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居心地の良い学校 ふり返り366日【08/7/12】/昭和18年の改称

 学校における教育関係の雑誌購入を「税金の無駄遣い」と見るか、「出版社の延命措置」と見るか、「学校の信頼回復のために欠かせない資源」と見るか、・・・それは人によって違いがあるでしょう。

 少なくとも、「1回も読んだことがない」教員が多ければ多いほど、最初の二つに当てはまる所業ということになります。
 
 教師たちは、何かにつけて「時間がない」「時間がない」と連呼します(人によっては「カネがない」とも)が、それが本当かどうかは、1年間の教育実習が行われるようになれば、その実態が暴かれるようになるでしょう。そもそも、本当に時間がないのなら、教育実習生の指導なんてとてもとてもできたものではありません。

 「どうしたら公立学校は信頼されるようになるのか

 ということがよく話題になりますが、一部の人たちは、「無条件で学校や教師を信頼するシステムをつくればいい」などと寝ぼけたことを言い、ごく一部の人たちは「今でも十分に信頼されている」と胸をはって豪語し、かげで笑われています。

 常識と非常識が逆転しているのが当たり前と思われている学校現場では、まず「実態」をしっかりを見据えることが大切です。

 「これは普通のことなのか、どうか。」
 「これはいい授業と言えるのか、どうか。」
 「この生徒たちに必要最低限のことは教えたと言えるのか、どうか。」
 「整理整頓という言葉は、だれのためにあるのか。」

 「信頼される学校とは何か」・・・この共通認識を教師集団が持てているか、どうか。・・・これが、「関係性」によって問えない場であるというのが、学校現場の最大の特徴と言えるのかもしれません。

 そもそも、教師たちは、「信頼される学校」という言葉を投げつけてくる人間(行政など)に敵意をもってしまう存在なのです。そこが分からない行政が仕事をすると、たいてい関係は悪化の一途をたどります。

 学校は、最も信頼されていないときが、最も居心地が良い・・・そんな声も聞こえてきそうです。

08/7/12 信頼回復に必要な議論  よたよたあひるさんが、教育に関する議論の話題を続けて提供していただいています。  記事に私がコメントさせていただいた内容を掲載します。   
学校現場での教師と生徒の関係は、「関係性への依存が大」で「論理的には強かったり弱かったりする」のが特徴でしょうか。ですからうまくまわるときはWin-Winの関係になり、保護者も含めていったんこじれると泥沼になりやすい。ですからリスクコントロールのために教員はチームを組んで動くべきなのです。  マスコミ報道では、現場の問題を管理職や教育委員会が謝罪するというパターンしか見えないので、現場のチームワークがなかなか見えてこない。  教育ブログでも見えにくい(これは守秘義務との関連もありますが)。  一方のネットの世界では、精神的なダメージを除けば実害はなく、とても自由な世界だと思う反面、教師が書き手の場合はその言葉によって信用の喪失という問題が生じてきます。  私のように「きれいごとばかり」と言われて批判される者もいれば、今回のS先生のような場合もある。  兎角この世は・・・のとおりです。  教師間の議論の場というのは、これまであまりオープンにされませんでしたが、保護者や教育関係者の目から、さまざまな指導観にふれられる機会というのは貴重なものであり、そして互いに批判し合うこと、議論すること自体が、子どもからの信頼回復、そしてもしかしたら尊敬の念を生むきっかけになるかもしれませんね。

*******************

昭和18年に廃止・中止・禁止・変更されたもの。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 ○衣料切符点数が都市部で75点に引き下げられる。
 ○滋賀県が,教科書を公有として貸与する制度をつくる。
 ○NHK,「ニュース」を「報道」と改称。
 ○ビールが配給制になり,銘柄・商標を廃止して「麦酒」に統一される。
 ○リンゴ園の耕作転換令が出される。
 ○燃料不足のため,神奈川県浴場組合は男女とも洗髪を禁止し,使えるお湯は7杯まで,入浴時間は30分以内とし,厳重に守らせた。
 ○文部省,諸学校の夏休みを廃止し,学内皆訓練と決定。
 ○東京6大学野球が廃止となる。
 ○東京都内唯一のゴルフ場,駒沢ゴルフ場が閉鎖。防空用地と農場になる。
 ○作付統制令が強化され,エダマメ・ミツバ・食用ユリの栽培が禁止される。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より