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2009年10月

何でもありの学校と何にもなしの地方教育行政 ふり返り366日【08/7/29-2】/第102問

 厳しい学校では、「教育的に」という言葉で「何でもあり」の状況が生まれ、一方の人材のいない自治体では、「教育的」と呼ぶにはほど遠い「何にもなし」の状況が生まれています。

 「何でもあり」も「何にもなし」も、子どもの教育の未来を照らす光のない、暗くつらく苦しいだけの現場を生んでしまいます。

 どこかに「うまくいっている」ことを自慢したがるブログがありますが、教育行政の実態をよく調べてみて下さい。何もわかっていないことは、管理職の職務に関する記述(の内容やそれ自体が皆無であること)でみんなばれてしまいます。

 文科省は昔と比べると随分風通しがよくなったように思えますが、やがて自分から風を起こそうとする勢力が周囲から担ぎ出されることになるでしょう。

 しかし、それを許してしまうのは、今の学校現場と地方教育行政の質に他なりません。

08/7/29 「ピークアウト」しない教師であるために  成果主義への反発は、「評価者への不信」と「守りの気持ち」から生まれると言います。  「評価者への不信」は、よほど管理職が人間として尊敬に値するか、人から好かれるタイプでないと、なかなか払拭するのは難しい。評価プロセスをオープンなものにすることで、信頼性を高める工夫ができますが、「嫌いな人」からの評価にはどうしても拒否反応が出てしまいます。  一方、「守りの気持ち」は、「自らがピークアウトしたと、うすうす感じている場合」に現れるものです(柴田励司著『「仕事力」のある人、ない人』PHP研究所)。  自分の実力に課題があること、その力がピークアウトしていることを、人はなかなか認めにくい。  スポーツ選手の場合には、数字がすべてを物語るわけで、「引退」のタイミングだけの問題ですが、教師の場合は、基本的に毎年給料が上がっていってしまうのに、いつか「もう自分もこの程度どまりだな」と思っていまう時期が来る人がいる。  学習すること、成長することへの意欲を失う人間になりがちなのは、教育現場の特殊な事情も背景にあります。  前掲書には、次のような話が紹介されています。  
ピークアウトは年齢的なものよりも「同じ仕事を同じ環境下で長く続けてしまう」ことで起きます。だから、「学習しなくてもなんとかなってしまう」ところに、長くいてはいけないのです。  ・・・多くの人は慣れてくると、その「楽な環境」をエンジョイしてしまい、気がつかないうちにピークアウト状態になってしまうものです。そこに、新たなリーダーによる新しい方針が出てくると、たちまち「守り」モードに入ってしまいます。悪意なく、組織の進化の足かせになります。
   今は教務主任や生活指導主任などは主幹職がつくようになっているのでだれでもはできませんが、たとえば「学年主任」になったことがないベテラン教師。  行事主任を一度もつとめたことがない教師。  研究大会等で発表をしたことが一度もない教師。  担任をもたない教師。  これらの教師の中にも、リーダーのフォローを中心に重要な役割を果たしている人がいるかもしれませんが、「いつもと違う環境」で仕事をしないと、人は「守り」モードに入りやすい。  そういう意味では「異動」は大切ですが、「異動先」でも同じようなサイクルで生活していては意味がありません。  能力開発型の人事考課は、教師を「ピークアウト状態(学習し成長する意欲を喪失した状態)」におかないためにも大きな意義を果たすことができそうです。  人事考課では評価も意識するのは仕方がないとしても、主眼はあくまでも自分の新たな目標設定であり、その目標の実現に向けての実践であり、成果と課題を見極めてさらに課題を修正したり新たな課題を発見するそのプロセスです。  このプロセスを失わない限り、教師(だけとは限りませんが)に「ピークアウト」は訪れません。    学校現場では、管理職のピークアウトは許されるのでしょうか。  それが許される現場では、学校経営や人事考課がうまくいかないのは目に見えています。

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昭和の家庭史トリビア?【第102問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 9月3日に広島の惨状を取材し、「ノー・モア・ヒロシマ」と打電した記者はどの国の人?
 ① アメリカ
 ② イギリス
 ③ ソ連

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 【第101問の解答
 ①の75人でした。大阪では8月60人、9月67人、10月69人でした。

教育の地方分権のとっかかり ふり返り366日【08/7/29】/第101問

 教師の発問を「えさ」と表現するのはえげつないですが、まるでまいた「えさ」に群がる「さかな」のように「ハイ!ハイ!」と手を挙げて指名を待つような教室の風景は、中学校ではさすがに見られないものでしょう。

 小学校では、このような「態度」を「学習意欲」とか「興味・関心」の枠で捉えて、評価の対象にしているところがあるようです。

 観点別評価が、いかに理解されていないかを知るのにかっこうの題材です。

 中学校での「関心・意欲・態度」の評価はよく、「がんばっているけどテストで点が取れない生徒」を救済するための観点だと捉えられることもあります。

 目標準拠評価ではないことを暴露しているわけでもありますが、高校の指導困難校などでは、生徒は「まじめに授業を受けてくれればそれでいい」という事情もあり、わざとこの観点の比重を重くした入学選抜を実施したりするなど、ニーズに合っているという面もあります。

 評価の扱いについては、もう地方分権の流れに乗せていくのが自然だという感覚をもっています。

 評価の規準・基準、評価方法に関する資料は、都道府県別に作成します。
 指導要録も、基本的に都道府県がその書式等を作成することにします。
 理由は、たとえば公立学校の入学選抜を実施している主体がそこにあるからです。
 中・高の進学の連絡をしっかり果たす義務は、都道府県にあります。
 
 評価方法の具体的な事例にしろ、入学選抜問題の事例にしろ、どんどん都道府県が発信して、お互いに競い合うことが日本全体の学力底上げにも結びつくでしょう。

08/7/29 「おバカタレント」の活躍と教育の問題  学力低下報道キャンペーンが一巡して、その問題への対応として授業時数の増加などを盛り込んだ新しい学習指導要領が告示されたタイミングと、「おバカタレント」ブームの盛り上がりが同一であることに、教育関係者である自分としてはどうしても注目せざるを得ません。

 「おバカタレント」たちは、クイズの解答者という立場から、さらに多方面へ活動範囲を広げています。

 Geogle検索で「おバカタレント」上位のページを調べてみると、

 ウィキペディアではその「元祖」から現在のタレントの特徴までよく分析された結果が示されています(「中立性を担保されていない、出典不明で正確性を欠く独自研究的な記述となっているため、修正・推敲」が求めているようですが・・・)。

 livedoor リサーチでは、このようなタレントをどう思うか?というアンケートに対しては、
興味がない」(23%)を除いた答えとして、
本当はおバカではなく、そういったキャラクターを装っているだけだと思う」(15%)、
好感は持てるが、おバカキャラなタレントがもてやはされている現状については疑問に思う」(14%)
というやや否定的な回答が上位になっているようです。

 Yahoo知恵袋では、具体的な意見や憶測が書き込みされています。
 他にも、実際に「おバカタレント」に会って話をした方が、
 「本当に会話が成り立たなくて驚いた
 「しかしこの人が意外なほど高額な報酬をもらっていることを子どもたちが知ったら、まじめに勉強する気が失せるのではないか」などとも書かれています。

 「視聴者が珍解答に優越感を感じられること」が「好感度」の最大の原因だという意見もあれば、
 「うさんくさい
 「難しい問題を答えてもすごいね、で終わるより、こいつバカだなで笑いを取るほうが受けるということでしょうかね。でもいずれは必ずマンネリ化してくる(はず)」という見解もありました。

 いずれにせよ、20%もの高視聴率を稼ぐ番組の中心的存在(司会者の力も当然必要ではありますが)である「おバカタレント」の命は、予測がつかない「珍解答」を反射的に堂々と答え、かつ、それをいじられることへの不快感を感じさせない爽快さ?「天然色」です。
 「成績優秀者」をたたえるようなクイズ番組が飽きられて、「珍解答・間違った解答」に大きな価値が与えられることへ転換したことを、教育現場ではどのように捉えればよいのか。
 
 計算してもってきたような自分の話で申し訳ありませんが、以前、「勉強に興味を持てない子を授業で生かすにはどうしたらいいか」という質問に、「どういう形でもとにかく生かすことが必要」という話から、過去の経験として、「珍解答」を最初に披露させ、いわゆるムードメーカーにしていくことが手っ取り早い、しかし、後で「いじり」「いじめ」の対象になりやすいので注意が必要、などというアドバイスをしたことがありました。
 そんな「天然色」を持ち、堂々と発言できる子どもたちばかりではないでしょう、というのも確かですが、「間違った答えでも発言する権利はあるし、他の人が考えるヒントを導く間違いというのもあるから、どんどん発言しよう」というムードをつくることは大事です。

 このようにプラスの面で捉えることもできるのですが、懸念がないわけではありません。
 それが、「学力(測定可能な学力という意味です)下層グループの釘付け効果」という問題です。

 これまでは、「学力が低い」というのは自己評価を下げる要因になっていたのが、今ではそれがプラス評価に結びつこうとしています
 「人間の価値はテストの点数で決まるものではないのだから、テストで高い点数をとれるように努力する必要はない」という発想が見られるようになってきました。

 さすがに心の中では「でも点数は高い方がいい」と感じていると思いきや、心底から「そんな必要はない」「ゲームをして楽しんでいる自分が本当の自分で、机に向かって勉強するなどという偽りの自分を演じない本当に合理的な存在だ」という自己肯定感をもっている子どもが表れている。そういう気がしてなりません。
 「人に迷惑をかけなれければ自分はどうあってもかまわない」という新自由主義の影響かもしれません。

 大人としても、「そういう生き方はいいなあ」というのは感じないでもないですが、だからといって「学習も仕事もしなくていいよね」というわけにはいきません。
 「社会的責任」の自覚がしにくくなっている子どもの存在が、今後、大きな課題として問われてくるのではないか。
 そんな危惧を抱いています。
 「おバカタレント」は、場を盛り上げるムードメーカーとしては素晴らしい資質をもっていると考えられますが、その役割だけに特化した生き方は難しい・・・・それが、タレントの活動範囲の拡大(視聴率稼ぎに利用されているという見方もできるのでしょうが)からもわかる・・・という気がします。
 
 「笑える非常識」が「笑えない非常識」に転換するときが、いつか。
 「笑える非常識」の世界から抜け出す必要を感じるタイミング、実際に抜け出すタイミングは、いつか。
 ・・・もちろん「常識を疑う」姿勢も大事です。しかし、当然ながら、「非常識」を疑う姿勢も同時に必要でしょう。
 メディアの世界との駆け引きが、教育の世界には強く求められていると考えています。

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昭和の家庭史トリビア?【第101問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 10月の上野駅の餓死者は何人いたでしょうか。
 ① 75人 
 ② 750人
 ③ 7500人

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 【第100問の解答
 ②の10万円でした。空くじ4枚でタバコ10本と交換もできました。

日本軍と教師の共通点 ふり返り366日【08/7/27-2】/第100問

 学力不足を「興味がない」ことを根拠に、「興味がわけば学力は上がる」と信じ込んでいる保護者がいる一方、子どもが「興味がないことはやらない」という合理的な行動をとっていることを褒め称え、学力は低くても、そういう合理的な行動をとっていることへの優越性を「柱」にしている保護者もいます。

 教師としては、その「」だけで何とかもっている子どもからはしごを外すのをはばかって、自滅を待つだけ、という指導姿勢を容認できるかどうか・・・。

 「興味」というのは、教育者にとっては非常にやっかいなものの一つです。

 そもそも、学習に「興味」を持たせること自体に絶望している教師も多いわけで・・・。

 石原都知事などはかなり割り切った発言をしてきていますが、国がそれにならうことは不可能です。

 あくまでも「関心・意欲・態度」など、4観点による評価にこだわる状況は・・・・「アメリカには勝てない」と言い切れなかった海軍、「絶対に勝つ」という気合いしかなかった陸軍の末期と同じような印象をもってしまいますが・・・・。

08/7/27 学習意欲低下に拍車をかけている?言葉  「人間の価値は学校のテストなんかの点数ではかることはできない」  という言葉に対して、否定的な印象を受ける人は少数派でしょう。  しかし、もしこのような言葉が、学力の低下に拍車をかけているとしたら、どう思われるでしょうか。  教育社会学者は、「自らの学力の不足に対して、無意味な努力をしないという合理的な判断をしている自分への満足感の根拠としている子どもたち」の増加を統計データで示しています。  人間の価値は学校のテストなんかの点数ではかることはできない・・・だから、テストの点数を上げる必要はない・・・このような思考回路が、おそらくは「努力してもできるようにならない」「努力したくない」と思っている子どもたちの心を安定化させる装置になっており、それはいずれ「うまく働くことができない若者たち」へと「成長」していく背景にもなっているのではないでしょうか。

 昔から、「先生は、勉強ができない子どもの気持ちがわかるんですか?」という言葉がよく使われています。
 この発想は、現代的に言えば、「格差社会の本質と構造についての洞察は、格差社会の最底辺にいる人間がもっとも深い」というロジックと同じ(内田樹著『こんな日本でよかったね~構造主義的日本論~』バジリコ株式会社)です。

 「お前は格差社会の実情を知らないが、私は知っている」という「知的優越」のポジションを検証抜きで前提にしている。

 学力の課題や格差社会への批判的な態度は、下位にとどまっていることで担保されるため、学力向上、階層の上昇のチャンスを自ら手放してしまっていることになります。
 もし教師が、「勉強ができない子どもの気持ち(私には、「勉強ができるようになりたい!」という強い叫びに聞こえてしまいますが)」を読み誤り、できる方へと勇気づける指導ができずに、「他のことでがんばればよい」というだけの態度をとれば、学習意欲の低下に拍車がかかってしまう、こんな仮説を立ててみましたが、いかがでしょうか。

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昭和の家庭史トリビア?【第100問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 10月29日に第1回宝くじが発売されました。1等(当選は100本)の賞金はいくらだったでしょうか。
 ① 1万円
 ② 10万円
 ③ 100万円

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 【第99問の解答
 ②の5キログラムでした。

藤田晋の成長学・教師編35 メールと板書

 セオリー№35 メールを書く能力は会話力と同じくらい重要

 若い人にとって、メールなんて楽勝・・・という考え方もあるでしょうが、要は、必要な情報を過不足なく、見やすく、分かりやすく伝達することが大事で、教師にとっては「板書」のイメージでしょうか。

 将来的には、子どもにもメールで課題を提出させて評価するシステムができあがるかもしれません。

 評価の簡素化・効率化が課題となっていますが、多大なデータをコンピュータ処理できることがその必須条件でしょう。

 学校の教師に個人端末が配付されるのは時間の問題ですから、その流れを教育全体に広げてもらいたいものです。

アスペルガー差別とその救済 ふり返り366日【08/7/27】/第99問

 今から10年とか20年前に、「空気が読めない人」というのはどういう扱いを受けていたのでしょうか?

 大人社会の中では、「この人、マイペースだな」「常識ないな」程度で、大きく問題化することは少なかったのかもしれませんが・・・。

 「空気を読め!」という圧力をかけることは、人間社会にとってプラスなのでしょうか、マイナスなのでしょうか・・・。

 規則違反をしている小中学生にその理由を聞くとよく返ってくる答えが、「みんなやってるから」というもの。

 問題行動にも同調性圧力が加わるのはどの国にも共通してみられる現象なのでしょうか?

 「空気が読めない人」が映画やドラマに登場するのは、どの国にも見られる現象でしょうか?

 問題は、「空気が読めないこと」ではなく、「空気を読もうとしない」ことなのかもしれません。

 アスペルガー症候群の子どもたち・大人たちへの支援・対処法は確立されていないようですが、それで苦しんでいる人、苦しまされている人の問題が、大きく取り扱われる日が来るのはそう遠くないでしょう。負担が取り除かれることは可能なのでしょうか?

08/7/27 非常識な人が生まれる原因  さまざまな職場で「常識が通用しなくなった」「非常識な人が増えた」という声がよく聞かれます。  教育の現場では、もともと常識がない(机上整理をしないなど)部分もありますが、子どもや保護者の非常識さの陰に隠れて、教師の非常識さが目立たないという問題も大きい。  子どもや保護者には遅れがちな提出物の催促をする一方で、自分の事務処理は遅い・・・(いつまでたっても指導要録に手をつけないなど)。  ジャージにリュックサックという出で立ちで通勤するくらいなら問題はない?のかもしれませんが、学校に入って一番感じるのが、「挨拶ができない」「挨拶をしない」ことでしょうか。  民間企業より、新人教育などで弱い面が、そのあたりに顕著に表れてくるのでしょう。

 ・・・さて、ここでは教育の世界を少し離れて、ノンフィクション作家の野村進が著書「調べる技術・書く技術」(講談社現代新書)で紹介している「若い世代に受け継がれていないのではないか」と危惧を覚える取材と執筆のルールとその常識をとりあげてみたいと思います。

 ~取材編~
○インタビューを申し込んでおきながら遅刻する。
○取材前の資料読みをきちんとこなしてきた形跡がない。
○無断でいきなり録音機器のスイッチを入れる。
○貸した資料をなかなか返却しない(ひどいのになると紛失する)。
○こちらが発言していない事柄を会話体で記す。
○すでに公表されている事実を、そも自分が発見したかのように書く。
○掲載紙誌を送ってこない。

 ~編集者編~
○原稿を送付したのに何の連絡もしてこない。

 子どもたちのネット上でのコミュニティーでは同じようなマナー・ルール違反がおこり、トラブルの原因になっているな・・・と思い当たるものもいくつかありました。
 相手を尊重する念というか、時間をさいてもらって申し訳ない、という気持ちが、「その分の報酬を払ってるんだからいいだろう」という考え方によって、相手に伝わらない、そういうことでしょうか。
 それとも、自分の思い通りに相手が反応するのが当たり前、という思考回路をもっているのは、ゲーム世代の影響でしょうか。
 幸い私は、仕事をしやすい編集者の方々ばかりとしかおつきあいしていませんが、中には依頼状だけ送ってきて、「何卒」などとある紙だけで書かせようとする殿様商売の出版社もあります。
 他にいくらでも書ける人がいるので当然全部断ってしまいます。

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昭和の家庭史トリビア?【第99問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 人間の小便から塩をとる方法で、1人年間何キログラムの塩がとれると想定されたのでしょうか。
 ① 1キログラム
 ② 5キログラム
 ③ 50キログラム

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 【第98問の解答
 ②の「人間の小便」でした。

エキをヤクとしてこなす子どもの自壊 ふり返り366日【08/7/26】/第98問

 ものの見事に「」と「」の関係での「役割意識」をもって「役づくり」に励んでいる子どもがいます。

 こういう子どもには「三者面談」などでよく騙されます。

 「エキ」(役)を「ヤク」(役)としてこなすパワーとストレスは、相当なものであり、「伸びきったゴム」と言われるように、上級学校(高校や大学)では「堂々と勉強嫌い」を名乗れる強者に育てる可能性も考えられます。

 今の親子関係で子どもにとって不幸なのは、「」不在・「イエ」重視の役割意識をもった「」の過剰な「役割意識」がひたすら「」を責め続けるという図式です。

 「合格したら、何でも買ってあげる」

 「合格したら、もう勉強で苦しむ必要はない」

 「合格したら、どこどこへ連れて行ってあげる」

 ・・・そういうことを子どもに言っている親は、客観的にご自分を見つめていただければ・・・。

08/7/26 子ども・教師の役割意識について  「いずれ記事にしたい」と申し上げていたことが、最近参加した授業研究のテーマに関連していたので、ここにまとめようと思います。  授業では、徳川家康の命令によって、外様大名が江戸城の増築に必要な巨石を運ぶのですが、競い合うように船で運び込もうとしている、これはなぜか、ということがテーマになっていました。  同時に、「社会科好きの子どもをどう育てるか」ということも主題になっていました。  授業中に、熱心に発表する子どももいれば、それを聞いているだけの子どももいます。  私の見方では、熱心に石を運ぶ大名も、発表しようとする子どもも、似たようなねらい、理由があるわけです。  それは、家康や先生に気に入られる、ということもあるでしょうが、大事なのは「能力に応じた仕事をする」という意思がある、ということです。

 「仕事の報酬」とは何か、と聞いたら、子どもなら何と答えるでしょう。
 大人になってからのことではなく、今の自分の場合です。
 当然、「お金」ではありません。
 では、「先生からの評価」か。「ほめられること」か。
 私は、子どもたちに対して、「仕事(=授業なら、学習活動)の報酬は、能力の向上、作品、自分の成長の3つだ」と教えたい(実感してもらいたい)と常々考えています(田坂広志の本の受け売りですが)。
 大人になると、仕事をすればお金がもらえるので、お金を報酬と考えるのが普通になってしまいます(人事考課もそこがネックです)が、その問題点についてはここではふれません。
 その邪魔が、子ども時代にはない(お小遣いを増やしたり、ご褒美を買ってあげたりしてしまう邪魔は入りますが)。そこを生かして、ぜひ自分の成長自体を「ご褒美」と感じられる経験を持たせてあげたいのです。
 
 話を戻すと、外様大名たちは、石高に応じた加役を果たすために石を運ぶのですが、その石が、それぞれの藩の「作品」=仕事として残るわけです。メンツの問題もあります。
 ここが、我先に、と発言したがる子どもによく似ています。
 輸送・運搬能力や築城技術の向上というねらい、大坂城より大きな城をつくるという幕府の「権威」を示すねらい、軍令違反に改易などで対処し、法令遵守を徹底したいというねらい、外様大名の経済力をそぐことなど、幕府側の目的も果たされる一方で、大名は大名なりに一生懸命はたらく。
 このことを、「役(やく)」という観念に注目して近世社会の特色として示したのが尾藤正英でした(「江戸時代とはなにか」(岩波現代文庫)参照)。
 「」は、「労役」「苦役」のように、「エキ」として読む用法がありますが、「ヤク」と読む場合は、社会の中で個人が担当する役割と、その役割にともなう責任とを合わせた意味として用います。
 「石高に応じた加役」の「加役」は、「カエキ」ではなく「カヤク」と読みます。 

 ・・・石高は、武士にとっては軍事上・行政上の「役」を負担するために必要な経済的基礎の量を、また農民にとっては貢租と夫役という「役」の負担の量を、それぞれ算出するための数量的な基準であり、しかもそれは全国に統一的に設定されたという意味で、国家的な基準であっといえる。(前述の書より)

 尾藤正英は、「役」の体系としての社会の組織を作り上げることによって、270年近くの平和の持続を可能にしたという説を述べています。
 
 子どもたちが、「ここからここまで次の時間までに読んでおきなさい」と教師から指示を受けたとします。
 これを、「役(ヤク)」と捉えるか、「役(エキ)」と捉えるかが、学習が好きになっているかどうかの違いになります。
 ヤクと捉えている子どもは、しっかり予習し、授業では、学んだことを生かして発言するという役割が果たせます。
 エキと捉えている子どもも、読んでくれば質問には対応できるでしょうが、やはり苦痛な課題になってしまっているのでしょう。
 子どもだけでなく、このようなことは教師や保護者にもあてはまります。
 ヤクなのか、エキなのか。
 教師の役割とは何か? 保護者では?
 私の危惧は、それぞれの「役割意識」がおろそかになってはいないか、ということです。
 「社会科好きの子どもを育てる」には、授業中、発言する機会のない、本当に興味もわかない子どもを放っておくのではなく、何らかの「役割」を与えていくべきだと私は考えています。
 「とぼけたことを言ってみんなを笑わせること」が役割だと割り切っている子どももいます。それはそれでいいのでしょう。
 「だまっておとなしくして(耐えて?)いれば無事に(?)授業が終わる」ような環境はつくるべきではありません。
 子どもにとっては、学習をして能力を高めることが社会の中で果たすべき役割である。
 その報酬は、自らの成長である。
 そういうことを堂々と言える環境を広げていきたいと考えています。

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昭和の家庭史トリビア?【第98問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 砂糖の欠乏とともに、塩もなくなってしまい、政府はこの窮乏を乗り切るため、「自給製塩運動」を開始しました。塩をつくる方法のうち、敗戦間際の7月7日付「京都新聞」で紹介された塩の原料は?
 ① 動物の死体
 ② 人間の小便
 ③ 雑草

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 【第97問の解答
 ②の血液でした。全国の屠場で血液を集めて乾燥血液を作り、これをカゼインの代用として利用することが決定しましたが、実際には中止されました。

「興味がない→できない」は正しい仮説?

 中学受験をさせる親が陥る錯覚で最近多いのが、「うちの子ができないのは、その勉強に興味を感じないからだ」というものです。

 これは、たとえば「興味をもって勉強した範囲のテスト」は良い点を取り、そうでないときのテストでは点が悪い・・・・そういう経験がベースになっているのかもしれません。

 残念ながら、全員の子どもがすべての教科・単元に興味をもてるようになるとは考えられません。

 まずそれが第一ステップ。

 第二ステップは、「自分の子どもの力を過信しない」こと。

 気の毒なことを申し上げれば、興味を持てば全員の子どもが同じようにできるようになるとは思えません。

 「関心意欲態度」がAで、他がCなんていう評価も事実上はあり得るかもしれませんが、この結果を54321で何にするのか、議論するのは時間の無駄です。

 「興味を持てば」的な発想が、今の歪んだ観点別評価を生み、存続させてしまっています。

 教師の側に「興味を持たせる」ような努力があるのは当然ですが、だからと言ってすべての子どもがすべての内容に興味を持つとは限りません。

 ごく一部の保護者は、「すべてではない」ことはわかっていながらも、「自分の子どもがそこからはずれている」可能性がある、ということを信じようとしません。

 「どんなことにでも興味を持てるようになる」ことも学力の一つでしょうが、それは逆に行動が制約されたりして不便なことも増える可能性があるわけで、多少、「ダメ」な教科・科目・単元があっても仕方がない、と腹をくくれる人は・・・・結局、少ないかもしれませんね・・・。

藤田晋の成長学・教師編34 笑顔を読めて笑顔で語れる教師

 セオリー№34 コミュニケーション能力は笑顔で分かる

 子どもの笑顔というのは、教師にとっては「栄養剤・強壮剤」のようなものです。

 もらうだけもらって、子どもには与えない・・・そういうことも少なくないでしょう。

 笑顔には、何種類のタイプがあるでしょうか。

 それらによって、どんなコミュニケーションが相手ととれるのでしょうか。

 そんなことを考えていると、「笑顔で語る」という文化は、どの国にも共通したものだろうか?という疑問が湧いてきます。

 「言葉に出さないと分からない」ということを強く求める文化の国では、おそらく「笑顔」の種類も少ないのでは?

 「日本人の微笑は不気味」という感覚は、やはり相手の文化次第なのでは?

 ・・・最近、子どもが語っているのを「読めた」笑顔とは・・・・

 「私たちは知っているよね」

 「ああ、あの人のことね」

 「うーん、困ったな」

 「へへ、ごめんなさい」

 「あっ、ばれてましたか?」

 「期待しないでくださいね」

 「ああ、怒られないでよかった~」

 「うんうん、その通りです」

 「ほっとしました」

 ・・・こういうことを「読める」能力があるのとないのでは、大違いでしょう。

 相手が「読んでくれている」と信じているこちら側の笑顔の意図は・・・
 
 「頼むからしっかりしてくれ!」

 「またやっちゃったんだな」

 「許してあげるよ」

 「それ、おもしろいアイデア」

 「よろしくね」

 「なるほど、同意します」

 「ほんとにまずいんだよね、それは」

 「今日は親とけんかしなかったんだね」

 「それでもいいの?」

 「やっぱり、まずいでしょう」

藤田晋の成長学・教師編33 保護者との距離

 セオリー№33 ビジネスマナーは距離感の見極めが大事

 教師にとって少し難しいのが、「保護者」との距離の取り方です。
 
 特に、若い教師にとっての「保護者」は人生の先輩に当たりますし、二人目、三人目の子どもを担任しているようなら、親としてもベテランになっているかもしれないので、基本的には「敬意」をもって接するのが当然でしょう。

 ただ、言うべきことはきちんと伝えなければならず、ときには親としての責任の問題にふれざるを得ない場合があります。

 そういうときは、たとえばある程度年輩の教師とか、管理職に同席してもらったりして、「場の空気バランス」を調整する必要がありそうです。

 「場の空気バランス」は、やはりどんなに子どもが問題を抱えていようが、年上の大人に恥をかかせるような行為は遠慮すべきだろうということです。

 おそらく最近では、そういう悩みよりも、「そもそも顔を出そうとしない」か「顔を出すときにはたいてい逆上しているとき」という問題の方が先かもしれません。

 親の世代は「旧教育基本法」の影響が強いからでしょうか?

 もちろん、法律が変われば社会が変わるというわけではないでしょうが・・・。

 あまり高い緊張関係を伴わない学校社会では、管理職との距離、同僚との距離などは、ほとんど意識しないか「教頭!」と叫ぶ新規採用教師が出てしまうような「参考にならない」環境かもしれません。

 これだけは、おそらくどうにもならないでしょう。

 企業研修だけは、機会があれば受けて損はないと思われます。ただ、あまりに社会が違うので第一印象は「参考にならない」というものでしょうが、研修の成果を感じるのは、自分ではなく、自分と接している他人です

こだわりの質が成否を分ける ふり返り366日【08/7/22】/第97問

 一年前の記事にあった「よきリーダーの卵たち」は、本物の「よきリーダーたち」に育ってくれました。

 民主主義の世界では、リーダーはメンバーの中から選出される仕組みをとります。

 強い牽引力がある人が、必ずリーダーに選ばれるとは限りません。

 大人の目から見て、この生徒はリーダーにふさわしい・・・と考えていた子どもが選ばれないこともしばしばです。

 子どもたちの中には、まだ本当の「リーダー」の意味が分かっておらず、大人が使う「リーダー」という言葉のイメージと乖離があるのかもしれませんが、「リーダー像」をつくっていく過程というのも大切なものです。

 多くの「他者」への「共感」がスムーズにできる人が、中学校レベルのリーダーとしてはふさわしいのかもしれません・・・・政治の世界でも「共感」は前提かもしれませんが、それが全面になると身動きが全く取れなくなります。

 操作主義は、人を動かそうとする側のこだわりが他者に気付かれてしまうと失敗します。
  
 「他者」のためである「こだわり」もあるものだということを感じ取れるまでの成長を期待したいという面もありますが。

08/7/22 操作主義からの脱却策としての「共感」  子どものリーダーや若い教師が陥りやすい失敗に、「操作主義」の「におい」をかぎつけられ、うまくいっている人と同じようにやっているのに、うまくいかないということがあります。  それは「同じよう」なはたらきかけはできても、決して「同じ」はたらきかけではない。  成功と失敗を分けるものは何なのでしょう。  相手を動かしたい、というより、「操りたい」という願望をもってしまうと、その「におい」が相手をかたくなにさせる原因になります。  どのようにしたら相手が自分の思うように動いてもらえるようになるのか、というのが、操作主義の発想です。  相手に自分の気持ちを理解してもらえれば、相手が自分に共感してくれれば、・・・と必死に願うのですが、どうしてもうまくいかない。  うまくいかないと、「どうして理解してくれないのだろう」となってしまいます(親が勉強しない子どもに「どうしていくら言っても聞いてくれないのだろう」と嘆くのも同じこと)。  こういうとき、教育の大原則、「子ども(相手)の立場になって常に考えること」を適用すると、先が見えてきます。  相手を自分に共感させようとしている人は、なかなか相手の共感が得られない。  ではどうするかというと、自分が相手に共感すればよいのです。  大事なのは、「共感を得よう」ではなく、「深く共感していこう」とする姿勢です。  そうすれば、「共感し合える場」が生まれ、うまくいくときが多くなります。  私は最近、よきリーダーの卵たちの成長の場面に立ち会うことができました。  まだ道のりは半ばですが、「共感してくれる人」との出会いが、「共感を得よう」から「相手に深く共感していこう」という姿勢への転換を促してくれたように思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第97問】 
 昭和19年(1944年)の話です。
 接着剤や塗料用の原料不足のため、その代用として木製飛行機に利用することが決まったものとは?
 ① 米
 ② 血液
 ③ 魚

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 【第96問の解答
 ③の「おしゃべり防止のため」でした。

親による子どもの評価 ふり返り366日【08/7/21-3】/昭和19年に開かれたもの

 成績だけが気がかりの親にとって、以下のような質問は何の意味も感じられないものでしょう。

 「なぜあなたの子どもはこのような役割を任せられていると思いますか?
 「あなたの子どもはみんなからどういうことを期待されていると思いますか?
 「あなたの子どもがみんなの期待に応えるためには、子どもがどうしたらよいと思いますか?
 「あなたの子どもが学校でやりがいをたくさん感じられるようにするには、どうしたらいいと思いますか?

 こういう質問によどみなく回答できる親はどのくらいいるでしょうか?

08/7/21 人を動かすために使う「質問」  子どもに限らず人はだれでも、他人の考えに従って動くことには抵抗感を持つことがありますが、自分の考えに従って動くことはできます。  そこで「人を動かすために使う質問」の出番がやってきます。  自立心の強い人ほど、「命令された」と感じられてしまうような指示には従いません。  たとえば、「~しなさい」は命令ですから、自分がそれを行う気になるかならないかは何とも言えません。  しかし、「どうすればいいか?」と質問され、自分が「~したほうがいいと思う」と答えた場合は、「では、~してください」という指示には比較的素直に従っていくでしょう。  「~の仕事をあなたに任せます」という宣言では、自信のない人は動かないので、  「なぜ私があなたにこの仕事を任せたと思いますか?」  「みんなはあなたに何を期待していると思いますか?」  「あなたがみんなの期待に応えるためには、どうしたらよいと思いますか?」  「任された仕事をして、どんなことにやりがいを感じましたか?」  「やりがいをたくさん感じられるようにするには、どうしたらいいですか?」  このような「質問」には、子どもにプラス思考をさせて能力を引き出す効果があると考えられます。

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昭和19年(1944年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○政府、女学生の戦時基準服を制定。
○文部省、徴兵による教員不足に対処するため、軍人・官吏など無試験で国民学校・青年学校・中等学校の教員に採用。
○東京・有楽町に電気科学館が開館。
○タバコの包装紙が不足し、用紙節約のため、一部でバラ売り実施。
○文部省、学校における日曜日の授業を認める。
○東京・青山の都立千歳高女内に、わが国初の公立女子工業学校が開校。
○東京・本郷に日本女子鉄道学校が開校。
○東京都立九段中学校に、肢体不自由児を対象とした養護学級が開設。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

T大学附属「育鳳学園」の教師1

 この話はフィクションです。 

 「育鳳学園」に入学した生徒には,一人一台の携帯端末(リース)が貸与され,登校時間,下校時間,出席した授業等は,すべてこの端末に内蔵されている機器で記録され,希望する家庭には,メール等で学校到着や下校等が知らされることを以前にご紹介しました。

 今日は,教師がもっている携帯端末とその利用法をご紹介します。

 「育鳳学園」には,職員の朝会はありません。

 毎朝8時までに(前日の夜から),必要な連絡事項はメールで届きます。

 開封された時間などは管理職の端末に送られますから,読んでいない人はすぐに分かり,連絡できる仕組みになっています。

 基本的に,大勢が集まって開かれる会議はありません。

 最も重視されるのは「教科会」で,専門性を高めるための情報交換をさかんに行っています。

 さて,携帯端末の話ですが,内容によって,管理職の決裁もこの端末を通してとることが可能です。

 端末には,文科省関係の文書も含め,ありとあらゆる情報がメールで入ってきますから,けっこう読むのが大変ですが,たいていの教師は通勤時間でそれをこなしています。

 この端末を使うことで,学園では年間数万枚の用紙の節約を実現しています。

 もちろん,全く紙に印刷しないわけではありません。

 教師の中には,この端末を使ってブログを発行している人もいます。

 子どもに向けて配信することも可能です。

 一つの学級だけに向けて発行するのは遠慮するよう伝えられており,学年単位で作成されます。

 希望する親の携帯にも配信されます。

 なりすましやデータ書き換えなど,当初危惧されていた問題はほとんど解消されています。

 携帯端末は特別生体認証でファイルを開くことが可能になりますので,もし他人の手に渡っても心配ありません。

 新型インフルエンザで学年閉鎖になったとき,この端末を通しての授業が実施されました。

 集まってきた情報の処理について,若干の課題もありますが,成績をつける参考材料にはなります。

 教師がもっている携帯端末は,画面が生徒のものよりかなり大きいので,生徒は物珍しそうによく眺めています。中には,その端末を使いたいという一心で,自分も教師を志す・・・という生徒も現れだしました。

ふり返り366日【08/7/21-2】/昭和19年に禁止されたもの

 授業が何のためにあり、何を我慢しなければいけないのか、子どもはよくわかっています。
 
 しかし、「テストのため」「進学のため」「受験のため」と割り切っているのは子どもよりむしろ親なのかもしれません。点数や成績だけを評価材料としがちです(というか手元にはそれしか来ないので、無理もありません。ただ、そういう親が学校を責める口実をなくすために、教科所見のある通知表を導入したことがあるのは以前も述べました)。

 自腹を切って相談している教育産業の人の言うことを軽く扱えるわけもなく、ただただ振り回されるばかりの親を何人も見てきました。

 子どものことがよくわかっているようで、実は全くわかっていない。

 どこか遠くを見続けている人が重しになっている子どもがどれだけ多いことか。

 あるプロジェクトで、教育産業の方々に振り回されないですむ情報提供の在り方を検討材料にすることを提案します。こういうタイプの情報提供は、教育産業の内部でも繰り広げられているようで、その泥沼から引き上げられるような方法を検討したいところです。

 しかし、頼る相手を誤ることがどれだけの悲劇を生むとは・・・、教育現場にいないと実感できないことでしょうね。

08/7/21 教師をためして遊ぶ質問への反撃  子どもの遊び?の中に、教師にちょっと変わった質問をして、まじめに考えてくれるかどうかをためすというものがあります。  そこでふと、教師という職業の人間は、授業などでよく子どもに「発問」「質問」をしますが、本当に質問をするのが得意であると言えるのか?という問題が頭をよぎりました。  教師がしている「発問」「質問」の効果とは何か?  また、質問を受けたとき、それに答えることが得意であるのかどうか?  私は試験問題でときどき、まとまった文章を読ませて、「この文章はどのような問いに対して答えられたものと考えられるか。その問いを書け。」と聞く問題を出します。  論述問題はどうしても難易度が上がりがちですが、この問題もけっこうハードルが高く、ツボをしっかりおさえた「明確な問い」はすべての生徒が書けるわけではありません。  しかし、問うことから学びは始まる、という原則を重視するためには、欠かせない出題となります。  最初の話に戻りますが、「茶」という漢字以外で、「チャ」という読みの漢字はあるか?というのが生徒の質問でした。  ちょっとひねって「キカイ」の「キ」の字と答えましたが、これは生徒の頭を悩ませる反撃材料になったようです。

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昭和19年に廃止・中止・禁止・制限されたもの。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 ○軍需省、東北地方北部を除く本州全域に5段階、最高40%の電力制限を実施。
 ○スイカ、メロンなどの作付けが禁止。
 ○鉄道省・東京都庁・金融機関などが日曜休日を廃止。各官庁は第1・第3日曜日勤務に。
 ○3月4日で宝塚歌劇団が休演に。最終公演にファンが殺到。警官隊が抜刀して整理に当たる。
 ○警視庁、東京都内の高級料理店などを閉鎖。その結果、転廃職した芸妓・女給らは18000人。
 ○東京都内の食肉店の44%が整理のため廃業に。
 ○スパイ防止のため、東京湾での釣りが全面禁止に。
 ○アメリカ型楽器編成の楽団禁止。
 ○2000社近くあった大小出版社が180社に統廃合される。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

藤田晋の成長学・教師編32 女性○○と呼ぶ「差別」

 セオリー№32 女性はもっと管理職を目指そう

 私の先輩にあたる有名な女性は、その会社で初の「女性○○」になり、そういう紹介のされ方をすることがよくある・・・しかし、母校でそんな発想はなかった・・・・という話をされています。

 儒教の影響、子育ての問題、さまざまあるかもしれませんが、やはり地方の公立の男子校・女子校がなくなるような国にならない限り、「女性○○」という呼ばれ方はなくならないでしょう・・・。

 教育現場には、特に小学校は、あまり心配のない話かもしれませんが・・・。

 行政では、政策的に増やしている点がちょっと気がかりです。

藤田晋の成長学・教師編31 よい「派閥」と悪い「派閥」

 セオリー№31 派閥に誘われない人は要注意

 ここでの「派閥」とは、どうやらいっしょに仕事をしやすい「チーム」、せいぜい「グループ」というニュアンスのようです。

 政治で言うと「派閥」=「」という印象をメディアが固定化させていますが、自然発生的・創造的な「派閥」なら、どんどんできてかまわない・・・というのは当たり前の話でしょう。

 学校での「派閥」は、「ボス」を中心にまとまるタイプ、ゴルフなど、同じような趣味をもとにできるグループなど、様々ですが、「校長派」「副校長派」に分かれたりしたらおもしろそうですがね・・・・それは別の話でした。

 「教務派」「生活指導派」もよく見られるでしょうか・・・?

 教育の場合は、政治と同じでその「派閥」を客観的に見る人が、どう判断するか、ということも大事でしょう。

 「高め合う」タイプの派閥なのか、

 「他の派閥と互いに足を引っ張り合う」タイプの派閥なのか・・・・。

 よく相手のことを認め、褒めることで、そうされる人がうれしくて集まり、まとまっていく中心人物がいるときの「派閥」は、仕事の効率も高めてくれるかもしれません。

 「一匹狼」的な教師もかっこいいかもしれませんが、だれかから認めてもらえる教師、多くの教師を認められる余裕のある教師になりたいものです。

藤田晋の成長学・教師編30 「分かりやすい生徒」の指導

 セオリー№30 自己主張する部下ほど抜擢されやすい

 企業社会では、会社を辞めるときに、「実はこういう仕事がしたかった」ということを言い出す人がいるそうです。

 学校社会はそれほど複雑ではありませんから、基本的にはだれがどのような教師かは見えやすくなっているはずです。

 しかし、ごくまれに、「何を考えているのか分からない」という教師が存在します。

 上司だけでなく、同僚にとっても、子どもたちにとっても、ときにやっかいな存在になります。

 子どもにとっては、「冒険心を刺激する」対象になりうるかもしれませんが・・・。

 今、学校の教師が管理職とコミュニケーションをとるときに、たとえば年度の目標を決める自己申告書づくりの面接で、必ず「やりたいこと」はPRできます。

 そういう機会だけでなく、研究や生徒指導の組織の中で、どんどん新しいアイデアを出していくことが大切でしょう。

 しっかり手続きを踏んで、実行に移すことも大切です。

 教師はどちらかというと、子どもたちの個人の欲求を満たそうとする自己主張に手を焼く存在であるわけですが・・・。逆に、そういう生徒の「分かりやすい」ことを存分に利用して、コミュニケーションがとれるということもあります。

藤田晋の成長学・教師編29 隙をつかれない「まとまり感」

 セオリー№29 ドリームチームは意外ともろい

 野球の話で言えば、メジャーリーグ選抜が「チーム」としては「強く見えない」という話でしょうか。

 中学校レベルの野球になると、個人個人の実力ももちろん勝敗を左右する要素にはなりますが、それほど極端な差がない場合、脅威なのは「チームとしてのまとまり感」です。

 実際に「まとまり」はなくても、相手に「まとまり感」を感じさせることが勝敗を分ける鍵になるケースがあります。

 戦時中の日本はいつも悪い見本になってしまいますが、味方の「まとまっている感」は「勝てるかも知れない」「勝てるに違いない」「勝てるはずだ」という錯覚を生み出します。

 これはマイナスに働く場合もあるので、大事なのは、敵に「まとまり感」を感じさせることです。

 これは、学年経営も全く一緒。

 ある学年は、後にその半分以上が管理職になってしまうというメンバーがそろっていましたが、「まとまっていたか」というと・・・・。しかし、個々には実力者ぞろいで、文句のない教育をしますが、生徒に「隙をつかれやすい」学年でもありました。

 藤田社長のいい言葉があります。

 まず、仕事ができる人と組んで、その人のやり方を学ぶより、できない人と組んでも成果を出すことに挑戦すべきです。その方が何倍も自分のスキルを高められるでしょう。

 弱小チームの顧問になっている教師たちにも、荒れた学校に勤めている教師にも、耳の痛い話です。

藤田晋の成長学・教師編28 自分用の文書は自分で印刷

 セオリー№28 「すべきでない」を決めれば成長は早くなる

 藤田社長が「すべきでない」として決めていること・・・

 8人以上の会議はやらない

 古いものはどんどん捨てていく

 小さなことでもウソはつかない
 
 仕事以上にはまるものを作らない

 学校には、8人以上で開かれる会議で、無駄だと思われるものがあります・・・代表格は職員会議でしょうか。

 伝達事項については、「主任級の会議」→「分掌の会議」で伝われば十分です。

 仮に職員会議を開いても、30分もあれば終わってしまうでしょう。

 主任級の教師が、同じ話を2回も3回もしている学校はまだざらにあるでしょう。

 教師が成長できる学校は、組織としての成長も望める学校です。

 学校の場合、あるいは、行政の場合、古いものとほとんど日付だけが変わっただけのようなもの=古いものがざらにあります。

 これをなくす手があります。

 毎年ありそうな文書は全部、変更点(日付や時間)のみ伝えるという方法です。

 ただ、「古いものは捨てる」という原則の人がいると、結局、紙を無駄に使わなければならなくなります。

 私が行政にいたころ、伝統的な紙文書による決裁が電子決裁にうつっていきました。

 行政・学校間も何とかならないものかと思ってしまいます。

 画面を見るだけの小さいパソコンでもかまわない(携帯でもいい)ので、個人端末ができれば紙資源は大幅に節約できるでしょう。もちろん、自分で必要なものは紙に印刷して持つようにしてもいいのです。

 サーバーにアクセスして引き出させる方法より、どんどん端末に新しくて古い、古くて新しい方法を送り込む方法の方が、格段に「読む」ようになります。読んだことを空メールで知らせることもできます。

 ファイルを開いて「読んだ」時間も管理職がチェックできますし・・・。

藤田晋の成長学・教師編27 憎まれ始めるときりがない

 セオリー№27 カリスマより普通の人がいい

 教師に「スター性」は必要でしょうか?

 ときどき現場をやめて講演などで食べ始める「カリスマ」は別として、現場にそういう人間は常に必要でしょうか。

 学園ドラマの主人公(としての教師)には、スター性や、独特の個性が必要でしょうが、実際の教育現場はどうでしょう。

 子どもたち(の一部)は、家庭でのやりきれない思いを、素直に学校の教師やクラスメイトにぶつけていきます。

 それをどう解消するか、を焚きつけるか、昇華させるか、封じ込めるか、かきまわすか・・・・・教師には、様々な「失敗」を犯す人がいてはじめて、子どもが大きく成長できるきっかけをつかむ・・・・というドラマめいた役割があることに、私は10年目くらいでようやく気付きました。

 たいてい、親を見れば子どもはどのような対応が適したタイプなのかが分かりますが、親が「良い子」のふりをしていると、大きな「誤り」を犯すことになります。

 教師をステレオタイプで見てしまうような人は、「管理」という言葉に過剰反応して、一定の「モデル」を想定してしまう傾向があります。

 「管理」にもあらゆる方法があって、それを子ども別、学年別に使い分けているということは、いつも顔を合わせている子どもは分かっていながらも、めったに会わない親は「イメージ先行」で自分なりの「ストーリー」を作り上げてしまいます。

 これは何の利益にもなりませんから、親からは「普通の人」=「評価のしようがない人」と見られているのがベストなのかもしれません。

 マイナス評価も今ひとつ。

 期待が実態を上回っているのも今ひとつ。

 「普通」が一番?

 藤田社長の一言。

 「カリスマ性がありますね」と言われるより、「意外と普通ですね」と言われる方が私にとってはよほどうれしいですね。

藤田晋の成長学・教師編26 学ぶプロとして謙虚に

 セオリー№26 見栄を張る人に大事な仕事は任せられない

 エッセンスは、「知らないことは知らない」「分からないことは分からない」と言える勇気、そして「教えをこう」謙虚さ、それが大事だということでしょう。

 同僚に対して謙虚な態度をとれても、生徒に対して謙虚に接することができるか・・・?そもそも、謙虚に接するという相手ではないのではないか・・・?

 教師は、教えるよりも、学ぶプロであることの方が大事である・・・という考え方があります。

 子どもから学べる教師は、成長の速度をどんどん上げられる教師でしょう。

 「教える」行為は、楽しく、うれしいものです。相手が真剣に聞いてくれればくれるほど。

 だから授業で「話しまくっていい気分になる」ことで満足してしまう教師が、落ち着いた学校ではとても多いのでしょう。

 そういう気分を「自分が」ではなく、子どもの方に味わわせることが、子どもにとっての成長のチャンスにもなるわけです。

 子どもを成長させるのが、教師の役割です。

教師は自分の「苦手分野」をどう説明するか ふり返り366日【08/7/21】/昭和19年の流行

 質問に対して、正しい答えが返ってくるかどうかは、相手の能力だけでなく意図もかかわってくるので、予測も判断も難しい場合があります。

 大学で野球をしていたときに、親しくなった相手校のピッチャーから「苦手なコースはどこですか?」と聞かれて、迷わず「インコースの低め」と答えたら、それ以降、ほとんどインコースに投げてこなくなったのは、相手が答えの意図をしっかり把握した証拠でしょう。

 よく、「行政に質問をしてはいけない」と言われます。

 それは、質問をしてしまったら行政は答えなければならないのと、答えてしまった以上はみんなそれに従うのが原則になってしまうという問題が起こるからです。

 さて、子どもがもし、歴史を教えている教師に、「先生が最も苦手としている時代は何時代ですか?」と聞いてきたら、教師はどのように対応すべきなのでしょうか?

 かつて、「先生が一番好きなのは何時代ですか?」と聞かれたときは、聞いてきた子どもの答えを先に聞かせてもらって、「ああ、同じだ」と言ってコミュニケーションがとれるようにしましたが、おそらく「一番苦手なのは?」といきなり面と向かって言われてしまうと、ドキリとしてしまう教師が多いことでしょう。

 子どもは、教師の「教育力」よりも「学習力」を問題にしているわけです。

 教育のプロである前に、学習のプロであろうとしたら、「苦手」がどういうメカニズムで生じてくるのかを分からせてあげるチャンスになるかもしれません。

08/7/21 「するどい質問」ができる子どもの育成  教育の世界では、子どもたちが教師に対し、その教育のあり方の本質を問うような(ある人から見れば非常に「攻撃」的な)投げかけを行うことができます。  教え方に課題があり、「授業がわかりにくい」「つまらない」という共通認識をもたれ、教育相談的なはたらきもできず、部活動を行っている生徒より早く帰宅してしまう教師が、子どもから  「なぜ教師になったのですか」 と問われることは相当きついものです。  異動が頻繁で、1校に2~3年しかいない教師が多い学校で、赴任したての教師が子どもから  「先生は何年この学校にいてくれるのですか」 と問われたら、どう答えたらいいのか。  その問いへの答えとして必要な教師にとっての問いは、  「この学校の子どもたちに必要な教育とは何か」  「この学校の子どもたちにとって必要なのはどのような教師か」 というもので、これらの問いへの用意がなければ、「言葉につまる」というよく授業中に生徒が陥る状態に教師もなってしまうおそれがあります。  今までの教育界では、そのような質問はタブーであったところがありました。  もちろん本質とは異なる、まじめに答える必要のない質問もたくさんあるでしょう。  「先生はどこの大学を卒業したのですか」  「中学校のときの成績はどのくらいだったのですか」  このような場合は、逆に教師が質問することで、質問の意図を確かめさせ、新しいコミュニケーションを探るきっかけにするべきです。  「するどい質問」ができる子どもの育成、それに答えられる教師としての修養に励んでいきたいと思います。

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昭和19年(1944年)のブーム・流行・流行語
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○ラバウルの兵隊の間にコックリさんが大流行。
○建物の強制疎開が始まり、取り壊された浴場などからきれいなタイルを拾ってきてオハジキや石けりに使う、タイル遊びが流行。
○大日本理容協会、1億総丸刈りを推進。
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「山川」の社会人向け「歴史教科書」

 歴史教科書がベストセラーになる勢いだということで、すでに購入して読んでしまっていましたが、その感想を簡単に書いておきますと、「もういちど読む 山川日本史」(山川出版社)は、厳密には「高校教科書」ではなくて、帯によれば「高校の教科書を一般読者のために書き改めた通史」ということで、確かに内容はスカスカの本になっています。

 もう一つ、購入のときにちょっと気になったのは、「日々変化する現代の日本をとらえ、ニュースの背景がわかる社会人のための教科書」という帯のコピー。

 編者による冒頭のコメントは、「時代に即応した簡潔かつ明確なかたちに改め」た・・・これが答え?

 「現代の理解の手助けになるようなテーマを選択してコラムと」したこと・・・コラムを読んでみても、ちょっと疑問。

 学界の動向を反映させた解説注も導入・・・これは、古い教科書しか読んできていない「社会人」には特に参考になるかもしれません・・・まずは歴史を教える学校の教師が読んで説明できるようになっているといいですね・・・。

 さしあたっての提案としては、これを中学校の歴史教科書にしたら?という感じでしょうか。

子どもが接する質問の数 ふり返り366日【08/7/20】/第96問

 子どもたちは、一日にどのくらいの数の質問をされ、そのうち何%の質問に答えているのでしょうか。

 そのうち実態調査をしてみたい内容です。

 以前にも書いたことですが、私はかつて授業でいくつの質問が出されたか、各自に記録を取らせる取り組みをしたことがありました。きちんと答えられそうな質問、ややあいまいになりそうな質問、答えられない質問など、記号もつけさせました。

 この結果を見ておもしろかったのは、子どもによって、「質問の数」がかなり異なっていたことです。

 子どもにとって、質問されていたはずの内容が、質問として処理されなかった理由にも興味がありますが、「質問を質問として捉える能力」自体に大きな差があることが分かりました。

 それはそれとして、質問(問題)に対する回答(解答)を、ある特定の子どもにさせるだけだと、他の子どもは分かっていたのかどうかを判断できなくなります。ですから、ノートに書かせたり、先ほどの記録では、自分も答えられた質問にはそれが分かる記号をつけてもらったりしました。

 学校生活の中でのこういう「質問」は、教師だけからされるとは限りません。

 「昨日は何を食べた?」から、「昨日のドラマに出演していた俳優が好みかどうか?」などまで、ありとあらゆる質問が想定できますが、家庭などではどうでしょう。

 「勉強した?」という質問もカウントすることにすると・・・。

 子どもの教育には、「質の高い質問」というのが貴重なものであるということが、分かるといいのですが・・・。

08/7/20 「質問」は学校教育を変えられるか?  「わからないことがあったら質問しなさい」と教師は子どもに指示することがあります。  子どもの中には、「質問」とは、「わからないことを聞く」ために行うものだという固定観念にとらわれてしまう人がいるかもしれません。  しかし、「質問」 によって達成がのぞめることは、他にもたくさんあることを子どもたちにはわかってほしいと思います。  谷原誠(弁護士)著『するどい「質問力』(三笠書房)では、「質問」がねらうことのできる効果として、  「問題を発見、解決する」  「説得する」  「相手の考えを誘発する」  「決断を迫る」  「コミュニケーションを円滑にする」  「議論に強くなる」  「自分の主張を明解にアピールする」ことを挙げています。  授業の「発問」も含め、「質問」のはたらきをしっかり見極め、相手やタイミング、そのときの状況をふまえて実践していける教師、子どもの「質問力」を養成できる教師になりたいと思っています。

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昭和の家庭史トリビア?【第96問】 
 昭和19年(1944年)の話です。
 東京・蒲田の工場では、女子勤労動員工の全員にマスクの着用を義務づけました。その目的は?
 ① 感染症の予防のため。
 ② できるだけ顔を隠すため。
 ③ おしゃべり防止のため。

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 【第95問の解答
 ①の4ページでした。週2回は2ページだけとなったそうです。

「べき」論VS「べからず」論 ふり返り366日【08/7/18】/第95問

 なぜ「べき」論がダメで、「べからず」論が大切なのか、岡潔の言葉を読むと理解することができるかもしれません。

 もちろん、「べき」論がよくないというわけではなく、「べからず」が分かっていないのに「べき」ばかり考えようとしてもダメということと、「べき」論を考えるためには、土台となる資質や能力と広い視野が必要だということです。

 「べき」論から脱却する教育というのは・・・それも、学習指導要領の枠組みからはずれないで脱却することは可能でしょうか。

 「実態・発達段階・特性を考慮して~適切な教育課程を編成」という究極の文言を読み落とさずにいれば、かつ、だれに対しても納得させられる説明が可能なら・・・・。

08/7/18 「よいこと」を具体的に示す問題点  「よいこと」「長所」とは何か。  これを分析的に考えるようになったのはいつ頃からでしょうか。  観点別学習状況の評価は今でも混乱が続いていますが、この問題については「終わり」の「始まり」の時期なので、しばらく様子を見ようと思います。  岡潔の言葉に、以下のようなものがあります。
 いいことをしましょうといったってできはしません。悪いことするなです。悪いことするのと、よいことするのとでは、ずいぶん開きがあります。悪いことの反対が、よいことだと観念的に考える。たとえば親孝行ですが、ひどい親不孝というのがすぐわかる。そしてそれは見分けがつきますし、それをしないということはできる。が、本当に親孝行しようと思ったら、親の心も知っていなければならないし、行為した結果が畢竟どうなるか、横に全体を見、縦に長い時間を見てでなければ本当に親孝行できないでしょう。そんなこと子供にできるものですか。
 「よいこと」を具体的に示せば、示してもらったことに従属してしまうこと、示されたとおりに動いたことによる評価を求める心理、そのような余計な付属物が生まれてしまって、本質的に「よいこと」ができにくくなる、そういう発想の方は、特に教育界には多いようです。  道徳の授業に力が入らなかったり、「子どものために」という掛け声だけになってしまったりという教師が多いのもそのためでしょうか。  道徳が教科化されようとしたとき、評価の問題、たとえば具体的な評価基準というのができるのか、という問題が真剣に論議されたようです。  コンピテンシー理論はそこに真っ正面から取り組んでいるものですが、価値観の違いというものにどのような折り合いをつけていくのか。そこが実践上の課題であるわけです。  (人事考課制度では、その「折り合いをつける過程」が面接等で用意されています。)  「具体的な指示をしてくれる先生と、しれくれない先生、どちらがいい先生でしょうか」  道徳もそうですが、このような一つの問いがあったとき、その問いへの答えは決して一つとは限りません。  これこれこういうケースでは、具体的な指示が必要。でも、たとえば行動のきまりが配られていて、それを見れば何時に何をするかがわかるのに、いちいち先生に聞いてくる生徒に対して、「すぐに教えてしまう先生の姿勢はどうかな?」という問いも考えられます。  世の中で起こりうる様々な環境、状況を想定し、それぞれのケースに応じた「正しい判断」ができるようにすること、これもいわゆる「生きる力」の一つなのでしょうが、学校ではそういう資質を育てることが可能です。  実際に教育されているかどうか。  子どもが判断して行動すればよいところに、教師が首をつっこんでいないか。  いちろうさんが指摘されたような、教師の「過保護」「過干渉」的な指導は行われていないか。  これを問うてみる価値は高いと思われます。

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昭和の家庭史トリビア?【第95問】 
 昭和19年(1944年)の話です。
 新聞の夕刊は休止され、朝刊のページ数も減りました。何ページになったでしょうか。
 ① 4ページ
 ② 8ページ
 ③ 12ページ

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 【第94問の解答
 ③の中国でした。ソ連に戦争講話を斡旋してもらうために、ソ連高官夫人に送るのではないかという憶測が流れたようですが、実際には中国向けでした。タングステンや銅などの戦略物資を買い付けるのに、すでに日本の貨幣の信用が失われていたため、見返り品として売られたようです。香水には、金額が張り、サイズが小さく、輸送が簡単、という長所がありました。

野村監督のような「校長」が現れたら・・・?

 レベルの違いはもちろんあるでしょうが、野村監督のような「実績」のある校長は公立学校にも大勢います。

 ただ、経営陣に対して野村監督のように言いたいことを言ってしまうような校長はいません。

 経営陣は経営のプロであって、野球のプロではないので、すれ違いは避けられないのです。

 野球のプロのプライドが、経営のプロのプライドよりも高く見えてしまうと、クビを斬らざるを得なくなるのでしょう。

 納得できないファンのことが度外視されるほど、その問題は大きいのでしょう。

 教育界の場合は、教育委員会というところは行政のプロであって、教育のプロではないので、現場ではおかしいと思っていることがあってもただ従うのみです。

 その関係を分かりやすくするために、行政委員会としての教育委員会は、「教育行政委員会」と呼称を変更するとよいかもしれませんね。

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昭和の家庭史トリビア?【第94問】 
 昭和19年(1944年)の話です。
 10月に、資生堂が大量の高級香水を受注、製造しました。当時は、香水はもちろん容器の製造すら禁止されていたのに・・・。いったいどこへ輸出するためにつくられたのでしょうか?
 ① アメリカ合衆国 
 ② ソ連
 ③ 中国

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 【第93問の解答
 ③の1~2万円でした。

特別な「特別活動」 ふり返り366日【08/7/17】/第93問

 ほとんどの中学校3年生にとって、今の時期は「受験生」としての「大事な時期」だと思われていることと思います(実際には、受験生として大事な時期は、1・2年生だった・・・などといういじわるなことを言う教師は少数派でしょうね)。

 中学校3年生にとっての10・11・12月は、模擬試験のシーズン・・・ではなくて、中学校生活を総括する時期です。その「総括」の質が、その後の人生の質を左右する・・・なんて大げさなことが真実なら、すべての学校を「中高一貫校」にするくらいの勢いがほしいところですが・・・。

 入試の面接でも、ちょっとレベルは高い質問ですが、「中学校生活の一番印象に残っていることは何ですか」「何を中学校生活の中から学びましたか」「今後の人生を左右するような経験をしましたか」・・・という形で、「総括」の質を問われることが考えられます。

 そういう質問の答えは、学習や生活の質によるわけです。

 多くの中学生にとって、最も印象に残っているものとは、部活動の大会とか、大きな行事でしょう。

 「特別活動」(部活動はこのカテゴリーに入れられませんが、実質的な「特別活動」です)というネーミングを、一日も早くなくすことが、「生活の質」の改善に役立つかもしれません。

 これを思い切って「自治活動」にしてしまえば、生徒会活動、文化的行事・・・あらゆるものの活動の「質」が変わっていくでしょう。

 今まで「特別」でない「特別活動」を経験してきた生徒にとっての、「特別な特別活動」というのを体験させてみたいものです。

08/7/17 「行事」から考える学校教育  記事が500を超えたころから、これらをきちんと整理する必要があると感じながらも、そこまでする時間が確保できないので、私がこだわっていることに関連する記事をブログ内検索で一覧にするといった単純な形でまとめをしてみたいと思います。  教師の組織的な動き、子どもの成長が手に取るようにわかる活動として、「学校行事」の運営があります。  「行事」という語句が含まれる記事を下に列挙いたしました。

 「行事」と私の経歴を教員採用時からふり返ると、
1 最初の赴任校
 とにかく行事に力が入る学校としてはトップレベルの環境でした。生徒の動きもそうですが、教師の組織的な動きに多くのことを学ばせられました。
 「教師が動くから生徒が動く」典型的な教育がそこにはありました。
 ストレートな「指導」で、厳しい面を指摘される方もいらっしゃいましたが、子どもたちの成長が教師のやりがいの糧になっていました。
2 二校目
 「教師が動かないから子どもも動かない」典型的な学校でした。
 1校目のノウハウを1年目から次々に導入しましたが、中でも学習活動をからめた「行事」(学習コンテストなど)によって学校が立て直せることがわかりました。
3 教育委員会
 多くの学校の行事を見学することができました。と同時に、そのときの教師の動きにも関心が及ぶようになりました。
4 現任校
 行事のほとんどは生徒の手によって運営されます。
 「生徒が教師を動かす」ことは、外部から見学される先生方から見るとカルチャーショックを受けるかもしれません。
 教師の手の入れ具合が難しく、「教師を頼る」意識を低く保つことが成功の秘訣なのですが、実際には、どのようなタイプの生徒が運営に加わったかに左右されます。
 教師の目から見た完成度は最初に赴任した学校を下回りますが、生徒の達成感、充実感ははるかに上です。
 失敗してもそこから多くを学び、また、実は失敗したかに見えたある時期の行事が、大きな成功の種をまいていたことに後の行事運営の中で気付かされることがあります
 行事が終わると直後にその反省を行いますが、3ヶ月前、1年前の行事で学んでいたことがあったことに後で気付けるように、ここは教師からの指導言、評価言が必要になります。
 短期的には「失敗」でも、長い目で見ればすべて「成功」の源になっているかもしれません。
 これを教師の無為無策の言い訳に使われないよう注意しながら、やはり短期・中期・長期のふり返りをきちんとしておくことは大事だと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第93問】 
 昭和19年(1944年)の話です。
 政府や都による疎開の呼びかけによって、東京旧市内の土地・建物の価格が下落。逆に、船橋・大宮・浦和など近郊では値上がりしました。10年前に建てられた1000円程度の家は、どのくらいになったでしょうか。
 ① 2000~3000円(2~3倍)
 ② 5000~6000円(5~6倍)
 ③ 1万~2万円(10~20倍)

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 【第92問の解答
 ②の10000戸でした。

藤田晋の成長学・教師編25 劣等感による刺激はバネになるか?

 セオリー№25 劣等感は思い込みに過ぎない

 絶対評価というのは、難しいものです。

 教師になったばかりの人は、あの「楽な」相対評価の作業を知らないかもしれないので、たいへんな思いをしているかもしれません。

 一日も早く解放してあげたいものです。
 
 そもそも、相当の目をもっていなければ、人間の能力というのは測れないものです。

 どんなに経験を積んだとしても、本当は、人間の能力というのは簡単には測れない、そういう前提が教育界には欠けています。
 
 観点を分けたとしても、評価は難しいものです。

 観点は、指導上の配慮事項として、あるいは学習の過程で指導の軌道修正をする材料にするための評価としては役に立つものですが、学習の結果、どうなったかということを判断するのを、すべて指導者に押しつけるのは酷なことです。

 絶対評価のよさは、たとえば、みんながみんなできないのに、その中でもちょっとだけリードしている人が、「トップで優秀」などという扱いを受けないですむこと、みんながみんなできているときは、みんなが「優秀」だという評価が得られることです。
 
 相対評価のよさは、誰の目からも結果が明らかで分かりやすく、納得がいくことです。

 「偏差値」ほど分かりやすく、目標を設定しやすいものはありません。

 絶対評価の発想のよさは、劣等感を克服するために努力しなければならないのは自分だ、という自覚を高められることです。

 相対評価の問題は、自分がいくら努力しても、上にいる人は追い抜けないという絶望感を生むことです。

 「劣等感は自分の思い込みに過ぎない」と「思い込む」ことが大事です。

信頼されない公教育が問題化しない原因 ふり返り366日【08/7/15】/第92問

 教師ものドラマの害悪はあちこちで書かれていますが、「語るのは教師」という図式が「教育」らしくて「教育」らしくない、その典型であると思われます。

 「使命感にあふれる教師」「情熱でいっぱいの教師」など、「描きたい教師」がそういうタイプなのだから仕方がないと言えばそれまでですが、問題は「育った子ども像」がきちんと描かれないこと、「まじめな子ども」が主役になれないということです。

 芸能界ではどのような人が大事にされるのか、犯罪にかかわる報道をよく眺めてみれば、素人でもよく分かります。「そういう人たち」によって支えられる世界が現実としてあり、そこに新しい「人材」がどんどん供給されるシステムができあがっているあたりは、ある意味では「教育しない」ことの大きな成果になっています。

 教育とは別の「大人になる」システム・・・それは学校教育と塾産業とを別々に考えてみてもよく分かることですが・・・があまりにしっかりしていることが、公教育が「信頼されなくても問題にならない」ことの一番大きな原因なのかもしれません。

 現場では、「人は学校だけで学ぶのではない」という当たり前のことを言いながら、堂々と手を抜く姿も見受けられます。こういう教師からも、子どもは多くのことを「学んで」社会に出ていくのです。

08/7/15 ものの良さがわかるようにする指導  数学者の岡潔の言葉のエッセンスが「情緒と日本人」(PHP研究所)にまとめられています。  次の言葉の意味を、教師としてはどのようにとらえるべきでしょうか。
 ものの良さがわかるということは明治以来だんだんむずかしくなってきている。現代は他人の短所はわかっても長所はなかなかわからない、そんな風潮が支配している時代なのだから、学問の良さ、芸術の良さもなかなかわからない。しかし、そこを骨を折ってやってもらわねば、心の芽のいきいきとした子は決して育たない。教育というのは、ものの良さが本当にわかるようにするのが第一義ではなかろうか。
 教職課程の実践演習で、「この指導案の問題点を挙げよ」という課題を出すと、多くの大学生がかなりの問題点に気付く、ということは以前にふれました。  では、どのようにしたら、よい指導案となるか。  題材の指導案の延長線上では、問題点が隠れるような修正の仕方は可能なのですが、それだけでは「悪くない指導案」にはなっても、「よい指導案」とはならない。  問題点がない指導案を次の題材とすると、「よい指導案」の条件には気付けるのですが、では自分で素材を選んでつくってみなさいというと、ほとんどできない。  どうしても問題の解決には「問題の除去」が前提で、その次に「正しい指導」「望ましい指導」を想定してしまいます。  それを飛び越えた「よい指導」というのはあるのでしょうか。できるのでしょうか。  もし教師を指導する立場になったら、一貫して持っているべき姿勢は、常に授業を公開して参観してもらえるような条件を整えておくということだと考えています。  「よい授業」でなくても「よい指導」になると言ってしまったら責任回避のように聞こえてしまいますが、「よい授業はどのようにしたらできるようになるか」の答えは、実際の授業の中にたくさんあり、その「よさ」に自ら気付いていく力をつけていってもらうことが結果として「よい指導」になるのではないでしょうか。  引用した岡潔の「ものの良さがわかる」とは脱線してしまっていますが、教師は常に「よい授業」を心がけていくべきだというメッセージを、私はこの言葉から最初に受け取った気がします。

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昭和の家庭史トリビア?【第92問】 
 昭和19年(1944年)の話です。
 東京と名古屋に、新防空法による初の疎開命令が出されました。これは、空襲に備えて建物を強制的に取り壊し、空き地を広げようとするものでした。東京の取り壊し戸数は不明ですが、名古屋の記録は残っています。強制撤去させられたのは何戸あったでしょうか。
 ① 1000戸
 ② 10000戸
 ③ 100000戸

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 【第91問の解答
 ①の「時局捨身動物」でした。位牌には,「殉難猛獣霊位」と記されました。

藤田晋の成長学・教師編24 教師のモチベーション

 セオリー№24 ほどほどのモチベーションが継続のコツ

 「24時間働けますか」というキャッチコピーを聞いて、中学生などは「どんな仕事をどのようにしている人」を想像するのでしょうか。

 長く現場で働いている教師は、若い教師の「浮き沈み」「挫折のタイミング」「伸び悩みのきっかけ」などをよく知っています。

 悲観と楽観をめまぐるしく繰り返すのは、若い人だからできることとも言えますが。

 ベテラン教師などは、どうしても、異常にテンションの高い人に対しては、「大丈夫か」と心配になってしまうのは無理もないことでしょう。

 モチベーションの高い教師のイメージは、学園ドラマなどのキャラクターを通してつくられます。

 しかし、実際の現場では、「目立てる」のはごく限られた機会しかありません。

 そこで「滑る」と、後での仕事でも苦しい立場に立たされるのは目に見えているので、余計にハラハラしてしまうのでしょう。

 テンションはさておき、モチベーションはもちろん高いにこしたことはありません。

 特に、授業に向かうモチベーションだけは、高く維持してほしいものです。

 学校で、「だるそうに授業をしている教師ワースト3は?」というアンケートを仮にとったとしたら、どのような結果になるか、予想はつきますか?

 すぐに「該当者なし」という反応が返ってくるような学校ならよいのですが。

 子どもが落ち着いた学校なら、そういう「だるさ」が「しぶくて」よい、というイメージになるかもしれませんが・・・。

 藤田社長は、モチベーションを保つコツを、以下のように述べています。

 モチベーションは高からず低からず。そのためには、ビジネスパーソンとしてこれから過ごす時間は長いんだ、まだこの先があるんだということを若いうちからしっかり意識しておくといいでしょう。視点が高くなって、広い視野で仕事を見ることができるようになり、気持ちも落ち着いてくるはずです。

 ・・・落ち着いた教師が多い学校は、落ち着いた学校が多いのでしょう。

悪平等VS個人の尊厳 ふり返り366日【08/7/14】/第91問

 「問題はないことにする」のがベスト、というのは、役所に限らず、民間でも見られる体質だと思われます。

 ただ、「知られたら致命的」なのがこの種の「問題」の怖い面であって、「絶対にばれない」という自信をもった上司がいると、たちが悪いのです。

 ある人に認められたことが、別の人には認められない・・・・。

 「法の下の平等」を示すまでもなく、許されないことです。

 ただ、中央集権の困るところは、こういう不平等の問題があると、中央の責任を追及させようとするムードが高まることで、そうすれば余計に望まない中央集権が強化されてしまうわけです。

 「上司としての監督責任」ももちろん大事ですが、「現場の判断」で「これはあり」とせざるを得ない状況があったときに、中央に内緒で特別な処置をしてしまう・・・なんてことはあり得るでしょう。

 それをいちいち「中央に問い合わせてみませんと」と言っていたら、待っている方はしびれがきれてしまいます。

 たいてい、中央の判断はワンパターンです。

 「聞いてしまえばアウト」です。

 みんなが得する方法より、みんなが損する方法を選びます。

 「こうしか言えないでしょう」と言い訳するということは、「本当はこれは正しくない」と思っている証拠です。

 平等を原則に悪い判断を全体に押しつけようとする流れほど、みんなば損するシステムはありません。

 敗戦間近のころの日本が見えてきてしまいます。

 行政には、「平等」にとらわれすぎて、「個人の尊厳」がないがしろにされている部分がないか、よくチェックしてほしいと思います。
 

08/7/14
ありがた迷惑な問題解決
 「ありがた迷惑」なことをやってしまった経験が何回かあります。
 それは、いろいろな問題を指摘する(愚痴る、糾弾する、などさまざまな表現が可能なケースがあります)方がいるのでそれを聞かせてもらった後、本人はそれを解決、改善してほしいのだなと勝手に思ってしまい、こちらが行動に出て、問題を解決してしまった後、あまりその方がうれしそうな顔をしてくれないケース。
 本人に断らないでやってしまうのがよくなかったのかもしれませんが、他にも、改善策を提示してしまって、じゃあ、これで行きましょう、と話が進んだ直後、「待って下さい」と止められてしまうケース。
 どちらも決して少なくないケースでした。
 経験を重ねた後でわかったことは、本人は、不平・不満を述べていることに満足を感じている(?)だけであって、問題がなくなってしまうとその方法によって満足できるきっかけがなくなるために不機嫌になるパターン。
 人の悪口を言うのが好きな生徒や教師というのはけっこう多いのですが、「あなたの方が間違っている」と言えるケースは少なく、悪口というか非難に筋が通っていて、すぐに改善へ動き出した方がよい、と判断できるのに、悪口を言っている本人にはあまり悪口の対象を改善させようとする意欲がない
 こういうのは、保護者や管理職、政の仕事への批判、非難をよくするタイプの教師に多いのです。
 「なぜ直接言わないのか?なぜ他の教師に他人の批判や非難を聞かせるのか?」と思ってしまうのですが、本人は言っても無駄だとわかっているのか、あえてそのように批判や非難を続けられるような環境を維持したいのか、・・・後者の人が多いことは、教育の世界に入ってから気付かされたことです。
 さすがに教師対教師では、同じ職場内での和を重視すれば言いにくいのでしょうが、生徒などはどの先生がどの先生の悪口を言っているという情報とか雰囲気を敏感にキャッチして、いろいろなウワサとして流しているものです。
 身近な問題からどんどん解決していく姿勢。これを一般の方が聞くと「角が立つことばかり・・・」と思われるかもしれませんが、いじめ発生の背景になり得る生徒間のいざこざも、教師と管理職の対立も、みんな同じに見えてしまう私には簡単には止められません。

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昭和の家庭史トリビア?【第91問】 
 昭和18年(1943年)の話です。
 空襲に備え,猛獣を処分せよとの指令が東京都から上野動物園に下され,ゾウやクマ,ライオン,ヒョウ,トラなどが殺されていきました。これらの動物の墓標には,何と刻まれたのでしょうか。
 ① 時局捨身動物 
 ② 時局挺身動物
 ③ 時局天昇動物

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 【第90問の解答
 ③の立川駅でした。武蔵野を散策し,府立農業試験場を見学しながら,未来の夫・妻を選択する会だったようです。

缶詰VS生もの ふり返り366日【08/7/13】/昭和18年のスタート

 教師には、その専門性に起因する「持ち味」というものがあるはずです。

 しかし、それでも「専門家なの・・・?」とがっかりせざるを得ない場面にも出会ってしまいます。

 今、よく問われているのは、「教師は学ぶ専門家ではないのではないか?」という疑問です。

 ある有名人が母校の授業をふり返って、その良さについて、以下のような趣旨のことを語っています。
 
 教師たちは、今、研究していることをストレートに私たち教師にぶつけていた。その反応を楽しんでいるように見えた。私たちにあったのは、教師を喜ばせようとする感覚よりも、自分たちにはこれだけの発想がある、こういうことを考えつく力があるという、プライドを見せつけようとする欲求であった。

 教師たちは、「生もの」=鮮度の高い知的な材料を授業ではふんだんに用意していたわけです。

 そういう観点で、自分の仕事を見返してみると・・・・?

08/7/13 教師の「持ち味」とは何か?  教師には、一人一人違った「持ち味」があります。  そして、教育の現場は、それが必要とされている場所です。  この「持ち味」という言葉を他の業界ではどのように使っているか調べてみたところ、Google検察のトップにあったのは、日本銀行の「新規採用情報」の「先輩行員に聞きました」というアンケート結果を公開したものでした。  「持ち味」に括弧づきで「ウリ」という言葉が並んでいましたから、これが「自己認識としての長所」という性格のものではありますがコンピテンシーの一種であることがわかります。  キーワードを拾ってみると、  ・困難な問題に直面しても、あきらめずに解決するために継続的に努力することができる  ・失敗から学び、次に活かすことができる  ・几帳面  ・飛躍のない議論をすることができる  ・“明るさ”と“責任感の強さ”  ・とにかくポジティブであまり落ち込まない  ・リーダー的な役割を任せられる  ・どこでも自分の空気は持っている  ・誰とでもすぐに親しくなることができる  ・色々なことに好奇心を持ち、チャレンジできる  ・未知の分野があると、飛び込んでいくバイタリティーがある  ・温厚な性格であり、協調性がある  ・全てに対して“はっきり”とした性格である  ・柔軟な思考力  ・笑顔    一人が全部をもっている必要はありませんが、職場がこのような持ち味をもっている人であふれていれば、とても活気に満ちた仕事ができるのではないかと思います。  持ち味は人に教えられるか。  自分になく、人がもっている持ち味を、自分が学びとることができるか。   そのような疑問がわいてきますが、少なくとも、そういう持ち味には価値があるということ、そういう持ち味を生かした仕事に価値があるということは、子どもたちにも気付かせたいと思います。もし気付いていない教師がいたとしたら、気付いてもらいたいと思います。  また、そのような持ち味をもった大人になってほしいという願いを子どもに抱ける教師、できたらそんな持ち味を習得させられるような教育ができる教師が増えていってほしいと思います。  日本銀行の新規採用情報のページには、続けて「これだけは譲れないもの(ポリシー)」が紹介されています。  ・自分で納得できるまではあきらめないという頑固さ  ・多様な意見を尊重し、自分の中に取り入れる姿勢をもつ  ・自分の成長を頭のどこかで常に意識する  ・Pressureをpleasureに!  ・納得いくまでやり続ける「しぶとさ」  ・柔軟かつ新鮮でありたい  ・日本だけの狭い価値観に縛られない  ・自分にしかできない事(役割)を必ず見つける  ・「オンリーワン」になる  ・自分に恥ずかしいことは絶対にしない  ・小さな事で、くよくよしない  ・オンとオフの明確な切り替え。やる時はやる! 遊ぶ時は遊ぶ!  日本銀行はその業務の特性上、特殊な能力が必要かなと思ったりもしますが、それほど特別ではないですね。  ただ、「つねに利用者の立場で考える」とかいう視点はこだわりの中にはないのでしょうか。  教師にとって絶対に譲れないポリシーとは?  私が示したのは、「子どもの立場で常に考える」で、もしこれに補足するとすれば、「~という価値に気付き、その価値観のもとでより価値のある行動ができる人間になってほしいという強い願いをもって」というのを前につけたいと思います。

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昭和18年(1943年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○女子のバス運転手,東京に登場。
○西日本鉄道が大洋球団を買収し,西鉄が誕生。
○東京・洗足高女,全国に先駆け学校内に工場を設置。
○日本初の集団見合いが6月に行われる。
○初の国定中等教科書が誕生。
○東京都から上野動物園へ,空襲に備えて猛獣を処分せよとの指令が下る。インドゾウの「ジョン」が絶食処分で餓死殺に。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

藤田晋の成長学・教師編23 子どもにとっての最大の不幸

 セオリー№23 情熱なき仕事は人生のムダ

 日経で「学びいま未来 教壇再生への道」という特集が9月29日から始まっています。
 第1回は「若手教師 学校を去る」「1年で離職 急増」という問題を扱っていますが、記事では大量採用(=質の低下という生々しい評価をする人もいます)の弊害、学校現場の暗い現状が浮き彫りにされています。

 前回は、「忍耐力のない人が最初に脱落する」というセオリーでしたが、中には、「向いていないことがはっきり分かったので、すがすがしい思いで退職」「情熱を傾けられる仕事をしたいので退職」という人もいるでしょうから、後ろ向きのことばかり考えても仕方がないのですが、子どもたちがそういう辞め方をしていく若い大人を見て、何と思うか・・・?どんな影響があるか・・・?などは考えたのでしょうか?

 管理職や同僚、子ども、保護者を恨みながら辞める人

 自分の力のなさに落胆して辞める人

 辞めさせられそうだったので自分から辞めた人

 どんなパターンがあるのか調査している人はいないかもしれませんが、「子どもが先生が辞めたことで悲しんでいる」という声を聞けない人、「辞めてくれてほっとしている」という声を耳にしてしまう人は、本当に気の毒です。

 クレームで折れる、叱責でしょげる、授業崩壊でいじける・・・・そんな毎日の繰り返しを「耐えろ」という方が酷なのかも知れない・・・と同情してくれる人がいれば、その元教師は幸せでしょうか?

 一番不幸だったのは、挫折から立ち直る・・・という人間の強さを教わることができなかった子どもでしょう。

 教師には、ありとあらゆる角度からのシミュレーションを絶え間なく続け、子どもにとって最善の環境を整える義務があります。
 
 教師の質を高めてくれるのは、子どもです。

 子どもから離れての自己成長手段やセオリーは存在しません。

居心地の良い学校 ふり返り366日【08/7/12】/昭和18年の改称

 学校における教育関係の雑誌購入を「税金の無駄遣い」と見るか、「出版社の延命措置」と見るか、「学校の信頼回復のために欠かせない資源」と見るか、・・・それは人によって違いがあるでしょう。

 少なくとも、「1回も読んだことがない」教員が多ければ多いほど、最初の二つに当てはまる所業ということになります。
 
 教師たちは、何かにつけて「時間がない」「時間がない」と連呼します(人によっては「カネがない」とも)が、それが本当かどうかは、1年間の教育実習が行われるようになれば、その実態が暴かれるようになるでしょう。そもそも、本当に時間がないのなら、教育実習生の指導なんてとてもとてもできたものではありません。

 「どうしたら公立学校は信頼されるようになるのか

 ということがよく話題になりますが、一部の人たちは、「無条件で学校や教師を信頼するシステムをつくればいい」などと寝ぼけたことを言い、ごく一部の人たちは「今でも十分に信頼されている」と胸をはって豪語し、かげで笑われています。

 常識と非常識が逆転しているのが当たり前と思われている学校現場では、まず「実態」をしっかりを見据えることが大切です。

 「これは普通のことなのか、どうか。」
 「これはいい授業と言えるのか、どうか。」
 「この生徒たちに必要最低限のことは教えたと言えるのか、どうか。」
 「整理整頓という言葉は、だれのためにあるのか。」

 「信頼される学校とは何か」・・・この共通認識を教師集団が持てているか、どうか。・・・これが、「関係性」によって問えない場であるというのが、学校現場の最大の特徴と言えるのかもしれません。

 そもそも、教師たちは、「信頼される学校」という言葉を投げつけてくる人間(行政など)に敵意をもってしまう存在なのです。そこが分からない行政が仕事をすると、たいてい関係は悪化の一途をたどります。

 学校は、最も信頼されていないときが、最も居心地が良い・・・そんな声も聞こえてきそうです。

08/7/12 信頼回復に必要な議論  よたよたあひるさんが、教育に関する議論の話題を続けて提供していただいています。  記事に私がコメントさせていただいた内容を掲載します。   
学校現場での教師と生徒の関係は、「関係性への依存が大」で「論理的には強かったり弱かったりする」のが特徴でしょうか。ですからうまくまわるときはWin-Winの関係になり、保護者も含めていったんこじれると泥沼になりやすい。ですからリスクコントロールのために教員はチームを組んで動くべきなのです。  マスコミ報道では、現場の問題を管理職や教育委員会が謝罪するというパターンしか見えないので、現場のチームワークがなかなか見えてこない。  教育ブログでも見えにくい(これは守秘義務との関連もありますが)。  一方のネットの世界では、精神的なダメージを除けば実害はなく、とても自由な世界だと思う反面、教師が書き手の場合はその言葉によって信用の喪失という問題が生じてきます。  私のように「きれいごとばかり」と言われて批判される者もいれば、今回のS先生のような場合もある。  兎角この世は・・・のとおりです。  教師間の議論の場というのは、これまであまりオープンにされませんでしたが、保護者や教育関係者の目から、さまざまな指導観にふれられる機会というのは貴重なものであり、そして互いに批判し合うこと、議論すること自体が、子どもからの信頼回復、そしてもしかしたら尊敬の念を生むきっかけになるかもしれませんね。

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昭和18年に廃止・中止・禁止・変更されたもの。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 ○衣料切符点数が都市部で75点に引き下げられる。
 ○滋賀県が,教科書を公有として貸与する制度をつくる。
 ○NHK,「ニュース」を「報道」と改称。
 ○ビールが配給制になり,銘柄・商標を廃止して「麦酒」に統一される。
 ○リンゴ園の耕作転換令が出される。
 ○燃料不足のため,神奈川県浴場組合は男女とも洗髪を禁止し,使えるお湯は7杯まで,入浴時間は30分以内とし,厳重に守らせた。
 ○文部省,諸学校の夏休みを廃止し,学内皆訓練と決定。
 ○東京6大学野球が廃止となる。
 ○東京都内唯一のゴルフ場,駒沢ゴルフ場が閉鎖。防空用地と農場になる。
 ○作付統制令が強化され,エダマメ・ミツバ・食用ユリの栽培が禁止される。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「政」と「官」の距離 ふり返り366日【08/7/11-2】/昭和18年の流行

 「脱官僚」ではなく「脱官僚依存」というスローガンでは、何も変わらないだろうな・・・と思われる方は多いのでは?

 ドラマになりにくい「」の話を半フィクション仕立てで小説にしている人もいますが、あまりおもしろくない・・・「」の世界はそれを経験した人でないとなかなか理解しにくい部分があります。

 基本的にお金を自分のためでなく、「市民」のために使っているのが普通なので、「市民のために頑張っている」という自覚をもちやすい公務員ですが、どのような「市民」のためか?と踏み込まれると、結局分からなくなる・・・というか、「一部の奉仕者」になってしまっていることになかなか気付けないでいる・・・・そういう特徴があります。

 この、「市民」なのか「利益団体」なのか、「一部」なのか「大部分」なのか「全部」なのか、それが見えにくい世の中では、一番「食い物」にされやすい性質があります。

 問題は、その「程度」が「」とどのくらい離れているのか?というところでしょうか。

 「」の存在意義は、その「距離」との関係で説明がつきそうな気もするのですが、「」にコントロールされるようになってしまうと・・・・。

 中学生なら、「三権分立」の考え方をここにどのようにあてはめてみるでしょうか?

 「」と「」の関係については、首相官邸のHPに平成14年の「閣僚懇談会申し合わせ」としての見解が公開されています。「基本認識」を引用すると、以下の通りです。

〔1〕 「政」は、行政が公正かつ中立的に行われるよう国民を代表する立法権者として監視責任を果たし、また、国務大臣、副大臣、大臣政務官として行政を担う。「官」は、国民全体の奉仕者として中立性、専門性を踏まえて法令に基づき、主に政策の実施、個別の行政執行にあたる。
〔2〕 政策の決定は、「政」が責任をもって行い、「官」は、職務遂行上把握した国民のニーズを踏まえ、「政」に対し、政策の基礎データや情報の提供、複数の選択肢の提示等、政策の立案・決定を補佐する。
〔3〕 「政」と「官」は、役割分担の関係。それぞれの役割分担に基づき一体として国家国民のために職務を遂行する。
〔4〕 「政」と「官」は、それぞれが担っている役割を尊重し、信頼を基本とする関係の構築に常に努める必要がある。

08/7/11 教員採用にもみえた私共空間  大分県の教員採用の問題は、すでに新聞や多くの方々が指摘されているように、日本独特の「私共(わたくしども)空間」ならではの慣習ですから、「やっぱりそうだったのか」という印象の方が多いのでしょう。  笑えないのは、教師がよく批判するタイプの親が、実は校長先生自身だったりした、ということでしょうか。  地方議会議員の役割は、公共空間ではなく私共空間からの票への奉仕に重点があるようで、一方の行政マンも市民の代表者には頭が上がりませんから、罪の意識がかき消されてしまい、言いなりになってしまうのでしょう。  東京都のように、他府県からの受験者が多く、かつ倍率が非常に低いところと、地方のように倍率が10倍を超えていて不正があるところでは、どちらが教師の質が高いのかとふと思ったりもしますが、教師の力量は1校目で受けた教育と行ってきた実践によってその後が大きく左右されるといいますから、どの新任教師にも成長を期待したいと思います。  いずれにせよ、ここまで信頼できない私共空間というのも珍しい。  我々は、あくまでも「安心社会」であることを貫きたいのでしょうか。自問したいところです。

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昭和18年(1943年)のブーム・流行・流行語
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○全国で貸本屋が目覚しい復活。いずれも古本屋が兼ねていた。
○破れた唐傘や洋傘で落下傘遊びが流行。
○空き地利用の路傍菜園,校庭農園が本格化。
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藤田晋の成長学・教師編22 教師にとっての競争と忍耐

 セオリー№22 忍耐力のない人が最初に脱落する

 基本的に、教師には「競争がない」と思っていませんか?

 「競争」とは何か、を明らかにしておかないといけないのですが、たとえば管理職試験を受けたりするときは、受かる人と落ちる人がいますから、これは「競争」に該当します。

 「競争」と言えば「点数化」すると分かりやすい。では、教師には「点数」がつけられるのか?

 人事考課(業績評価)では、S・A・B・C・・・と「成績」がつけられます。

 ほとんどがBなので、特に優れている人と問題がある人だけ分かればいいのでは?という考え方もあるのですが、異動のときの資料になるので、観点別にしっかり評価されることになっています。

 これを給与に反映させることで、力のある人に「むくいる」という発想が提言され、実行されていますが、該当する人はごくわずかなので、日常的にはほとんど意識されないでしょう。

 やっぱり、「競争」はないのか・・・?

 でも、「競争」が嫌いな人もいますが、自分が得意な分野とか、自分が育ててきた子どもたちが「競う」場面がでてくると、人間は不思議とやる気が出てきてしまったりします。

 運動会で盛り上がり、合唱コンクールを鞭を打ち・・・。
 ○組に勝ったと喜び、学年で○位だったと悲しみ・・・。

 「勝ち負けにこだわる」という姿勢も、「勝ち負けにはこだわらない」という姿勢も、どちらも絶対悪とは言えません。ケースバイケースです。

 「競争が嫌い」という場合、「負けるのが嫌」というのが主原因になっている人が多いのでは?

 だから「勝てると分かっている場合」には、「やってみるか」という気持ちになってしまう・・・。

 動機づけの手段としては邪道なように見えて、実は本質をついているようなケースもある・・・。

 話がそれました。

 もし、異動先を自由に希望できる仕組みができたとしましょう。「公募形式」のようなものです。

 希望が多ければ、「選抜」の必要が出てきます。

 ここで、「自分が優れている点」をPRできるかどうか。「学校が求めている人材」に自分がどれだけ合っているかを伝えられるかどうか。

 ・・・でも、公務員なら、全体の奉仕者なんだから、自分がどこに行きたいという希望を言うのはおかしいのでは?というのも正論でしょう。・・・で。やっぱり「競争」はなくなる?

 ここでの話は「自己成長を促すセオリー」なので、「競争」はするのが前提、という話で進めると、教師の場合は「自分とのたたかい」を想定すればいいのでは?

 そして、企業社会のセオリーを参考に、いくつかのモットーを持っておく。

 企業社会で「脱落」していくワースト1は、「忍耐力のない人」、続いて「目標設定の低い人」、「変化できない頑固な人」と書かれています。

 単純に、教育現場でも「困った人」の3パターンですね。

 教師にとって必要な「忍耐力」とは何でしょう。

 対・子ども、対・保護者のことがすっと念頭に浮かんだかもしれませんが、ここでは「教師バッシング」を想定すればいいと思います。

 教育の仕事は、すぐに成果が出せませんが、出せないことに甘えるわけにもいかない仕事でもあります。

 バッシング=悪と一面的にとらえず、逆を実現すれば信頼が高まる、という発想で、地道にやっていく、やり続ける、やっていることを伝え続ける・・・そういう姿勢が大事である・・・とこのブログでは訴え続けております。

未来の「校長」のかたち ふり返り366日【08/7/11】/第90問 集団見合い

 私がよく知っている公立中学校は、かなりの年数、力量のある教師が異動していません

 これはある意味、先導的な「教育改革」「人事改革」です。

 「○年たてば機械的に異動」というルールは、もちろん必要なものでしょうが、「すべての教員に適用する」のは誤りでしょう。

 組織を支えてきたという自負をもてる教師は、学校を異動するとき、非常につらい思いをしてきたに違いありません。出ていく教師も、残る教師も、まるで「新たな戦地に向かう」「戦友を送る」ような気持ちで別れのときを迎えていたのでしょう。

 企業社会でも、よい業績を残した人材が、低迷した支店に出向いて活躍するというシナリオがあるのでしょうが、学校社会と企業社会の違いは、そういう人材が「本社」に帰って昇進する、という仕組みが学校社会にはあまりなくて、常に困難校を立て直して回るという「苦労人」が多いのが学校です。

 そういう「苦労人」が、多くの学校で人材を育成してくれていればいいのですが、少子化で学校が小規模化してしまっている日本では、同僚が少なく、育成の幅がかなり限られてしまっています。

 「若い教師が育たない」原因の一つが、「育てられた経験に乏しい教師」が増えてしまっていることにあります。

 異動の効用を述べたことがある立場で別の側面をここでは書いていますが、「優秀な教師は他に出さない」(もちろん本人が出ることを希望すれば別の話ですが)という選択肢も、「なし」ではないと考えています。

 管理職の異動サイクルが短いのは仕方がないとして、管理職よりも地域とのあつい信頼関係をもっている「ヒラ教員」(あるいは主幹)が複数いる学校というのは、なかなか荒れにくく、改革も軌道に乗りやすい面があります。
 
 こういうタイプの人が「地域の人が推薦する管理職」という形で登用されるようになる、というのも、「民間人校長」よりも民主主義の理念に叶ったかたちであろうとも思っています。 

 教育改革には、「改革しない改革」など、様々な「かたち」が考えられます。

 問題は、それを子どもや保護者が支持してくれるかどうかです。

08/7/11 教育改革への抵抗と提言  私はある時期に、ビジネス書や自己啓発書をひたすら読みあさりました。  これは、教育という狭い世界だけでなく、子どもたちが卒業後に羽ばたいていく世界がどんな価値観のもとで動いているのか、そういう世界で将来生きていく子どもたちのために、教育の現場でできることは何か、と考えたからでした。  そこから付随的に、教師はどうあるべきか、という視点に広がり、コンピテンシーの活用という記事が生まれるにいたりました。  教育の世界では、「新しい価値の創造」より「既存の価値の尊重」に重点がおかれており、その伝達や継承という任務があるのは重々承知しながらも、私というタイプの教師は、どちらかというと「新しい価値の創造」に目がいってしまうので、読む方の感じ方に違和感が生まれやすい原因になっているかもしれません。  教師の中で、「新しい価値の創造」に重点をおくタイプとそうでないタイプの違いは、たとえば「総合的な学習の時間」の充実・発展にどのくらい尽くしてきたか、結果が出せたかという基準で評価することが可能だと思います。  道徳や総合的な学習の時間、特別活動のように、教科書のない教育活動では、各学校の創意工夫が図れます。これらの活動を通して学校改革に取り組み、成功した事例は数多く紹介されています。  朝令暮改の発想・その7は、「みんなが反対することはたいてい成功し、いいということは概して失敗する」ですが、私の経験上、教育現場でも新しいことをやるときの一般的傾向と同じです。  企業の世界では、「過去の延長線上で考えても誰もが賛成することはおおむね未来の展望が乏しく、逆に反対されることは多分に可能性を秘めている」ことを、大きな成功を収めた人たちがよく指摘しています。  逆に大失敗のケースも多いのではないかと思いますが。  教育現場の場合、教師たちは、「やるべき価値は認めるが、仕事は増やしたくないからやりたくはない」と主張します。  手元に、中教審教育課程部会の「審議経過報告」があり、資料として平成15年度の教育課程実施状況調査の結果が入っているのですが、アンケートの結果には、教師の姿勢(現状)がはっきりと映し出されています。  いくつか例を挙げますと、教育改革の方策についての考えとして、「賛成・まあ賛成」の割合は・・・  「年間の授業時間を増やす」ことについては、教師が4割弱で、保護者が7割弱。  「教科書に盛り込む内容を増やす」ことについては、教師が約4割で、保護者が5割強。  「選択教科などで学習内容の選択幅を広げる」ことについては、教師が約25%小学生、中学生、保護者が約50%。  「放課後や土曜日、夏休みなどに補習授業を行う」ことについては、教師が1割強で、保護者は6割強。  賛成しない理由は示されていないのですが、そこには「もし教員数が増えるならいい」「休みが取れるならいい」という考えもあることは予想できます。  ただ、教育改革のいくつかが、教師の望まない方向にいっていることがはっきりしているわけです。  この点を批判している方も大勢いらっしゃいますが、できれば生徒や保護者を納得させられるような方法を考えていきたいものです。   さて、一方で、教科指導に重点をおいた学校発の教育改革というのは、あまりピンときません。  この原因は、一人一人の教師がもっている専門性に踏み込んでいく必要がこの改革にはあり、改革の過程で、一部の教師の「指導力」に関する課題が明確になってしまうおそれがあるからだと考えられます。  過去10年間に、校内研修等で招いた教育の専門家が何人いるか。  成果はまた別の問題として、このデータをとってみても、学校間格差だけの問題ではないことが明らかになるでしょう。  教師の世界の学び合い環境を広げるために、一部の自治体・学校では、学校間交流が進められています。  しかし、これがまた互いの悪口合戦に広がるおそれがあるために、実施が難しかったりもします。  小学校に中学校、高校、大学、中学校に小学校、高校、大学の教師が訪問して授業を見学しあう機会は、時間とお金はかかりますが、長い目で見れば重要なことだと考えられます。  批判はリアルな現場を知らずになされるケースが多いことは明らかですので、まずは授業を見合う。  「都道府県名を知らない学生が多い」という課題を認識している大学の教師が、小学校や中学校を視察することは、決して無駄にはならないはずです。  小学校の教師に対して中学校の教師が、「発言させるのもいいけど、もっとノートに自分の考えを書かせて!」と希望を言ったり、その逆に、小から中へは「もっと授業で発言させて!」と望むのはもっともなことですが、そういう場面で、「豊かな学習活動とは何か」「学習の質と習得について」などという専門的な指導が大学の先生などから入るのは貴重なことです。  教育に携わる人々の相互交流の中から、教育改革のあるべき姿が提言されてくるかもしれません。  小中連携、中高連携、高大連携には、授業参観、交流授業、さまざまな形がありますが、とにかくまずはリアルな授業を見合うことから始めてほしいと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第90問】 
 昭和18年(1943年)の話です。
 6月に,日本で初めての「集団見合い」が実施されました。東京府結婚相談所が中心になって開いたものです。集合場所はどこだったでしょうか。
 ① 東京駅 
 ② 上野駅
 ③ 立川駅

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 【第89問の解答
 ③の『富士』でした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より