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「べき」論VS「べからず」論 ふり返り366日【08/7/18】/第95問

 なぜ「べき」論がダメで、「べからず」論が大切なのか、岡潔の言葉を読むと理解することができるかもしれません。

 もちろん、「べき」論がよくないというわけではなく、「べからず」が分かっていないのに「べき」ばかり考えようとしてもダメということと、「べき」論を考えるためには、土台となる資質や能力と広い視野が必要だということです。

 「べき」論から脱却する教育というのは・・・それも、学習指導要領の枠組みからはずれないで脱却することは可能でしょうか。

 「実態・発達段階・特性を考慮して~適切な教育課程を編成」という究極の文言を読み落とさずにいれば、かつ、だれに対しても納得させられる説明が可能なら・・・・。

08/7/18 「よいこと」を具体的に示す問題点  「よいこと」「長所」とは何か。  これを分析的に考えるようになったのはいつ頃からでしょうか。  観点別学習状況の評価は今でも混乱が続いていますが、この問題については「終わり」の「始まり」の時期なので、しばらく様子を見ようと思います。  岡潔の言葉に、以下のようなものがあります。
 いいことをしましょうといったってできはしません。悪いことするなです。悪いことするのと、よいことするのとでは、ずいぶん開きがあります。悪いことの反対が、よいことだと観念的に考える。たとえば親孝行ですが、ひどい親不孝というのがすぐわかる。そしてそれは見分けがつきますし、それをしないということはできる。が、本当に親孝行しようと思ったら、親の心も知っていなければならないし、行為した結果が畢竟どうなるか、横に全体を見、縦に長い時間を見てでなければ本当に親孝行できないでしょう。そんなこと子供にできるものですか。
 「よいこと」を具体的に示せば、示してもらったことに従属してしまうこと、示されたとおりに動いたことによる評価を求める心理、そのような余計な付属物が生まれてしまって、本質的に「よいこと」ができにくくなる、そういう発想の方は、特に教育界には多いようです。  道徳の授業に力が入らなかったり、「子どものために」という掛け声だけになってしまったりという教師が多いのもそのためでしょうか。  道徳が教科化されようとしたとき、評価の問題、たとえば具体的な評価基準というのができるのか、という問題が真剣に論議されたようです。  コンピテンシー理論はそこに真っ正面から取り組んでいるものですが、価値観の違いというものにどのような折り合いをつけていくのか。そこが実践上の課題であるわけです。  (人事考課制度では、その「折り合いをつける過程」が面接等で用意されています。)  「具体的な指示をしてくれる先生と、しれくれない先生、どちらがいい先生でしょうか」  道徳もそうですが、このような一つの問いがあったとき、その問いへの答えは決して一つとは限りません。  これこれこういうケースでは、具体的な指示が必要。でも、たとえば行動のきまりが配られていて、それを見れば何時に何をするかがわかるのに、いちいち先生に聞いてくる生徒に対して、「すぐに教えてしまう先生の姿勢はどうかな?」という問いも考えられます。  世の中で起こりうる様々な環境、状況を想定し、それぞれのケースに応じた「正しい判断」ができるようにすること、これもいわゆる「生きる力」の一つなのでしょうが、学校ではそういう資質を育てることが可能です。  実際に教育されているかどうか。  子どもが判断して行動すればよいところに、教師が首をつっこんでいないか。  いちろうさんが指摘されたような、教師の「過保護」「過干渉」的な指導は行われていないか。  これを問うてみる価値は高いと思われます。

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昭和の家庭史トリビア?【第95問】 
 昭和19年(1944年)の話です。
 新聞の夕刊は休止され、朝刊のページ数も減りました。何ページになったでしょうか。
 ① 4ページ
 ② 8ページ
 ③ 12ページ

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 【第94問の解答
 ③の中国でした。ソ連に戦争講話を斡旋してもらうために、ソ連高官夫人に送るのではないかという憶測が流れたようですが、実際には中国向けでした。タングステンや銅などの戦略物資を買い付けるのに、すでに日本の貨幣の信用が失われていたため、見返り品として売られたようです。香水には、金額が張り、サイズが小さく、輸送が簡単、という長所がありました。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より