ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 藤田晋の成長学・教師編24 教師のモチベーション | トップページ | 藤田晋の成長学・教師編25 劣等感による刺激はバネになるか? »

信頼されない公教育が問題化しない原因 ふり返り366日【08/7/15】/第92問

 教師ものドラマの害悪はあちこちで書かれていますが、「語るのは教師」という図式が「教育」らしくて「教育」らしくない、その典型であると思われます。

 「使命感にあふれる教師」「情熱でいっぱいの教師」など、「描きたい教師」がそういうタイプなのだから仕方がないと言えばそれまでですが、問題は「育った子ども像」がきちんと描かれないこと、「まじめな子ども」が主役になれないということです。

 芸能界ではどのような人が大事にされるのか、犯罪にかかわる報道をよく眺めてみれば、素人でもよく分かります。「そういう人たち」によって支えられる世界が現実としてあり、そこに新しい「人材」がどんどん供給されるシステムができあがっているあたりは、ある意味では「教育しない」ことの大きな成果になっています。

 教育とは別の「大人になる」システム・・・それは学校教育と塾産業とを別々に考えてみてもよく分かることですが・・・があまりにしっかりしていることが、公教育が「信頼されなくても問題にならない」ことの一番大きな原因なのかもしれません。

 現場では、「人は学校だけで学ぶのではない」という当たり前のことを言いながら、堂々と手を抜く姿も見受けられます。こういう教師からも、子どもは多くのことを「学んで」社会に出ていくのです。

08/7/15 ものの良さがわかるようにする指導  数学者の岡潔の言葉のエッセンスが「情緒と日本人」(PHP研究所)にまとめられています。  次の言葉の意味を、教師としてはどのようにとらえるべきでしょうか。
 ものの良さがわかるということは明治以来だんだんむずかしくなってきている。現代は他人の短所はわかっても長所はなかなかわからない、そんな風潮が支配している時代なのだから、学問の良さ、芸術の良さもなかなかわからない。しかし、そこを骨を折ってやってもらわねば、心の芽のいきいきとした子は決して育たない。教育というのは、ものの良さが本当にわかるようにするのが第一義ではなかろうか。
 教職課程の実践演習で、「この指導案の問題点を挙げよ」という課題を出すと、多くの大学生がかなりの問題点に気付く、ということは以前にふれました。  では、どのようにしたら、よい指導案となるか。  題材の指導案の延長線上では、問題点が隠れるような修正の仕方は可能なのですが、それだけでは「悪くない指導案」にはなっても、「よい指導案」とはならない。  問題点がない指導案を次の題材とすると、「よい指導案」の条件には気付けるのですが、では自分で素材を選んでつくってみなさいというと、ほとんどできない。  どうしても問題の解決には「問題の除去」が前提で、その次に「正しい指導」「望ましい指導」を想定してしまいます。  それを飛び越えた「よい指導」というのはあるのでしょうか。できるのでしょうか。  もし教師を指導する立場になったら、一貫して持っているべき姿勢は、常に授業を公開して参観してもらえるような条件を整えておくということだと考えています。  「よい授業」でなくても「よい指導」になると言ってしまったら責任回避のように聞こえてしまいますが、「よい授業はどのようにしたらできるようになるか」の答えは、実際の授業の中にたくさんあり、その「よさ」に自ら気付いていく力をつけていってもらうことが結果として「よい指導」になるのではないでしょうか。  引用した岡潔の「ものの良さがわかる」とは脱線してしまっていますが、教師は常に「よい授業」を心がけていくべきだというメッセージを、私はこの言葉から最初に受け取った気がします。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第92問】 
 昭和19年(1944年)の話です。
 東京と名古屋に、新防空法による初の疎開命令が出されました。これは、空襲に備えて建物を強制的に取り壊し、空き地を広げようとするものでした。東京の取り壊し戸数は不明ですが、名古屋の記録は残っています。強制撤去させられたのは何戸あったでしょうか。
 ① 1000戸
 ② 10000戸
 ③ 100000戸

*******************
ブログランキング 歴史

 【第91問の解答
 ①の「時局捨身動物」でした。位牌には,「殉難猛獣霊位」と記されました。

« 藤田晋の成長学・教師編24 教師のモチベーション | トップページ | 藤田晋の成長学・教師編25 劣等感による刺激はバネになるか? »

教育」カテゴリの記事

歴史学習」カテゴリの記事

昭和の家庭史」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

« 藤田晋の成長学・教師編24 教師のモチベーション | トップページ | 藤田晋の成長学・教師編25 劣等感による刺激はバネになるか? »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より