ぶ」というのは、大学の先生とか本を書いて生活している人にとっては、なくてはならない「学び方」です。

 自分の生活を支えていってもらうために、「目の前に学生や読み手がいる」ことが必要です。

 割り切っている大学教師(大学に限りませんが)は、目の前の学生が自分の話を聞いていようがいまいが、ノートをとっていようがいまいが、自分が食べて行ければ何の問題もないとして淡々と授業を進めていることでしょう。

 それに対する「後ろめたさ」が、たとえば内田樹にとっても一面的な教育観を公開する原因になっているわけです。

 おそらく、「教育に対して興味もない人からお金をとって生活している」という「後ろめたさ」も、大学や高校の教師には存在していることでしょう。
 これが残念なことに、義務教育段階の公立学校の教師には得られない「後ろめたさ」であります。

 大学や高校の教師が感じている「不当な」収入に対する後ろめたさは、本を出して興味のある人に買ってもらい、「正当な」利益を得ることで相殺されるのかどうか。

 意欲がない、学ぶ意味が分かっていない、学力がついていない・・・と嘆く教師たちが感じている「後ろめたさ」は、「経済格差が原因」「夫婦の人間関係が原因」「親の学力が原因」という話で解消されるのでしょうか?

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昭和の家庭史トリビア?【第106問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 サツマイモ・ジャガイモ・イモヅルなどを加工したある食品が大阪で作られました。その食品とは?
 ① 米
 ② パン
 ③ ビスケット

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ブログランキング 歴史

 【第105問の解答
 ①の「紅白音楽試合」でした。

事務はできるが授業ができない教師

 「学校現場で事務的な仕事をやらせれば即戦力だが、授業をさせると授業にならない

 そういう嘆きが現場から聞こえてきます。

 そういう現状を、教員採用にかかわっている人で肌で感じられる人はほとんどいないでしょう。

 公務員と教育公務員の違いは給料の差でしかない、という感性が、公務員らしい感性です。

 教師などは、「その仕事のどこがおもしろいの?」という感性で一般の公務員を見てしまいますが、一般の公務員にとっては、「そもそも仕事っておもしろいものなの?」という思いの方が強そうに見えます。

 平安貴族の公務と、江戸幕府の役所の仕事と、今の官僚の仕事と、「仕事のおもしろさ」は何がどの程度変わっているのでしょう。

「100ページの1文」(09/11/04)より

子どもは大人の鏡

 教育は、このように、生徒の実情をしっかりと読みとり、生徒が求めていることを見つけ、それに応えていくことで効果的に行うことができます。

 子どもとコミュニケーションがとれない、という理由で教師を辞める人が増えています。

 果たして、「子ども以外」とならコミュニケーションがとれるのか?・・・という疑問も残りますが。

 このような本を読んで、みんなが「理想の教師」に近づくことは可能でしょうか。

 ・・・実は、コミュニケーションというのはハウツーでどうにかなる部分と、「本心」で決定しまう部分の割合が1対9くらいの関係なんですよね。

 だから、「なってない」と見える先生の方が、何倍も子どもから信頼されている実態がある。「どうして教科書通りに子どもに接しているのに、子どもはこっちを向いてくれないのか・・・」

 子どもは自分の鏡だからでしょう。

教師学入門

記憶に頼ろうとすれば思考は停止する

 視野が狭くなると、自分の何にどの程度偏っているかが分からなくなります。

 逆に、視野が広くなりすぎると、何をどこまで追究したらいいのか分からなくなります。

 大事なことは、ポイントを絞るべきときは絞り、大局的に考えるべきときは視野を広げて答えを焦らない。

 よくあるのがこの逆で、早く優先順位を決めて重要なことに取り組むべきなのに先延ばしし、今はどうでもいいことをダラダラと議論する・・・・時間の無駄としか思えない会議は早く終わりにしたいですね・・・。

 会議はどうあるべきか・・・・本を読んで記憶しているだけでは、いつまでたっても良い会議はできるようになりません。やはり、理解すべきなのです。


「100ページの1文」(09/10/25)より

円周率の100万分の1の位の数はいくつ?

 まったくバカらしい話をと思うかもしれませんが,あらゆる受験勉強は,先に申しあげた通りしょせんは記憶力の勝負です。

 頭がいい人というのは,「理解」するのが早いため,「単なる記憶」という表現ができてしまいます。

 全く何の「理解」もなしに「記憶」することは難しいものです。

 本当に「バカらしい話」というのは,たとえば,「円周率の100万分の1の位の数はいくつですか?」というような「問い」が受験で問われることでしょう。

 どこかの機関で,「バカらしい問題ワースト10」のような調査・発表をしてもらえないものでしょうか。

竹中式マトリクス勉強法

藤田晋の成長学・教師編37 学習の大切さを分からせる道具

 セオリー№37 目的がぶれなければ交渉は負けない

 なぜ学習は大切なのか,子どもに聞かれたとき,目で見て分かりやすい説明用のツールをもっているという教師はどれくらいいるでしょうか。

 もし「学習の大切さを子どもに分からせたい」「なぜ学ぶ必要があるのかに気付かせたい」という「目的意識」をしっかりと持っている教師ならば,それを達成するための手段をもっていてしかるべきでしょう。

 これが,単なる自分の体験とか,「いずれ分かる」という言い方で逃げているようでは,「学ぶ先輩」としての教師はそこに存在しないことになります。

 そのツールを利用して,本当は10段階のレベルがあって,3のレベルでもいいのに,人によって,場面によっては5とか7のレベルまで要求してしまうことも可能です。

 それは「交渉術」の一つでもあり,小さいステップを積み重ねていくうちに高いレベルの要求に応えさせることが可能になる・・・そういう教師を目指していきたいものです。

人を不幸にする不幸な存在

 改革の先頭に立っている人が,「猛進」する場合,それが「暴走」であるのか,「果敢な挑戦」であるのかは,結果からしか判断できないのかもしれませんが,「暴走」という結果になるリスクを減らすために,「諫める」人というのが必要になる場合があります。

 ただ,マスコミなどは「諫める」ふりをしながら,「煽る」のが得意技です。

 子どもたちには,「人の不幸」が「飯の種」になる職業への抵抗感があり,これを「公共性」という概念から修正していく指導というのが必要になってきますが,ときには「知る権利」という個人の欲求を優先してしまい,他人の不幸の上に立つ幸福を追い求める資質を育ててしまう場合もあります。

 少なくとも,子どもにとっての「知る権利」の中には,「世の中の問題点を知らされる権利」というのが入っているべきでしょう。「知らされる権利」と表現することもできるでしょうか。そうでないと,知らず知らずのうちに人を不幸にする,不幸な存在になってしまいます。

「100ページの1文」(09/10/06)より

 それまで聚楽第の利休屋敷で、御茶頭として大名や公家から高い尊敬を受け、当代一の文化的権威を誇った利休が、突然没落したわけです。

 千利休のように、「見苦しい最期を迎えることができない」プレッシャーを受けることが、日本の社会では伝統的に受け継がれてきているように思います。
 
 それは、本当に素晴らしいことかどうか。

 歴史や伝統を心酔するようになるリスクは、「見苦しくない最期」のための理不尽な死を擁護してしまうことにある気がしています。

 「和魂」の美しさが、「散り際の潔さ」などに象徴されるのはちょっと待ってほしいように思います。

 著者が教育関係者なので「教育」のカテゴリーにしました。

 
日本の感性和魂ルネッサンス

意味や目的を「本気」で感じているか

 人間は,意味や目的を感じられないことをするのが耐えられない存在です。

 では,意味や目的を感じさせるためにはどうしたらいいのか。

 「やることになっている」から「やる」のではなく,「やるべきだと思う」から「やる」という姿勢にさせるためには,「意味や目的」を「理解」させなければなりません。

 「使命感」が無条件に存在するような環境では,あまり自主的にそう思える内容ではないでしょうが。

 「使命感」が存在しないかもしれないからこそ,「理解」に向けた行動に真剣になれるのかも。

「100ページの1文」(09/09/28)より

 生徒に向って繰り返しのべた言葉の中でも、「第一が宗教的道徳的規律、第二に紳士的行動、第三が勉学」とのべ、これがラグビー学校の三大目的だと強調した。

 19世紀イギリスのパブリック・スクールについて記述されている部分で、アーノルド校長の言葉として紹介されています。

 日本の中学校でも、A学院中などは「礼拝の時間」を最も重視しているそうで、「勉強が一番」と言わなくてよい学校の強さを物語っています。

 外山滋比古の本は、頭に「刺激」を多く受けるタイプの本で、読んでいるうちに「考えごと」が多くなり、ページが先に進まなくなる代表的な著者の一人です。

 書名から手にとって、期待はずれに終わるビジネスマンも多いかもしれません。この本は、日本の教師たちが手にとり、「通読できずに終わる」のが理想のかたちであるような気がしています。

 目次より

 第一章 フィナーレの思想
     
   ライフワークの花 
   フィナーレの思想
 
 第二章 知的生活考

   再考知的生活
   分析から創造
   発見について
   忘れる

 第三章 島国考
 
   パブリック・スクール
   コンサヴァティヴ
   大西洋の両岸
   島国考

 第四章 教育とことば

   教育の男性化
   面食い文化
   市民的価値観
   ことばの引力
   ことばと心

 
ライフワークの思想

感謝できる人は伸びていく

 「感謝できる人は強い人である」

 卒業式の子どもの姿を見れば,将来の「伸びしろ」が「可能性」が見えてきます。

 教師は子どもに何を感謝するのでしょうか?

「100ページの1文」(09/09/22)より

 さんざん子どもが暴れまくって,予行練習ができなくなり,卒業式を行うかどうかを職員会議で真剣に討議した学校もある
 
 著者は,全校生徒が出席する卒業式を学校の特色として紹介しています。

 一方で,6年生だけの卒業式の実施も危ぶまれるという小学校の事例を挙げていますが,なぜこのような「格差」が生まれてしまうのか・・・

 「教師の指導力の差だろう」というのが当たり前の答えであるわけですが,学校自体はそれをなかなか認めません。

 では,6年生に毎年同じ「力のある」教師を当てるようなことを繰り返している学校の真似をすればよいのでしょうか。

 これでは,教師が育たないとは当たり前として,「無事に子どもが卒業できればよい」というメッセージが子どもに直撃していることに気付かない関係者が多いのです。

 「力のある人に任せればよい」という発想は,最も人の成長を阻害するものです。

 卒業式の話は,簡単な問題でしょう。著者は「低学年のほうがしっかりしている面もある」と書いていますが,それは「そういう面」の話であって,6年生がひどい態度を卒業式でしてしまうかどうかは,低学年に向ける目を同じように6年生に向ければすむ話でしょう。

 「失敗」を恐がっているのは,6年生ではなく,教師たちであることがよく分かります。

 
野中信行のブログ教師塾

教師は「新しい課題」を発見し,追究する能力を持っているか?

 与えられた課題に対して,とても効率的・短時間で適切に「解答」を導くことが,「試験による選抜」を勝ち抜く力であると言えます。

 こういうことができる人だからこそ,「自分で課題を見つけて,それを追究し,解決する」ことができるのか,それともそれができにくくなるのか。

 どっちを優先すべきかという点で,今,学校ではなく予備校の方に軍配が上がっているようですが・・・。

「100ページの1文」(09/09/13)より

 つまりこれまでの「排斥」という差異性が「強烈な事件」を機に「混乱」という形で揺さぶられている。

 受験勉強で「本物の勉強力」がつく・・・夢のような話かもしれませんが,それを教えることに特化して食べている人たちのうち,自分の学び方の面白さに絶対の自信がある教師は,教える力も優れている・・・そういうことがよく分かる本です。

 公立学校の教師のうち,「この人,本当にこの教科の『学習』を心の底から楽しんでいるのだろうか」と疑問を持たせるような人はいないでしょうか。

 「やる気のある」生徒と「やる気のある」教師の組み合わせが大きな教育効果を発揮することは言うまでもありません。

 予備校の教師に公立学校の教師が教えを請う・・・そういう時代から早く脱却してほしいものです。

 
駿台式!本当の勉強力

一瞬の迷惑が一生分の貢献に

 「他人に迷惑をかけてはいけない」という発想ではなく,「人は他人に迷惑をかけないで生きていける存在ではない」という発想に立ったとき,どんな「行動」「思考」が促せるでしょうか。

 「一瞬の迷惑が一生の,あるいは歴史的な貢献につながっていく」ようなことは想像できるでしょうか。

「100ページの1文」(09/09/08)より

 太子が亡くなると,太子の仏教の先生だった高句麗の高僧,慧慈は,太子のことを,「日本国に聖人あり。天からすばらしい資質をさずかったお方である。奥深い聖なる徳を持ってお生まれになり,人民の苦しみを救われた,まことの大聖であった」と僧たちに語りました。

 もし,あなたがこれまでに読んだことがある伝記や歴史の本から,尊敬できる人を10人あげてください。そして,それぞれの人物から学ぶことができた「価値」について,簡単に説明してください。

 ・・・そんな入試問題が出たらどのように対応すればよいのでしょうか。
 
 もしも道徳が教科化されたとしたら,そんな入試問題が可能になってきます。

 ただし,本人が実感としてもっているものではなく,「想定問答」「模範解答の暗記」などになってしまっていたら,意味がないとも言えます。

 一般には反対が多い道徳の「教科化」ですが,逆に,子どもに聞いてみたらどんなことを答えるのでしょう?

 道徳の時間であなたが学んだ「価値」のうちで,特に印象に残っているものを10個あげ,その理由を説明しなさい・・・。

 
道徳の教科書

返事・挨拶・歌

 しばらく前に,4年に1度,開かれている平成○年卒業生の学年会に参加しました。

 100人を超える出席者がいつもキープできていることはすごいことでしょう。

 前回,教員は私一人でしたが,今回は幹事ががんばって当時の学年主任をはじめ,担任の先生を5人集めることに成功しました。

 いつも話題になるのは,大人になっても大きな声で「返事」をしてしまうくせの話。

 高校入学時にはちょっと浮いてしまったようですが,それで名前を覚えてもらえたり,興味をもってくれて友達が増えたりした効果があったり。

 挨拶は中学のときはちょっと機械的な部分もありましたが,今でも自然な挨拶ができるのが卒業生の魅力です。

 そして,歌。

 私は以前から述べているように,中学校には優秀な音楽の教師が絶対に必要です。

 学年に所属していてくれればなおのこと。

 間違いなくよい学年になります。

 4年たつごとに,元担任の話を真剣に聞くようになってくれているようです・・・とまだ子ども扱い・・・?

 「意味」が分かる歳に成長すると,「哀れな大人」の姿をようやく相対化して理解できるようになっているようです。

 「分からせること」に執着する教育で成功したつもりになっている人に,参加してみてもらいたい楽しい会です。

古くて新しい「大人」と「子ども」の位置関係

 子どものような「大人」と,「大人」のような子どもが増えていることは,「年齢」や「経験」が価値を持たない時代になったということでしょうか・・・?

 「大人」が「苦しい未来」の量が少ない「恵まれた位置」で,「子ども」はその逆に「苦しい未来」の量が多い「損する位置」に立ち続ける存在だとしたら,暗い事件はどんどん起こり続けるのでしょう・・・。

「100ページの1文」(09/09/07)より

 たとえば,子どもの自己決定権ということが議論の対象になるということも,大人と子どもの境界線が揺らいできていることを示すものである。

 大人とは何か?・・・ひきこもりや就職しない大学生たちは,果たして「大人」なのか?

 学校を出て会社に就職し,家を出る・・・このような分かりやすい「自立」が,「めずらしこと」になってしまうと,確かに「大人」と「子ども」の区別は難しくなってしまいます。

 電車やバスの「大人料金」に不満を持っている中高生はそう多くはないかもしれませんが,何かをきっけかに「境界問題」が話題になるとおもしろうそうですね。

 高校を出て社会人になっている人が,20歳になるまでお酒を飲めないのはおかしいとか。

 昔からいろいろ言われてきている(実際は建前とは無関係の実態というものがある)ことが多いのをまとめてみたらどうなるでしょう。

シティズンシップの教育思想

「みんな」が指すのは「だれ」か?

 みんなが得すれば,自分も得する・・・そういう社会をつくるには,どうしたらいいのでしょうか。

 「みんな」が本当の「みんな」なのか,「国民」なのか,「住民」なのか・・・・。

 ゼロサムではなく,プラスサムの発想が社会に行き渡るためには・・・?

「100ページの1文」(09/09/04)より

宗教や国家の名において人間が殺し合うようなことがあってはいけないのです。

 この本の最終章は,「自ら考え,発言・行動を起こそう」です。

 「自ら考える」ために必要なスキルとして,

 論理的に考えること
  
 コミュニケーションの素養
 
 調査する能力

 法律を読む力
 
 社会調査に対する感覚を磨くこと

 メディアの視点

 権力者既得権保持者の視点
 
 公益性を増進する発想

 などを学びます。

 中学校でも,もう少し時数があれば,こんな学習のデザインを考えることができるようになるかもしれませんが・・・。

 
シチズン・リテラシー

Good Luck・・・「憑く」のは何?

 「つきがある」という言い方がありますが,何かが「憑いている」ことで「幸運」であるというのなら,「何が憑くことでどんな幸運があるか」・・・ということで,自分の中でいくつの「神」がつくれるでしょうか。

 また,何人の「神」が必要でしょうか。

 「だれにでも憑くものではない」というのなら,どういう人に「憑く」のでしょうか・・・。

 ・・・・こういう発想は,一神教の人はしないのでしょうか?

「100ページの1文」(09/09/03)より

 しかし,硬貨に「われら神を信ず」と刻んだり,「神がわれわれに英知を与え,アメリカ合衆国を見守って下さるように」と演説を結んだりすることは,フランスではほとんど考えられない。

 我々を守ることもあれば,祟ることもある「」がたくさんいる日本では,あまりも自然な対象であり,・・・というより自然の存在であり,一神教の神とは比べようのないものです。

 一神教の人にとっての悲劇は,「神に見放されること」なのでしょうが,そういう意識を大勢が持つような事態になるのは想像もしたくないことです。

 「復活」を信じ抜いて,勝者になっておごらず,敗者になってもあきらめない信徒であってほしいと希望します。

 
シティズンシップの教育学

親の背中と本棚で育つ子ども?

 子どもに勉強させようと,熱心になる親が増えています。

 一番いい方法は,親が熱心に勉強することである。

 ・・・では,どんな「勉強」が親に向いているのでしょうか・・・?

 それは「子育て」?

「100ページの1文」(09/08/27)より


 一問一答式の暗記カードを作ろうと思っても,理科の場合は文字だけでなく,グラフや図で説明する問題も多いので,小さな単語帳では到底入りきりません。

 なつかしい響き・・・「京大式カード」ですか・・・。

 大人であれば,20年以上も前の本ですが,やはりお薦めはこれ↓ですね・・・。


知的生産の技術

 今度の本は,「苦手科目の偏差値が15UPする驚異の学習法!」だそうです。「苦手」だから「15UP」が可能なのでしょうか?
 ・・・平均点の子どもはこれでトップに上がれるわけですね・・・。

 よく聞くタイプの勉強法が多いですが,実際,なかなかやりきれないのも実情です。

 カード式のまとめも,今は本をミシン目で切り取ってカードにするタイプの本も出版されているように,親切な「大人」たちは「理想」をカタチにしてしまいます。

 ただ,実際に力がつくのは,そういう大人がつくってしまえるものを大人がつくって子どもに与えるのではなく,子どもが苦労してつくることによってです。

 残念ながら,大人には「時間がない」ために,子どもの一人でやりきる「やる気」があってかつできる「能力」のある子どもしか実現できません。こういう子どもの学力は,結局,「上がるべくして上がる」のであり,おそらく本のおかげではないでしょう。

 
図解最強家庭教師軍団の超文房具フル活用術

小学校に回される管理職 ふり返り366日【08/7/31-2】/第105問

 公立学校の管理職のなり手が足りない・・・・。特に小学校です。

 中学校籍の管理職はまだ余っているので、どんどん小学校に回されてしまっているようです。

 教員や施設の管理のノウハウは全く同じなので、経営を苦もなくできるのは当たり前なのでしょうが、小学校で楽をするとなかなか中学校に戻る気力がなくなってしまうという問題も浮上してきそうです。

 小学校籍の教師というのは、「子どもとわいわい楽しくやっていたいから、たいしてうまみがなく、苦労ばかり増える管理職になる人がいないだろう」という言い方をよくするのですが、この発想自体がおそらく中学校籍の教師とのギャップを端的に物語っているものでしょう。

 中学校籍の教師で、「子どもとわいわい楽しく」やっているような人には、間違いなく管理職になる資質はありません。別の言い方をすると、管理職にでもなってもらわないと現場が迷惑している・・・そういうタイプの教師です。

 小学校籍でも、学級崩壊や保護者対応で本当に苦労している人もいるでしょうが、逃げ道が管理職になることであるはずもありません。

 小学校が崩れるのは、組織の問題というより、個々の教師の資質・能力の問題が原因です。ですから組織のリーダーになっても、根本的な問題は解決できません。優秀な教師を獲得できるかどうかが勝負です。副校長・教頭が「代理」で授業をするケースは全国でどのくらいあるのでしょう。

 中学校が崩れるのは、個々の教師の資質・能力の問題ももちろんありますが、組織力でカバーできるのが小学校との違いです。だから組織をコントロールするというやりがいがあるのです。

 小学校全科という仕組みを変えることが、教育の質的向上の第一歩になるかもしれません。
 ある教科の研究に熱心になって、他がおろそかになるという話は有名校でも聞かれる話です。

08/7/31 学校経営者としての5つの悩み  雑誌プレジデントの記事から、経営者が抱いている5つの悩みを学校の教育管理職にあてはめてみると、どういうことが言えるか、考えてみました。 悩み1:管理職としての能力に対する不安  「学校経営についての自分の判断は正しいのだろうか」  「学校経営について自信を失い、校内でも孤独感を募らせているが、その悩みを相談できる人がいない」 悩み2:組織運営に対する不安  「自分の(教育長の)経営理念が校内の教師たちに伝わらない」  「教師たちが主体的に動かない」 悩み3:教育の成果に関する不安  「指導に工夫を加えていっても、なかなか成果があがらない」 悩み4:人材育成に関する悩み  「主任級の人材がいない、育たない」  「異動では優秀な人材が流出し、課題がある教師が入ってくるおそれがある」 悩み5:自分自身の存在意義に対する不安  「この学校の教師たちにとって自分とは何か」  「自分はこの学校のために何ができているのか」

 問題解決は、「問い」からスタートするので、何の不安も抱いていない管理職というのは怪しいわけですが(しかし、特に校長がまとう鎧はかなり強固なものでしょう)、これらの解決のために、その当事者(管理職)以外の人たちにできることとは何でしょうか。
 雑誌記事では、「心の軍師」と呼ぶべき存在、エグゼクティブ・コーチが必要だと説いています。
 校長にとっての「心の軍師」たり得るのは、教育界ではだれでしょうか。
 行政には「指導室長」「教育課長」という教員系の中間管理職がおり、教育長をトップとする教育委員会と現場の校長のパイプ役となっていますが、この人たちは「心の軍師」にふさわしいエグゼクティブ・コーチングのノウハウをもっているでしょうか。
 これは現場の校長に聞くしかありませんが、次のようなことを校長にできる課長は、よほど胆力と実力のある人でないと難しいかもしれません。
 コーチングのポイントは、まずは校長に「自分のなりたい姿」を明確にイメージさせる。
 次に、自分の現状はどうであるかを徹底的に認知させる。
 そして、どのようにしたらギャップを埋められるのか、対話を通してしつこく追求する。
 校長自身の長所はよく分かっているはずなので、それを最大限に引き出せるように、本人に気付かせ、やる気にさせる
 操作主義の心根は捨てて、校長の成功と成長を心から願い、自分がもっている経験や技量を惜しみなく与える(が、おしつけない)。
 校長の人材育成能力、リーダーシップ、コーチング力も、これと同じことです。

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昭和の家庭史トリビア?【第105問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 12月31日、紅白歌合戦の前身となる番組が放送されます。この番組名とは?
 ① 紅白音楽試合
 ② 紅白音楽対戦
 ③ 紅白音楽の戦い

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 【第104問の解答
 ②の16人に1人でした。

「暗記したもの勝ち」を終わらせるのはだれか?

 私の自宅の子ども部屋には,幅が2mくらいあるホワイトボードを壁に縦にして立てかけ,「学習ボード」としています。宿題・学習の一覧表や学校からの配布物をおく場所もあります。

「100ページの1文」(09/08/26)より

 透明ケースにヒモがついているだけのシンプルな作りなので,りっぱな“勉強グッズ”として応用できます。

 さすがにIDカードホルダーを暗記カード入れにしている子どもは見たことがありませんが,本のタイトルがタイトルですから著者もいろいろ考えたのでしょう。

 ビジネス書には,メモの書き方とか,ふせんの利用の仕方などの「役立つ仕事術」に類する本も多く見られますが,受験生向けの情報で1冊の本になるとは意外でした。

 こういう本に「偏差値が確実に10アップする驚異の勉強法!」というキャッチコピーは単なる「お決まり」でつけなければいけないことになっているのでしょうか・・・?
 
 しかし,偏差値60の人向けではない,と断言するわけにもいかないおもしろい工夫が紹介されています。中には,「これ,誰からも教わっていないけど私はやっていた」というのがあるかもしれません。

 私が読んだ印象では,基本的には「暗記もの」対策のための道具活用法です。

 
図解カリスマ家庭教師榎本勝仁の文房具フル活用術

帝国海軍と陸軍による観点別評価の延命

 日本の学校教育における「評価」の改革については,やはり「黒船来航」が必要なのでしょうか。あるいは,「原爆」級のものか。

 観点別評価については,行政は帝国海軍,学校現場の一部は帝国陸軍の発想でまだ「終わり」が見えません。

「100ページの1文」(09/08/15)より

 「どこが悪いのか知らせようともしない」これまでの通知表を克服することがはっきりと打ち出され,家庭に対する説明責任を果たすために目標準拠評価を採用している。

 教育評価と言えば,相対評価絶対評価目標準拠評価),個人内評価自己評価・・・さまざまな評価が実践され,研究され,子どもたちや親に手渡されてきましたが,その研究をすればするほど,教育指導・教育実践の貧しさが際立ってくる,そういう教育の矛盾した面が露呈してしまうのが「教育評価」です。

 教育評価は,指導の改善のためだ,と明言している論者もいるようですが,とすれば柱は評価ではなく,指導です。

 1969年に「通信簿論争」というのがあったそうですが,それをやる前に,毎日の学習をどう見直していくべきかが議論されるべきでした。

 「見えない学力」「測れない学力」への挑戦が続いているようですが,それらはたいてい「見える学力」「測れる学力」が低い子どもたちへの配慮として行われているようなものです。

 評価ではなく励ましで,あるいは自己反省ですむものを,そしてもっと他に使うべき時間をあえてさいて,「評価」に力を入れることが,どんな意味があったのか,残念ながら「教育評価」の歴史には失敗への検証というのがありません。
 「教育評価」に歴史がある・・・と語るほど,その研究に意味があったのかどうか,それが本書を通して最も問われるべきときなのでしょう。

 
人物で綴る戦後教育評価の歴史

自尊感情が育ちにくい子どもを育てる親・教師

 ある道徳の授業で,人を傷付けるマイナスの言葉をどんどん羅列するという指導がありましたが,醜い人間の姿を見るのは心苦しいものです。

 自尊感情を傷付ける言葉とは何か。

 そういう一覧表をつくるのもいいのでしょうが,人間,ついつい身に付けたばかりの新しい語彙・言い回しは使ってみたくなってしまうものです。

 そういう人間の「活用志向」を良い方向で生かすとしたら,「どういう言葉で自尊感情が高まるか」を追究すべきなのでしょう。

 自尊感情が高まる学校生活は,単に「自分は他より優れていること」を意識する場ではなく,「自分が人の役に立っている」「人を喜ばせている」「人に信頼されている」と感じる場面が多いものです。

 ただ,そういうことが感じにくい学校が増えていることは事実のようです。

 また,幼年期に基本的信頼感を育てられなかった子どもの指導も,特に難しいようです。

 最も簡単な自尊感情を高める方法に教師が走っていく結果,自尊感情が育ちにくい子どもを育てる親・教師が増えてしまいました。

「100ページの1文」(09/08/07)より

ところが一部の子どもが自分のQOLを非常に低く評価しています。

 新書版の本は,1ページの文字数が少なくて・・・。 

 QOL(Quality of Life)は,自尊感情尺度として著者が利用しているものです。

 日本の子どもは,世界的に見ても自尊感情が低い・・・そういう認識が親にない(認識が甘い)・・・そういうデータを説明している中での1文でした。

 自尊感情が高すぎる親と,低すぎる子どもの組み合わせが最も不幸だと思われますが,自尊感情が低い子どもの親自身の自尊感情が低いことも,課題になっているといいます。

 また,児童精神科医の立場としては,自尊感情の平均値が低すぎるために,治療を必要とする子どもが見つけにくくなっている・・・そんな課題もあるそうです。

 一つの側面にふりまわされるのはどうかとも思いますが,「自尊感情」というのは,教育現場でも軽く見られない要素かもしれません。

 
日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか

活気のあふれる学校 ふり返り366日【08/7/31】/第104問

 自治体が「活気のあふれる学校づくり」というのを大きなスローガンに掲げたとき、学校はどのような取り組みを優先的に行っていくことになるのでしょうか。

 小学校はそもそも活気があふれていて当たり前なのかもしれませんが・・・・。

 子どもに活気がない・・・子どもらしくない・・・。そういう小学生も最近は少なくないのでは?

 子どもの「元気」「活気」の源はどこにあるのだろう・・・と思われるほど圧倒されている毎日を送る小学校教師には縁のない心配事かもしれません。

 一方、中学校ではそういう元気な姿が逆に家庭の問題を映す鏡になっている場合も多く、油断ができない姿です。

 では、小中学校に共通の問題はどこにあるかと言えば、別に高齢化が主原因だと言いたいわけではありませんが、教師の「活気」です。

 私の母が中学校を選ぼうとするとき、自分の主張の決め手にしたのは、「教師たちに活気がある学校へ通わせたい」というものでした(父の決め手は進学実績です。私の決め手は、授業料でした)。

 2対1で私と母が勝利して進路が開けたわけですが、単なる「活気」ではなく、学問に対する「気迫」に圧倒されることになりました。

 生活指導の気迫なら、普通の中学校でも決して負けていなかったことでしょう。

 ついでに言えば、「遊ぶ」のも真剣という中学校に入ったことも大きな衝撃でした。

 「学び合い」という言葉をキーワードに教育を考えている方の活動を見てみると、「話し合い」等、直接的な関わりを授業等の活動に求める傾向が強いようですが、言葉をかわし合うことのない「学び」があることを体験できたことは幸せでした。

 「学びの活気」が表面的なものに過ぎない学校から脱皮するには、まず教師の目を肥やすことが必要でしょう。

08/7/31 学校の活気はどこから感じられるか?  「学校の活気」はどのようなところから感じられるか。  廊下での挨拶、休み時間の生徒の行動、放課後の部活動・・・さまざまありますが、職員室における教師たちの姿についてはいかがでしょう。  研修会の講師やPTAの役員さんなど、外部の方が職員室に入ってきたとき、すぐ近くにいるのに(挨拶や要件を聞くために)席を立たない教師がいることに心当たりはないでしょうか。  「挨拶のときは、(相手が立っていたらこちらも)席を立つ」という常識が、学校ではあまり定着していないのではないか。そんな問題提起をしている教育ブログを見かけました。   腰を浮かす動作が全くないために、「あっ、そのままでけっこうです。お仕事中に、失礼いたしました」というコメントを言うきっかけ自体がない。実は私もそういう経験をして、いつも違和感を感じていました。  「いやいや、そんな常識は学校には必要ない。学校は私企業、サービス産業ではないのだから」という意見もあるのでしょうが、来校目的を知っているはずの教師たちが、座ったままでしかも無視?しているのは寂しい気持ちがあります。  「教室ではいつも立っているから、職員室というのは座って休むところ」という考え方の教師もいるかもしれません。  「教師はフットワークのよさが勝負」などという言われ方が認知されているとしたら、まず職員室に外部の人が入ってきたら、近くの教師は立って挨拶をする(知り合いだったら遠くても立つ)、という習慣がほしいものですが、いかがでしょうか。

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昭和の家庭史トリビア?【第104問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 『日米会話手帖』という本が大ベストセラーになりました。日本人の何人に1人が買った計算になる?
 ① 8人に1人 
 ② 16人に1人
 ③ 32人に1人

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 【第103問の解答
 ①の350万人でした。

藤田晋の成長学・教師編36 学年集団の情報の管制官

 セオリー№36 ブログの伝播力の高さを活用しよう

 藤田社長は会社でブログ事業を展開しているわけで、いかに使い勝手がよいものをつくるかということに関心を持っていたと思います。

 ただ、今は他社との差別化を図るために、人によっては「なくてもよい」機能が増えて、利用者の棲み分けが進みつつあるようです。

 教師の中には、仕事のことではなく家族のことを中心に・・・つまり、家庭人としての立場でつくっている人もいれば、純粋に教育のことについて私見を述べる人、その経験をもとに過去の職場のことを書く人、リアルタイムで子どもや親への文句を書く人、わざわざ「校長」とか「退職校長」という肩書きで教育とは関係のない話を書く人・・・・など、様々です。

 教師としての自己成長を促すために、「ブログ」とどうつき合っていけばよいのか、自分で「ブログ」を立ち上げるべきかどうか・・・それは、どのような「読者」を想定し、どんなメッセージを送ろうとしているのか、ということと関係があるかもしれませんが、単なる「日記帳」のかわりとして利用することも可能です。

 もし日記帳代わりに使うのであれば、「5年日記」のように、過去の自分と比べることで、自己成長を感じたり、足踏み状態であることに気付いたり、新しい目標を設定したりと、それなりに効果は期待できると思います。

 「ブログの伝播力」を教育の質的向上に結びつけるとしたら、たとえば「家庭学習課題」を定期的に示したり、提出された模範解答を公開したり、それを閲覧していた他校の教師や生徒が相乗りしてくるような実践も面白いかもしれません。
 
 公的なブログとしては、学年の数人の教師が共同で運営し「学年通信」の代わりとするものなども考えられます。若い教師はパソコンに向き合う役割になるでしょうから、これを情報収集の手段として活用することで、「管制官」のような気分が味わえるかもしれません。もちろん情報は教師からだけではなく、生徒たちからも集める必要があります。

公立学校の「排他的教育水域」による不利益 ふり返り366日【08/7/30】/第103問

 狭い道を2~3人が広がって歩き、向かいから人が来ても脇に寄ろうとしない。

 閉まったドアを開けて出て行くグループが、ドアを開けっ放しで去っていく。

 集団で行動するだけで「思いやりを育てることができる」と思っている人はいないでしょうが、集団やグループでの行動がより「他人や他の集団、グループのことを考えない」人間を作りやすくなっていることに気付かない人がいます。

 学校の教師集団も、ほとんどこの仕組みと同じで「排他的教育水域」を保持しています。

 利益を得るのは、教師だけです。

 11月2日号のAERAに、中高一貫校の生活指導の問題点が指摘されていました。

 以前ここでは述べたことですが、中高一貫校の生活指導のベースは高校教育にあります。基本的に「やっとけ」で教師による具体的な指導はあまり想定にありません(特に上位校は)。

 「自主・自立」をスローガンに掲げていること、教師の手がかからないことを学校説明会での売りにしている高校というのは、逆に言えば、「生徒でもっている」ことを露呈しているわけです。

 上位校・中堅校の高校教師のブログを読むと、学力・生活指導の愚痴が両方登場しますが、そこにはほとんど「これこれこういう指導をしているのに効果が上がらない」という話はありません。

 「何でできないのか分からない」ということは、そもそも「どうやって分からせることができるのかを知らない」ということと、「分からない人に分からせようとしても仕方がない、ただ志望の大学に行けないだけだ」という本音がありありと現れています。それがそういう高校教師の「常識」だから仕方がありません。「勉強は各自の能力で各自が取り組むもので(ここまでは常識)、教師はいてもいなくても大差がない」というのが世間の「非常識」であるという自覚はないのです。

 そのことに気付いて私立学校に進学させる道を選びたくなっても、経済的にゆとりがなければ希望は実現できない。

 教師が自分自身の「個人の尊厳」を未来への子どもの「尊厳」に優先させ、世間に背を向けられるシステムは、多額の企業年金にすがりつこうとする企業人と似たところがあります。
 

08/7/30
教育の大前提は覆るか?
 毛利衛が2007年9月4日の日本経済新聞「経済教室」で、科学者の目から経済学を批判する内容の記事(普遍性追求 新たな発想で~「合理的個人」脱却を 地動説的な視点、経済学も~)を書いています。
 
自然科学は、価値観のコペルニクス的な刷新を何度も経験している。経済学の進化が乏しいのは、個人の行動がきまぐれなのに、合理的個人の大前提を墨守しているからのように見える。人類が地球上で相対的な存在であることをかみしめ、経済学も「地動説」的な発想が必要だ。

 以上のような趣旨のことを、教育の世界にあてはまめてみるとどうなるか。
 
 教育の世界の大前提とは何か。
 その中の一つに、広い意味の学力を身に付けることがあることは言うまでもありません。
 そして、その学力の中には、テストで測定することができない「知的好奇心」のようなものが含まれていることも、異論のないことだと思います。
 さらに、子どもたちは、狭い意味でも広い意味でも、その時点での能力の格差はあるにしろ、「勉強はできないよりできる方がよい」という欲求を誰もが持っているもの、という前提がありました。
 これらの大前提が、揺らいだとき、教育はどのような進化をとげる可能性があるのでしょうか。
 これらの大前提が、「天動説」である、という考え方はできないでしょうか。

 そのヒントの一つを、毛利衛が経済学への批判として提供してくれています。

 人類が大きなエネルギーを扱うようになり、空気、水を含む地球資源の限界と人口爆発の下での経済活動に伴う地球環境の破局的な変化を具体的に予測できるほど科学が進んだ現在、従来の経済学を推し進めていく限り、我々の絶滅は早まっていくのみであろう。

 「個人の尊厳」より優先度を高く、重視すべきものはあるのか。あるとしたら何か。
 「持続可能な開発のための教育」実践などから学べることを、考えていきたいと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第103問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 11月1日時点での東京都の人口は?
 ① 350万人
 ② 500万人
 ③ 750万人

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 【第102問の解答
 ②のイギリス。バーチェットさんでした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より