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缶詰VS生もの ふり返り366日【08/7/13】/昭和18年のスタート

 教師には、その専門性に起因する「持ち味」というものがあるはずです。

 しかし、それでも「専門家なの・・・?」とがっかりせざるを得ない場面にも出会ってしまいます。

 今、よく問われているのは、「教師は学ぶ専門家ではないのではないか?」という疑問です。

 ある有名人が母校の授業をふり返って、その良さについて、以下のような趣旨のことを語っています。
 
 教師たちは、今、研究していることをストレートに私たち教師にぶつけていた。その反応を楽しんでいるように見えた。私たちにあったのは、教師を喜ばせようとする感覚よりも、自分たちにはこれだけの発想がある、こういうことを考えつく力があるという、プライドを見せつけようとする欲求であった。

 教師たちは、「生もの」=鮮度の高い知的な材料を授業ではふんだんに用意していたわけです。

 そういう観点で、自分の仕事を見返してみると・・・・?

08/7/13 教師の「持ち味」とは何か?  教師には、一人一人違った「持ち味」があります。  そして、教育の現場は、それが必要とされている場所です。  この「持ち味」という言葉を他の業界ではどのように使っているか調べてみたところ、Google検察のトップにあったのは、日本銀行の「新規採用情報」の「先輩行員に聞きました」というアンケート結果を公開したものでした。  「持ち味」に括弧づきで「ウリ」という言葉が並んでいましたから、これが「自己認識としての長所」という性格のものではありますがコンピテンシーの一種であることがわかります。  キーワードを拾ってみると、  ・困難な問題に直面しても、あきらめずに解決するために継続的に努力することができる  ・失敗から学び、次に活かすことができる  ・几帳面  ・飛躍のない議論をすることができる  ・“明るさ”と“責任感の強さ”  ・とにかくポジティブであまり落ち込まない  ・リーダー的な役割を任せられる  ・どこでも自分の空気は持っている  ・誰とでもすぐに親しくなることができる  ・色々なことに好奇心を持ち、チャレンジできる  ・未知の分野があると、飛び込んでいくバイタリティーがある  ・温厚な性格であり、協調性がある  ・全てに対して“はっきり”とした性格である  ・柔軟な思考力  ・笑顔    一人が全部をもっている必要はありませんが、職場がこのような持ち味をもっている人であふれていれば、とても活気に満ちた仕事ができるのではないかと思います。  持ち味は人に教えられるか。  自分になく、人がもっている持ち味を、自分が学びとることができるか。   そのような疑問がわいてきますが、少なくとも、そういう持ち味には価値があるということ、そういう持ち味を生かした仕事に価値があるということは、子どもたちにも気付かせたいと思います。もし気付いていない教師がいたとしたら、気付いてもらいたいと思います。  また、そのような持ち味をもった大人になってほしいという願いを子どもに抱ける教師、できたらそんな持ち味を習得させられるような教育ができる教師が増えていってほしいと思います。  日本銀行の新規採用情報のページには、続けて「これだけは譲れないもの(ポリシー)」が紹介されています。  ・自分で納得できるまではあきらめないという頑固さ  ・多様な意見を尊重し、自分の中に取り入れる姿勢をもつ  ・自分の成長を頭のどこかで常に意識する  ・Pressureをpleasureに!  ・納得いくまでやり続ける「しぶとさ」  ・柔軟かつ新鮮でありたい  ・日本だけの狭い価値観に縛られない  ・自分にしかできない事(役割)を必ず見つける  ・「オンリーワン」になる  ・自分に恥ずかしいことは絶対にしない  ・小さな事で、くよくよしない  ・オンとオフの明確な切り替え。やる時はやる! 遊ぶ時は遊ぶ!  日本銀行はその業務の特性上、特殊な能力が必要かなと思ったりもしますが、それほど特別ではないですね。  ただ、「つねに利用者の立場で考える」とかいう視点はこだわりの中にはないのでしょうか。  教師にとって絶対に譲れないポリシーとは?  私が示したのは、「子どもの立場で常に考える」で、もしこれに補足するとすれば、「~という価値に気付き、その価値観のもとでより価値のある行動ができる人間になってほしいという強い願いをもって」というのを前につけたいと思います。

*******************

昭和18年(1943年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○女子のバス運転手,東京に登場。
○西日本鉄道が大洋球団を買収し,西鉄が誕生。
○東京・洗足高女,全国に先駆け学校内に工場を設置。
○日本初の集団見合いが6月に行われる。
○初の国定中等教科書が誕生。
○東京都から上野動物園へ,空襲に備えて猛獣を処分せよとの指令が下る。インドゾウの「ジョン」が絶食処分で餓死殺に。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より