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悪平等VS個人の尊厳 ふり返り366日【08/7/14】/第91問

 「問題はないことにする」のがベスト、というのは、役所に限らず、民間でも見られる体質だと思われます。

 ただ、「知られたら致命的」なのがこの種の「問題」の怖い面であって、「絶対にばれない」という自信をもった上司がいると、たちが悪いのです。

 ある人に認められたことが、別の人には認められない・・・・。

 「法の下の平等」を示すまでもなく、許されないことです。

 ただ、中央集権の困るところは、こういう不平等の問題があると、中央の責任を追及させようとするムードが高まることで、そうすれば余計に望まない中央集権が強化されてしまうわけです。

 「上司としての監督責任」ももちろん大事ですが、「現場の判断」で「これはあり」とせざるを得ない状況があったときに、中央に内緒で特別な処置をしてしまう・・・なんてことはあり得るでしょう。

 それをいちいち「中央に問い合わせてみませんと」と言っていたら、待っている方はしびれがきれてしまいます。

 たいてい、中央の判断はワンパターンです。

 「聞いてしまえばアウト」です。

 みんなが得する方法より、みんなが損する方法を選びます。

 「こうしか言えないでしょう」と言い訳するということは、「本当はこれは正しくない」と思っている証拠です。

 平等を原則に悪い判断を全体に押しつけようとする流れほど、みんなば損するシステムはありません。

 敗戦間近のころの日本が見えてきてしまいます。

 行政には、「平等」にとらわれすぎて、「個人の尊厳」がないがしろにされている部分がないか、よくチェックしてほしいと思います。
 

08/7/14
ありがた迷惑な問題解決
 「ありがた迷惑」なことをやってしまった経験が何回かあります。
 それは、いろいろな問題を指摘する(愚痴る、糾弾する、などさまざまな表現が可能なケースがあります)方がいるのでそれを聞かせてもらった後、本人はそれを解決、改善してほしいのだなと勝手に思ってしまい、こちらが行動に出て、問題を解決してしまった後、あまりその方がうれしそうな顔をしてくれないケース。
 本人に断らないでやってしまうのがよくなかったのかもしれませんが、他にも、改善策を提示してしまって、じゃあ、これで行きましょう、と話が進んだ直後、「待って下さい」と止められてしまうケース。
 どちらも決して少なくないケースでした。
 経験を重ねた後でわかったことは、本人は、不平・不満を述べていることに満足を感じている(?)だけであって、問題がなくなってしまうとその方法によって満足できるきっかけがなくなるために不機嫌になるパターン。
 人の悪口を言うのが好きな生徒や教師というのはけっこう多いのですが、「あなたの方が間違っている」と言えるケースは少なく、悪口というか非難に筋が通っていて、すぐに改善へ動き出した方がよい、と判断できるのに、悪口を言っている本人にはあまり悪口の対象を改善させようとする意欲がない
 こういうのは、保護者や管理職、政の仕事への批判、非難をよくするタイプの教師に多いのです。
 「なぜ直接言わないのか?なぜ他の教師に他人の批判や非難を聞かせるのか?」と思ってしまうのですが、本人は言っても無駄だとわかっているのか、あえてそのように批判や非難を続けられるような環境を維持したいのか、・・・後者の人が多いことは、教育の世界に入ってから気付かされたことです。
 さすがに教師対教師では、同じ職場内での和を重視すれば言いにくいのでしょうが、生徒などはどの先生がどの先生の悪口を言っているという情報とか雰囲気を敏感にキャッチして、いろいろなウワサとして流しているものです。
 身近な問題からどんどん解決していく姿勢。これを一般の方が聞くと「角が立つことばかり・・・」と思われるかもしれませんが、いじめ発生の背景になり得る生徒間のいざこざも、教師と管理職の対立も、みんな同じに見えてしまう私には簡単には止められません。

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昭和の家庭史トリビア?【第91問】 
 昭和18年(1943年)の話です。
 空襲に備え,猛獣を処分せよとの指令が東京都から上野動物園に下され,ゾウやクマ,ライオン,ヒョウ,トラなどが殺されていきました。これらの動物の墓標には,何と刻まれたのでしょうか。
 ① 時局捨身動物 
 ② 時局挺身動物
 ③ 時局天昇動物

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 【第90問の解答
 ③の立川駅でした。武蔵野を散策し,府立農業試験場を見学しながら,未来の夫・妻を選択する会だったようです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より