ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 「興味がない→できない」は正しい仮説? | トップページ | アスペルガー差別とその救済 ふり返り366日【08/7/27】/第99問 »

エキをヤクとしてこなす子どもの自壊 ふり返り366日【08/7/26】/第98問

 ものの見事に「」と「」の関係での「役割意識」をもって「役づくり」に励んでいる子どもがいます。

 こういう子どもには「三者面談」などでよく騙されます。

 「エキ」(役)を「ヤク」(役)としてこなすパワーとストレスは、相当なものであり、「伸びきったゴム」と言われるように、上級学校(高校や大学)では「堂々と勉強嫌い」を名乗れる強者に育てる可能性も考えられます。

 今の親子関係で子どもにとって不幸なのは、「」不在・「イエ」重視の役割意識をもった「」の過剰な「役割意識」がひたすら「」を責め続けるという図式です。

 「合格したら、何でも買ってあげる」

 「合格したら、もう勉強で苦しむ必要はない」

 「合格したら、どこどこへ連れて行ってあげる」

 ・・・そういうことを子どもに言っている親は、客観的にご自分を見つめていただければ・・・。

08/7/26 子ども・教師の役割意識について  「いずれ記事にしたい」と申し上げていたことが、最近参加した授業研究のテーマに関連していたので、ここにまとめようと思います。  授業では、徳川家康の命令によって、外様大名が江戸城の増築に必要な巨石を運ぶのですが、競い合うように船で運び込もうとしている、これはなぜか、ということがテーマになっていました。  同時に、「社会科好きの子どもをどう育てるか」ということも主題になっていました。  授業中に、熱心に発表する子どももいれば、それを聞いているだけの子どももいます。  私の見方では、熱心に石を運ぶ大名も、発表しようとする子どもも、似たようなねらい、理由があるわけです。  それは、家康や先生に気に入られる、ということもあるでしょうが、大事なのは「能力に応じた仕事をする」という意思がある、ということです。

 「仕事の報酬」とは何か、と聞いたら、子どもなら何と答えるでしょう。
 大人になってからのことではなく、今の自分の場合です。
 当然、「お金」ではありません。
 では、「先生からの評価」か。「ほめられること」か。
 私は、子どもたちに対して、「仕事(=授業なら、学習活動)の報酬は、能力の向上、作品、自分の成長の3つだ」と教えたい(実感してもらいたい)と常々考えています(田坂広志の本の受け売りですが)。
 大人になると、仕事をすればお金がもらえるので、お金を報酬と考えるのが普通になってしまいます(人事考課もそこがネックです)が、その問題点についてはここではふれません。
 その邪魔が、子ども時代にはない(お小遣いを増やしたり、ご褒美を買ってあげたりしてしまう邪魔は入りますが)。そこを生かして、ぜひ自分の成長自体を「ご褒美」と感じられる経験を持たせてあげたいのです。
 
 話を戻すと、外様大名たちは、石高に応じた加役を果たすために石を運ぶのですが、その石が、それぞれの藩の「作品」=仕事として残るわけです。メンツの問題もあります。
 ここが、我先に、と発言したがる子どもによく似ています。
 輸送・運搬能力や築城技術の向上というねらい、大坂城より大きな城をつくるという幕府の「権威」を示すねらい、軍令違反に改易などで対処し、法令遵守を徹底したいというねらい、外様大名の経済力をそぐことなど、幕府側の目的も果たされる一方で、大名は大名なりに一生懸命はたらく。
 このことを、「役(やく)」という観念に注目して近世社会の特色として示したのが尾藤正英でした(「江戸時代とはなにか」(岩波現代文庫)参照)。
 「」は、「労役」「苦役」のように、「エキ」として読む用法がありますが、「ヤク」と読む場合は、社会の中で個人が担当する役割と、その役割にともなう責任とを合わせた意味として用います。
 「石高に応じた加役」の「加役」は、「カエキ」ではなく「カヤク」と読みます。 

 ・・・石高は、武士にとっては軍事上・行政上の「役」を負担するために必要な経済的基礎の量を、また農民にとっては貢租と夫役という「役」の負担の量を、それぞれ算出するための数量的な基準であり、しかもそれは全国に統一的に設定されたという意味で、国家的な基準であっといえる。(前述の書より)

 尾藤正英は、「役」の体系としての社会の組織を作り上げることによって、270年近くの平和の持続を可能にしたという説を述べています。
 
 子どもたちが、「ここからここまで次の時間までに読んでおきなさい」と教師から指示を受けたとします。
 これを、「役(ヤク)」と捉えるか、「役(エキ)」と捉えるかが、学習が好きになっているかどうかの違いになります。
 ヤクと捉えている子どもは、しっかり予習し、授業では、学んだことを生かして発言するという役割が果たせます。
 エキと捉えている子どもも、読んでくれば質問には対応できるでしょうが、やはり苦痛な課題になってしまっているのでしょう。
 子どもだけでなく、このようなことは教師や保護者にもあてはまります。
 ヤクなのか、エキなのか。
 教師の役割とは何か? 保護者では?
 私の危惧は、それぞれの「役割意識」がおろそかになってはいないか、ということです。
 「社会科好きの子どもを育てる」には、授業中、発言する機会のない、本当に興味もわかない子どもを放っておくのではなく、何らかの「役割」を与えていくべきだと私は考えています。
 「とぼけたことを言ってみんなを笑わせること」が役割だと割り切っている子どももいます。それはそれでいいのでしょう。
 「だまっておとなしくして(耐えて?)いれば無事に(?)授業が終わる」ような環境はつくるべきではありません。
 子どもにとっては、学習をして能力を高めることが社会の中で果たすべき役割である。
 その報酬は、自らの成長である。
 そういうことを堂々と言える環境を広げていきたいと考えています。

*******************
昭和の家庭史トリビア?【第98問】 
 昭和20年(1945年)の話です。
 砂糖の欠乏とともに、塩もなくなってしまい、政府はこの窮乏を乗り切るため、「自給製塩運動」を開始しました。塩をつくる方法のうち、敗戦間際の7月7日付「京都新聞」で紹介された塩の原料は?
 ① 動物の死体
 ② 人間の小便
 ③ 雑草

*******************
ブログランキング 歴史

 【第97問の解答
 ②の血液でした。全国の屠場で血液を集めて乾燥血液を作り、これをカゼインの代用として利用することが決定しましたが、実際には中止されました。

« 「興味がない→できない」は正しい仮説? | トップページ | アスペルガー差別とその救済 ふり返り366日【08/7/27】/第99問 »

教育」カテゴリの記事

歴史学習」カテゴリの記事

昭和の家庭史」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

« 「興味がない→できない」は正しい仮説? | トップページ | アスペルガー差別とその救済 ふり返り366日【08/7/27】/第99問 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より