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教師は自分の「苦手分野」をどう説明するか ふり返り366日【08/7/21】/昭和19年の流行

 質問に対して、正しい答えが返ってくるかどうかは、相手の能力だけでなく意図もかかわってくるので、予測も判断も難しい場合があります。

 大学で野球をしていたときに、親しくなった相手校のピッチャーから「苦手なコースはどこですか?」と聞かれて、迷わず「インコースの低め」と答えたら、それ以降、ほとんどインコースに投げてこなくなったのは、相手が答えの意図をしっかり把握した証拠でしょう。

 よく、「行政に質問をしてはいけない」と言われます。

 それは、質問をしてしまったら行政は答えなければならないのと、答えてしまった以上はみんなそれに従うのが原則になってしまうという問題が起こるからです。

 さて、子どもがもし、歴史を教えている教師に、「先生が最も苦手としている時代は何時代ですか?」と聞いてきたら、教師はどのように対応すべきなのでしょうか?

 かつて、「先生が一番好きなのは何時代ですか?」と聞かれたときは、聞いてきた子どもの答えを先に聞かせてもらって、「ああ、同じだ」と言ってコミュニケーションがとれるようにしましたが、おそらく「一番苦手なのは?」といきなり面と向かって言われてしまうと、ドキリとしてしまう教師が多いことでしょう。

 子どもは、教師の「教育力」よりも「学習力」を問題にしているわけです。

 教育のプロである前に、学習のプロであろうとしたら、「苦手」がどういうメカニズムで生じてくるのかを分からせてあげるチャンスになるかもしれません。

08/7/21 「するどい質問」ができる子どもの育成  教育の世界では、子どもたちが教師に対し、その教育のあり方の本質を問うような(ある人から見れば非常に「攻撃」的な)投げかけを行うことができます。  教え方に課題があり、「授業がわかりにくい」「つまらない」という共通認識をもたれ、教育相談的なはたらきもできず、部活動を行っている生徒より早く帰宅してしまう教師が、子どもから  「なぜ教師になったのですか」 と問われることは相当きついものです。  異動が頻繁で、1校に2~3年しかいない教師が多い学校で、赴任したての教師が子どもから  「先生は何年この学校にいてくれるのですか」 と問われたら、どう答えたらいいのか。  その問いへの答えとして必要な教師にとっての問いは、  「この学校の子どもたちに必要な教育とは何か」  「この学校の子どもたちにとって必要なのはどのような教師か」 というもので、これらの問いへの用意がなければ、「言葉につまる」というよく授業中に生徒が陥る状態に教師もなってしまうおそれがあります。  今までの教育界では、そのような質問はタブーであったところがありました。  もちろん本質とは異なる、まじめに答える必要のない質問もたくさんあるでしょう。  「先生はどこの大学を卒業したのですか」  「中学校のときの成績はどのくらいだったのですか」  このような場合は、逆に教師が質問することで、質問の意図を確かめさせ、新しいコミュニケーションを探るきっかけにするべきです。  「するどい質問」ができる子どもの育成、それに答えられる教師としての修養に励んでいきたいと思います。

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昭和19年(1944年)のブーム・流行・流行語
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○ラバウルの兵隊の間にコックリさんが大流行。
○建物の強制疎開が始まり、取り壊された浴場などからきれいなタイルを拾ってきてオハジキや石けりに使う、タイル遊びが流行。
○大日本理容協会、1億総丸刈りを推進。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より