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活気のあふれる学校 ふり返り366日【08/7/31】/第104問

 自治体が「活気のあふれる学校づくり」というのを大きなスローガンに掲げたとき、学校はどのような取り組みを優先的に行っていくことになるのでしょうか。

 小学校はそもそも活気があふれていて当たり前なのかもしれませんが・・・・。

 子どもに活気がない・・・子どもらしくない・・・。そういう小学生も最近は少なくないのでは?

 子どもの「元気」「活気」の源はどこにあるのだろう・・・と思われるほど圧倒されている毎日を送る小学校教師には縁のない心配事かもしれません。

 一方、中学校ではそういう元気な姿が逆に家庭の問題を映す鏡になっている場合も多く、油断ができない姿です。

 では、小中学校に共通の問題はどこにあるかと言えば、別に高齢化が主原因だと言いたいわけではありませんが、教師の「活気」です。

 私の母が中学校を選ぼうとするとき、自分の主張の決め手にしたのは、「教師たちに活気がある学校へ通わせたい」というものでした(父の決め手は進学実績です。私の決め手は、授業料でした)。

 2対1で私と母が勝利して進路が開けたわけですが、単なる「活気」ではなく、学問に対する「気迫」に圧倒されることになりました。

 生活指導の気迫なら、普通の中学校でも決して負けていなかったことでしょう。

 ついでに言えば、「遊ぶ」のも真剣という中学校に入ったことも大きな衝撃でした。

 「学び合い」という言葉をキーワードに教育を考えている方の活動を見てみると、「話し合い」等、直接的な関わりを授業等の活動に求める傾向が強いようですが、言葉をかわし合うことのない「学び」があることを体験できたことは幸せでした。

 「学びの活気」が表面的なものに過ぎない学校から脱皮するには、まず教師の目を肥やすことが必要でしょう。

08/7/31 学校の活気はどこから感じられるか?  「学校の活気」はどのようなところから感じられるか。  廊下での挨拶、休み時間の生徒の行動、放課後の部活動・・・さまざまありますが、職員室における教師たちの姿についてはいかがでしょう。  研修会の講師やPTAの役員さんなど、外部の方が職員室に入ってきたとき、すぐ近くにいるのに(挨拶や要件を聞くために)席を立たない教師がいることに心当たりはないでしょうか。  「挨拶のときは、(相手が立っていたらこちらも)席を立つ」という常識が、学校ではあまり定着していないのではないか。そんな問題提起をしている教育ブログを見かけました。   腰を浮かす動作が全くないために、「あっ、そのままでけっこうです。お仕事中に、失礼いたしました」というコメントを言うきっかけ自体がない。実は私もそういう経験をして、いつも違和感を感じていました。  「いやいや、そんな常識は学校には必要ない。学校は私企業、サービス産業ではないのだから」という意見もあるのでしょうが、来校目的を知っているはずの教師たちが、座ったままでしかも無視?しているのは寂しい気持ちがあります。  「教室ではいつも立っているから、職員室というのは座って休むところ」という考え方の教師もいるかもしれません。  「教師はフットワークのよさが勝負」などという言われ方が認知されているとしたら、まず職員室に外部の人が入ってきたら、近くの教師は立って挨拶をする(知り合いだったら遠くても立つ)、という習慣がほしいものですが、いかがでしょうか。

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昭和の家庭史トリビア?【第104問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 『日米会話手帖』という本が大ベストセラーになりました。日本人の何人に1人が買った計算になる?
 ① 8人に1人 
 ② 16人に1人
 ③ 32人に1人

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 【第103問の解答
 ①の350万人でした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より