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「興味がない→できない」は正しい仮説?

 中学受験をさせる親が陥る錯覚で最近多いのが、「うちの子ができないのは、その勉強に興味を感じないからだ」というものです。

 これは、たとえば「興味をもって勉強した範囲のテスト」は良い点を取り、そうでないときのテストでは点が悪い・・・・そういう経験がベースになっているのかもしれません。

 残念ながら、全員の子どもがすべての教科・単元に興味をもてるようになるとは考えられません。

 まずそれが第一ステップ。

 第二ステップは、「自分の子どもの力を過信しない」こと。

 気の毒なことを申し上げれば、興味を持てば全員の子どもが同じようにできるようになるとは思えません。

 「関心意欲態度」がAで、他がCなんていう評価も事実上はあり得るかもしれませんが、この結果を54321で何にするのか、議論するのは時間の無駄です。

 「興味を持てば」的な発想が、今の歪んだ観点別評価を生み、存続させてしまっています。

 教師の側に「興味を持たせる」ような努力があるのは当然ですが、だからと言ってすべての子どもがすべての内容に興味を持つとは限りません。

 ごく一部の保護者は、「すべてではない」ことはわかっていながらも、「自分の子どもがそこからはずれている」可能性がある、ということを信じようとしません。

 「どんなことにでも興味を持てるようになる」ことも学力の一つでしょうが、それは逆に行動が制約されたりして不便なことも増える可能性があるわけで、多少、「ダメ」な教科・科目・単元があっても仕方がない、と腹をくくれる人は・・・・結局、少ないかもしれませんね・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より