何でもありの学校と何にもなしの地方教育行政 ふり返り366日【08/7/29-2】/第102問
厳しい学校では、「教育的に」という言葉で「何でもあり」の状況が生まれ、一方の人材のいない自治体では、「教育的」と呼ぶにはほど遠い「何にもなし」の状況が生まれています。
「何でもあり」も「何にもなし」も、子どもの教育の未来を照らす光のない、暗くつらく苦しいだけの現場を生んでしまいます。
どこかに「うまくいっている」ことを自慢したがるブログがありますが、教育行政の実態をよく調べてみて下さい。何もわかっていないことは、管理職の職務に関する記述(の内容やそれ自体が皆無であること)でみんなばれてしまいます。
文科省は昔と比べると随分風通しがよくなったように思えますが、やがて自分から風を起こそうとする勢力が周囲から担ぎ出されることになるでしょう。
しかし、それを許してしまうのは、今の学校現場と地方教育行政の質に他なりません。
08/7/29 「ピークアウト」しない教師であるために 成果主義への反発は、「評価者への不信」と「守りの気持ち」から生まれると言います。 「評価者への不信」は、よほど管理職が人間として尊敬に値するか、人から好かれるタイプでないと、なかなか払拭するのは難しい。評価プロセスをオープンなものにすることで、信頼性を高める工夫ができますが、「嫌いな人」からの評価にはどうしても拒否反応が出てしまいます。 一方、「守りの気持ち」は、「自らがピークアウトしたと、うすうす感じている場合」に現れるものです(柴田励司著『「仕事力」のある人、ない人』PHP研究所)。 自分の実力に課題があること、その力がピークアウトしていることを、人はなかなか認めにくい。 スポーツ選手の場合には、数字がすべてを物語るわけで、「引退」のタイミングだけの問題ですが、教師の場合は、基本的に毎年給料が上がっていってしまうのに、いつか「もう自分もこの程度どまりだな」と思っていまう時期が来る人がいる。 学習すること、成長することへの意欲を失う人間になりがちなのは、教育現場の特殊な事情も背景にあります。 前掲書には、次のような話が紹介されています。ピークアウトは年齢的なものよりも「同じ仕事を同じ環境下で長く続けてしまう」ことで起きます。だから、「学習しなくてもなんとかなってしまう」ところに、長くいてはいけないのです。 ・・・多くの人は慣れてくると、その「楽な環境」をエンジョイしてしまい、気がつかないうちにピークアウト状態になってしまうものです。そこに、新たなリーダーによる新しい方針が出てくると、たちまち「守り」モードに入ってしまいます。悪意なく、組織の進化の足かせになります。今は教務主任や生活指導主任などは主幹職がつくようになっているのでだれでもはできませんが、たとえば「学年主任」になったことがないベテラン教師。 行事主任を一度もつとめたことがない教師。 研究大会等で発表をしたことが一度もない教師。 担任をもたない教師。 これらの教師の中にも、リーダーのフォローを中心に重要な役割を果たしている人がいるかもしれませんが、「いつもと違う環境」で仕事をしないと、人は「守り」モードに入りやすい。 そういう意味では「異動」は大切ですが、「異動先」でも同じようなサイクルで生活していては意味がありません。 能力開発型の人事考課は、教師を「ピークアウト状態(学習し成長する意欲を喪失した状態)」におかないためにも大きな意義を果たすことができそうです。 人事考課では評価も意識するのは仕方がないとしても、主眼はあくまでも自分の新たな目標設定であり、その目標の実現に向けての実践であり、成果と課題を見極めてさらに課題を修正したり新たな課題を発見するそのプロセスです。 このプロセスを失わない限り、教師(だけとは限りませんが)に「ピークアウト」は訪れません。 学校現場では、管理職のピークアウトは許されるのでしょうか。 それが許される現場では、学校経営や人事考課がうまくいかないのは目に見えています。
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昭和の家庭史トリビア?【第102問】
昭和20年(1945年)の話です。
9月3日に広島の惨状を取材し、「ノー・モア・ヒロシマ」と打電した記者はどの国の人?
① アメリカ
② イギリス
③ ソ連
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【第101問の解答】
①の75人でした。大阪では8月60人、9月67人、10月69人でした。
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