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未来の「校長」のかたち ふり返り366日【08/7/11】/第90問 集団見合い

 私がよく知っている公立中学校は、かなりの年数、力量のある教師が異動していません

 これはある意味、先導的な「教育改革」「人事改革」です。

 「○年たてば機械的に異動」というルールは、もちろん必要なものでしょうが、「すべての教員に適用する」のは誤りでしょう。

 組織を支えてきたという自負をもてる教師は、学校を異動するとき、非常につらい思いをしてきたに違いありません。出ていく教師も、残る教師も、まるで「新たな戦地に向かう」「戦友を送る」ような気持ちで別れのときを迎えていたのでしょう。

 企業社会でも、よい業績を残した人材が、低迷した支店に出向いて活躍するというシナリオがあるのでしょうが、学校社会と企業社会の違いは、そういう人材が「本社」に帰って昇進する、という仕組みが学校社会にはあまりなくて、常に困難校を立て直して回るという「苦労人」が多いのが学校です。

 そういう「苦労人」が、多くの学校で人材を育成してくれていればいいのですが、少子化で学校が小規模化してしまっている日本では、同僚が少なく、育成の幅がかなり限られてしまっています。

 「若い教師が育たない」原因の一つが、「育てられた経験に乏しい教師」が増えてしまっていることにあります。

 異動の効用を述べたことがある立場で別の側面をここでは書いていますが、「優秀な教師は他に出さない」(もちろん本人が出ることを希望すれば別の話ですが)という選択肢も、「なし」ではないと考えています。

 管理職の異動サイクルが短いのは仕方がないとして、管理職よりも地域とのあつい信頼関係をもっている「ヒラ教員」(あるいは主幹)が複数いる学校というのは、なかなか荒れにくく、改革も軌道に乗りやすい面があります。
 
 こういうタイプの人が「地域の人が推薦する管理職」という形で登用されるようになる、というのも、「民間人校長」よりも民主主義の理念に叶ったかたちであろうとも思っています。 

 教育改革には、「改革しない改革」など、様々な「かたち」が考えられます。

 問題は、それを子どもや保護者が支持してくれるかどうかです。

08/7/11 教育改革への抵抗と提言  私はある時期に、ビジネス書や自己啓発書をひたすら読みあさりました。  これは、教育という狭い世界だけでなく、子どもたちが卒業後に羽ばたいていく世界がどんな価値観のもとで動いているのか、そういう世界で将来生きていく子どもたちのために、教育の現場でできることは何か、と考えたからでした。  そこから付随的に、教師はどうあるべきか、という視点に広がり、コンピテンシーの活用という記事が生まれるにいたりました。  教育の世界では、「新しい価値の創造」より「既存の価値の尊重」に重点がおかれており、その伝達や継承という任務があるのは重々承知しながらも、私というタイプの教師は、どちらかというと「新しい価値の創造」に目がいってしまうので、読む方の感じ方に違和感が生まれやすい原因になっているかもしれません。  教師の中で、「新しい価値の創造」に重点をおくタイプとそうでないタイプの違いは、たとえば「総合的な学習の時間」の充実・発展にどのくらい尽くしてきたか、結果が出せたかという基準で評価することが可能だと思います。  道徳や総合的な学習の時間、特別活動のように、教科書のない教育活動では、各学校の創意工夫が図れます。これらの活動を通して学校改革に取り組み、成功した事例は数多く紹介されています。  朝令暮改の発想・その7は、「みんなが反対することはたいてい成功し、いいということは概して失敗する」ですが、私の経験上、教育現場でも新しいことをやるときの一般的傾向と同じです。  企業の世界では、「過去の延長線上で考えても誰もが賛成することはおおむね未来の展望が乏しく、逆に反対されることは多分に可能性を秘めている」ことを、大きな成功を収めた人たちがよく指摘しています。  逆に大失敗のケースも多いのではないかと思いますが。  教育現場の場合、教師たちは、「やるべき価値は認めるが、仕事は増やしたくないからやりたくはない」と主張します。  手元に、中教審教育課程部会の「審議経過報告」があり、資料として平成15年度の教育課程実施状況調査の結果が入っているのですが、アンケートの結果には、教師の姿勢(現状)がはっきりと映し出されています。  いくつか例を挙げますと、教育改革の方策についての考えとして、「賛成・まあ賛成」の割合は・・・  「年間の授業時間を増やす」ことについては、教師が4割弱で、保護者が7割弱。  「教科書に盛り込む内容を増やす」ことについては、教師が約4割で、保護者が5割強。  「選択教科などで学習内容の選択幅を広げる」ことについては、教師が約25%小学生、中学生、保護者が約50%。  「放課後や土曜日、夏休みなどに補習授業を行う」ことについては、教師が1割強で、保護者は6割強。  賛成しない理由は示されていないのですが、そこには「もし教員数が増えるならいい」「休みが取れるならいい」という考えもあることは予想できます。  ただ、教育改革のいくつかが、教師の望まない方向にいっていることがはっきりしているわけです。  この点を批判している方も大勢いらっしゃいますが、できれば生徒や保護者を納得させられるような方法を考えていきたいものです。   さて、一方で、教科指導に重点をおいた学校発の教育改革というのは、あまりピンときません。  この原因は、一人一人の教師がもっている専門性に踏み込んでいく必要がこの改革にはあり、改革の過程で、一部の教師の「指導力」に関する課題が明確になってしまうおそれがあるからだと考えられます。  過去10年間に、校内研修等で招いた教育の専門家が何人いるか。  成果はまた別の問題として、このデータをとってみても、学校間格差だけの問題ではないことが明らかになるでしょう。  教師の世界の学び合い環境を広げるために、一部の自治体・学校では、学校間交流が進められています。  しかし、これがまた互いの悪口合戦に広がるおそれがあるために、実施が難しかったりもします。  小学校に中学校、高校、大学、中学校に小学校、高校、大学の教師が訪問して授業を見学しあう機会は、時間とお金はかかりますが、長い目で見れば重要なことだと考えられます。  批判はリアルな現場を知らずになされるケースが多いことは明らかですので、まずは授業を見合う。  「都道府県名を知らない学生が多い」という課題を認識している大学の教師が、小学校や中学校を視察することは、決して無駄にはならないはずです。  小学校の教師に対して中学校の教師が、「発言させるのもいいけど、もっとノートに自分の考えを書かせて!」と希望を言ったり、その逆に、小から中へは「もっと授業で発言させて!」と望むのはもっともなことですが、そういう場面で、「豊かな学習活動とは何か」「学習の質と習得について」などという専門的な指導が大学の先生などから入るのは貴重なことです。  教育に携わる人々の相互交流の中から、教育改革のあるべき姿が提言されてくるかもしれません。  小中連携、中高連携、高大連携には、授業参観、交流授業、さまざまな形がありますが、とにかくまずはリアルな授業を見合うことから始めてほしいと思います。

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昭和の家庭史トリビア?【第90問】 
 昭和18年(1943年)の話です。
 6月に,日本で初めての「集団見合い」が実施されました。東京府結婚相談所が中心になって開いたものです。集合場所はどこだったでしょうか。
 ① 東京駅 
 ② 上野駅
 ③ 立川駅

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 【第89問の解答
 ③の『富士』でした。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より