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公立学校の「排他的教育水域」による不利益 ふり返り366日【08/7/30】/第103問

 狭い道を2~3人が広がって歩き、向かいから人が来ても脇に寄ろうとしない。

 閉まったドアを開けて出て行くグループが、ドアを開けっ放しで去っていく。

 集団で行動するだけで「思いやりを育てることができる」と思っている人はいないでしょうが、集団やグループでの行動がより「他人や他の集団、グループのことを考えない」人間を作りやすくなっていることに気付かない人がいます。

 学校の教師集団も、ほとんどこの仕組みと同じで「排他的教育水域」を保持しています。

 利益を得るのは、教師だけです。

 11月2日号のAERAに、中高一貫校の生活指導の問題点が指摘されていました。

 以前ここでは述べたことですが、中高一貫校の生活指導のベースは高校教育にあります。基本的に「やっとけ」で教師による具体的な指導はあまり想定にありません(特に上位校は)。

 「自主・自立」をスローガンに掲げていること、教師の手がかからないことを学校説明会での売りにしている高校というのは、逆に言えば、「生徒でもっている」ことを露呈しているわけです。

 上位校・中堅校の高校教師のブログを読むと、学力・生活指導の愚痴が両方登場しますが、そこにはほとんど「これこれこういう指導をしているのに効果が上がらない」という話はありません。

 「何でできないのか分からない」ということは、そもそも「どうやって分からせることができるのかを知らない」ということと、「分からない人に分からせようとしても仕方がない、ただ志望の大学に行けないだけだ」という本音がありありと現れています。それがそういう高校教師の「常識」だから仕方がありません。「勉強は各自の能力で各自が取り組むもので(ここまでは常識)、教師はいてもいなくても大差がない」というのが世間の「非常識」であるという自覚はないのです。

 そのことに気付いて私立学校に進学させる道を選びたくなっても、経済的にゆとりがなければ希望は実現できない。

 教師が自分自身の「個人の尊厳」を未来への子どもの「尊厳」に優先させ、世間に背を向けられるシステムは、多額の企業年金にすがりつこうとする企業人と似たところがあります。
 

08/7/30
教育の大前提は覆るか?
 毛利衛が2007年9月4日の日本経済新聞「経済教室」で、科学者の目から経済学を批判する内容の記事(普遍性追求 新たな発想で~「合理的個人」脱却を 地動説的な視点、経済学も~)を書いています。
 
自然科学は、価値観のコペルニクス的な刷新を何度も経験している。経済学の進化が乏しいのは、個人の行動がきまぐれなのに、合理的個人の大前提を墨守しているからのように見える。人類が地球上で相対的な存在であることをかみしめ、経済学も「地動説」的な発想が必要だ。

 以上のような趣旨のことを、教育の世界にあてはまめてみるとどうなるか。
 
 教育の世界の大前提とは何か。
 その中の一つに、広い意味の学力を身に付けることがあることは言うまでもありません。
 そして、その学力の中には、テストで測定することができない「知的好奇心」のようなものが含まれていることも、異論のないことだと思います。
 さらに、子どもたちは、狭い意味でも広い意味でも、その時点での能力の格差はあるにしろ、「勉強はできないよりできる方がよい」という欲求を誰もが持っているもの、という前提がありました。
 これらの大前提が、揺らいだとき、教育はどのような進化をとげる可能性があるのでしょうか。
 これらの大前提が、「天動説」である、という考え方はできないでしょうか。

 そのヒントの一つを、毛利衛が経済学への批判として提供してくれています。

 人類が大きなエネルギーを扱うようになり、空気、水を含む地球資源の限界と人口爆発の下での経済活動に伴う地球環境の破局的な変化を具体的に予測できるほど科学が進んだ現在、従来の経済学を推し進めていく限り、我々の絶滅は早まっていくのみであろう。

 「個人の尊厳」より優先度を高く、重視すべきものはあるのか。あるとしたら何か。
 「持続可能な開発のための教育」実践などから学べることを、考えていきたいと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第103問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 11月1日時点での東京都の人口は?
 ① 350万人
 ② 500万人
 ③ 750万人

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 【第102問の解答
 ②のイギリス。バーチェットさんでした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
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  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より