教育の地方分権のとっかかり ふり返り366日【08/7/29】/第101問
教師の発問を「えさ」と表現するのはえげつないですが、まるでまいた「えさ」に群がる「さかな」のように「ハイ!ハイ!」と手を挙げて指名を待つような教室の風景は、中学校ではさすがに見られないものでしょう。
小学校では、このような「態度」を「学習意欲」とか「興味・関心」の枠で捉えて、評価の対象にしているところがあるようです。
観点別評価が、いかに理解されていないかを知るのにかっこうの題材です。
中学校での「関心・意欲・態度」の評価はよく、「がんばっているけどテストで点が取れない生徒」を救済するための観点だと捉えられることもあります。
目標準拠評価ではないことを暴露しているわけでもありますが、高校の指導困難校などでは、生徒は「まじめに授業を受けてくれればそれでいい」という事情もあり、わざとこの観点の比重を重くした入学選抜を実施したりするなど、ニーズに合っているという面もあります。
評価の扱いについては、もう地方分権の流れに乗せていくのが自然だという感覚をもっています。
評価の規準・基準、評価方法に関する資料は、都道府県別に作成します。
指導要録も、基本的に都道府県がその書式等を作成することにします。
理由は、たとえば公立学校の入学選抜を実施している主体がそこにあるからです。
中・高の進学の連絡をしっかり果たす義務は、都道府県にあります。
評価方法の具体的な事例にしろ、入学選抜問題の事例にしろ、どんどん都道府県が発信して、お互いに競い合うことが日本全体の学力底上げにも結びつくでしょう。
08/7/29 「おバカタレント」の活躍と教育の問題 学力低下報道キャンペーンが一巡して、その問題への対応として授業時数の増加などを盛り込んだ新しい学習指導要領が告示されたタイミングと、「おバカタレント」ブームの盛り上がりが同一であることに、教育関係者である自分としてはどうしても注目せざるを得ません。「おバカタレント」たちは、クイズの解答者という立場から、さらに多方面へ活動範囲を広げています。
Geogle検索で「おバカタレント」上位のページを調べてみると、
ウィキペディアではその「元祖」から現在のタレントの特徴までよく分析された結果が示されています(「中立性を担保されていない、出典不明で正確性を欠く独自研究的な記述となっているため、修正・推敲」が求めているようですが・・・)。
livedoor リサーチでは、このようなタレントをどう思うか?というアンケートに対しては、
「興味がない」(23%)を除いた答えとして、
「本当はおバカではなく、そういったキャラクターを装っているだけだと思う」(15%)、
「好感は持てるが、おバカキャラなタレントがもてやはされている現状については疑問に思う」(14%)
というやや否定的な回答が上位になっているようです。Yahoo知恵袋では、具体的な意見や憶測が書き込みされています。
他にも、実際に「おバカタレント」に会って話をした方が、
「本当に会話が成り立たなくて驚いた」
「しかしこの人が意外なほど高額な報酬をもらっていることを子どもたちが知ったら、まじめに勉強する気が失せるのではないか」などとも書かれています。「視聴者が珍解答に優越感を感じられること」が「好感度」の最大の原因だという意見もあれば、
「うさんくさい」
「難しい問題を答えてもすごいね、で終わるより、こいつバカだなで笑いを取るほうが受けるということでしょうかね。でもいずれは必ずマンネリ化してくる(はず)」という見解もありました。いずれにせよ、20%もの高視聴率を稼ぐ番組の中心的存在(司会者の力も当然必要ではありますが)である「おバカタレント」の命は、予測がつかない「珍解答」を反射的に堂々と答え、かつ、それをいじられることへの不快感を感じさせない爽快さ?「天然色」です。
「成績優秀者」をたたえるようなクイズ番組が飽きられて、「珍解答・間違った解答」に大きな価値が与えられることへ転換したことを、教育現場ではどのように捉えればよいのか。
計算してもってきたような自分の話で申し訳ありませんが、以前、「勉強に興味を持てない子を授業で生かすにはどうしたらいいか」という質問に、「どういう形でもとにかく生かすことが必要」という話から、過去の経験として、「珍解答」を最初に披露させ、いわゆるムードメーカーにしていくことが手っ取り早い、しかし、後で「いじり」「いじめ」の対象になりやすいので注意が必要、などというアドバイスをしたことがありました。
そんな「天然色」を持ち、堂々と発言できる子どもたちばかりではないでしょう、というのも確かですが、「間違った答えでも発言する権利はあるし、他の人が考えるヒントを導く間違いというのもあるから、どんどん発言しよう」というムードをつくることは大事です。このようにプラスの面で捉えることもできるのですが、懸念がないわけではありません。
それが、「学力(測定可能な学力という意味です)下層グループの釘付け効果」という問題です。これまでは、「学力が低い」というのは自己評価を下げる要因になっていたのが、今ではそれがプラス評価に結びつこうとしています。
「人間の価値はテストの点数で決まるものではないのだから、テストで高い点数をとれるように努力する必要はない」という発想が見られるようになってきました。さすがに心の中では「でも点数は高い方がいい」と感じていると思いきや、心底から「そんな必要はない」「ゲームをして楽しんでいる自分が本当の自分で、机に向かって勉強するなどという偽りの自分を演じない本当に合理的な存在だ」という自己肯定感をもっている子どもが表れている。そういう気がしてなりません。
「人に迷惑をかけなれければ自分はどうあってもかまわない」という新自由主義の影響かもしれません。大人としても、「そういう生き方はいいなあ」というのは感じないでもないですが、だからといって「学習も仕事もしなくていいよね」というわけにはいきません。
「社会的責任」の自覚がしにくくなっている子どもの存在が、今後、大きな課題として問われてくるのではないか。
そんな危惧を抱いています。
「おバカタレント」は、場を盛り上げるムードメーカーとしては素晴らしい資質をもっていると考えられますが、その役割だけに特化した生き方は難しい・・・・それが、タレントの活動範囲の拡大(視聴率稼ぎに利用されているという見方もできるのでしょうが)からもわかる・・・という気がします。
「笑える非常識」が「笑えない非常識」に転換するときが、いつか。
「笑える非常識」の世界から抜け出す必要を感じるタイミング、実際に抜け出すタイミングは、いつか。
・・・もちろん「常識を疑う」姿勢も大事です。しかし、当然ながら、「非常識」を疑う姿勢も同時に必要でしょう。
メディアの世界との駆け引きが、教育の世界には強く求められていると考えています。
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昭和の家庭史トリビア?【第101問】
昭和20年(1945年)の話です。
10月の上野駅の餓死者は何人いたでしょうか。
① 75人
② 750人
③ 7500人
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【第100問の解答】
②の10万円でした。空くじ4枚でタバコ10本と交換もできました。
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